住人達
四.
武山に必要書類を提出した翌日、大樹は振替休日を利用し、レンタカーで引っ越し作業を行った。とはいっても、大樹はもともと私物が極端に少なく、生活の必需品はノートPCと、衣類くらいのものだった。持ち込んだ家具は、小さいちゃぶ台と、マガジンラックのみだ。他に必要なものは、おいおい実家から運んでくるつもりである。
この日、大樹は駅前で白物家電やカーペット、日用品の購入に費やした。
夕方、ひと心地つき、洋室で大の字に寝そべった大樹は、もう一つ仕事があることに気が付いた。
隣人への挨拶廻りだ。
時刻はまだ十六時半で、平日のこの時間帯では、住人は皆外出しているだろう。
もう少し遅い時間にするか。
大樹はバックから、父が選んだ粗品を取り出した。
そこで、大樹はあの女性のことを思い出す。つい先日、このアパートの二階の一室で見かけた、あの女性だ。カーテンレースの影で、そこまではっきりと見えたわけではない。だが、若く美しいのだけはわかった。
挨拶の際に、逢えるはずだ。
裏野ハイツは一階につき三部屋しかなく、二〇一号室には武山、二〇三号室には大樹が住んでいる。消去法で、あの女性は二〇二号室の住人だということになる。彼女を見た時も、真ん中の部屋だったのは忘れていない。
あの女性が、隣に住んでいる。
大樹は胸が高鳴っていくのを感じた。
挨拶の際、何と言葉を交わそう。何を喋ればいいだろうか。
取り出した粗品を、じっと見つめながら、大樹は暫く妄想に耽っていた。
***
時刻は十八時になろうという頃。
大樹は最初に武山に挨拶をしたのち、一階に降りた。
早く彼女に逢いたかったが、緊張しいの大樹には、いきなりあの女性に挨拶する勇気がある筈もない。慣らしに、一階の住人から先に挨拶をすることにしたのだ。
大樹は一〇一号室のインターホンをプッシュした。
はい、と室内からくぐもった声が聞こえる。
ややあって、扉が開かれると、中年の男が顔を出した。
「すいません。私、今日から二〇三号室に引っ越してきた、夏元です」大樹は笑顔を作った。
「ああ、どうも。こんばんは」男は頭を下げる。「私、酒井と申します。武山さんから伺ってますよ」
五十代といったところだろうか。酒井と名乗った男は、白髪交じりの頭髪に、小さめの体躯をしている。
「これ、つまらないものですが」言いながら、大樹は粗品を手提げ袋から取り出した。「よろしければ、どうぞ」
「ああ、これはご丁寧に、すいません」酒井はぺこぺこと二、三度頭を下げると、差し出された粗品を受け取った。
随分と、腰の低い人だ。と大樹は思う。
酒井の細く垂れ下がった目元は、どこか弱々しさをみせ、丁寧な言葉遣いと態度も相まって、謙虚過ぎる程の印象を与える。
「これから、よろしくお願いします」大樹は丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、色々とよろしくお願いします」酒井は何度目になるかわからないお辞儀で応える。
『色々と』。
その文句が、大樹にはやけに気になった。
酒井はもう一度お辞儀をすると、それでは、と言い残して扉を引いた。
閉じられていく扉。
その一瞬、大樹の耳が、ぴくりと微かに動いた。
閉ざされた扉を前に、大樹は首を捻る。
他に誰か居るのだろうか。
扉が閉められていく、ごく僅かの暇。大樹は人の声のようなものを、聞き咎めていた。
***
大樹は続いて一〇二号室のインターホンを鳴らした。
三秒、四秒と待つが、何の応答もない。留守かと思いながら、もう一度だけインターホンを指で押す。
暫く待つと、扉越しに人が近づく気配を感じた。
ガチャン、と扉が開かれる。出てきたのは、強面の男だった。
「あの」男の人相に、大樹は委縮してしまう。
