破滅への歓迎(前篇)
五.
三連休を前にした、木曜日。裏野ハイツでの三日目の夜のことだった。
帰宅後、未だインターネットに繋がらないその部屋のリビングで、大樹は寝そべりながらスマホアプリのゲームに興じていた。
早くネットサーフィンをしたかったが、回線が使えるようになるまで、あと数日は辛抱しなければならない。スマートフォンのデザリング機能では、通信量の関係で、大樹の好きな動画配信サイトは無暗に閲覧できないのだ。
そろそろ、夕食をとりに外へ出ようかと考えつつ、手癖でゲーム画面をいじっていると、大樹の部屋のインターホンが鳴った。
武山です。そう、外から声がする。
突然の大家の来訪に、大樹はゲームを中断し、慌てて玄関へと向かった。
はい、と外の武山に返事をしつつ、扉を開けると、老婆はいつもの温厚な表情で立っていた。
「こんばんは」武山はのんびりと挨拶してくる。「ごめんなさいね、突然」
「いえ、どうかしましたか」
苦情だろうか。大樹は若干不安を覚えつつ、武山に要件を尋ねる。
「あのね。明日の夜、予定ある?」にこにこしながら、武山が尋ねた。
一体、何の用事だろう?
そう疑問に思う大樹だが、別に予定があるわけではない。
そのことを正直に伝えると、武山は「よかった」と零す。
「明日の夜、皆で夏元さんの歓迎会をしようと思うのだけど、どう?」もちろん、お金は取らないよ、と続ける武山。
急な提案がぶつけられ、大樹を驚かせた。
普通、住人の歓迎会などするものだろうか。ここのような小さいアパートでは、別に珍しくないのだろうか。そんな疑問が頭の中でふわふわと浮上している。大樹は逡巡してしまう。
そういった付き合いは、大樹は嫌いではないが、他の住人はどうなのだろう。
「え、悪いですよ」自分の事より、他の人の都合が気になり、とりあえず探るように遠慮してみせる。
「いえね、もう皆には、『夏元さんさえ良ければ~』って、OK貰ってるんだよ」武山は言った。
住人達の帰属意識に驚愕してしまう。
別段、ありがた迷惑を感じるわけではないが、そのような誘われ方をすると、いよいよ大樹に断る理由がなくなった。
一〇二号室の住人の不機嫌な表情が、ふいに浮かんだ。『皆』というのは、彼も含まれているのだろうか。
そこで、大樹は思い至った。『皆』ということは、あの女性も参加するということだ。
「あ、ありがとうございます」大樹は思わず顔をほころばせた。
思い掛けず出会いの場を設けてくれた目前の老婆に、大樹は感謝した。武山には、さぞ歓迎に感極まった表情をしているように思われただろう。
「喜んでくれて、よかった、よかった」そう武山は笑った。
翌日の夜、十九時に二〇一号室に集合と言い残して、彼女は去っていく。
大樹は扉を閉めた後、ついにあの女性に逢える現実に、心臓を揺さぶらせながら握りこぶしを作っていた。
***
「こんなもんだろ」洗面台の鏡に映る自分の姿をチェックし、大樹は呟いた。
金曜日の夜、大樹は新調した服を着て、歓迎会の時間を待っていた。このように念入りに見繕いしたのは、無論、あの女性との対面に備えてのことである。
腕時計を確認すると、時刻は十八時半を回っていた。そろそろ武山の部屋を訪れても、いい時間ではないかと思う。もてなされるばかりでも悪いので、何か手伝えることがあれば、と考えたのだ。
大樹はリビングのちゃぶ台から鍵と財布を持ち、二〇三号室の部屋を出る。
廊下で戸締りを確認すると、ビニール袋を右手にぶら下げた細身な男が、階段を上ってくるのが見えた。
男はスクエア型の黒縁眼鏡を掛けていた。七三に分けの髪型は、几帳面さを讃えた雰囲気を醸し出す。
大樹と面識こそないものの、彼が誰であるか、おおよその見当はすぐにつく。
大樹と目が合うと、男は頭を下げてから話しかけてくる。
「もしかして、夏元さんですか」
夫婦でそっくりな言い方が、大樹を微笑ませてくれた。
「はい。初めまして」大樹は一礼する。「二〇三号室の、夏元と申します」
「村田一喜です」男は笑顔をみせる。「初めまして」
彼は一〇三号室に住む、村田一家の主人でしかあり得なかった。このアパートで大樹と面識がないのは、村田の主人と子供、そしてあの女性しかいないのだから。
「今日は、どうもありがとうございます」大樹は一喜に礼を述べる。二〇一号室の方向に身体を向け、一喜を促した。
