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初仕事

六.

 三連休の二日目となる土曜日の夕方、大樹は洋室で特にすることもなく、寝そべっていた。


 この日の朝は、歓迎会の酒による、二日酔いが大樹を苦しめたが、今はどうということもない。


 贅沢に時間を使い、のんびりするのが、大樹の休日の過ごし方だ。この日も例外ではなく、大樹はスマホアプリで遊んでいるうちに、日が暮れた。


 ひと段落ついた時、大樹はコンビニ弁当を買いに行こうと思い付く。

 のっそりと、敷布団から起き上がった。


 その時、大樹の部屋のインターホンが鳴った。

『武山です』と一昨日のように、声が響いた。


 何だろう? と大樹は首を傾げる。

 応答をし、大樹は急いで玄関へと向かった。


 扉を開けると、武山は笑顔でそこに立っていた。一昨日と全く同じ光景である。

「こんばんは」のんびりとした口調で、武山は言った。

「あ、昨日はどうもありがとうございました」大樹は笑顔で礼を言った。

「いいの、いいの」武山は優しく言う。「お仕事がんばってもらうため、だからね」


 仕事。


 大樹はその意味を未だに理解出来ていない。昨日の歓迎会での違和感。それが、再びぶり返す。

「はあ、ありがとうございます」自然と、気のない返事になってしまう大樹である。


「これから、お待ちかねの初仕事だよ」


 初仕事? 大樹は首を傾げる。


 だがすぐに、何となくだが武山の言うことに見当がついた。他の住人が、妙に親しげなことも、大樹に対してよろしく言ったことも、これで説明がつく。


 裏野ハイツの住人には、アパートに関する武山の仕事を手伝うという、しきたりのようなものがあるのだ。

 その可能性に至った時、大樹は拍子抜けしてしまう。それならそうと、早く言ってくれれば良かったのだ。これからお世話になる人だ。大樹も手伝いの一つや二つ、やぶさかではない。


「お手伝いですか」大樹は率直に尋ねる。

「そうそう」武山は嬉しそうに頷いた。「今から、お願いできる?」

「もちろん、大丈夫ですよ」大樹は廊下に身体を出した。

「ありがとね」武山がしみじみと礼を言った。


 武山は少し歩くと、二〇二号室の玄関前に立った。

「今日は、見学だけでいいからね」武山は大樹に顔を向けた。


 二〇二号室? 大樹は逡巡する。


 ここは、青野希美の部屋である。手伝いとは、希美に関係あることなのか。

 そう考えると、気楽に構えていた筈の大樹は、また脈拍を早くする。意外な展開に、心の準備が追い付かない。


 武山がインターホンも押さずに、勝手に二〇二号室の扉を開ける。そのまま、大樹を中に入るように促した。

 大樹は少し固い動きで、それに従う。


 そして、二〇二号室に足を踏み入れた瞬間、異様な空気が大樹を包んだ。


 ――腐臭。

 それも、痛烈に、鼻をつんざく悪臭だ。大樹の嗅覚がそれを認めると、一気に吐き気を催した。


 手を口に当て、咳込んでしまう。

 臭い。

 何の臭いなのか。早くここから立ち去りたい。そんなことを同時に考える。


「さ、奥に進んで」武山は大樹の背中を押し、強引に部屋の奥へと連れていく。

 生ゴミだろうか。手伝いとは、部屋の掃除?


 部屋の電灯は点いていない。窓から差し込む街灯の光だけが、二〇二号室のリビングを灯している。

 ()えがたい刺激を懸命に堪え、大樹は奥へと進んでいく。


「洋室の、中だよ」

 二〇三号室と同じ造りであるため、多少視界が悪くとも、大樹は洋室に続くドアの取っ手を掴むことが出来た。

 この先に、何があるのか。


 嫌な予感がする。


 大樹は、思い切って扉を開いた。


 中は薄暗い。リビングと違い、カーテンにより、外の灯りは完全に遮断されているようだった。


「おう、来たか」

 どすの利いた、男の声が聞こえた。凄みのあるその声に、大樹は僅かに縮こまる。


 突然、洋室の電灯が点けられた。暗がりに慣れた瞳を庇うように、大樹は目を絞る。

 ぼんやりと、部屋の様子が目に入る。


 立っている人物は、驚いたことに酒井だった。さっきの声は、酒井が出したのだろうか。

 そんなことは、ない筈だった。

 人を震え上がらせるような声と、腰の低い酒井のイメージが、著しく乖離(かいり)している。


 しかし、そんな疑問など、一瞬にして大樹の頭から吹き飛んだ。


 見てしまったのだ。

 倒れている。

 女性が、倒れている。

 それも、酷く醜悪な姿で。


「じゃんじゃじゃーん」酒井はおどけた声を上げた。「サプラーイズ」

 大樹の思考は、完全に停止してしまっている。

「彼女が、希美ちゃんだよ」背後の武山が、変わらぬ優しい口調で言った。


 大樹は目の前の光景を、受け入れることが出来なかった。


 それは、夏元大樹と青野希美との最悪の出逢いであり、大樹にとっては地獄の底無し沼に片足を突っ込んだ瞬間だった。



***



 『あ』だの、『う』だのしか、言葉が出て来なかった。


 目の前に死体がある。その圧倒的な現実は、大樹のちっぽけな脳では許容することが出来ない。取り消しを期待するが、目前の光景は何も変わらず、希美の死体が転がっている。


「どうだ! 生で見ると! 迫力が違うだろ! 迫力が!」酒井が大樹の肩をバンバン叩き、声を張り上げた。

 叩かれた衝撃で、自失していた大樹の腰はあっさりと崩れ、尻餅をついてしまう。

 そんな大樹を見て、武山と酒井が笑い声を上げた。


 どうなっている?


