暴力はうかつに振るわないのが善い
もしかしたら、皆さんが納得していただけるような続編ではないのかもしれません。
もしかしたら、完結させたままの方が良かったのかもしれません。
もしかしたら、数年ぶりなので作風が変わってしまっているかもしれません。
ですが、あえて、続きを投稿させていただきます。
どうか、お付き合いください。
別に最近の作品に限ったことではないが、異世界から帰還したときに『俺たちが異世界にいた間、地球では大騒ぎだったみたいだ』という一文があることもある。
もちろん今の俺のように『異世界で一年過ごしていたけど、地球では一晩だった』ということもある。
ただ、それは今は関係なかった。
「もう一年、たったの一年か……」
俺は自分の部屋にあるカレンダーを見て、そうつぶやいてしまう。
一年A組がこの世界から消えて、もう一年が経過していたのだ。
俺にとっても人生の転機と言えるあの日から、一年がたった。
だからなんなのだろうか。
何かの記念日にすらなっていない今日という日付は、世間の誰にとっても無価値に過ぎている。
この日が誕生日の誰かがいて、勝手にそれを祝っているのかもしれない。若しくは誰かの命日で、誰かが冥福を祈っているかもしれない。
一年A組の面々が失踪してから一年が経過したことに関しては、その関係者にだけ意味があった。
だからと言って、俺は何も変わらない。俺以外の誰にとっても、何の変化も訪れない一日だ。
一年たった、というのは、本当にそれだけなのだ。
一年たったから失踪していた連中が帰ってくるとか、新事実が判明するとか、そんなことは起こらない。
起こらないと知っているからこそ、この記念日の朝を迎えることはつらかった。
「おはよう、理」
「おはよう、母さん」
俺がそんなことを考えているとは知らずに、母さんは朝ごはんを用意してくれていた。
当然ながら、テーブルの上に乗っているのは普通の朝ごはんだ。なにか特別な料理はないし、妙な飾りもなにもない。
正月でもクリスマスでもないのだから当たり前だ。小学生だった時はともかく、最近はそんな飾りをつけたりはしないのだが。
いや、どうでもいいことだ。どうでもいいはずだ。
「どうしたの、理。気分が悪そうだけど、風邪?」
「さ、さあ……」
母さんは心配性だ。
俺は病弱というわけではないけれども、普段から陰気なので気を使ってくれている。
確かに一段と陰気になっている俺は、体調が悪そうに見えるだろう。
「どうする、学校休む?」
「大丈夫だよ」
「嫌なら行かなくてもいいのよ? お父さんも言ってたけど、転校してもいいんだし……」
「……大丈夫だって」
本当は引っ越した方がいいのかもしれない。俺ではなく、母さんや父さんの為に。
だが俺はここに残りたかった。もちろん俺のことを知っている人が近くにいるのだけども、だからこそここにいたかった。
罪の意識があるからこそ、罰を受けている意識が欲しかった。
少なくとも同級生を全員殺すまでは、俺は王手高校に通いたかった。
『あの日から一年が経過しました』
テレビでアナウンサーがしゃべっている。
『あの痛ましい殺人事件は、未だに解決をみておりません』
読み上げているニュースは、当然のように俺とは無関係だった。
それでも、あの日から一年、という言葉だけで、俺も母さんも無言になってしまう。
俺にとって、あの事件はまだ終わっていない。だが母さんにとっては、とっくに過ぎ去ったことだ。それでも、これはつらいことだろう。
だとすれば、終わっていない人々にとってはどうなのだろうか。
あの一年A組の生徒の、その家族たちはどんな思いで一年を過ごしていたのだろうか。
そして、今日という日をどう受け止めているのだろうか。
そう思うだけで、俺は心が痛んでしまう、胸が締め付けられる。
「もう行くよ、母さん」
「うん」
何も変わらない一日が始まる。
昨日までと変わらない、何の意味もない一日が始まる。
俺が殺人をしてでも帰りたかった日常の中に、俺はいる。
※
二年A組の教室に入った俺は、普通に勉強をしていた。
授業が始まる前なので席に座っているクラスメイトも少ないが、俺のように勉強をしている生徒もいないわけではない。
もちろん、まだ登校していないクラスメイトもいるし、トイレに行っている奴もいるだろう。
とにかく、今の時間は自由だ。なので俺は、英単語の暗記に時間を費やしていた。
単語の暗記はやり過ぎということはないし、単語帳を使えば場所も取らない。
それに単語帳は、作るのに満足してそのままになることが多い。あんなことになる前は、俺だって作ってそのままだった。
あれからは違う。こんな普通の勉強でも、普通だからこそやりがいを感じていた。
殺人を犯してでも取り戻した、一年A組がもう二度と取り戻せない日常。
