崩壊の序章
序章.
裏野ハイツ二〇二号室。
そこで、夏元大樹の身体は膝から崩れ落ちた。
夕焼けの光はいつの間にか消え、部屋は瞬く間に暗くなる。黄昏時が終わるのが、年の中ではいささか早い、初夏の出来事だ。
大樹は自らの世界の終わりが、いつだったかを想起する。
――彼女を追っていなければ。
――あの時、彼女に魅入られなければ。
このようなことには、ならなかったのに。
大樹は携帯電話を両手で強く握りしめ、絶叫した。蝉の鳴き声はいつの間にか消えてなくなり、ただ悲痛な慟哭のみが木霊していた。
『二〇二号室の住人』
一.
都心寄りにしては、閑静なところだな。
七月中旬。珍しく、休日出勤だった仕事帰りの夏元大樹は、車の後部座席で物憂げな気持ちを誤魔化すように思う。
季節は既に、クールビズの時期であり、鬱陶しいリクルートスーツやネクタイはしていなかった。尤も、大樹は技術職なので、普段から上着とネクタイの着用は義務付けられていない。
それにしても、半袖でいられるのは良い。運転席に座る川端のスーツ姿を、ミラー越しに見ていると、ありがたみが湧いてくる。
「やっぱり、ちょっと狭かったですかね?」
川端の問いに、「そうですねぇ……」と曖昧な返事しかできない。大樹は少し控え目な性格をしていると自覚していた。
川端は不動産仲介業者のスタッフだ。大樹は彼の顧客である。
七月に入ると同時に、大樹の勤務先が変わった。実家から電車で三十分程の比較的近い位置にあった事業所から、異動になってしまったのだ。
今度の事業所は遠く、都心に位置していた。電車での移動時間が長くなったのは勿論のこと、すし詰めのように人が入る満員電車の苦痛に、大樹は耐えることができなかった。
引っ越しを決意するまで、僅か一週間。大樹は下り電車で十分程の駅を中心に、賃貸を探し始めた。
この日は、大樹のリクエストを参考に、川端が勧める物件を内見して周ることになり、こうして川端が運転する車に乗っているのである。
大樹は若干神経質なきらいがあり、鉄骨鉄筋のワンK、ないしワンルームのマンションを探していた。予算内で川端が見つけたマンションのうち、一軒目を訪れた。
六畳間と聞いていた部屋は、予想はしていたが、それを裏切る程に狭い。大樹は少し落胆した。
営業職なだけに、口達者な川端であるが、それ以上に観察眼がある。内見の結果、大樹があまり満足していないことを、きちんとわかっていたようである。
「さっきのところは、梁が大きかったですね」川端が言う。「次のところは、もう少しマシですよ」
川端の言葉が、気休めに過ぎないことは、大樹にもわかっている。
大樹の中で、迷いが生じていた。このまま、防音性を重視して、狭いマンションを探し続けるべきだろうか。それとも、やはり広さを取り、アパートも視野に入れるべきなのか。
予算内に収めようとすると、どちらかを捨てなければならない。地方の大学で一人暮らしをする際には、全く無縁なジレンマだ。
優柔不断な自分が恨めしいな。
そんなことを考えながら、窓の外を見る。
休日出勤なのに、定時と言っていいのだろうか。とにかく、十七時半になると同時にオフィスを飛び出したおかげで、一軒目を巡った今でもまだ明るい。
赤信号で車が止まった時、運転席側の反対車線の向こうに、一軒のアパートがぽつりと孤立して建っているのが目に入った。
その瞬間、物思いに耽っていた筈の意識が、どういうわけか手繰り寄せられ、現実に戻る。
アパートの二階にある一室に、大樹の視線は吸い寄せられていった。
正確には、バルコニーのガラス戸越しに見えた、女性の影に。
電気は点いているが、レースのカーテンに阻害され、あまりはっきりとは視えない。
だが、なんとなく綺麗な女性だ。そう、大樹は直感する。
その女性に見惚れていると、目が逢った。よく見えてはいないが、確かに目が逢ったのが、大樹にはわかる。
なんだ。これ。
経験したことのない、不可思議な錯覚。
大樹は戸惑いを覚えた。
車が発進し、あっという間にアパートの女性は視界から消えてしまう。大樹は名残惜しさを堪えきれず、身体を捻じ曲げてバックガラス越しに女性を追い掛けようとする。しかし、遠ざかっていくアパートの一室は、瞬く間に小さくなり、もう捉えることは出来ない。
「川端さん」思わず、声を出していた。
「はい?」川端が応答する。
「今のアパート……」続けることができず、尻すぼみに呟く。
これでは、意味不明だ。大樹は言葉を撤回しようとした。
「今のアパートですか?」川端は軽い調子で、それを遮った。「アパートに興味出てきました?」
川端の気楽な問い掛けに、大樹は「ええ、そうですね」と答える。
「アパートでも、この辺なら、あまり騒がしくないかもですよ」と川端。「駅から遠めですけど、大学生に人気ないんすよね」
大学生が隣人に居ると、友人とのどんちゃん騒ぎが煩わしそうである。
「部屋の広さも考えて、やっぱりアパートも視野に入れようかと……」
もっともらしいことを言いながら、大樹の頭からは彼女のことが離れなかった。いつの間にか、あのアパートを選ぶための理由を探している自分がいる。
「じゃあ、内見終わったら、もう一度事務所で検討しましょうか」
「なんか、すいません……」希望の条件の物件を探してくれた川端に対し、どこか後ろめたい気持ちである。
「いえいえいえ」川端は気にした様子も無い。「この時期ですから、焦らなくても大丈夫だと思います」
そんな川端に感謝する一方で、大樹の思考の大半は、アパートの彼女に奪われていた。
目が逢った。
全く見ず知らずの他人と。
たったそれだけのことで、大樹の暗い気持ちは吹き飛んでいた。