男は何も言わず、大樹を値踏みするように見つめている。
短く刈った黒髪と、口元から顎にかけて生やされた髭。細い目は酒井のそれとは程遠く、狐のように吊り上がり、眉と極端に近い。迫力のある彫りの深い顔立ちは、不機嫌そうに僅かに歪められていた。
「私、二〇三に引っ越してきました、夏元です」やっとの思いで、大樹は自己紹介を絞り出した。
男は僅かに顎を縦に動かした。どうやら、会釈をしたようである。
「これ、つまらないものですが、どうぞ」大樹は粗品を差し出した。
男は左手でそれを受け取ると、「どうも」とだけ言い、扉を閉めた。
大樹は暫く硬直していたが、やがてほっと安堵の息を吐く。
恐ろしい人だった。
***
次は一〇三号室だった。大樹は出てくる人物が、せめて殺気立っていないよう祈りつつ、インターホンを鳴らした。
『はい』扉越しに女性の声が響いた。
シリンダー錠とチェーンが外される音の後、扉が開く。
艶やかな黒髪を長く伸ばした、女性が顔を出した。品のある、美しいひとだった。
だが、この女性ではない。大樹があの日、目が逢ったのは。
「もしかして、夏元さんですか」女性はおっとりとした口調で尋ねた。
名前を当てられ、大樹は面食らいながら、大樹は返事をする。
「はい。二〇三号室に引っ越してきた、夏元です」
「やっぱり」女性は魅力的に微笑んでみせる。「武山さんから伺っております」
そういえば、一〇一号室の酒井も同じことを言っていた。風通しが良いというべきか。裏野ハイツは随分とアットホームなようである。
「一〇三号室の村田理子と申します」そう言って、女性は丁寧に頭を下げた。「主人と息子、三人で住んでおります」
「ああ、ご家族で」大樹は相槌を打つ。
「あいにく、村田は仕事中でして」申し訳なさそうに、理子は言った。
「いえ、また改めてご挨拶いたします」大樹は逆に恐縮し、一礼した。「つまらないものですが、よろしければ、どうぞ」
「ありがとうございます」理子は再び、頭を下げた。「これから、お世話になります」
「こちらこそ、よろしくお願いします。それでは、また」
戸が閉められた後、大樹は一〇二号室の時とは別の意味で、ため息を吐いた。
さっきの村田理子だが、かなり若くみえた。妙齢というやつだろうか。下手をすると、今年で二十四になった大樹と、たいして変わらないかもしれない。
別に普通か、と思い直す。大樹の周りに、既に結婚している友達はいるし、この年齢になると別段珍しいことでもないのだろう。
結婚か。
そんな年になったことに、軽くショックを覚えながらも、頭に浮かぶのは二階に住んでいるであろう、あの女性の影だった。
***
二階に上がり、二〇二号室の前に立つ。
大樹は咳払いを一つして、シャツの襟もとをチェックする。
心拍数がかなり上がっている。
いささか以上の緊張を覚えながら、いよいよ大樹は二〇二号室のインターホンに、右手の人差し指を当てた。
もう一度息を吐くと、大樹は一気にプッシュする。
ピンポン、と室内で響くチャイム。
ついに、あの女性に逢える。大樹は鳴りっぱなしの自分の鼓動を聴きながら、その瞬間を待つ。
ああ、早く来ないかな。
胸から何かが溢れ出そうになる錯覚を抱き、大樹は一瞬一瞬を永く思った。
だが、その瞬間はいつまで経っても訪れない。
――留守か。
大樹は拍子が抜けるあまり、首をがっくり落としてしまう。
念のため、もう一度インターホンを押すが、あの女性は一向に出てくる気配はない。完全に、肩透かしを喰らってしまった。
大樹はここ数か月で、一番のため息を漏らした。プライベートに限定すれば、こんなため息が出るのは、人生で初めてかもしれない。そこには、過度な期待を外された落胆と、一抹の安堵が込められていた。