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残酷な世界の愛しかた

作者: ぱせり

 もし、僕だけの愛で彼女の病気を治せたら。そんな事を思い、すぐにその考えを打ち消した。

 彼女の部屋から、甘い吐息が漏れていることがかすかに聞こえる。こういちさん、という彼女のか細い声が聞こえた。

 彼女は今日もまた、大学おわりに、部屋に男を連れ込んで、「病気の治療」を行っていた。単刀直入に言おう。セックスだ。彼女の病は一刻を争うものだった。多分、時間からして、今日はもう一人、男を呼ぶのだろう。

彼女がどれだけ他の男の名前を囁こうが彼女のことをただ愛していた。そんなことでしか、僕は彼女を救えなかった。

 この世界は、あまりに優しくて、あまりに残酷だと、思う。生まれながらに、人は愛を貰っていないと生きていけない。愛情を貰わなければ、病にかかってしまうなんて、あまりに残酷だ。ただ、愛情さえあれば、どんな病気でも治ってしまうなんて、あまりに優しすぎる。

 彼女の病気は愛でしか治せないものだった。愛情不足からくる、愛情疾患病。イコールで、不治の病。

特に、幼少時代に一定の愛情が満たされないまま育った人に多い。一人分の愛情さえもらえていれば、必要最低限の健康は保つことができるのだが、幼少時代に愛情が足りなかった人はそれ以上の愛を定期的にもらわなければいけない、というものだった。そして、彼女の場合はもう一つの特例が備わっていたのだった。

 男の興奮した声と、甘い彼女の控え目な喘ぎ声を聞くことが耐えられず、僕は部屋を出た。

 彼女の部屋は隣。このアパートは、よく声が響く。

 すっかり冷え切った冬の夜に、僕は煙草をふかしながらふらふらと歩いた。昔のことを思い出す。彼女と出会ったころのことだ。

彼女と知り合ったのは、僕と彼女が小学四年生のときだった。彼女が転校生として、僕のクラスに来た時、愛情が足りてなさそうな子だな、と思った。きっと誰もが思っただろう。

 くわはらしおりです、と小さく言った声は、教室全体に届くはずもなく、担任が気を使ってしおりちゃんだ、よろしくな、と言ったのをよく覚えている。これじゃ愛情が足りていないのも仕方ないだろう、と気の毒に思ったのは、僕だけじゃないはずだ。

 彼女は声が小さく、いつも悲しそうな目をしていた。あまり、彼女と友達になりたがる人はいなかった。

 それは、ある日の下校途中だった。体のわりに、少し大きな赤い色のランドセルが、雨の中、しゃがんでいるのがわかった。

 近づくと、そいつはしおりだった。不思議に思いつつも、声をかける勇気もなく、遠目から様子をみることにした。彼女は猫を抱いているようだ。小さな背中は小刻みに震えて、きっと泣いている。

「ねこ?」

 気がつけば、僕は声をかけていた。

「うん、けがしてる」

 彼女の前には安っぽいプラスチックのかごがあり、ぐちゃぐちゃになったタオルが入っていた。どうやら捨て猫らしい。

「かさ、ささなかったら、風邪ひくよ」

 猫を抱きかかえている彼女に傘をさしたが、すでにぐちゃぐちゃに濡れている彼女にとって、それはあまり意味のないものだった。

「このままだったら、この子、死んじゃう。どうしよう」

 放っておけばいいのに。彼女をみて、そんなこと、いえるはずがなかった。

「こっち、きて」

 彼女に自分の傘を預け、ねこのカゴを抱えると、僕はなじみのある公園にむかった。

「ここなら、大丈夫」

 もう僕らの体となっては少し窮屈なくらいの狭さの児童公園。僕のお気に入りだ。

 ぞうさんの形をした滑り台は、おなかのところにまるく穴があいていて、そこに入れるようになっていた。

 猫のカゴを下すと彼女は少しだけ安心したように、猫を下した。

「ねこ、よくなるかな」

「……わからない。愛があれば、なんとかなると思うんだけど」

 あとは学校に張り紙でもして、多くの人にかわいがって好かれれば……と考えているうちに、彼女はふたたび猫を抱きしめた。

「よくなりますように。私、あなたのこと好きよ。まんまるでかわいいおめめ。しましまの毛もとってもおしゃれね。将来はきっとべっぴんさんに育つわ。静かでおりこうさんなところも素敵ね。そのままで育つのよ。きっと多くの人に愛されるわ」

