7-12 知らないでいて
アリスとチャットで一時間以上話していたため、風呂に入っている時間はそれほど長く確保できなかった。大急ぎで汗を流し、屋上の観測会に合流したころには、また少し汗が首筋に滲むくらいだった。
星に想いを馳せ、その想いを取材する。小規模な天文部にとって、新聞部員たちが取材という形とはいえ観測会に加わって、いつもよりも大人数で星のことについて語ったり、望遠鏡を覗いたりする時間はとても貴重なもので、各部員の表情からは充実した心境が感じられた。
辛島部長の企画は――その提案や進め方に強引さはあったかもしれないが――合宿といい、発表といい、自分たちの関心に閉じ籠ることなく、双方向の人との関わりを要するものが多いように思う。彼なりに星空の魅力を広め、かつ同好の部員たちとより深く語らいたいという願いがあったのではないか。
観測がはじまって三、四〇分が経ち、部員たちの関心がゆるやかなグループごとに散り散りになってきたころ、おれは天文部部長にお願いしてペントハウスに来てもらった。
「この合宿ではよく呼び出される」
彼は肩を竦めた。おれが用意した話題をすでにわかっているのだ。これならば話が早い。
「昨日、高橋先輩と揉めたんですね?」
首を縦に振り、バレていたなら仕方がない、と呟いた。
「もともと屋上に呼び出されていて、俺が屋上に向かったら、隆一はここにいた。そこの踊り場で立ち止まったら、あいつが降りてきて、そこで喧嘩になった。言い合いでは、まあ、解決しないよな。普段仲が良いぶん、意地になるとお互いに引きどころを失うから。……それで、喧嘩別れになろうというとき、屋上に戻ろうとした隆一の肩に手を置いたら、振り払う手が顔に当たった。そのまま落ちて、立ち上がったら鼻血を出していることに気が付いた。痛みから考えて、傍から見たらぶたれて怪我をしたと簡単にわかるんだろうなと思って……それだと隆一が疑われるから、階段を下りて最初からそこで倒れていたように装った」
おれが発見した根拠をこちらから提示せずとも、辛島部長は一連の流れをすらすらと語ってくれた。
しかし、高橋先輩といざこざを起こした理由は話していない。それをハッキリさせるべく、おれは携帯電話を取り出した。アリスの指示により三倉部長に頼んで見つけてもらった画面を開き、その液晶を辛島部長に見せた。
「高橋先輩は、これに怒ったんですね?」
見せたのは、昨日の天文部のSNSの投稿。
観測会の準備をする夕方の様子を伝える文章と写真がアップされている。
ただし、三倉部長が見つけたそれはアーカイブに過ぎず、投稿そのものはすでに削除されている。なぜなら、炎上してしまったからだ。
「写真の中の一枚、辛島先輩と戸川先輩が一緒に望遠鏡を設置している写真……ここに映っている先輩が――言いにくいですが――戸川先輩のお尻を触っているように見える、そういうコメントから炎上が始まってしまった。幸い数十件程度の荒らしコメントのみで済んだみたいですが、これを見た高橋先輩は怒り心頭に発し、辛島先輩を問い詰めたのですね」
坂村先輩は、夕方屋上で、普段投稿に使っているアプリケーションが更新以来具合が悪かったと言っていた。それが引きずっていたのかもしれない、コメントを受け付ける設定での投稿になっていた――炎上は適切な制限によって起こり得ないはずだったのに。不運はさらに重なり、本来機械が苦手で投稿を見るよう焚きつけられたにすぎない高橋先輩が先に炎上を発見してしまった。
怒りの原因を再度目にした側は、大きく息を吐いた。
「触っていたなんて事実無根なんだ。携帯電話で撮る平面的な写真だからそう見えただけで、俺の手は実際地球と太陽ほども離れていたからな。でも、それはそう見えるのだからどうしようもないのだけれど、隆一があれほど怒るとは思いもしなかった。どう言っても話を聞いてくれなくて……」
やはり、辛島部長は事情を知らないらしい。
アリスの推測通り、戸川先輩は自らの悩みを恋人には伝えていなかった。とはいえ、彼女の許しなく伝えてしまうわけにはいかないので、高橋先輩の激しい怒りの理由はブラックボックスに入ったままとさせてもらおう。
「それでこんな怪我をするまでに至るとは、不幸でした。仲直りはできましたか?」
「ああ、大丈夫だ。さっき風呂に入っているときに」
おれをフレームの外、上目で捉える。まだまずいところもあるという気恥ずかしい告白の眼差しだ。おれの表情の変化を見て取ると、すぐに眼鏡の位置を整えた。
