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世界の終わり(後篇)

 突如、全身に冷たい感触。大樹の心臓は止まりそうになった。


「ひゅう」そんな声を出して、大樹は覚醒した。


 頭からずぶ濡れだ。冷水をぶっかけられたのだ。


 全身が凍えるように冷たい。それに伴い、じわじわと痛みが広がっていく。

 痛めつけられた腹部と背中、肩の怪我を自覚し、大樹は苦痛に顔を歪める。


 大樹は下着姿で、椅子に縛られていた。口に猿轡(さるぐつわ)がはめられており、口をきくことが出来ない。


「起きたか!」

 突然の大声に、大樹はびくりと肩を震わせた。

 見上げると、鬼の形相をした酒井が立っている。


「おめえ、せっかく新入りだと思って、目ェかけてやってたのによぉ」酒井は頭をガリガリと掻いている。


 大樹は自分の置かれている立場を自覚した。これから、自分は殺されるのだ。それも、偽物として拷問に掛けられて。


 大樹の顔が恐怖で歪む。

 死ぬ。殺される。


 恐怖で彩られた大樹の横っ面に、酒井の右ストレートがぶちかまされた。

 頬の骨が折れた感触。直後、その痛烈さと脳の揺れが、大樹をパニックに陥らせる。


「まさか偽物とはよぉ!」

 続けて叫んだ酒井は、大樹の(すね)に蹴りを入れた。


 激しい痛み。そして、その個所を庇えないもどかしさ。大樹は猿轡(さるぐつわ)で拘束された口で、必死に痛みを訴えた。


 煙草を吸った内藤が、大樹の前に姿を見せる。紫煙(しえん)を大樹の顔に吹きかけた。

 喫煙者でない大樹は、煙を嫌い、顔を左右に振る。


「痛いか」内藤が大樹に尋ねた。

 大樹は必死で首を縦に振った。大樹に思考力はなく、反射的にリアクションを返す。

「そうか」内藤は呟き、煙草の火種を大樹に向ける。


 その動作で、次に何が行われるか、大樹にはわかってしまった。


 大樹の鎖骨に、煙草の火が押し付けられる。

 七百度を超える熱が、痛みとなって大樹の鎖骨を(えぐ)る。執拗に火種を捻じ込まれ、大樹は首を狂ったように振りながら絶叫した。


 大樹は激痛の中、自分があかねに対してしてしまったことを思い出す。


 さぞ痛かったろう、怖かったろう。そんな勝手な同情をしていた、自分の浅はかさを思い知る。こんなことは、人間が受けていい仕打ちではない。


 ただ死体となって転がっていた大原。彼も残虐な拷問を受けたのだろうか。

 どこか場違いに、他人を気遣うのは、現実から逃れるための防衛本能だった。


 そういえば、村田一喜はどうなったのだろう?


 ぜいぜいと息を切らしながら、大樹はまだ他人のことを考えている。彼は逃げることが出来たのだろうか。もしそうであれば、警察にここのことを一喜が……。


「おらよ」

 内藤が大樹の鳩尾(みぞおち)に、正拳を入れる。


 大樹の思考は強制的に遮断された。


 猛烈な吐き気が喉からせり上がり、大樹は血を吐いた。

 腹が、食道が、喉が、口が、焼けるように熱い。


 どうして、自分はまだ意識を保っているのだろう?