 さっきまでぐったりしていた猫が、元気になったように、感じた。

嘘だろう。動物だから、人間ほど愛がいらないにしても、先程までの傷をたった一人で、治せるわけがない。これが彼女の不幸の原因の一つであった。稀に、人より過剰に愛情を出せる人がいる。彼女もその一人だった。その分、たくさんの愛情を受け取ることが必要になってしまう。自分で調節することは、できない。

 ニャー、と猫が鳴き声をあげた。涙をすくうように、彼女の頬を舐めた。

「そう? あなた元気になったのね? よかった……」

 そのとき、彼女と知り合って初めて彼女の笑顔を見た気がする。どきりと心臓がはねるのがわかった。生まれてから、初めての経験だった。

 彼女の笑顔に見惚れていたのもつかの間、彼女はそのまま、ぐったりと顔を伏せてしまった。

 愛情に不足していた彼女は、たった数十分雨にうたれただけで、ここまでなってしまうほど、免疫力が落ちていた。

 いくら男と言えど、まだ子どもであり、彼女との体格差はそうなかった。そんな彼女をおぶりながら、彼女のか細い道案内を聞いて着いたのは、彼女のいる、孤児院だった。

 職員の方が僕を見つけ、彼女を抱きあげた。

「あの、猫、拾って。それで、雨に打たれちゃって、きゅうに、倒れちゃって……」

 言葉がうまく続かなかった。彼女が施設で育っていることを知って、動揺してしまった。

「ごめんね、ありがとう。きみの名前、教えてもらってもいい?」

「たきざわ、みずき」

「みずきくん、濡れちゃってるね。ごめんね。中であったかいものでも飲まない?」

 僕は、走り出した。

 家まで走った。施設からは近く、あっという間の距離だった。それでも僕の息はあがっていた。走ったせいではない。桑原詩織が孤児院にいる、という事実であった。

 そこの孤児院は小さく、愛情の供給が少ないのだ、とお母さんから聞いたことがある。孤児院から通う、べつの生徒は、いつも愛が足りなさそうにしていた。

 きっと他の誰かから、彼女が孤児院にいるということを聞いてしまえば、こんなに動揺はしなかっただろう。

 彼女の笑顔を見てしまい、また、彼女が自分の体を差し置いて、猫に愛情を注ぐところを見てしまい、そして、そんな彼女が愛を貰えない状況にいたということがわかってしまった。

 そして僕は、そんな彼女に僕の愛を渡したいと、思ってしまったのだ。

 僕はこの時、彼女に恋に落ちた。

 それは生まれて初めての経験であり、この気持ちをあっさりと受け入れてしまったことに動揺していた。

 その日から僕は、彼女が貰えない愛情の分まで、彼女を愛そうと決めたのだった。そのことを彼女に伝えると、また彼女の笑顔を見ることができた。彼女は相変わらず、不健康そうだったが、笑顔が絶えることはなかった。

 高校を卒業する時、僕は進学、彼女は就職を決意した。就職と言えど、孤児院出ということもあってか、小さな会社の事務の派遣社員でしか、採用をもらえなかったようだ。初めて離れ離れになる進路であったが、離れて暮らすということは考えられなかった。

 僕らはアパートで隣り合わせの部屋を借り、毎日のようにそこを行き来していた。僕等はお互いを愛し、必要最低限の愛で健康を保っていた。でも、それだけじゃだめだったのだ。その結果、彼女は不治の病となってしまった。

