希望
コンビニで弁当を購入し、大樹は帰路についていた。
アパートの敷地に入ろうとした時、野太い声で呼びとめられた。
「すみません」
自分のことだろうか。大樹は振り返った。
中年の男が、大樹に向かって駆け寄ってくる。大樹はその男に、見覚えがあった。
「すみません。このアパートに住んでらっしゃる方ですよね?」男はそう確認する。
妙にがたいのいい体型。そして、見る者を委縮させるような、鋭い目つき。
そこで、大樹は彼のことを思い出す。
この男は、大樹が初めて裏野ハイツに訪れた際に、公園にいた人物だった。
『一〇二:そろそろ、本当の入居希望者がいつ来てもおかしくない』
大原とのチャットでのやりとりを思い出し、大樹の背筋が痺れる。
まさか、この男が。
そう大樹が思った時、男はズボンの尻ポケットから、手帳を取り出した。
開かれたその手帳を見せつけられ、大樹は目を大きく開く。
警察手帳だ。
「警察です」
終わった。
大樹はそう思った。大原が言っていた作戦が、成功したのか。
だが、刑事の言葉は、大樹の期待を裏切るものだった。
「このアパートに引っ越して、何か変わったことはありませんか」野太い声で、刑事は訊く。
聞き込みである。この裏野ハイツは、警察に怪しまれながらも、まだ犯罪に関与している決定的証拠を掴んでいないのだ。
大樹は暫く黙っていた。どうすべきか、逡巡してしまう。
「もし?」刑事は大樹に呼び掛ける。
「あっ、すいません」大樹は刑事に詫びた。
言ってしまいたい。今すぐにでも。
そして、助けを乞いたい。
「いえ、特に変なことはありませんけど」大樹はそう答えていた。
大原は言った。誰にも話すな、と。
大樹は何度も警察に通報しようと思い、報復を恐れて、それをやめた。今、ここで彼に全てを話してしまうのは、通報するのと何も変わりないだろう。
大原達なら、その後のことも考えた上で、作戦を決行する筈である。
大樹はそんな楽観を抱く。だが、警察に浮気してしまっては、全てが水の泡になってしまう。そんな予感があったのだ。
「そうですか」刑事は呟いた。
彼は落胆した様子を一切見せない。ただ、冷徹な眼差しを大樹に向けている。当然のことながら、大樹のことも疑っているのだろう。尤も、その疑惑は的中しているのだが。
「もし、何かあれば」男は手帳を仕舞い、今度は名刺を取り出し、大樹に差し出す。「ここに、連絡を下さい」
大樹は片手で名刺を受取った。
『関根康』というのが、彼の名のようだった。所属は組織犯罪対策部。あまり学のない大樹でも知っている。俗に『マル暴』と呼ばれる、暴力団関係の犯罪対策を主とした組織だった筈である。
「ありがとうございました」関根はそう言い、去っていった。
***
夜、大樹は自分に出来ることをしようと思い立ち、ノートPCで文章を作成していた。
内容は、大樹が裏野ハイツで経験した、覚えている限りの全ての記録である。
大原達の企てが上手くいった後、どういう形であれ、大樹は警察に全てを話すつもりだった。
希美が解体されていくのを、ただ黙って見ていたこと。あかねを殺してしまったこと。そして、武山や酒井を恐れ、それを警察に言わなかったこと。
あらゆる罪を、大樹は償うつもりでいた。そのことに自分の人生を費やすことに、抵抗はない。己の弱さを言い訳にして、逃げ出したのだから。
希美やあかねのことを記述するのは、大変な作業だ。大樹は回想する度に吐き気を催し、実際に何度かトイレで嘔吐する羽目になった。
だが、これでいいのだ。
ふと、思う。
もし、大原達の作戦が失敗してしまったら、これが大樹の遺書になるかもしれない、と。
そうだとすれば、父や友人達宛に、何かメッセージを遺した方がいいのだろうか。フィクションの世界で見かける、『これを読んでいるということは、私はもう死んでいるのだろう』というやつだ。
大樹は首を振った。大原達が失敗すれば、こんなもの処分されてしまう。
それに、大樹は表面上覚悟しているつもりでも、やはり殺されたくはない。ないに決まっている。
だが、今の自分は、いつ殺されてしまってもおかしくはないのだ。
怖くなった。
大樹はスマートフォンを操作し、電話帳から一件の連絡先を見た。
『夏元茂』
父の名だ。
茂はいい加減な性格だった。だらしがなく、ちゃらんぽらんな男だ。だが、父親としては間違いなく、素晴らしい人物であると大樹は確信している。
大樹をここまで育ててくれた。食べ物に不自由させず、大学にも行かせてくれた。
父にだけ。そう思い、大樹は通話ボタンを押す。父にだけ、伝えたいことを今のうちに言っておこう。
幾らかの発信音の後、通話は繋がった。
『もしもし?』声の主は、父の茂だった。
まだ実家を出て、一週間経っていない。
なのに、その声は妙に懐かしく、そして頼もしく感じる。たったの一言が、大樹に確かな温もりと安心感を与えた。
「……もしもし」大樹は絞り出すように言った。
『おう、どうした?』
じわじわと広がる心地良い感情が、大樹の目から涙を溢れさせていく。弱音は吐くまい、心配などさせまい。そう思ったそばから、父に全てを話し、助けを求めたくなる衝動を、胸が引き裂かれる思いで塞き止める。
「いや、別に何でもないんだけど」声の震えを、どうにかして止めた。「そっちの様子、どう?」
『何だ? 寂しくなったのか?』電話口で父は笑った。『もうギブアップか? 学生の頃の方が、ガッツあったな』
「言ってろよ」大樹もつられて笑みを浮かべた。
『戻って来てもいいぞ?』
「要らんがな」大樹はそう答えた。
戻りたい。もし、実家に暮らしていた、つい数日前に戻れるのなら。
通勤時間がどれだけ掛かってもいい。どんなに電車が混んでいても我慢する。だから、大樹は父と暮らしたかった。
だが、おそらくもう、大樹は父と暮らすことは出来ない。どんな結果になろうとも、自分は警察に捕まるのだから。
「あのさ……」大樹は父にずっと伝えられなかったことを、ようやく伝えることが出来る。「ありがとう。今まで」
その言葉に訝しがる父を、何とか宥め、大樹は通話を終えた。
再びPCに向かい、ここで起こった惨劇の記録の続きを綴り始める。視界が涙で滲み、画面がよく見えない。
大樹は鼻をすすり、涙をぬぐった。
絶対に、父に被害が及ぶことは許さない。
大樹は、そう決めていた。