 そんな答えなど、求めていない。にも拘らず、大樹は同じ問いを、何度も何度も頭の中で木霊(こだま)させていた。


「希美ちゃんはね」武山の口調は変わらない。「ここの仕事を、もう手伝いたくないって言ってきたんだよ」

「そんな馬鹿野郎はな! 粛清(しゅくせい)だよ! 粛清(しゅくせい)!」反対に豹変した酒井が、唾を飛ばしながら希美の死体に向かって怒鳴り散らす。「もう二〇二号室に住んでもらうしか、ねえだろ!」


 意味が解らない。何を言っているのだ。

 大樹には、もはや別の世界の話をしているようにしか聞こえない。武山と酒井の、言っていることが本当に理解出来ない。


「手ぇ、ふん縛ってよ! 首にロープ掛けて、天井から吊るしてやったよ! ちゃんと足場は用意してやったぜ! そのあと、放ったらかしにしてやったけどな!」

「一週間くらい前かねえ」武山はのんびりと補足した。

「何日か、もったよな!」酒井は豪快に笑った。


 一週間前。大樹の思考が、ようやく現実を受け止め、回り始める。

 そうだ、川端の車から、この二〇二号室の希美をガラス戸越しに見かけたのは、丁度それくらい前のことだ。


 あの時、カーテンレースに遮られ、はっきりと希美の姿を見ることは出来なかった。

 つまり、実はあの時彼女は。


「あああああ」大樹は震えた声を上げた。


 足場にやっとの思いで立っていたのだ。首にロープを掛けられたまま。

 再び混乱に陥り、大樹は尻餅をついたまま、後ずさりをする。


 逃げなくては。この場から、一刻も早く。

 じりじりと、両手を使い後退している大樹の背中に、何かがぶつかる感触がする。


 誰かの脚だ。


 大樹は顔を上に向けた。


 一〇二号室の大原が、冷たい目で大樹を見下ろしている。


 大樹は驚きのあまり、そのまま飛び跳ね、床を転がる。這いつくばりながら大原から距離をとり、洋室の壁に背中をくっつける。


「お待たせ」大原は静かに言った。


「揃ってんな?」酒井が大原に確認する。

 大原は一つ頷いてみせると、「バスルームに置いてある」と呟いた。


「それじゃあ、バスルームに運んでちょうだい」武山は二人に指示を出す。

 酒井と大原は、それぞれ希美の両手と両足を持ち、洋室から運び出していく。


 武山は、ゆっくりと壁にへばりつく大樹の方を見た。

「ほら、いつまでも腰を抜かしてないで、二人の作業をしっかり見てね」

 変わらない。武山は、こんな異常な状況でも、何も変わらない。その表情は、ただ人の好い微笑を(たずさ)えている。


 大樹は悟った。まだ麻痺している筈の思考でも、その可能性に至ってしまう。

 武山にとって、このようなことは初めてではないのだ。それどころの騒ぎではない。慣れている。武山は当たり前のことをしているだけなのだ。


 ――殺される。


 大樹は確信した。この場で彼女達に反発すると、間違いなく殺される。

 大樹は凍り付いた脚を、無理矢理に動かし、起き上がった。


 早く。早く動かなければ、殺される。


 慌てて起き上がった大樹は、脚をもつれさせながら、酒井達を追いかける。立ち上がり、歩く。たったそれだけのことに、バランス感覚を研ぎ澄ましたのは、初めてのことだった。


 酒井と大原は、希美の死体をバスルームの洗い場に投げた。鈍い音を立てて、希美は転がる。


 そんな光景を、大樹は脱衣所から呆けたまま見ていた。


「しっかり見て、覚えるんだよ」隣に立つ武山が念を押す。


 酒井はバスルームに置かれていた青バケツの中から、包丁を取り出した。満足そうに頷いている。そんな酒井に(なら)い、大原も鉈を取り出した。


 解体だ。嫌でも、大樹は気が付いてしまう。

 これから、希美の死体が、ばらばらに切断されるのだ。


「さあ、ちゃちゃっと解体(バラ)しちゃってね」武山が二人に命じた。


「よし! 夏元! よおく見とけよ!」酒井が叫んだ。


 大原が鉈を振りかぶる。

 そのまま、希美の右手首に勢いよく下した。


 ゴズ。


 肉が斬れ、骨まで破壊される鈍い音。


 希美の右手首に、鉈が突き刺さっていた。血液が飛び散り、大原は返り血を浴びる。


「ちょっと加減しすぎだろ」酒井は大原に文句を垂れている。


 大原は無言のまま、もう一度、鉈を振り下ろした。

 今度こそ、希美の右手は腕を離れ、バスルームの床に転がった。

 その瞬間の、ブジュ、という嫌な音が大樹の耳にこびり付く。


 酒井は転がった右手を持ち上げ、大樹の方に掲げてみせた。

 手だ。切断された、本物の生の人間の手。根本となった箇所から、だらだらと血を流している手。


 途端に、大樹は異臭を意識してしまう。腐敗した肉体と、糞尿の臭いが交じった、まごうことのない死臭(ししゅう)