「彼女を病気にさせてしまったのは、僕のせいかもしれないな」

 自嘲的にいったその言葉は、誰も否定されることなく、凍りついた空気に張り付くように僕の頭だけに響いた。

 しばらくして岐路に着く。まだ彼女は「治療」を行っているはずだろうが、寒さに耐えられなかった。

 アパートの階段を上ると、そこには彼女がいた。

「どうしたの。今日は、もう終わり?」

優しく言ったつもりだったが、とげのある言い方になってしまった。

「うん。今日は、あとみずきくんとゆっくりしたいかなぁって」

「さむいから、入りなよ」

 僕の部屋の鍵を開ける。机には彼女が最も多く愛を集める方法を探す本が散らばっていた。

 どこでも立証されている事実としては、「愛情疾患病は多くの異性とのセックスを行うことによって生まれる、愛情を受けることが最善」ということだった。

 やかんを火にかけ、ココアを用意する。けだるげな匂いが部屋を埋め尽くす。

「わたし」

 ぽつりと詩織が言葉を紡ぐ。先程まで、他の男に喘がされていたその口で。

「いつになったら、治るのかな」

 震える詩織を、僕は抱きしめることしかできなかった。

「詩織」

 彼女の震える唇に、強引にキスをする。それ以上は言わなくていい。僕が詩織をもっと愛さなくては。

 彼女を優しく押し倒し、スカートをまくりあげた。彼女の手が僕の手を制する。

「みずきくん」

「なに?」

「おねがい、今日は、なにもしないで。このまま、抱きしめていてほしいの」

 セックスこそが、病気の最良の治療法だった。それなのに、詩織が他の男をセックスをするようになって、僕らの回数は確実に減っていった。

 他の男とすることは、たしかに耐えられない。しかし、それが治療ならば。そんな葛藤に詩織も気付いているようだった。

 詩織が愛しくて仕方ないはずなのに、そんな詩織をいっそ壊してしまいたいとも思ってしまう。僕だけの愛情で足りないなら、そんな世界で生きてほしくないと思ってしまう。

「詩織、好きだ」

 僕の言葉はあまりに頼りなかった。どんなに僕が詩織を愛したところで、僕一人では詩織の病気を治すことさえできないのだ。

 強く抱きしめたら、壊れそうな詩織の体を、抱きしめる。

「ねぇ、みずきくん。病気が治ったらさ、誰も知らない遠くのところに住みたい。二人だけで愛し合って生きたいよ」

「ばか。そんな事したら、また病気にかかるかもしれないだろ。これが治ったって、またかかるかもしれないんだぞ」

「いいよ、そうなったら、みずきくんが治してよ。百人分の愛を、私にちょうだい」

 そんなこと、出来るはずがなかった。どんなに愛していたって、不治の病を治すには多くの愛が必要だ。詩織もそのことは知っているはずだ。

「ねぇ。私のこと、まだ好きでいてくれる?」

 詩織が病気になってから何度この質問をされたのだろう。答えのかわりに唇を重ねた。今の僕には、詩織を変わらず愛し続けることしかできなかった。


 大学から帰るといつものように詩織は「治療」を行っていた。今日もまた「こういちさん」が来ているらしい。だが、いつもと空気が違うような気がした。

 詩織はいつも声を我慢している。声を出した方が男は興奮するから、僕のことを気にせず、大げさにでも喘いだ方がいいとは言っているのだが、それだけは言うことを聞かなかった。今日もまた、詩織の押し殺したような吐息が聞こえる。しかし、それは悲鳴に近かった。

