裏野ハイツ
二.
流石に翌日は、大樹も休みだ。
日曜日の昼下がり。最近の梅雨は、雨を降らせる方法を知らないのか。七月もまだ半ばだというのに、雲一つない晴れ模様。 その下で、大樹は昨日見かけたアパートに、徒歩で向かっていた。
アパートの二階の一室から、ある女性と目が逢ったことを忘れもしない。大樹の目的は、勿論その女性だった。
昨日、川端がそのアパートについて調べてくれた。残念ながら、川端が務める仲介業者が取り扱っている物件で、該当のアパートは存在しないという。だが、川端は妙にそのアパートに執着する大樹に対し、親切心を施したのか、住所と名前を調べてくれた。
アパートの名は『裏野ハイツ』。
スマートフォンの地図機能には登録されておらず、仕方なく教えてもらった住所を入力し、ナビ機能を利用している。
少し心許ないが、大樹は方向感覚が良く、例のアパートの外観もはっきりと記憶していた。
『間もなく、目的地に到着します』
そう通知されたところで、ナビ機能を終了させる。
十数メートル目前に、一軒のアパートが建っていた。時間帯のせいだろうか、そのアパートは昨日に見た時のそれと、大分雰囲気が違う。しかし、外見は間違いなく記憶のものと一致する。大樹はここだと、はっきり確信した。
二階を見上げると、ガラス戸が三つ並んでいる。彼女を見たのは、真ん中のガラス戸だ。あの時の情景が忘れられない。
まるで、ストーカーのようだな。そう大樹は思った。
自分のような男が、自覚のないまま、身勝手に女性を追い掛けるストーカーと化す。それだけのテーマで、ホラー作品が一本出来上がりそうではないか。などと、馬鹿げたことを考える。
――それにしても。
こうして明るい陽の下で改めて見ると、外見はなかなか綺麗な建物である。一つの階に三部屋ある様子で、二階建てであるから、計六室の小さいアパートではあるが。
新築なのだろうか、リフォームしたのだろうか。そんなことを考えながら、大樹は玄関に面した道に周り込んだ。
敷地はコンクリートの塀で囲われており、入り口のすぐ横には、確かに『裏野ハイツ』と年季の入った表札が飾られている。
大樹はこれから、どうしたものか考え込んだ。そもそも、自分はここに何をしに来たのだろうか。
冷静に考えてみれば、あの女性と運命的な再開を果たすなどという、まるで公算のない期待ばかりを抱き、ここまで来た。
馬鹿丸出しだ。そう自覚しつつ、大樹は未だに、今にも彼女がアパートから出てくるのではないかという妄想を捨てきれずにいる。
耽っている大樹だったが、やがて違和感に気が付いた。
背中にすうすうと、風に当てられたような寒気を感じる。
周囲を見ると、アパートの向かいに位置する公園で、男がベンチに腰掛けている。
大樹が振り向き切る前に、男はすぐに手元のスマートフォンに視線を落とした。しかし、どうやら、ずっと彼に視られていたようだ。
まるで、自分が不審者と思われたようで、少々ばつが悪くなる。
しかしながら、鋭い目をした男だった。顔つきから伺える年のころにしては、随分と引き締まった体躯の中高年である。身なりは、普通のおっさんなのだが。
などと、他人の観察をしている場合ではない、と大樹は首を振った。このままでは、本当に不審者扱いをされかねない。