それを怠惰に過ごすことは、とても罪深く感じる。
ただの自己満足だとはわかっているのだが、正直に言えば何もしていないと本当に切なくなってしまう。
もう四人も殺しているのに、学校でだらだらしていていいのだろうか。
そんなことを言い出せば、そもそも人を殺しておいてのうのうとしていること自体が駄目なのかもしれないが。
ただ学校に通わない、というのは。
人を殺してまで取り戻した生活を乱すのは、なにかおかしい気がする。
考えれば考えるほどドツボに嵌っていく。
そんなことを考えないようにするために、英単語を暗記している。
我ながら、本当に卑しい根性だ。
俺の他の人殺しは、こんな陰鬱な気分をずっと抱えて日常生活を送っているのだろうか。
そんなどうでもいいことさえ考えてしまう。
単語帳に書かれている英語が全く頭に入ってこない。
「なあ、おい」
そんなことを考えていると、クラスメイトから声をかけられた。
円木 全威
精神状態 昂揚 興奮
二年A組の男子生徒、円木全威。
俺はこのクラスでは友達がいない、というかそもそも友達がいないので、彼も当然友達ではない。
話しかけられたのは、今日が初めてのはずだ。
にも関わらず、彼はとても笑っていて上機嫌だ。
陰気に単語帳をめくっているだけの男に話しかけるのが、何がどう楽しいのだろうか。
割と真剣にわからない。
「都ってさ、女の名前みたいな名字だよな?」
中学生かこいつは。いや、小学生かもしれない。
なぜそれを今になって、二年生になってからしばらくしていってくるのかわからない。
もしかして、それを話しかけるきっかけにするつもりなんだろうか。
「ああ、そうだな。よく言われるよ」
「そっか~~よく言われるか~~」
にやにやと笑っている。とても下品な笑みだ。
しかしそれを見ても嫌悪感がわかないのは、自分が殺人鬼だからだろう。
殺人鬼がクラスメイトをうっとうしがるのは、相当傲慢だ。
「じゃあさ、お前人殺しってよく言われるのか?」
教室の雰囲気が、少しずつ変わり始めた。
無理もないだろう、それは言ってはいけないことだ。
例え真実だとしても、クラスメイトを人殺し呼ばわりはまずい。
「意味が解らない」
「意味わかんないってお前……俺の方が意味わかんねえよ」
円木はとても楽しそうに笑っているが、周囲はざわつき始めた。
明らかに、円木を注目し始めている。
「クラスメイトがいなくなって、もう一年じゃん。お前が殺したんだろ?」
ものすごく性質の悪い冗談だ。
だがしかし、俺はまるで反論できない。
「一年A組でお前以外全員いなくなったじゃん、お前が殺したんだろ? ほらほら、そうだって言ってみろよ」
彼は別に、真実にたどり着いているわけではないだろう。
だがしかし、皮肉にも真実だった。
「おい、ちょっとやめろよ」
「まずいって……お前、ほんとマジでやばいぞ」
そんなことを知らない他のクラスメイトは、あわてて円木を止めている。
利己的な理由で殺人を犯した者へ、正しくののしっている彼を止めていた。
直接動いたクラスメイトだけではない、他の生徒たちも全員が円木と俺を見ている。
「何がヤバいんだよ、何もヤバくないって! だってこいつが本当に人殺しでないのなら!」
鬼の首を取ったようなことを、円木は高らかに宣言していた。
「自分でちゃんと違うって言えるはずだろ?」
悦に浸っている。
完全に論破したと思い込んでいる。
自分は人が言えないことを言ってやったのだと笑っている。
「ほらほら、違うなら違うって言えよ~~!」
俺は何も言えなかった。
もしも違うと言えば、彼は説明や証明を求めるだろう。
じゃあなんでお前だけが残ってて、他の奴らがいなくなっているのか、ちゃんと説明しろよ。
そんなことを言うに違いない。そして再び、自分は凄いのだと誇るのだ。
弁舌に優れていて、頭が良くて、勇気があって、勝利したのだと誇るのだろう。
何を言っても、屁理屈をこねるとわかりきっている。
それを抜きにしても、俺はまるで何も言えなかった。
演技でもなんでもなく、クラスメイトが全員失踪した一般人のように、沈んだ顔をすることしかできなかった。
円木が言った様に、人殺しだからこそ、人殺しではないと言えなかった。
「おいおい、黙っていたら何もわからないだろ?」
今までは、こんなことを言ってくる奴は一人もいなかった。
一年が経過して、そんなことを言われるとは。
いや、今だからこそ言われたのかもしれない。
「何か言えよ、ミヤコちゃん。ほらほら、返事もできなくて泣いちゃうのか?」
泣きそうなのだろうか、俺は。
今まで散々泣いてきたのだから、今泣いてもまるで恥ずかしくない気がする。
いっそ泣けば、彼は止まってくれるだろうか?