 こういちさん、という声は、相手を求めて呼ばれる声のようではなく、助けを求めているかのようだった。

 胸騒ぎがする。息をひそめ、耳を傾ける。なにかを殴りつけるような、鈍い音が聞こえる。

 考える暇もなく、部屋を飛び出して詩織の部屋のドアを叩く。カギがかかっており、開かない。

「しおり! しおり!」

 扉の向こうで二人が静まるのを感じる。

「おい、あけろ!」

 反応はない。自分の玄関にもどり、詩織の部屋の合鍵を持ち出す。

 乱暴にドアを開けると、そこには焦って着替えている男がいる。何も言わずに、そいつを殴る。

「おい、消えろ。もう二度とここに来るな」

「わかった。わかったから」

 体格のわりにひ弱な男はそそくさと荷物を持って逃げて行った。

 乱れた服を着た詩織は、自分の体を抱きしめるように小さく体育座りをして、震えていた。

「しおり」

 僕の言葉に、びくりと、肩を震わせる。触れれば壊れてしまいそうなしおりに、触れることはできなかった。

「何回目だ?」

 出来るだけ、優しく。怒りが漏れてしまわぬよう、声を出す。

「あの男に殴られたのは何回目だ?」

 詩織は首を振る。多分、今日が初めてではないのだろう。

「こういちさんの、愛情表現が、これなの。これだから、しかたないの。そういう愛も、私はもらわないと」

 詩織は自分自身の体を抱きしめた。たまらなくなって、側に寄り、抱きしめる。

「しおり……」

「離して、お願い。離して。もう、こんな体でみずきくんに愛されたくない。だって私、こんなに汚くなっちゃったんだよ」

 しおりの細い腕が、僕を引き離した。

「そんなことない。病気のためなんだから。仕方ないことなんだ」

「仕方ないって何? みずきくん一人の愛で生きられない体なら、もういらない! みずきくんだってそう思っているくせに!」

 その言葉に、僕はなにも言えず、詩織は出て行ってしまった。

 すぐに追いかけるべきだった。それから、詩織が帰って来ることはなかった。


詩織が飛び出した日から、早くも一年が経とうとしていた。

すぐに警察に捜索願を出したが掛け合ってもらえず、何かあったら連絡します、と言われたきりだ。彼女のいた孤児院に連絡したところで、気の無い返事をされてあてにならなかった。きっと彼女もここに戻るという選択はないだろう。それでも、と小さな願いを込めて、何かあったらすぐに連絡をください、と、僕の携帯番号を告げた。はぁ、と電話口の女性はメモをしたのかわからない返事をしただけだった。

詩織の会社にも連絡をした。 勝手にいなくなられても困る、とか、あちらの勝手な言い分ばかりしか言われず、ここに詩織の居場所はないのだと悟った。

孤児院出、というだけで世界はあまりに、彼女に冷たかった。

大学に行くこともなく、かといって何かをするわけでもなく、ただ、詩織のなにかあったときの為のお金を稼ぐだけに、バイトをしていた。

 あの時、詩織を追いかけなかったことに何度も後悔した。後悔したってなにも変わらないことは、分かっているはずなのに。

 僕は笑うことが出来なくなっていた。愛想のない僕を店長は何度も叱り、バイト先で誰も僕を気遣ってくれる人はいなくなった。ただ、お金を稼ぐだけの、日々。

 家族からの連絡も拒否をした。詩織をあんなに追い詰めてまで、誰かから愛を貰うなんて、僕にはできなかった。

 一人で酒を飲むことが多くなった。夜、詩織に対する罪悪感と、詩織がいないことへの悲しさで押しつぶされそうになる。

酔いが回って何度も嘔吐を繰り返し、いつも記憶がなくなって、気付いたらベッドの上で寝ている。ふらつきながら、バイトにいく。その繰り返しだった。

食べ物を食べる気にもなれず、そのくせ、酒はするすると入った。

愛情を十分にもらわないやつがこんな生活をしていて、健康でいられるわけがない。僕は確実に弱っていった。

フラフラになりながらバイトをする僕を見兼ねて、店長は体調を優先するように、しばらく休めと言われた。事実上のクビだ。

何もしないで家にいると不安で押しつぶされそうになる。聞こえないはずの詩織の甘い吐息が聞こえるような気がした。

詩織への愛は確かに生きていた。そして詩織からの愛も伝わってくる。だから、きっと詩織もどこかで生きている。ただそれだけを頼りに、僕は今を生きている。

バイトがクビになると日雇いのバイトを始めた。どれも肉体労働なものばかりで、僕の体を痛めつけた。誰も僕を気にかけるものはいなかった。


月が綺麗な夜だった。今日は仕事を入れられず、何もすることができなかった。郵便物にいつ届いたのかわからない大学からの勧告書が届いていた。このままだと留年する、という内容だった。もうとっくに留年は決まっただろう。

