つかの間の安堵
八.
目覚めは最悪である。大樹は意識を取り戻すと、割れるような頭痛に顔をしかめる。
もう、夜は明け、カーテンの隙間から日差しが入り込んでいた。
相変わらず、天気がいい。
大樹は二日酔いを自覚しながら、ポケットを探り、スマートフォンを取り出した。
時刻を確認すると、既に正午になろうという時間である。
酒を飲み過ぎた。昨日、何があったのか。
痛む頭は、大樹の記憶を蘇らせる。
酒井。
彼に酒を注がれ、それを一気に飲み干していく、自分。
――そして。
舌を伸ばし切り、絶命していた、どす黒い希美。彼女の死体が、ずぶずぶと切り裂かれ、母体と泣き別れていく。鼻を抉るような腐敗臭。はみ出た赤黒い腸。
そんな凄惨な光景がフラッシュバックし、胸の中に溜まっていたものが逆流するのを、大樹は抑えつけた。
トイレに駆け込み、便器の中を目掛けてぶちまけてしまう。
辛い。
嘔吐に伴って、涙が絞り出されるように目元から零れる。
永いこと吐き続け、胃を空っぽにすると、大樹は立ち上がって水を流した。そのまま洗面台で口をすすぎ、顔に冷水を浴びせる。
あの出来事は、現実だったのか、それとも悪い夢だったのか。
はっきりしない頭が、あの鮮明な光景すらも、現実のそれとは判別させなくしていた。酒のせいなのか、昨日の記憶があやふやなのだ。
大樹はグラスに水を注ぎ、粒状の胃薬と頭痛薬を同時に口に含むと、一気に水を飲み干す。
「ああ」くたびれた声を上げ、洋室の布団までふらふらと歩く。
しばらく横になっていると、次第に平静さを取り戻していった。
あんなことが、現実の訳がない。
よく考えるのだ。そう、自分に言い聞かせる。夢に決まっている。
この世界で、少なくとも大樹が知る限りの人生で、あんなことが行われていることなど、あり得ないのだ。
死体をばらばら? 住人が関与?
そんなもの、小説や映画、ドラマ。フィクションの世界に限った話だ。だいたい、もしそんな裏の世界の出来事があったとしても、こんな何の変哲のないアパートの一室で行われいる筈がない。
はは、と乾いた笑いが大樹の口から洩れた。
馬鹿馬鹿しい。そう一蹴した。
やがて、大樹は二日酔いの影響か、また眠りにつく。まどろみが訪れた頃には、心の内は穏やかなものだった。
***
目を覚ますと、大樹の具合はすっかりと良くなっていた。薬のおかげである。
スマートフォンの時計を確認すると、時刻は間もなく十四時になろうとしている。
大樹は自らの空腹に気が付いた。何か、腹に入れたかった。
大樹はシャワーを浴びると、着替えをし、近くのスーパーへと向かった。
***
昼は弁当で済ませるとして、夕食は久々に自炊でもしようか。
スーパーを歩いていると、そんなことを思い付いた。
鍋のような簡単なものなら、作る手間はそんなに掛からない。少々季節感はないが、残った分を翌日の為に取っておけるのは大きい。大樹は弁当と具材を買うと、レジに向かった。
支払いを済ませ、籠の中の食料をビニール袋に詰めていると、近くに村田理子と啓介がいることに気が付いた。
向こうも、ビニールに買ったものを詰めた後、大樹のことが目に入ったようである。顔が合うと、理子は笑顔で会釈した。
啓介が大樹に向かって、駆け寄ってくる。そのまま突進してくる啓介を、大樹は笑って両手で受け止めた。
警戒心のない子だな。大樹は微笑ましく思った。
啓介は大樹の顔を見上げると、「こんにちは」と挨拶してきた。
「こんにちは」と返事をし、大樹は啓介の頭を撫でる。
「夏元さん。こんにちは」気が付くと、理子は近くに立っていた。
「ああ、村田さん」大樹はお辞儀をした。「先日は、どうもありがとうございました」
「いえ、いいのよ」理子は上品に笑顔をみせた。
帰り道は同じだ。三人はスーパーを出ると、必然的に並んで帰ることになった。
理子は大樹のビニール袋に注目したようである。
「もしかして、自炊されるの?」
「はい。まあ、普段滅多にしないんですが、今日は簡単なものを作ろうかと」理子の質問に、大樹は少し照れながら答える。
「偉い」理子は朗らかな笑顔である。
啓介が大樹の右手首を掴んだ。
「おにいさんは、なにが好きなの?」そんなことを、啓介が訊く。
大樹は小学生だった頃に、父がよくこしらえてくれた、おにぎりを思い出す。父子家庭であった大樹の記憶に、母の味は存在しないが、父のおにぎりがあれば十分だった。
「ハンバーグかな」大樹はそう答えた。
『おにぎり』などと答えると、どうにも重たい空気を作りそうで嫌だったのだ。
「啓介君は、何が好きなの?」大樹は聞き返す。
「んとね」啓介は考えるように宙を仰ぐと、元気良く答えた。「ステーキとおすし!」
「良いね」大樹は笑い声を上げてしまう。
子供はてっきり、カレーライスが好きなものと思っていた。
ちょっと歩くと、大樹はふと、夢であると結論を出した筈の昨日のことが気になった。
理子に、探りを入れてみようか。
そう考えて、理子の顔を見る。だが、やはり、それは止めた方がいいだろう。大樹は反射的に開こうとする口を、きつく結んだ。
怖い。
恐怖心が、大樹を縛っている。
「もうすぐ、三時ですね」理子が言い出す。「丁度いいくらいかな」
「丁度いい?」
「村田は今日も仕事で、帰ってくる前に晩御飯の準備をしようと思うの」
薬剤師って、休日に仕事があるのか。
大樹は一喜が少し気の毒になった。そして、休日に父がいない啓介のことも。
それにしても、と大樹は疑問に思う。
一喜の帰りが何時になるかは、大樹に知る由もない。だが、まだ日も落ちていない時間だ。今から晩御飯を作ったら、少し早すぎやしないか。よほど凝ったものを作るのだろうか。
「ねえ。今度、何か作って差し上げましょうか」理子はそう大樹に提案した。「自炊するのって、結構大変でしょ?」
大樹は一気に恐縮してしまう。
「いえいえ、悪いですよ。そんなの」
「遠慮なさらないで」理子は優しく笑いかける。「今度、差し入れ持っていくわ。ね?」
「すいません」大樹は頭を掻いた。「ありがとうございます」
***
裏野ハイツに帰り着き、大樹は二階へと上がっていくが、どういう訳か、一階に住む筈の理子も一緒に二階へと上がる。
疑問に思いながら、大樹は自分の部屋の玄関を見る。
そこには、武山が立っていた。
「あら、お帰りなさい」武山は笑顔で言った。
大樹は足元が凍てついていくのを感じた。血の気が、顔面からどんどん引いていく。
瞬時に悟ってしまった。
昨日の出来事は、悪い夢などではなかった。
そして、これからまた始まるのだ。