お疲れの一杯は血の味
七.
あの後、大樹は気が付けば二〇三号室に帰って来ていた。
酒井に触られ、血の付いた上着を洗濯機に叩き込み、大樹はそのまま洋室の布団に逃げ込んだ。
毛布にくるまり、目に焼き付いた光景を、鼻孔に残る死臭を、耳にこびり付いた切断の音を、懸命に払拭しようとしていた。
消そうとすればする程、脳裏にそれらが甦る。希美の死に顔から、胴体から出てきた臓器まで。
ばらばらにされ、ゴミ袋に詰め込まれた、かつて希美だったもの。
また、嘔吐しそうになるが、もはや何も出てくる気配はなかった。
悪夢だ。
もう何度目かもわからないが、大樹は強く念じた。しかし、目は冴えきり、一向に夢から覚める兆候などみられない。
何だ。何なのだ、奴らは。
何故、あんなことをしているのだ。
何故、あんな連中が、この世界に存在しているのだ。
まとまらない頭の中で、大樹はようやく『通報』という単語に思い至る。
警察だ。今すぐ、警察に通報するべきだ。
だが。
『お前も! お前の連帯保証人も! 二〇二に住ませてやるからな!』
唐突に、大樹の頭の中で、酒井が暴力的に怒鳴りつけた。飛び散った唾が、大樹の顔面にかかった。
――殺される!
駄目だ、と大樹は布団の中で首を横に振った。連中は、人を殺すことに何の躊躇いもない狂人だ。そうでなければ、あんなに平然と、あるいは嬉々として、人間の身体をばらばらになど出来る筈がない。
自分自身が解体されていくシーンを思い浮かべ、大樹は毛布を強く握りしめた。
あるいは、その報復は連帯保証人である大樹の父にまで飛び火するかもしれないのだ。そんなこと、あってはならない。
だからといって、どうする?
これが裏野ハイツで常習的に行われているなら、いずれ大樹も手伝わされる羽目になる。
嫌だ。
出来る筈がない。あのような行為を。
死んだ人間を切断し、切り刻むなど。
しかし、逃げ出したり、警察に通報すれば、粛清される。
八方塞だ。絶望感が、大樹の心を侵し、蝕んでいく。
そもそも、此処は一体何なのかと大樹は考える。温厚で人の好い住人達の住む、安アパート。そんな化けの皮を被った、死体の処理場なのか。
答の出ない、不毛な思考。それは、徐々に大樹の脳に倒錯をもたらした。死体を見せられた時の嫌悪感とは、また違った気分の悪さを覚える。
狂ってしまう。そんな恐怖を、大樹は感じ始めた。得体の知れない不安感で、全てが押し潰されそうな感覚に陥っていく。
――ピンポン。
突然の音に、大樹の身体がびくりと跳ねる。
インターホン。誰かの来訪を告げるチャイムである。
ここの住人だ。そう、大樹は直観する。
出たくない。
――ピンポン。
またしても、インターホンは鳴らされた。
大樹は布団の中で丸まった。早く立ち去って欲しい。大樹の頭は、恐怖でどうにかなりそうだ。
――ピンポン。
三度目。来訪者は諦める様子がない。そこで、大樹はこのまま居留守を使い続けたら、何が起こるかを想像した。
武山が、笑顔で大樹に告げる。
『二〇二号室に、引っ越してもらうね』
酒井が喚き散らしながら、大樹を包丁でめった刺しにする。
大原は不気味なまでの静かさで、鉈をスイングし、大樹の腕をふっ飛ばす。
そこまで考え、大樹は来訪者に会うことにした。気力を失った身体に鞭を打ち、玄関へと急いで向かう。
四度目のチャイムが鳴らされたタイミングで、大樹は玄関の扉を開けた。
そこには、目を細め、好々爺めいた笑顔を浮かべる、酒井が立っていた。
「こんばんは」控え目な声で、酒井が言う。「さっきは、お疲れさまでした」
大樹の背筋に悪寒が走る。二〇二号室での凶暴さは、どこにいったのか。酒井はいつもの腰の低そうな中年男に戻っていた。
「夏元さん。具合、大丈夫ですか」酒井は心配そうに、問い掛ける。
大樹は上手く言葉を発することが出来ない。ただ、気が付けば、反射的にこくこくと頷いている自分がいた。
「そうですか。良かった」酒井はまるで、本気で大樹の具合を案じていたかのように、ほっと息を吐いてみせた。
何の用なのか、と大樹は思う。さっさと居なくなって欲しい。
酒井は右手に持っていたビニール袋を、胸の高さまで持ち上げ、顔に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「いやね、もし夏元さんが元気なら、どうですか」酒井は空いている左手で、グラスを持つジェスチャーをする。「『お疲れ』の一杯」
目の前の男の神経を疑い、大樹は眩暈に襲われた。
お断りに決まっている。
まともじゃない。完全にいかれてる。
いくら頭の中で酒井を罵倒したところで、そんな言葉では形容し切れない酒井の異常は、夕方の惨劇で嫌という程、教え込まれている。
「すみません。ちょっと今日は、疲れちゃったので」慎重に言葉を選び、大樹は断ろうとした。
「は?」細く垂れ下がった酒井の目と眉が、急に吊りあげられる。「おい。今、何つった?」
酒井がビニール袋を放り投げ、大樹に両手で掴みかかる。
「俺と酒が飲めねえってか? ナメてんのか、こら! ぶっ殺すぞ! なあ!」
怒号を上げ、酒井は右手を振りあげた。
――夏元さん?