大学に入って、いい会社に勤めて、詩織を幸せにする。これが僕の最終的な目標だった。でも、ダメだったんだ。今が幸せじゃなければ、なんの意味もなかったんだ。

真夜中に目が覚めた。視界が揺れる。昼間から酒を飲んでたせいもあってか、フワフワとしている。覚めたつもりになっているだけの夢なのかもしれないな、と笑った。

月を掴みたくなって外に出た。季節は僕を取り残して冬の準備を始めていた。詩織がいなくなったあの日から僕は動けずにいた。世界から置き去りにされている。それでも僕はここで詩織を待ち続けるしかなかった。

「詩織……」

思わず声が漏れる。同時に涙が出た。いつから僕はこんなに弱くなってしまったのだろう。

ふと懐かしい心の暖かさが入り込んできた。誰かからの愛情だ。詩織だ、と確信をした。

あたりを見まわす。見当たらない。

「詩織、しおりっ!」

ほとんど転げるように階段を降りた。いる。詩織が、いた。

「し、おり」

「あ……」

月に照らされた詩織は、間違いなく僕の愛した詩織だった。随分痩せている。あまり、健康そうでもない。それはそうだろう。

おぼつかない足取りで駆け寄る。まだ酒が抜けていないせいか、めまいがする。

「ごめんなさい」

ポツリと詩織が言った。どうして謝るのだろう。

「病気が、治ったの」

その言葉を聞いて、一瞬足を止めてしまう。それは思いがけない言葉であった。治らないと言われた病気を治したのか? 彼女が? 一人で?

いろいろなことが頭をよぎったけど、そんなことはどうでもよかった。詩織がここにいるんだ。それだけで、充分だ。

「あいたかった」

その言葉しか出てこなかった。僕がずっと望んでいたことだった。恐る恐る近寄って、そっと抱きしめる。今にも折れてしまいそうな体だった。あぁ、こんなことになるなら、昼間から酒なんて飲んでおくんじゃなかった。酒臭い息でため息をこぼした。

「こんな体で」

詩織の声は震えている。泣いているのかもしれない。

「こんな汚い体で、もうあなたに会えなかった。だって、病気を治すって、つまり、そういうことでしょう? そんな体で、みずきくんに愛される資格なんてないと思ってたの。でも、みずきくんが、ずっと私に愛をくれたから。ねぇ、どうして離れていたのに一番大きな愛を私にくれたの?」

「そんなの、簡単だよ。僕は、詩織がどうであっても、詩織を愛し続けるって決めたんだ」

月の明かりが詩織の白い頬を照らす。とても、綺麗だった。

「詩織、綺麗だよ。世界中のどんなものよりも綺麗だ。これからずっと僕の側に居て欲しい。もう、お願いだから、どこにも行かないでくれないか」

酔いが抜けないせいか、気づけば僕もぐちゃぐちゃに泣いていた。ぐちゃぐちゃな顔のまま二人で笑った。それから、優しく、唇を重ねた。


詩織が戻ってから、僕の生活も色づいたように幸せなものへと変わっていった。好きな人がいるということが、こんなにも幸せなものなのかと実感した。

酒を飲むのをやめ、規則正しい生活に戻った。

詩織は元の仕事場に戻れるわけもなく、ただ、僕の貯金があるおかげで当分は慎ましくながらも暮らしていけそうだった。

僕はまた長期で働けるようなバイトを探し、相変わらず大学に行くことはなかったが、休みの日には詩織と二人で過ごした。

少しずつ、空白の時間を埋めていくように、二人だけでゆっくりと愛し合った。寒い夜は抱き合って寝た。詩織の体温が暖かく、とても愛おしく感じた。


「ねぇ、みずきくん」

詩織が帰ってきて3ヶ月が過ぎた。僕たちは二人だけの幸せの中で生きていた。

その日も僕の部屋で映画を見て、一緒の布団で寝るところであった。

「どうした?」

「もしね、もしもだよ。世界がさ、愛なんて必要なかったら。愛なくても健康でいられる世界だとして、でも愛で病気を治せない世界だったとしたら、私たち、愛し合っていたのかな」