「いえいえ」と言い、一喜は二〇一号室に歩み出す。「このアパートでは、恒例らしいですから」
短い廊下の端にある二〇一号室に、あっという間に到着する。一喜は左手でインターホンを鳴らした。
すぐに武山が顔を出し、大樹達を迎え入れた。
***
武山の部屋のダイニングテーブルの椅子は、どこからか出してきたのか、七脚に増えていた。
十九時になった際、座っていたのは六人だ。大樹、武山、一〇一号室の酒井、そして村田夫妻とその息子である。
「大原さん、遅れてくるらしいから、始めちゃいましょうね」武山が乾杯の音頭をとった。
あの女性の姿はなく、大樹は心中、酷く落胆してしまう。
『大原さん』というのは、あの女性のことだろう。一〇二号室の不愛想な男の名は聴かなかったが、彼がこのような場に出てくるとは考えづらかった。
ならば、もうじきに逢える。そう心に言い聞かせ、大樹は歓迎会を楽しむことにした。
隣に座る一〇一号室の酒井にビールを注がれながら、大樹はテーブルに並ぶ久々の手料理に、舌鼓を打つ。武山と理子が、大樹の為に作ってくれたものだった。
「夏元さんは、会社に勤めてらっしゃるんですか」酒井が尋ねる。
「はい。まだ二年目ですけど」
「お仕事はどうですか」
「いやあ、まだまだ慣れないことが多くて」ビールを飲みながら、大樹は恐縮してみせる。
「まあ、張り合いがあった方が、仕事って楽しいもんです」酒井はにこやかに言う。「私なんて事務職ですけど、もう変に手馴れちゃって、つまんないもんですよ」
酒井の歳となると、大樹の直属の上司より、少し上だろうと思う。一見、弱腰な印象を受ける酒井であるが、職場では結構な立場についているのだろうか。逆に捉えると、大樹も自分の上司があまり怖くなくなる。
「村田さんのご主人は、薬剤師をされているんだよ」そう、武山は笑顔で言った。
「そうなんですか」感心する大樹である。
一喜は少し照れた様子でビールを飲んだ。
業界に無知な大樹の勝手なイメージだが、薬剤師であれば、結構な給料を貰っているのではないかと思う。理子のように綺麗な奥さんを貰ったり、一喜のことが羨ましくなった。
そこで、大樹はふと疑問に思う。
そうであるなら、何故村田のような一家が、このようなところに住んでいるのだろうか。言い方は悪いが、この裏野ハイツは三人で住むには、手狭過ぎやしないだろうか。『ハイツ』などと飾りの良い言葉で誤魔化しているが、実態は安アパートに過ぎないのに。
唐揚げをかじりながら、そんなことを思っていると、大樹の左に少年がやって来た。村田の息子である。
「息子の啓介です」一喜がそう紹介する。
「村田啓介です」少年は大樹の顔を見上げ、稚い笑顔で自己紹介した。
大樹の見立てでは、まだ十にも満たない少年である。理子の歳のころを推察すれば、当然のことではあるが。
「初めまして。夏元大樹です」大樹は啓介に向き直り、頭を下げた。
啓介は中世的な顔立ちをしている。耳が隠れるまで伸びた髪が、余計に彼の性別を判らなくさせていた。大樹が彼を男の子であると判断できたのは、彼が着ていたヒーローものの柄シャツからである。
「おにいさんは、なにしてるひと?」大きい瞳を大樹に向けて、啓介は訊いた。
大樹は笑顔で自分のスマートフォンを取り出した。それを啓介の前に掲げてみせて、「携帯電話を作っているんだよ」と伝える。
「エンジニア?」と啓介。
「すごいね」大樹は正直面食らう。「エンジニアがわかるんだ」
テーブルが、一同の笑い声に囲まれた。
「まあ、何であれ」と酒井が笑顔で言う。「ここでちゃんと仕事をしていれば、生活の心配は要らないですよ」
意味が解らず目を瞬かせる大樹だが、「仲良く協力してやっていきましょう」と酒井は空になった大樹のグラスに、ビールを注いだ。
流石に今の発言に気になり、意図を聞き出そうと口を開きかけた大樹だが、鳴り響いたインターホンの音に妨げられる。
「ああ、大原さん来たね」武山が立ち上がった。
大樹の心臓が勢いよく跳ねる。
ついに来た。あの女性だ。
武山が速足で玄関に向かい、大原を迎えに行く。
どうしよう。思わず立ち上がって迎えそうになる大樹だが、それは少し不自然かと思い直した。
「いらっしゃい」玄関から、武山の声が聞こえる。
閉められる扉の音。
部屋に訪れた大原の姿を認めた時、大樹は目を見開き、硬直した。
「おまたせ」
一〇二号室に住む強面の男が、ぼそりと呟いた。