極み無き悪
終.
夕焼けが、二〇二号室のリビングの窓から差し込んでいた。
内藤の心臓が停止したのを、大樹は確認し、ほっと息を吐く。
「終わった……」大樹は呟いた。
残虐の限りを尽くした。酒井と内藤は、酷い拷問をして殺した。彼らは身体のパーツを幾らか失っている。その分、鉄串が身体に刺さっている。
啓介は理子の目前で殺した。無論、楽には殺さなかったし、理子も同様に苦しめて殺した。
残念ながら、武山は即死だった。老いた身に、脳天を一撃したのが災いしたか。
「終わったよ、お父さん」大樹はもう一度、呟く。
自分が尽くした、数多の非道。
その償いを、どう果たすべきなのか、大樹はこの瞬間まで、まるで考えもしなかった。
大樹は鬼に成った。復讐の魔に憑依され、その身を返り血に躊躇いなく晒した。
ここで死ぬか、とも考えた。自殺の手段は、幾らでもある。自ら二〇二号室の住人となるのも、いいかと思った。
だが。
夕焼けの美しさと、蝉の鳴き声。夏の香り。
それらに気が付いた時、大樹は涙を流していた。
どうしてだ。
復讐が終わった安心感なのか。それとも、ひっそりと隠れていた、大樹の良心だったのか。
複雑な感情が、大樹の肺を占拠する。
決して、命が惜しくなったわけではない。
なのに、人に戻りたい。そう、切に思っている自分を、大樹は自覚する。
殺した。徹底して、殺した。
疲れ果て、もう生きる意味など見出せない。
気力など、意思など。
その命と共に、全てを絞り、捻り出し尽くし切った大樹に、浴びせられる初夏の情調。それが、大樹を諭すように、優しく包み込んでいる。
大樹は、暫く考え、決断した。
――通報しよう。
大樹は死を選べなかった。自ら命を絶たず、法の裁きに全てを委ねる決断を下す。
大樹は内藤のスマートフォンの電源ボタンを押下し、表示されたロック画面に、緊急連絡ボタンが備えられているのを認めた。
大樹がそれをプッシュしようとした瞬間、内藤のスマートフォンに着信が入った。
大樹は思わず、画面を左から右にタップし、着信を拒んだ。
だが、内藤のスマートフォンは、もう一度鳴らされる。
そこで、大樹は異変に気が付いてしまう。武山の死体からも、着信音が鳴っているのだ。
これは、おかしい。
この状況を見計らい、内藤と武山の携帯電話に、同時に着信が入れられているのか。もしかすると、他の住人達の携帯電話にも、一斉に着信が入っているのかもしれない。
そう考えると、大樹はぞっと背筋が凍っていくのを感じた。
未だ鳴る、内藤の携帯電話。
大樹は意を決し、応答することにした。
『もしもし』ボイスチェンジャーで変声された、無機質な声が耳に入った。
相手の呼び掛けに、大樹は答えられない。
『夏元大樹さんですね?』電話口の相手は、そう言った。
「誰だ?」大樹は自分で思うより、低く冷たい声が出た。必死で、焦りを隠そうとした。
『私は、武山さんの友人です』声は事務的なまでに淡々とした口調で述べる。
大樹は自分の心拍数が、どんどんと上がっているのを感じた。もう、碌な目に遭う気がしない。
終わっただろ。終わった筈だろ。
そう、怒鳴りつけたくなった。
一方で、この謎の電話が、自らの心を再び灰色に塗り潰していくのがわかる。重たくなった大樹の心は、深海の闇に沈んでいく。
『全員、殺しましたね?』性別すらも判断させない声が、淡白に問うてくる。
大樹は言葉を発することが出来ない。
切実な願いが通じたのか、大樹はすっかりと只人に戻っていた。口の震えを必死で抑え、正気を何とか保とうとしている自分がいる。
『二〇二号室の出来事は、全て映像を通じて把握しています』
大樹の脳裏に、武山の一言がよぎる。
『ばっちり、撮ったからね』
あの時、武山はカメラを構える様子はなかった。それはつまり、隠しカメラの存在を示唆している。
『私はある意味で、二〇二号室の真の住人と言えるかもしれません』
大樹は眩暈を覚えた。
『間もなくそちらに、医師と清掃員が数名到着します』機械的な言葉が聞こえる。『あなたは、今は自分の治療に集中して下さい』
大樹は何を言われているのか、理解できない。何故、この人物が大樹の身の心配をするのか。
『警察に行ってはいけません。病院にも』そう、機械に加工された声に忠告を受ける。『これ以上、親しい人が、二〇二号室に住むのは、耐えられないでしょう?』
その真意に気が付いた時、大樹はようやく震えることが出来た。
凍て付いている。夏の入り口にも拘らず、全てが寒く感じられる。
大きな絶望が、大樹を再び包み込む。深淵から伸びる魔手に、いつの間にか心臓を握られていたのだ。
『もちろん、あなたの回復が最優先ではありますが、それから先の話も大事です』
声の主は、大樹が想像していた最悪の言葉を、当然のように突き付けた。
『裏野ハイツの仕事の引き継ぎに関しまして、また後ほど、ご連絡いたします』
大樹は乾いた笑いを漏らしてしまったようだった。足元から、全てが崩れ去るような錯覚に陥る。
『それでは、また改めて』
通話が切れた。
大樹は膝を着いた。
大樹を人に引き戻してくれた夕陽は、いつの間にか沈み、もう二〇二号室は暗い。
大樹はスマートフォンを強く両手で握りしめる。
この社会の裏側に根付く、巨大なネットワーク。大樹が見たものなど、所詮はただの枝葉に過ぎない。裏側は更に奥があり、暗闇には更に暗い処が存在する。地獄の釜という言葉があるが、真の地獄は底無し沼だ。
大樹は本当の意味で、それを思い知った。
際限などないのだ。
それは、必ずしも暴力に限った話ではない。
人間が持つ、真の闇に際限などないのだ。
「――――――!」大樹は気付けば叫んでいた。慟哭は夜の世界へと溶けていく。
もう、大樹は逃げられないのだ。
希美を追った時。
否、希美を見たその瞬間から。
大樹はもう、二〇二号室の住人になっていたのかもしれなかった。
夕焼けの美しい光は、もうない。
蝉の声も、大樹の絶叫により、完全に塗り潰されていた。
初夏の趣など、もはや大樹には届かない。
いつか訪れる破滅の瞬間までに、大樹はそれを取り戻すことが、出来るだろうか。
<二〇二号室の住人 了>
くぅ疲。これ完。