その答えは、あまりに単純で簡単なものなんじゃないかと、思う。

「それでも、僕は詩織を愛するよ」

うん、と照れ笑いを浮かべた詩織はいつの時も変わらない愛らしい姿だった。この笑顔を、この先僕だけが知っていればいいのに、なんて思ってしまう。

いっそ愛なんて必要のないものになってしまえばいいのに。そんな世界、僕には到底想像できないが、そこで生まれた愛こそ本当に優しくて温かいものなのではないかと思う。

愛がなくては生きられない世界なんてなくなってしまえばいい。そんな世界に詩織を産み落とした神様を、僕は心底恨んだ。

握った詩織の手は、とても暖かかった。

施設で育った子供たちのほとんどは、六十歳まで生きられないらしい。愛情疾患病は、幼少期の愛情の不足具合によって進行の速度は変わっていく。治るということは、未だ立証されていない。ただ、継続的に愛をもらっていることで病気の進行を止めることはできる。

横で静かに寝息を立てる詩織が愛らしく、頭を撫でた。気づけば僕も眠りに落ちた。


それが詩織と僕が過ごした最後の夜だった。


彼女の葬儀は、僕の家族に手伝ってもらい、慎ましく行った。誰もくることはなかった。

彼女が、病気が治ったと嘘をついていたことは、なんとなく気づいていた。そして戻ってきた理由も僕にあるのだと思う。

彼女の葬儀が落ち着いてから家族に強制的に連れて行かれた病院では、信じられない結果が出ていた。手の施しようがないと言われていた病気が、綺麗に治っていたのである。

詩織は生まれた時から人より倍近くの愛を与えることができた。その分、人より倍近くの愛を必要としていた。

詩織が病気を治せずに帰ってきてくれた時から、僕は二人でゆっくりと死ぬことを望んでいた。一人分の愛では治らないお互いの病気を、お互いの愛だけでゆっくりと歯止めをかけ、そしてゆっくりと進行させていくことを望んでいたのだった。

ただ、詩織はそれを望んでいなかった。詩織がどこで僕の病気を知ったのかわからない。ただ僕が病気で治るように全てを僕に捧げていたのだった。

すべてが終わり、家族に引き止められつつも、二人で過ごしたアパートに戻った。

詩織の部屋に入るとかすかに詩織の匂いがする。詩織が生きていた証だった。

「う、うぅ……」

情けないほどの嗚咽と涙が溢れる。詩織の居ない世界で病気が治ったところで、なんの意味もないんだ。僕の詩織に対する愛は、行き場を失い、僕の心の中で空回りしていた。

詩織が居なくなってしまったときよりもはるかに大きな悲しみが波のように襲ってくる。止まることはない。もう、詩織が帰ってくることはない。いくら待っても詩織は帰ってこないし、僕の愛が詩織に届くことはないのだ。

大切な人を失ってしまった人は、どうやって行き場のなくなった愛を処理しているのだろう。いつか自然と消えてしまうのだろうか。誰か別の人へ使い回されてしまうのだろうか。

気づけば寝ていたようだ。起きた瞬間、また悲しみが僕を襲ってくる。こんなことなら、永遠に、目覚めたくない。

「どうして、どうしてっ、病気なんて治したんだよ! どうしてっ……どうしてだ、詩織……」

詩織が、いない世界に、僕が生きている意味なんて、ない。

ふらりと手頃な紐を取る。どこに括りつければいいのかわからず、うろうろとしていた。その間も涙は止まることなく溢れ出ていた。着ていた服も、床も、涙と鼻水で濡れていた。

