破滅への歓迎(後篇)
この大きすぎるショックが、顔面に表れていないだろうか。
そんな心配など、大樹は一切しなかった。集まったメンツに対して、疑問をぶつけたくなる。
全員?
これで全員?
大原は椅子にのっそりと腰かけた。残りの一脚。あの女性のものと、大樹が信じていた最後の椅子だ。
その瞬間、大樹の期待が木端微塵に粉砕された。
「やっと全員そろったねえ」武山は嬉しそうに言った。
「すんません」テーブルの上に一升瓶を置き、大原は呟いた。
「あの」思わず、大樹は呟いていた。「一人、足りなくないですか」
そんな大樹の問いに、住人達は一瞬だけ不思議そうな顔をみせる。
「他に女性が、住んでる気がしたんですけど」ショックで半ば自失しながら、大樹は尋ねる。
放たれたその言葉に、場が凍り付いた。
しかし、そんな空気を理子が氷解させる。
「もしかして、希美ちゃんのことじゃないかしら?」
ああ、と酒井が合点のいったように頷いた。
「もしかして、大学生くらいの子のこと?」武山が笑顔のまま確認する。
良かった。皆の反応に、大樹は安堵する。
存在した。
あの女性は存在した。
「いえ、よく知らないんですけど……」
「多分、それは青野希美さんだねえ」武山は顎に手を当てる。「今は二〇二号室に住んでるんだよ」
「青野、希美さん……」
大学生ということは、大樹より幾らか歳が下だろう。どんな女性なのか、もっと知りたくなる。
「けど、どうして青野さんのことを、ご存じなんですか」酒井が尋ねた。
そこで、大樹は自分の暴走をようやく自覚した。まさか、追っかけてきたとは、口が裂けても言えなかった。
「武山さんに初めて会う、ちょっと前の話なんですけど」大樹は自然体を装い、何とか言い訳を捻り出す。「このアパートの近くをうろついていた時、彼女が入っていくのを見かけたんですよ」
苦しいだろうか。自分で言っていて、大分怪しい。まさか、ストーカーだとこの場で思い至れる者はいないだろうが、今の説明で納得して貰えただろうか。大樹は内心、冷や汗ものである。
「ああ、事前に下見してたんだね」武山の言葉からは、特別訝しんでいる様子はない。
「ええ、実はそうなんです」助け舟と言わんばかりに、大樹は笑顔で乗っかった。
大原が立ち上がり、一升瓶と空のグラスを持ち、大樹の近くへと寄って来た。
「大吟醸」大原は愛想無く呟いた。「飲めるなら、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」大樹はコップを受け取り、大原から酌をしてもらう。
随分と不愛想な大原であるが、根は好人物なのかもしれないと大樹は思う。
「それにしても、希美ちゃんね」理子がビールを片手に言った。「もしかして、気になってる、とか?」
理子の指摘に、大樹は口にした大吟醸を吹き出しそうになる。図星だ。心臓まで出てきそうになるのを、必死で堪えた。
周りは何も言わず、意味深な視線を大樹に集中させるばかりだ。
大樹は顔が熱くなっていくのを感じた。これは、酒のせいではない。
皆の無言の尋問に耐えきれず、大樹は観念した。
「……少しだけ」
そう大樹が認めると、住人達は爆笑した。尤も、大原だけは笑った様子はないが。
恥を忍ぶように、大樹は大吟醸に再び口をつけた。
***
大分、酒が進んだ。腕時計を確認すると、もう二十時半になる。
「啓介君は、将来何になりたいの?」大樹は手持ち無沙汰そうにしている啓介に問い掛けた。
「動物園のひと!」そう、啓介は元気よく言った。
これは、微笑ましい夢ではないか。そう、大樹は思う。
「動物が好きなの?」
「うん」啓介が間髪入れず答える。「あのね、この間、学校で飼ってた、にわとり食べたの」
突然の啓介の発言が理解できず、大樹は固まってしまう。
もしかして、命の授業のことを言っているのだろうか。飼っている豚を食べる授業が存在することを、大樹はどこかで聞いたことがある。
「昨日ね、ハムスター川に流した」
驚愕の発言をする啓介に、大樹は耳を疑った。
ハムスターを、川に流した?
「こら、啓介」一喜が啓介を窘める。「こんな場で、滅多なことを言うんじゃない」
「酔っぱらっちゃったのかしら?」理子が啓介を抱き寄せ、彼の頬に自分の左手を当てた。
大樹は寒気を覚えた。
大樹とて、小さい頃には、アリを虐め殺したりした。だが、小動物には流石に手を出していない。
「はは。じきに慣れますよ」酒井は小さく笑い飛ばした。
『慣れる』とは、啓介の酒気帯びのことを言っているのだろうか。それとも、啓介の過激な発言に、大樹が慣れていくということだろうか。
正直、大樹は啓介のことを異常に思ってしまう。それに慣れるなど、あり得ることではない。
その瞬間からだ。大樹は妙な違和感をはっきりと認識し始める。
何か、おかしくないだろうか。
自分と、この裏野ハイツの住人達に、何か認識の齟齬、決定的な食い違いのようなものが存在するように、思えてならない。
大樹が硬直していると、大原が突然立ち上がった。そのまま、何も言わずに外に出ていってしまう。
「きっと、煙草だね」武山は言った。
「我々は、そろそろ失礼しようか」一喜が理子に言った。
「そうね」頷き、同意する理子。
武山が壁掛け時計を確認した。
「もう、こんな時間」武山は柔和に提案する。「じゃあ、名残惜しいけど、お開きにする?」
未だに、違和感を払拭しきれず、「そうですね」と気のない返事をする大樹。
そうして、裏野ハイツの夏元大樹歓迎会は終了となった。
「夏元さん」締めに、武山が言う。「改めて、これからよろしくお願いします」
***
二〇三号室に戻った大樹は、洋室の布団の上に横になった。酒が回り、倦怠感が身体を支配する。
酒でぐるりと回転する頭で、大樹は青野希美のことを考えていた。どんな女性なのか、もっと聞いておけば良かったと後悔する。
何故彼女が歓迎会に来てくれなかったのか、大樹にはわからない。
だが、間違いなく彼女は住んでいるのだ。大樹の部屋の、隣に。
『今は二〇二号室に住んでるんだよ』
武山の言葉が甦る。
そこで、大樹は気が付いた。
『今は』とは、どういう意味だろう?
***
目の前の惨状に、理解が及ばない。
どうして、こんなことになったのか。
翌日、大樹は思いもよらぬ形で、青野希美との出逢いを果たした。
二〇二号室で、大樹は呼吸を荒くし、希美の姿を見る。正直、直視に堪えなかった。
希美はぐったりと洋室に寝そべっている。
下着姿で露出させているその肌は、所々が異常に黒い。醜悪な顔が特に目立つ。舌はだらしなく垂れ下がり、首には大きな縄の痕が残されている。
間違いなく、彼女は事切れていた。