そうはいっても、これからどうすればいいのだろうか。あの女性が出てくるまで、ないし戻ってくるまで、アパートの玄関を張っているか。
それこそ本物のストーカーそのものであるが、このまま手ぶらで帰ってしまうのでは、来た甲斐がないというものだ。
大樹は頭を掻いた。自分は大馬鹿である。
「どうかされましたの?」
唐突に聞こえた言葉が、自分に向けられたものであると認識した瞬間、心臓が飛び跳ねそうになる大樹である。
声の方を向くと、小柄な老婆が心配そうな顔つきで大樹を見ている。
「あ、いえ、大丈夫です」大樹は反射的にそう答えた。
「そう? ごめんなさいね」そう言い残し、老婆はアパートの敷地へと入っていく。
ぼんやりと見送りそうになる大樹だが、これは好機であると思い立つ。迷っている余地など皆無だ。
「すいません!」大樹は老婆を呼び止めた。
老婆が振り返った。不審に思われているだろう、と緊張する大樹をよそに、その表情は柔和で余裕がある。
「すいません」もう一度、大樹は断りを入れ、言った。「あの、こちらの大家さんと連絡を取りたいんですが、どうすればいいですか?」
老婆は一瞬だけ思索したように両眉を上げたが、すぐにくしゃりと笑ってみせた。
「なんだ、そうだったの?」そう老婆は愛橋一杯に言った。
「わたしが、大家です」
「え?」思ってもみない答えに、大樹は不細工な反応をしてしまう。
「このアパートの大家でしょう? わたしがそうですよ」老婆は繰り返す。
「あ、そうなんですか」大樹はなんとか笑顔を作った。
笑顔のまま続きを促す老婆に対し、大樹は何をどう言ったものか、思案してしまう。まさか、あの女性のことを聞き出すわけにはいくまい。
こうなってしまっては、もう流れに身を任せるしかない。あの女性に近づける、せっかくの好機ではないか。破れかぶれ、腹を決めていいではないか。
「実は……」一歩踏み出せ。そう自分に言い聞かせ、何とか言葉を捻りだす。「このアパートに住みたいんですけど……」
言ってしまった。非常識な言葉。
絶対不審がられている。絶対おかしい奴だと思われている。絶対困らせているに違いない。
津波のように不毛な後悔が押し寄せるのを、大樹は何とか堪え塞き止める。心臓をバクバクと鳴らしながら、老婆の返事を待った。
「入居希望だね?」
あっさりと、さも当然のように、老婆は言った。
「……はい」大樹は返事をする。が、こともなげに言う老婆が信じられず、またしても不細工に聞き返した。「はい?」
「じゃあ、ちょっと上でお話しましょうね」
老婆は二階を指さし、入り口に向かい歩き出した。
大樹は自分に掛けられた言葉が、未だに信じられない。
断られると思っていた。ばっさりとした拒絶。良くても、やんわりと。悪ければ、罵倒されることすら覚悟した。
にも拘らず、まるで知っていたかのような返事をした老婆の背を、大樹は呆然としながらついていく。
階段を上りながら、大樹はようやく状況を受け入れ始めた。ふつふつと、コンロの上の薬缶のように、熱を帯びていく胸。
それは、喜びだった。あの女性に、一気に近づく喜びだ。
自分の運命が大きく変わる瞬間を、大樹は生まれて初めて予感する。心の中で、ガッツポーズをとった。
三.