名を呼ばれ、大樹は妄想から現実に引き戻される。我に返ると、酒井が不安そうに、大樹のことを見ていた。
駄目だ。断れない。
殺される。
大樹はぽつりと、「わかりました」と答えていた。
***
二〇三号室のリビング。小さなちゃぶ台で、大樹は酒井と向かい合っていた。
酒井は缶ビールをビニール袋から取り出し、「おごりですから」と大樹に手渡した。
大樹はそれを受け取り、酒井が自分の分のプルタブを開けたのを認めると、それに倣った。
正直、こんなものが喉を通るとは思えない。最低の酒になりそうだった。
「じゃあ、今日はお疲れ様」
そう言って、酒井は缶を大樹のそれに、ちょこんとぶつけた。左手の指を使い、缶の底を支えている。その謙虚さが、かえって酒井を不気味にさせる。
二重人格。大樹の脳裏に、そんな単語がよぎる。
酒井はビールを一気に煽る。大樹はちびりと口を付けただけだった。炭酸で舌がぴりつく。予想通り、いつもの爽快感などなく、ただビール特有のえぐみを味わうだけだった。
「今日は、びっくりしたでしょう?」酒井が薄く笑みを浮かべた。「わかっていても、最初は怖いもんです」
不思議ですね、と酒井。
『わかっていても』?
またである。酒井の発言の意味が解らない。もう何度目だろうか。こんなに話が伝わらないと感じるのは。
だが、そんな疑問を、もはや大樹はぶつける気になれない。とてもではないが、怖くて聞けないのだ。下手なことを言ってしまうと殺されるという恐怖が、大樹の口から言葉が出るのを妨げてしまう。
「私なんか、最初は失禁してしまいましたよ」はは、と酒井は笑った。
大樹は愛想笑いを作ろうとした。だが、どうしても引きつったそれになってしまうのを自覚する。酒井の冗談は、まるで笑えない。
「まあ、とにかく慣れですよ」そう言うと、酒井はビールをごくごく喉を鳴らしながら飲んでいく。
あくまで平静を装おうと、大樹もビールを飲んだ。不味い。思わず、顔をしかめそうになる。
「明日は実践してもらいますからね」
ぞっと肌が粟立つのを、大樹は感じた。硬直してしまう。唾を飲み込むと、ゴクリという音がはっきり聞こえた。
「大丈夫です」静かに、気楽な様子で、酒井は笑って励ます。「最初は皆、上手くいかないものです。場数を踏めば、楽しくなります」
全然、大丈夫ではない。大樹は酒井の顔を直視できなくなる。誤魔化すように、ビールを煽り、無理に胃袋に流し込んだ。
本気なのか。本気で自分に、あんな真似をさせるつもりなのだろうか。
どうしよう?
腹の底が、ごつごつとした石で満たされたように重たく、妙な異物感を感じる。じりじりとした焦燥感が、痛みとなって大樹を追いつめていた。
「そうそう、日本酒も持ってきたんですよ」酒井はビニール袋から酒瓶を取り出した。
大樹は重苦しい気分の中、しぶしぶと台所からグラスを二つ持ってくる。もはや、酒井に対しすっかり怯え切ってしまっている。彼の気分を損ねぬよう、努めることしか出来なかった。
「ささ、どうぞ」そう言って、酒井は大樹のグラスに酒を注ぐ。「グイッといって下さい。気持ちが楽になりますよ」
大樹は勧められるままに、酒を飲む。
笑みを湛えながら、大樹を見ている酒井が恐ろしい。こんな表情をして、内心では自分のことを試しているのではないか。そんな猜疑心が大樹の中で渦巻いていた。
大樹がグラスを空くと、間髪入れずに酒井はなみなみと酒を注ぐ。
大樹は心にもない礼を言い、また酒を飲んだ。
酒井自身も飲んでいるようだが、彼は凄いペースで大樹に酌をしている。有無を言わさず、大樹に酒を飲ませようとしてくる。
アルコールが急激に体中に巡り、大樹はだんだんと血の気を失っていくように、気分が悪くなっていった。
堪らない程大きい、精神的な疲弊のせいか。大樹は徐々に、現実感が夢散していくのを感じていた。
「飲んで、飲んで……」酒井はなにやら、しみじみと呟いている。「嫌なことは、忘れてしまいましょう」
大樹の視界がぐるぐると回っている。
酒井の最後の呟きが耳に入り切ったかどうか。そんなところで、大樹は意識を失った。