 大樹は呪う。さっさと気絶してしまえば、こんなに辛い思いをしなくて済むのに。


 そんな時、洋室の扉が開けられた。

 大樹が顔を上げると、啓介が部屋に入ってくる。


 大樹はその光景に目を剥いた。


 生首だ。


 啓介が人の生首を持ち、よたよたと歩いてくる。

「重い……」そんなことを、啓介は呟いている。


 異常だ。大樹は戦慄する。


 その生首は、啓介の父、一喜のものだった。


 一喜は大きく口を開き、壮絶な表情をしていた。眼鏡が大きくずれている。


「胴体はどうしたんだ?」と酒井。

「まだ、車の中ですよ」洋室に入って来た理子が、そう言った。


 亭主を、父を、殺したのか。


 確かに、一喜は家族を裏切ろうとしたかもしれない。だからといって、殺すか。家族として愛したひとを、そんな風に殺すか。

 大樹が信じられない思いで、その身を凍り付かせていると、酒井は内藤達に命じた。


解体(バラ)すから持ってこい」

 その一言に、内藤と理子は従う。啓介も理子の後についていき、洋室には武山と酒井、そして大樹だけが残された。


「びっくりしたろ?」酒井が膝立ちになり、大樹の顔に自分のそれを寄せる。「裏切ったやつは、誰であろうと、二〇二号室に住むことになるんだよ」


 酒井は怯え切った大樹の顔を見て笑った。立ち上がると、洋室の壁際に置かれている、鉢植えのようなものに近づく。

 酒井は大樹の前に戻ると、その手に持っているものを、大樹に見せつけた。


「ほれ! 黒髭(くろひげ)危機一髪!」酒井がおどけて叫ぶ。


 それは、鉄串だった。あかねを死に至らしめるまで刺した、あの鉄串だった。

 大樹は必死で身体を縮こませた。心の芯まで恐怖が染まり、頭が真っ白になる。


 酒井はその中の一本を右手に残し、大樹の鼻先に突き付ける。

 鼻がひりつくように熱い。


 次の瞬間、それは大樹の右の太ももに突き立てられた。

 右脚を貫かれたことのパニックで、大樹は叫び、脚を必死に動かそうとした。だが、拘束はびくともせず、ただ椅子を僅かに揺らすだけだった。


 大樹は徐々に、痛みを実感する。熱い。太ももがひたすらに熱い。神経がだんだんと溶けてなくなる。そんな不可思議な錯覚さえ覚えた。


「じゃ! 次は左な?」

 そんな酒井の声が聞こえ、大樹は必死に首を横に振る。


 酒井は鉄串を逆手に持ち、大樹の左の太ももに狙いを定める。そのまま振りかぶり、太ももを貫く――。


「?」衝撃に備えていた大樹は、何が起こったのか理解出来ない。

 (すん)でで止めていた。酒井は鉄串を、寸止めしたのだ。


 突如、やめられた暴力に、大樹は安堵した。

 その瞬間、大樹の左脚に()え難い激痛が走る。


 酒井は鉄串を、大樹の太ももに捻じ込んでいた。ぐりぐりと左右に捻じりながら、酒井は大樹の太ももを鉄串で掘っていく。


 その痛みに、大樹は白目を剥いて喚き散らした。


 酒井の笑い声が聞こえる。


 もう限界だ。大樹はそう確信する。全身には汗をびっしょりとかき、心身ともに大きく消耗していた。大樹は力なく項垂(うなだ)れる。呼吸が荒い。息が苦しい。


「ほれ、次はこいつだ」酒井の声が聞こえる。

 まだ続くのか。地獄のような苦しみを、あとどれだけ味わえば、楽になれるのだろう。

 生気が蒸発してしまうように消えていく。


「おい、見ろ!」酒井は大樹の髪を乱暴に掴み上げ、顔を上げさせた。

 刃の太い断ち切りバサミが、大樹の視界に入る。すっかり錆び付いているそれは、光沢を一切持たず、自らがただ破壊の為だけに存在していることを、主張しているようだった。


 これから自分の身に起ころうとする惨劇。それを認め、大樹は首を左右に振る。


「やめて下さい」と大樹は言った筈だった。

 だが、出てきた声は猿轡(さるぐつわ)によって、言葉としての形を不細工に歪ませられていた。


「ん? 右足の小指?」酒井は大樹の顔に耳を近づけ、手のひらを添える。「よし! 偉いぞ!」


「んんんん!」酒井の無慈悲な言葉に、大樹は叫びをあげる。

「うるせえ!」酒井は大樹の左脚に刺さった鉄串を、軽く殴った。

 肉が()られ、激痛を伴う痺れが、大樹の左脚を駆け巡る。


 悶絶しそうになる痛みに、どうすることも出来ずに唸っていると、右足の小指が挟まれる感覚がした。

 挟む力は徐々に強くなり、それが鋭い痛みと化して、大樹を苦しめる。小指を失う恐怖と絶望に、大樹は雄叫びをあげる。そして、それは終わってしまった。


 酒井はハサミを投げ捨てて立ち上がる。その右手の真っ赤な指先には、大樹の右足の小指が摘まれていた。

 大樹の脳は、小指が失われたショックで倒錯する。世界が回転し、闇に落ちていくようだった。


 汗、涙、鼻水、(よだれ)、血液。

 顔面を体液塗れにしながら、大樹は失禁していた。


「大原達を解体(バラ)さなきゃならねえし」酒井は言いながら、再びしゃがむ。「ま、今日はこの辺にしとくか」


 とうに感覚など失っていたと思っていた右足から、また激痛を感じる。何かで断面を焼かれていたようだった。その後、右の足首が、ゴムチューブのようなもので強く縛られる。止血処置のようだった。


「てめえ、こんなもんじゃ済まさねぇからな」そう酒井は言い残し、その場を去っていく。

 武山も、「また明日ね」と言い、酒井の後についていく。


 バタン、と洋室の扉が閉められた直後、安堵からなのか、大樹は気を失った。



***



 次に起こされた際も、やはり暴力によって、である。


 おそらく、顔面に拳を喰らわされたのだろう。鈍い痛みと、鼻と口から血液が流れるのを、大樹は感じていた。

 腫れた目元が視界のほとんどを奪い、痛みでまともに動かなくなっている頭が、意識に(もや)をかける。


 それでも大樹は、無意識に状況を判断しようと、周囲を見回した。


 ぐるぐると回る世界。聴覚に異常をきたし、全ての音がくぐもって聞こえる。


 悪い視界と耳を研ぎ澄まし、住人全員が大樹を囲み、笑っていることを理解する。


 大樹の右下に、何か大きなものが転がっている。よく目を凝らせば、それが人であることがわかる。


 関根だ。

 関根が倒れている。何故?