ピンポーン……

動きを止める。誰だろうか。詩織を訪ねてくる人は、なかなかいない。特に、失踪してからは、一度も誰かが訪ねてくることはなかった。

ピンポーン……

もう一度、遠慮がちに押された呼び鈴。それでもこんな状態で出るわけにもいかず、息を潜める。

ドアを叩く音がした。控えめに、しっかりと。一瞬詩織が帰ってきたのかと期待をする。そんなこと、あるわけないのに。

「あの、しおりさん、くわはら、しおりさん、いらっしゃいませんか」

思わずドアに駆けつける。勢いでドアを開けてしまった。そこには、見知らぬ中年の女性がいた。僕には驚いて固まってしまっている。

「あ、えっと、ごめんなさい、ここじゃなかったんですね、人違いでした、すみません」

慌てて帰ろうとする女性を引き止める。

「待って! 合ってます。ここは、桑原詩織の家です。僕、彼女の恋人で、滝澤って言います。あの、詩織、彼女のこと、知っているんですか?」

胸の鼓動が早くなっている。詩織は、もういないなんてこと、わかっているけど。

「お願いします。詩織のこと、なんでもいいから、どんな些細なことでもいいから、知りたいんです。詩織とはどんな関係だったんですか? どこで知り合ったんですか?」

女性は恐れながらも、笑いかけてくれた。

「あなたのこと、しおりちゃんからよく聞いていました。みずきくん、ですよね? 私、鈴木と申します」

彼女を僕の部屋に通す。詩織の部屋ではうまく話ができないと思ったからだ。

「あの、しおりちゃんは……?」

そうだ、まずはここから話さないといけない。声が震えないように息を大きく吸い込む。

「亡くなりました。先日、愛情疾患病で」

「そう、だったんですね。あぁ、そう、なんですね。あぁ……やっぱり、ダメだったんですね」

彼女は静かに泣いた。どういう言葉をかけたらいいのかわからず、僕も静かに泣いていた。

「しおりちゃんと知り合ったのは、そうですね、大体一年くらい前です」

しばらく泣いた彼女はそう言って静かに話し始めた。

「私の働いている施設に、突然やってきたんです。単純に言えば愛情の募金活動みたいなものね。孤児院っていつも愛情が足りていないのって、ご存知よね。だから、孤児院に訪問して、子供達と触れ合うことで、愛情をあげて、愛情を貰う、って人たちがたまにくるの。ただ、子供達って本当に素直だから……誰にでも愛を渡せる子なんていないんです。それにね、孤児院って親の愛を受けられなかった子達だからね、愛の渡し方を知らないんですよ。だからね、普通の人は滅多にこないの。もっと効率良く愛情を集められる方法なんて、いくらでもあるからね。でも、しおりちゃんは、子供たちの愛がいいって。例え受け入れられなくても、それでもいいからって。毎日通ってくれたの」

詩織らしい考えだと思った。セックスを介してしか貰えない愛よりなんて純粋で美しいものなのだろうか。そんな方法に賛同してしまった僕を悔やんだ。

「そんなんじゃ治れないわよ、ってずっとみんなで心配していたの。でも子供達も本当に懐いてて。長年一緒にいた私たちにでさえ懐かなかった子がね、しおりちゃんが来ると喜んでいたのよ。来るのが遅い時は、しおりちゃんまだなの? って聞くくらいよ。本当にあの子はすごかった」

「幸い、うちの施設は資金援助がきちんとしていて……だからしおりちゃんがお金に困っているってことを知った時、すぐに住み込みで働いてもらうことを提案したの。いつ出て行っても構わないし、体調のいい時に働いてくれればそれで構わないからって。私、しおりちゃんの病気が悪化することが一番怖かった。だって、あの子、本当にみんなに好かれていたのよ。そしてね、あの子、本当に惜しみなくたくさんの愛情を子供達にくれたから……しおりちゃんが居た時は普通の家庭で育った子くらいみんな健康的になっていたのよ」