 その瞬間、大樹は(こら)えていたものを抑えきれず、その場で胃の内容物を撒き散らした。膝を着き、げえげえと消化された昼食を吐き出していく。

 嘔吐特有の酸っぱい臭いが鼻につき、大樹は涙を流すが、それでも死臭(ししゅう)は消えてくれない。


 大樹の背中に、優しい手のひらの感触が伝わった。そのまま、手のひらは大樹の背をさする。

「大丈夫?」武山のいたわるような声が聞こえる。「すぐに慣れるからね」

 ひとしきり吐き出し切った大樹は、ぜいぜいと息を切らす。


「ま、しょうがねえさ!」酒井のげらげらという笑いが聞こえてきた。


「落ち着いた?」あくまでも優しく、武山は大樹に問い掛ける。

 大樹はそれに答えられなかった。

「大丈夫ね?」武山はそれを肯定と受け取ったようである。「続けてちょうだい」


 ブスッ、と再び肉を絶つ音が聞こえた。


「ほら、ちゃんと見ないと、覚えられないよ」武山は大樹の頭を両手で持ち、希美の方を強引に向かせた。


 希美の右肩から先が、無くなっている。あった筈のそれは、大原が酒井に手渡している。


 悪夢だ。涙を流しながら、大樹は思う。


 希美が、あの女性が、あんなに胸ときめかせながら逢いたいと思ったひとが。


 目の前で、どんどん身体の部位を失っていく。


 鈍い音が、ひたすら繰り返し響く。その度に、彼女は小さくなっていく。長い脚が、一回、二回と鉈で切断され、短くなっていく。


 単調に鉈を振り下ろす大原の横で、酒井は膝立ちになり、切断された部位を更に細かく切り刻んでいた。手の指は全て切り離され、手のひらだけとなったそれは、もはや手とは呼べない。指は横に真っ二つにされ、本来のすらりとした長さが、今では半分になっている。


 もう随分と(なが)い時間、大樹はそれを見させられていた。


 ――もう許して。


 大樹は再び嘔吐した。今度は胃液のみが吐き出され、空っぽの胃がとても辛い。


「大丈夫?」また、武山は優しく言う。

 ひいひいと声を上げる大樹は、また頭を掴まれ、希美に顔を向けさせられる。


 彼女は、既に四肢を失い、胴体に首が繋がるだけのものに変わり果てていた。そんな希美と呼んでいいのかもわからないものの下腹部に、大原は躊躇(ちゅうちょ)なく鉈を振り下ろした。


 何度も何度も、大原は同じ個所に鉈を叩きつける。


 どろり、と希美の胴体に収まっていた内臓が姿を見せる。途中で、酒井が面白そうにそれを引っ張り出した。

 赤く長い管が、胴体からずるずると伸びていく。酒井は自慢げに大樹を見た。


「ほれ、夏元」嬉しそうな声で、酒井が言う。「こいつがホンモノの(はらわた)だ。こいつが」

 そのグロテスクな光景に、大樹の頭から血液が一気に引いていく。意識が白くなっていくのを、大樹は感じた。


 大樹はもう、何も考えられない。



***



 気が付けば、全てが終わっていた。


 もう希美は、この世に存在しない。

 強いて言うなら、ごみ袋の中の、数々の赤い肉塊や骨がそうだろうか。

 大樹はそんなことを、薄ぼんやりと考えていた。


 血(まみ)れの酒井は脱衣所の吐しゃ物を見て、顔をしかめる。


「おう、派手にやったな、おい!」酒井は真っ赤な手を構いもせず、大樹の肩を叩いた。「いいよ! 俺らが片付けとく!」


「今日はもう、上がっていいからね」武山は膝立ちのまま呆けている大樹に言った。

「お疲れさんだ!」


 終わった。解放、される。

 だが、そう頭で思うばかりで、大樹は身体を動かすことが出来ない。


「ほれ! 立て!」

 酒井は後ろから大樹を羽交い締めにし、無理矢理立ち上がらせた。


「お疲れ様」武山のゆとりのある声が聞こえる。


 帰らなくては。


 そう思うと、大樹の脚が動いた。そのまま脱衣所を出ようと、歩を進める。


 そんな大樹の肩が、突然無遠慮に掴まれた。大樹はゆっくりと振り返る。

「なあ。ねえとは思うが」酒井である。「もし、他所(よそ)の誰かにチクったら……」

 酒井の形相が、一気に変わった。


「お前も! お前の連帯保証人も! 二〇二に住ませてやるからな!」

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