「ああ、そいつか」酒井の声が聞こえる。「ちょろちょろして鬱陶(うっとう)しいから、ぶっ殺してやったよ!」


 関根の死体を見た時、大樹は全てを諦めた。彼らの限界を、理解することを諦めた。


 ここの住人の暴力に、限度などないのだ。


 全く殺す必要のない人間はもちろん、身内、家族。そして、関根のように、警察という立場によって、誰からも手が出されないような人種でさえも。


 ここの住人は、遠慮などしない。


 殺して、殺して、殺して。二〇二号室の住人にしてしまうのだ。


 大樹から生きる意志が、気化するように消滅していく。絶望のどん底に叩き落され、真っ暗な深淵(しんえん)の闇の世界に閉ざされたように、諦観だけが大樹の全てを支配する。


 泥沼に(たと)えるか、光届かぬ深海に(たと)えるか。


 早く死にたい。

 ただそれだけを呟き、それ以上大樹の心は何も訴えなくなった。


「随分ショックみたいだな」酒井がうきうきとした声で、大樹に語り掛ける。「けどな、面白いのはこれからだぞ?」


 酒井は更に大樹に苦痛を与えるつもりなのだろうが、もう大樹に興味はない。

 酒井の言葉を無視した。何がどうなっても、もう大樹には関係のない話だった。


「スペシャルゲストだ」酒井はそう言い、大樹の目の前に大きなバケツを下した。

 かなりの質量があるのか、バケツはどっしりとした音を立てる。


「ほれ、見ろ」酒井が大樹の髪を掴み、バケツの中を強引に見せる。

 中には解体された人間が入っている。


 ――それがどうした。


 大樹は何も発さず、何も感じず、ただ目の前の光景を当然のことのように受け流す。


「おい、よく見ろ!」酒井は大樹の頭を一度揺さぶる。

 大樹には、もはやどうでもいい。


 ――筈だった。


 バケツの中に、人の頭が収められている。暴行を受けたのか、顔面は随所に青あざを作り、酷い形相で事切れている。


 すっかりと変わり果てた顔に、大樹は見覚えがあった。


 死んだはずの大樹の心が、甦る。

 これ以上の地獄など、存在しない筈だった。


「父ちゃんが来てくれたぞ!」

 バケツの中には、大樹の父である、夏元茂が入っていた。


「ん?」間抜けな声が、あがっていた。

 その声が発せられた時、周囲が爆笑の渦に巻き込まれたようだった。

「んんんん……」信じられない。


 いや、止めたんだけどね。と誰かが明るい声を出した。

 つい、勢い余っちまったよ! そう、誰かが大声で笑い声をあげる。

 やっぱり、目の前で殺してあげた方が、よかったんじゃない?


 数々と発せられる言葉を、大樹は上手く認識できない。

 父の死を理解するのに、目一杯だった。


 父が、殺された。

「んんんんん!」

 大樹の絶叫に、また周囲は大笑いした。


 どうして。

 どうして殺した。


 とうに、期待など捨てていた筈だった彼らの良識を、大樹は責める。責めながら、大樹は涙を流した。生きる希望とは、全く逆の理由で、大樹の意識を取り戻していく。

 どんな拷問よりも辛い現実が、大樹に再び痛みをぶり返させる。


 絶対に、被害は及ばせない。そう誓ったのに。


猪口才(ちょこざい)な真似するから、こうなるんだよ!」酒井は叫んで、大樹に蹴りを入れる。


 後悔の念が押し寄せる。

 もっと早く、警察に行っていれば。


「お前が親父を殺したんだよ!」内藤の拳が、大樹のこめかみを抉った。


 自分が、父を殺したのだ。

 大樹は懺悔した。

 ごめん。お父さん。ごめん。


「さて! 元気になってもらったところで! お楽しみ再開だ!」酒井は大樹の鼻をつかみ、顔を近づけた。「言ったろうが。こんなもんじゃ済まさねえ」


 拷問が再開される。


 大樹は失意の中、悟った。

 人間の絶望に、底など存在しないのだ。

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