それならそれでいい、人殺しが人殺しと言われて、泣き出すのならそれはいっそ当たり前のことだ。
「おいおい、なんか言えよ……」
むしろ、ここで泣ければよかったのかもしれない。
しかし俺は涙が枯れているかのように、目に湿り気を帯びさせることさえなかった。
そうこうしているうちに、先生が入ってくる。
そうなれば円木も流石に引っ込んで、自分の席にもどっていく。
そう、結局はこの程度なのだろう。
辛い日々、というにはあまりにも温過ぎる。
※
「で、そのあとどうしたの?」
「何もありませんでしたよ」
学校が終われば、俺はいつものように家に帰る。
そのあと雑事を済ませると、魔王様の城に来ていた。
俺が別の世界に行って帰ってくるまでの間、地球では一切時間が経過していない。
魔王様の城で半日かそこらほど過ごしてから、また家に帰って夕食を食べて寝る。それが今の俺の生活だ。ちなみに、魔王様の城も基本的には二十四時間らしく、俺がいない間も普通に時間は経過しているそうだ。
つまり俺の場合は一日が二十四時間ではなく、三十時間ぐらいになっていると思われる。
正直時間の感覚が狂いそうになるのだが、そこまで負担ではなかった。おそらく、そのあたりの『どうでもいい要素』に関しては、魔王様が気を使ってくれているのだろう。
魔王様は文字通りゲームマスターかゲームクリエイターのようなものなので、ゲームのデザインで考えればわかることだ。
半端に『現実』を『リアル』に寄せてもうっとうしくなるだけで、面白くなるとは限らない。
俺が一日三十時間という生活サイクルによって体調を崩したとしても、魔王様からすればちっとも面白くないのだろう。
そんな無意味なバッドステータスになってもなにがしかの魔法や薬で治すだけなので、最初からそういうことにならずに済むようにしてもらっていると思われる。
マスクボーナス
魔王の祝福
時差ボケにならない
ということだろう、全然嬉しくない。
困っていないというだけでもいいのだろうが、本当に魔王様がうっとうしく思わないがための配慮であった。
「何もって……怒らないの?」
「怒るもなにも……ないといいますか」
今の俺は、ウイ様と一緒にお茶を飲んでいた。
ちなみに淹れたのはメイドとかではなく、ウイ様ご本人である。
魔王様の娘という名のペットであるウイ様は、当然ながら魔王様の後継者というわけではない。
よって、究極的には何もしなくていいのだが、いろいろとお勉強やら何やらをしているようだ。
ペットの躾け、あるいは育成シミュレーションゲームで『娘』に教育を施すようなもの、なのだろう。
まあ悪いことではない。ウイ様と話をしていると、ウイ様が正しい教育を受けているのだと、なんとなくわかるし。
そう考えると、魔王様は熟練した育成ゲーマーなのかもしれない。
「人殺し、と言われて傷つかなかったわけじゃありませんが……」
「ぶんなぐってやればいいじゃない」
「……そうですねえ」
仮に俺がその気になって殴れば、それこそ円木は簡単に死ぬだろう。
そこまで行かなくても、一撃で吹っ飛ばして病院送りにすることも可能だ。
加減をすれば、俺が強くて怖いことを伝える程度に収まるかもしれない。
もちろんウイ様はそんなことを言っているわけではない。あくまでも常識の範疇で、喧嘩の範疇で暴力を振るえばいいとおっしゃっているのだ。
「ただ……やっぱり殴るの良くないですよ」
「むむむ……」
ここで悩む当たり、ウイ様はまともだと思う。
あまりにも露骨にバカにしているのだから、殴ってもいいとは思っている。
しかしそれを実際にやるのは、あんまりいいこととも思えないのだろう。
そこで極端な結論を出さずに葛藤をするのは、人間としてとても普通だ。
短絡的な答えに満足するようにならず、こういう感覚を忘れないように知るのは大事だと考えている。
「まあ確かに。四人も殺しておいて、暴力もへったくれもないとは思いますけどね」
自嘲自虐を言ってしまうが、それができるのはウイ様だけだ。
異世界で魔王の部下になって、クラスメイトを殺すためのコマになっている、なんて言えるわけないし。
