2-2 マネージャーの憂鬱
四月の風は存外に冷たいものだ。まだ着慣れないブレザーやネクタイの内側を、さっと砂埃の混じる風が駆けていくと水風呂にでも入ったかのようで、反射的に背中を丸めてしまう。
その砂埃がいっそう増してくれば、第二グラウンドがすぐそこだ。ランニングに出かける直前であった。
「あ、岩出くん」
米原先輩がおれに気が付き、手招きした。ひとり制服のおれは申し訳ない気持ちでそちらへ向かい、走り出した部員たちとすれ違う。そのあとに続いて、白髪交じりで体格のいい男性が自転車でグラウンドを出て行った。
「いまのが監督ですか?」
「そうだよ。前の監督のときはあんなことしなかったけど、今度の室戸監督は好きみたい」
「監督自らなんて、いい監督なんでしょうね」
「代わりに一周から二周になったけどね」
きょうの米原先輩はベージュのヘアバンドだ。タオル地ではないが、そんなふうにふわふわとした印象のものだ。
「さあ、始めるよ。きょうも充は用具のほうをお願い」
米原先輩が指示を出したのは、髪をポニーテールにまとめた女子生徒だ。はい、と返事をする彼女はサッカー部のジャージを着ている。
「そちらは?」
「マネージャー。一年生で新しく入った中沢充」
「マネージャーがふたりですか」
「部員数が多いし、今度の監督は結構マネージャーに仕事を回すからね。充は部員もお世話になってる隣町の医者の娘でさ、それもあってか怪我の手当てが上手だからありがたいんだよ。もうひとり二年生の結子って子にも助っ人を頼んでいるんだけど、きょうは手芸部が活動日だからそっちのほうに出ているの」
マネージャーに助っ人とは、聞きなれない。しかも合わせて三人とは。よほど忙しいのだろう。そういえば、怪我人が多いと言っていたような。
米原先輩に訊いてみると、室戸新監督が体力強化に熱心なものだから、その負荷が昨年と比べ急激に大きくなり筋肉系の怪我や疲労が増えているのだという。また、室戸監督が部員たちと親身に接し自ら身体を動かしながら練習させるので、マネージャーに仕事のしわ寄せがくるらしい。そのぶん怒ることも少ないというのだが。
「そうだ、岩出くん」米原先輩は左手の手のひらを右の拳で叩く仕草をとる。「新人の取材なんでしょ? それならぴったりな一年生がいて、彼もコンディションが優れなくて別メニューだから、ランニングから戻ったら紹介するよ」
それは助かる、と喜ぶと、それまで中沢を手伝ってほしいと頼まれた。倉庫のほうに向かうのだから、力仕事の人手が必要だ。
中沢とともにグラウンドを横切り、倉庫を目指す。他クラスの一年生と話したことは水橋と田橋のほかにほとんどないし、異性ということもあって、言葉が出ない。黙って歩いているとすぐに目的の場所へ着いてしまい、中沢が扉を開けた。
「あれ? 施錠はしていないのか?」
中沢に最初に話しかけるのがこれでいいのか、とは少し思った。
ポニーテールは扉を固定しながら答える。
「加恋先輩が集合の前に開けておくの。カギは加恋先輩が持つようにしているからね」
確かに、誰がカギを持っているのかははっきりしておかないといけない。マネージャー三人体制の弊害だ。その解決策として、最初に開けておくのか。開けたらすぐに、グラウンドに集合している部員たちに合流する。
「ほかの部活じゃうちみたいなことはしてないみたい」建物の中へ入っていった中沢が棚に手をかけた瞬間、顔をしかめた。「あれ? またなの?」
……?
おれも倉庫の中に入って中沢の手元を見ると、「ビブス」と書かれたシールが貼られているのだが、そこにあるのはラインマーカーの石灰。一歩下がって見てみると、ビブスは「レフェリーフラッグ」のシールのある棚に置かれていた。
いいや、それだけではない。棚の整理がまるでなっていないのだ。スピードリングのところにホワイトボード、マーカーコーンのところにメジャー、などといった有様だ。
「普段はもっと整然としているんだよな?」
「当たり前! 失礼なこと訊かないでよ」
中沢は棚の位置を戻そうと、間違った場所にあるものを一旦下へ下しはじめた。おれもそれを手伝い、正しい位置へと棚に入れなおす。些細な仕事だが、モノとシールとを比べて戻していかなくてはならないので、時間はかかる。
「それにしてもこんなに間違えるなんて……井野の奴かな?」
「井野? それって、米原先輩が言っていた結子って人か?」
「いやいや、そっちは赤川先輩。井野は部員だよ」
曰く、新入部員は練習終了後、監督からマネージャーの片付けを手伝うよう命じられるのだという。フランクで温厚な監督ではあるが、上下関係にはそれなりに厳しいのだとか。おれが思うに、マネージャーにいつも気を遣わないから、そのぶんの配慮のつもりなのではないか。
つまるところ、中沢はきのう倉庫の片付けを手伝った井野という部員を疑っているのだ。よくよく確認もせずに適当に仕舞った、と。
こうしたことは一週間に数日ほどあるらしく、きのうも整理のやり直しから始めなければならなかったそうだ。手伝いをさせられる部員はおおよそ交代制だから、その部員が間違えているのではないかと、中沢は考えている。
倉庫のことをよく知らない新入部員と、同じく慣れない新人マネージャーとが一緒に整理整頓しようにも難しいのはもっともだ。米原先輩の愚痴にも『倉庫は散らかるし』というのがあったと思い出す。
ふたりで協力してようやく真っ当な状態に戻し、必要な道具をグラウンドへと運び出した。しかし、そこではすでに部員たちがランニングから戻ってウォーミングアップをはじめていた。
「遅い! もしかしてまた?」
ドリンクの準備を終えてアップの様子を見守っていた米原先輩が歩み寄ってきた。
「先輩、またですよぉ」
ちゃんと片づけたのかと先輩マネージャーに問われ、もちろんです、と自分のミスでもないのに叱られた中沢はため息だ。
次の指示を与えられ、中沢はとぼとぼと駆け足で去っていった。