人より倍近くの愛を与える詩織は、子供達に多くの愛を与えていたのだろう。あるいは、与え過ぎていたのかもしれない。

「あなたの話をよくしていたわ。意地はらないで会いに行けばいいのにって何度も言ったの。そしたら、これはけじめだから、って。みずきくんからの愛は確かに届いているからこそ、病気を治すまで会えないって。それじゃ一生会えないじゃない、なんて、言えなかった。目に見えて病気の進行が早いことは、彼女もわかっていたはずなのに……。施設に来てどれだけ子供達に愛されても彼女はみるみる衰退しているようで、怖くて仕方なかった。こっそりとあなたのことを調べようとしたわ。情報が少なくてだめだった。手遅れになる前に、会いにいってほしかった。どんな理由があるのかなんて知らなかったけれど、あなたたちが固い愛情で結ばれているのはわかっていたから」

どこまで真面目なのだろう。セックスで愛をもらって病気を治すことは僕だって賛同したことだ。詩織が後ろめたく思うことではない。

「ただね、もう、みんな気づいていたの。しおりちゃんはここにいても病気を治せないって。たいていの人はいくらか症状がよくなるんだけど、しおりちゃんは違った。愛情を与える量が他の人とは桁違いなのね。だから、これ以上ここにいちゃいけないって話したわ。しおりちゃんも薄々気づいていたみたいで、あっさりと承諾してくれた。ごめんなさい、私がもっと早くに気づいていれば、病気を遅らせることだって、できたかもしれないのに」

彼女の声が再び泣き声に変わる。誰のせいでもない。これは誰のせいでもなかった。

「病気が治ったら来ます、と笑って、しおりちゃんは施設を出て行ったわ。3ヶ月前ね。たまに連絡があって、あなたのことも聞いていた。あなたの、病気のことも。本当にもっと早くにあなたの元に戻すべきだった……ごめんなさい……」

「鈴木さん、詩織の面倒を見てくれて、本当にありがとうございました。詩織が行ったところが鈴木さんの元で、本当によかった。きっと僕だけの愛だったら、もっと早くにダメになっていたかもしれない。たくさんの子供達に愛されて、本当に、詩織は、幸せだったと思います」

一体、いつになったら涙は枯れてくれるんだろう。いい加減、涙を流さない時の状態を忘れてしまう。

「僕は、詩織のおかげで今を生きれています。詩織が、詩織が僕の病気を治してくれたんです。そんなのいいから、自分のを治せよって感じじゃないですか。でもそれが詩織なんですよ。あの時の猫もそうだった。詩織がね、昔、猫を助けたんです。すぐ元気になった。でも詩織は熱を出して倒れたんですよ。なんで、どうしてそうなるんだよって感じなんですけど、それが詩織なんですよね。ほんとに。仕方ないですよね。なんで。なんでそんなに優しい子が、愛を貰えずに、死んでしまうんだろ」

愛がないと生きていけない世界に詩織を産み落とした神様を、僕はやっぱり恨むことしかできない。そして、どうか次に詩織が生まれる世界が、愛が必要不可欠でない世界であることを願うしかなかった。

「僕は、生きるしかありません。詩織が救ってくれたこの命で、生きるしかありません。生きるしかないんです。愛で病気が治せる、こんなに優しい世界でも、愛がないと死んでしまう、こんなに残酷な世界でも、僕は生きるしかないんです。それが、詩織の、望んでくれたことだから」


鈴木さんは泣きながら、何度も、何度も、僕を励ましてくれた。

僕らは桑原詩織で繋がった仲であり、それはきっと、鈴木さんの孤児院の子供たちを含め、長い付き合いになるだろう。

僕は前に進むしかない。そして、詩織が存在した、優しくて、残酷な、この世界を、

愛し続けて生きるしかないのだ。

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