「ねえコトワリ。その人、友達?」
「いいえ、クラスメイトですね」
「じゃあ何かあれば殺すの?」
「殺しますよ」
俺の返事に対して、ふうん、とウイ様は納得していた。
どうにもウイ様は、殺すことをためらうかためらわないか、の一線に興味があるらしい。
しかしそれは前からの話である。俺と親しくなりたい一方で、俺の一線に対していつも探っているのだろう。そういう、友達のすべてを全肯定しない、というところもまともだと思う。
「できれば殴りたくないけど、場合によっては殺すか……それが普通なのかしら」
「誰でもそうですよ。ただ、その『場合』に遭遇することがほとんどないってだけで」
では俺はまともなのだろうか。
前途あるクラスメイトを殺してでも家に帰りたがっている俺は、まともな人間なのだろうか。
これは自己分析するまでもない、俺は既に判断を終えているのだ。
まともだろうがそうでなかろうが、俺は家に帰るのだ。誰を何人殺してでも、絶対に家に帰る。そこで悩むのは、もう終わっている。
極端な結論に逃げている、思考停止しているのはわかっている。それでも、俺はそうすると決めていた。
「ふうん」
たわいもない会話が続く。
飛ばしても問題のない会話が続く。
何の意味もない、フラグが立つわけでもない話が続く。
「そっか」
俺と彼女にとっては、相互に理解するために必要な会話が、終わった。
「そろそろギュウキ様のところへ行かなければならないので……」
「ええ、私もセラエノのところに行かなくちゃ」
彼女との会話は、本当にありがたかった。
死んでいた俺の眼は、再び生気が戻っていたと思う。
「またね」
「はい」
挨拶を交わして、俺は部屋を出た。
そして、表情を引き締める。さあ、特訓だ。
育成ゲームのコマとして、一生懸命頑張らなければならない。
「おう、よく来たな! 時間を守るとは感心だな!」
そう覚悟していた俺は、中庭に用意されていた大量の鉄球を見て、一瞬にして後ろ向きになっていた。
殺人の罪悪感だとか未来への希望だとかそんなことが甚だ些細に思えるほどに、鉄球のもつ暴力感は強かった。
俺へ特訓をするために準備をしていたギュウキ様は、とても良い笑顔で鉄球を磨いている。
まるでボーリングの球のように扱っているが、俺にぶつけるための道具なのだ。はっきり言って、恐怖しかない。
「魔王様がお待ちかねだぞ!」
ふと二階を見上げると、とても上機嫌そうにくつろいでいる魔王様がいらっしゃった。
俺がとてもおびえている姿を見て、ご満悦というところだろう。
嫌われた場合は即座に殺されることを想えば、そこまで悪いことではない。
しかし、今これから起こることを考えれば、とてもではないが笑顔にはなれない。
「よく来たな、コトワリよ」
世界を滅ぼすことを趣味にしている、他人のもがき苦しむところを見るのが大好き、という魔王様。
そのお方が満面の笑みをしているのだから、今の俺はもがき苦しむ状態なのだろう。
「ま、魔王様……!」
「楽しませてもらうぞ」
「は、はい!」
魔王様からのパワハラに耐える。
それが生き残るための、唯一の道。
わかってはいるのだが、それでも直前になると思うのだ。
「では今日の特訓を始めるぞ!」
「はい!」
別にそこまで強くならなくていいんじゃないかなって。
「これからお前は、障害物をよけながら全力疾走する! 俺が鉄球を投げるから、それもきっちりと避けろよ!」
「はい、わかりました!」
「ふははは、その意気だ!」
現在、中庭には巨大なベルトコンベアが設置されている。要するに巨大なルームランナーのようなものである。
俺はその上をひたすら走るのだが、どういう原理かよくわからない障害物がルームランナーの上に出てくる。
「う、うおおおおおおお!」
絶叫しながら走る俺。
当然ながらベルトコンベアの回転速度は相当なもので、かなり鍛えている俺をして全力疾走しなければならないほどだ。
とても普通のことだが、全力で走るだけでとても辛い。