これでこの件は表面上解決をみたということになる。いくつかの禍根は残るし、辛島部長の企画の評価に関してはまだまだこれからも火種となりうるだろう。しかし、共に過ごした時間が絶対的に短く彼らの深い理解に至っていないおれには、天文部のこれからに首を突っ込むことはできない。
それに、部内で賛成反対のそれぞれの立場があること自体は、非常に良いことだと思う。腹を割った議論や試行錯誤があってこそ、生徒主体で部を運営する価値があるというものなのではないか。
観測会に戻ろうというその前に、ひとつだけ質問をさせてもらう。
「あの、どうして一階の踊り場にまで下りたんですか? 高橋先輩を庇おうにも、それこそ事情を話してわかってもらうこともできたでしょうに」
「いいや、それじゃダメなんだ。隆一が疑われるだけでもいけない」
「なぜ?」
「ええと、勝手に話したらまずいから秘密にしてほしいんだけど……隆一も祐未子が好きだったんだ。結果的に俺と付き合うことになって、あいつも一応は『諦めた』と言ってはいるけれど――ああ、あれだけ怒ったのだからまだ好きなのかもな――もし今回の事件であいつが疑われてしまったら、祐未子に嫌われることになる。それはいくらなんでも……気の毒でな」
隆一には内緒にしてくれよ、と恵まれた男子生徒は囁いた。
観測会が終わり、布団に仰向けになってアリスとのチャットを思い出す。
Ellie[21:02]:戸川さんは痴漢に遭っていたと考えられます
アリスは、戸川先輩が出発の朝に普段なら電車で来るところを、なぜかバスで来たことに注目してそう考えた。電車に乗ることに抵抗があったのではないか、と。もしこの仮定が正しかったなら、高橋先輩が激憤するのにも頷ける。
高橋先輩は戸川先輩の通学方法についてよく知っている。坂村先輩の家が近所だとか、次の急行で来るのではないかとか、彼はそれを匂わせることを言っていた。彼女のことが好きだから、ということでもあろうが、部員としての付き合いで知っていたのだろう。
そうすると、彼女が犯罪の被害者であることに心当たりもあった可能性がある。いや、知らなかった可能性のほうがよっぽど大きいのだが、怒りの激しさの由来が自分の恋心だけというのも少々腑に落ちない。これは流石にアリスもまた結論を出せていなかった。
戸川先輩は痴漢の件について、女子部屋で坂村先輩に相談に乗ってもらおうと思った。それを話すには、親友とふたりきりが良い。安斉先輩が部屋を出るように頼まれたのはそのためで、男子、特に恋人に聞かれるのは以ての外だった。
正直なところおれだったら、恋人が痴漢に遭っていたとして、自分に相談してほしいと思う。戸川先輩の心の内の問題としか言いようがないのだが、心配をさせたくない、被害を訴えること自体恥ずかしい――そういった苦しい思いがあったのかもしれない。加害者を責めるべきであって、被害者が声を上げられないことは責められない。
それよりも腹立たしいのは、SNSで「触っている」と最初にコメントしたのが宮崎部長であったということだ。三倉部長が発見した。プリペイドカードを買い込んでゲームをしていた彼は肌身離さず携帯電話を持っていたことだろう。留川もそうした様子を呆れて言っていた。何か気に入らないことでもあって、嫌がらせのつもりで衝動的に書き込んだのか。
とはいえ、苛立つほかにできることはない。SNSの投稿や削除を管理する坂村先輩がひょっとすると気が付いているから、また大きな揉め事にならないとも限らない。今回のようなこと、あるいはそれ以上の事態にならなければよいのだが。
新聞部のアカウントにアリスの原稿が届いたのは合宿から帰って一週間後のことであった。
他方、自分のメールボックスには新たにメールが届くことはなかった。その後のことを気にしたり、執筆について何か言って来たりということは一切なし。アリスはアリスの中で解決してしまったということなのか。
寂しい気分を紛らわすではないが、やり取りをしたチャットのページを開いてみることがある。ここにも、ログアウトしたきり新しいことが書き込まれたわけではない。もうすぐ期限が切れてログが消されてしまうそれを、ただ懐かしく読み返す。
そうしてふとチャットを開くと、おれとアリスとを示す簡易的なアイコンの色がオレンジとブルーだったことに、はじめて気が付いたのだった――
『文化祭特別号の原稿です。今回で最終話なので、次号からは新しい短編を送ります。よろしくお願いします』