大樹と老婆は、互いに自己紹介をかわした。彼女は武山晴恵と名乗った。もう何十年も裏野ハイツの大家をやっているとのことだった。
武山の部屋だという二〇一号室は、アパートの印象とは大分異なり、綺麗なものだった。
武山はリビングのど真ん中に鎮座するダイニングテーブルに、大樹を促した。大樹が従い、四脚ある椅子の中から適当に一つ選んで座ると、武山は麦茶を二人分用意した。
それにしても、目の前の老婆は一人暮らしにみえる。なのに、椅子が四脚もあるということは、時々家族が来るのだろうか。
疑問に思う大樹である。
「私はひとりなんだけどね」と見透かしたように武山。「けっこう、ここに住んでる人達が遊びに来たりするからね」
「へえ、そうなんですか」
武山はおそらく、齢七十程といったところだが、少し上の歳である大樹の祖母のような嫌味が感じられない。表情も愛嬌があり、老婆心が滲み出ている。ここの住人がどんな人物達か、大樹に知る由もないが、少なくとも武山は多大な信頼を得ているのだろう。
「ええっと、それじゃあ、お部屋について通り一遍説明しますね」武山は眼鏡を掛けると、のんびりとした口調で語り始めた。
裏野ハイツは二階建て、一階三部屋の計六部屋の小さなアパートで、築年数は三十年だという。
現在、空き部屋は二〇三号室のみであり、大樹はそこに入ることになる。二〇三号室も三年前にリフォームしており、武山の部屋同様に新築同然、ぴかぴかだそうである。
なにより、ワンLDKにして、家賃が五万もしないという好条件に、大樹は感動した。
「お部屋の条件は、これでいいんでしょ?」当然だというように確認する武山に、大樹は興奮気味に頷いた。
武山はリビングの隅にある本棚から、クリアファイルを取り出してくる。
「ええっと、あとは事務的な手続きなんだけど、記入してもらうプリントが、これと、これと、これ」
言いながら、大樹の前に武山が契約書類を並べる。契約内容の同意書や、反社会的勢力に関する同意書、連帯保証人承諾書などである。
「あとは、身分証明証でしょ、住民票でしょ、源泉徴収と、あと印鑑ね。必要なもの、ここに書いてあるから」
用意できる? と武山が大樹に尋ねる。
「はい。すぐ準備できます」流れるように話が進んでいくが、ここまで勢いで来た大樹は今更迷いようがなかった。
「こちらの準備は整ってるから、いつ越してきても大丈夫」武山はにっこりとして言った。「いつ頃になりそう?」
大樹の方も、用意できる必要書類は、いつでも引っ越しが出来るようにまとめてあった。父も連帯保証人となることに了承してくれているので、書類はいつでも提出できる。
「あの、明日の夜七時に、書類出しに来て大丈夫ですか」
「七時ね。大丈夫だよ」武山は頷いた。
「じゃあ、明日書類用意してきますので、明後日に引っ越し作業して大丈夫ですか」
「明後日? 平日だけど、大丈夫なの?」と少し驚いたように武山は念押しする。
「はい。仕事は振替休日とりますので」大樹は頷いた。もう一刻も早く、あの満員電車から解放されたかった。
「そうなの」武山はにこやかな様相を崩さずに言う。「よっぽど楽しみなのね」
『楽しみ』という表現に、大樹は心中で首を傾げる。『急いでいる』という表現は使うが、こういう時、『楽しみ』を使うだろうか。
妙な違和感を覚えるが、楽しみであるのは間違いないので、相槌を打つ。
「なら、明後日に引っ越し作業ね。お手伝いはいるかしら?」
「いや、悪いですよ」申し訳ないくらいの親切心に、大樹は慌てて首を振った。「たいして荷物ないんで、ちょっとずつ日にちかけて車で運びます」
あら、そう。と武山は気を悪くした様子もない。
「それじゃあ、明日の七時、待ってるからね」武山は人懐っこい笑みを浮かべた。
「はい」大樹も笑顔を作り、それに応える。
自分にしては、随分と大胆に行動できたではないか。
話がまとまってからも、大樹は未だに興奮気味だった。自分から行動し、こうして住処を得られたことに、自身の独り立ちを実感できる。そんな満足感が、大樹の胸中でふつふつと沸騰しているようだ。
「それにしても」麦茶を一口飲むと、武山は口を開いた。「思ったより、早かったねえ」
「え?」大樹は武山の発言の意図が読み取れない。「早い、とは?」
「予定じゃ、もう少しあとだったでしょ?」
武山の言っていることが、大樹にはまるで解らない。
突然、意味不明な発言をされ、大樹は戸惑ってしまう。
「まあ、細かいことだね」そんな大樹をよそに、武山は笑い飛ばした。「わたしもこのごろ、忘れっぽいし」
なんだろう。勘違いだろうか。
大樹の中で、一抹の不安がよぎった。
契約を進めるうえで、武山の受け答えはしっかりしていた。だが、もしかしたら、目の前の老婆は、ぼけ始まっているのではないか。