仮に俺の走る速度が遅くなれば、ベルトコンベアの後ろに設置されている巨大な針で串刺しである。それ以前に、鉄球をぶつけられるかもしれない。
ただそれだけでも辛いのだが、さっきも言ったように障害物まであるのだ。
「く、くそ!」
ベルトコンベアからせりあがってきたのは、文字通りハードルだった。
普通のハードルと違うのは、陸上競技のハードルと違って実体が無く、バリバリとした電気がほとばしっていることだろう。
つまりは巨大なスタンガンのようなものであり、触れると感電するという危険設計である。
まさに障害物走、ハードル走である。
全力で走っている俺は、息を切らせながらもジャンプしてハードルを飛び越えた。
「甘い!」
ハードルを飛び越えているところで、俺の顔に鉄球がぶつかっていた。
「へぎゃあ!」
跳躍している最中の頭部に命中させる、ギュウキ様の技量には瞠目するしかない。
しかしそんなことが気にならないほどに、俺は顔が痛かった。
顔だけではなく、首も痛い。正直気絶しかけるのだが、気絶した場合のことを考えれば意識を手放すことはできない。
「う、ぬぬうううああああ!」
「よし、いい根性だ! そのまま走れよ~~!」
とても皮肉なことに、俺は顔に鉄球をたたきつけられても、着地と同時に走ることができていた。
これが特訓の成果なのだとしたら、あまりにも悲しすぎる。
「うう、ぐううう!」
涙を流して血も流して涎も垂れ流しながら、それでも俺は走っていた。
脳震盪どころか脳挫傷しているかもしれないが、特訓を繰り返すことで通常通りに走ることができている。
本当に、俺は強くなった。悲しいほどに、俺は強くなったのだ。本当に悲しい。
「また来るぞ!」
ギュウキ様の声を聞いて、ぼやけている視界にハードルが迫りつつあることに気づいた。
また跳躍して回避しなければならない。
「ふん!」
「はぐああ!」
今度は跳躍しようとしたところを狙われた。
ジャンプしようとした瞬間、脇腹に鉄球がたたきつけられていた。
体が横にぐねり、さらにそのまま横へ吹き飛びかける。
しかしベルトコンベアから落ちるとどうなるのか、考えるだけでも恐ろしい。
「ふっ、ふっ……う!」
何とか踏みとどまり、走り出そうとする。
「あぎゃああああああ!」
そして、目の前のハードルにぶつかる。
高圧電流だと思われる何かが体を焼き、一切の身動きができなくなった。
もうこうなってしまうと、思考さえままならない。
「あああ……!」
脳髄まで黒焦げになっているのではないか。
なにもできない状態で、俺の体はベルトコンベアに運ばれて、背面に用意されていた巨大な針で串刺しになる。
幸か不幸か、痛みを感じることはなかった。それだけが救いなのかもしれない。
「はっはっは!」
眼や耳ではなく、魂に伝わってくる。
魔王様が俺の無様を見て笑っている。
仕掛けられているギミックが、見事に作用して俺を傷つけていることを、とても楽しそうに笑っている。
まさにゲームのキャラクターを見る人間のようであり、つまりは神の視点である。
「中々楽しい特訓だな、気に入ったぞ」
俺の体は速やかに治り、再びベルトコンベアの上で走り出すことになる。
俺の意思とは無関係に、試練は現れる。決して高くないハードルが、しかし絶壁のように立ちはだかっていた。
「そらそら、いくぞ!」
「はいいいい!」
泣き言をいう暇はない。
本当に、泣き言を言っていたら命がいくつあっても足りない。
無限の残機を与えられたように、俺はゲームのコマに徹していた。
俺の目から涙があふれるのは、きっと体が痛いからではなく心が痛いからだ。
しかし心が痛いのは体が痛いからだと思う俺であった。
こうして、俺が魔王様の部下になって一年目という記念すべき一日が過ぎていく。
特になんということはない、平凡な一日だった。
辛いといえば、勿論辛い。
こんな過酷な日々に耐えてまで、生きている甲斐があるのかと言われればあると答える。
未来が明るくなくていい、つらく苦しくても未来があればそれでいい。
少なくとも、未来はあるのだから。
続きはまた数年後……。
ではなく、再来週です。
追記
来週にすることにしました。