4-4 昼休み
プリンを食べ、部員たちに記事のための質問をしたりそのほか他愛無い談笑をしたりしていたら、帰宅が予定より遅くなってしまった。
「え、兄貴きょう帰ってくるの?」
台所のドアを開けると、おれの姿を見た礼奈が目を丸くした。どうやらいつもの暴言ではないらしい。
「どういうこと?」
「ほら、母さん今夜は出かけてるから」
「ああ、そうだったな。忘れてた」
「ごめん、夕飯は父さんとふたりだと思って、二人前しか作り置きしてもらってなかった」
礼奈は基本的に兄への当たりが強いが、謝るときや礼を言うときにはちゃんと言う。
「あ、じゃあおれの夕食はない?」
「兄貴がお昼のあとすぐ出かけたから、夕飯は外で食べると思って勘違いしてた。本当にごめん」
「まあ、いいよ。このくらい。適当に作って食べるから」
即席ラーメンを作って食べているあいだ、礼奈はずっとソファに座っていつもは見ないバラエティ番組を見て静かに過ごしていた。普段なら部屋に籠っている時間なのにこうしておれの目に入る場所でしおらしくしていたのは、自分のせいで兄の夕飯がなくなって申し訳なかったからなのか、ただ兄がひとりで食べるラーメンが羨ましかったからなのか。
雨が降り出して涼しい夜だったが、春の晴れた昼下がりのようなひとときだった。
大雨となった月曜日の昼休みは、課題の提出をしているあいだに食堂が満席になってしまっていた。
些細な不運を嘆きつつ、購買の総菜パンで我慢しようと決めた。昼食代が安くなったと思えば得をしたようなものだ。さっそく焼きそばパンを買い、雨ならば少しでも解放感を味わいたいと思って南側が全面ガラス張りの生徒ホールへと歩いていくと、きのうに引き続き思いがけない幸運に出会う。
「よう、宮村」
気さくに声をかけたつもりだったが、宮村は妙にあたふたとして、手に持って飲んでいた紙パックを背中に隠す。
「こ、これは何でもないの、偶然! ほかになかっただけで。別に背を伸ばしたいとか、……を大きくしたいとかじゃないの!」
「……おれ何か言ったか?」
宮村は顔を真っ赤にして、隠していた牛乳を取り出してストローを咥えた。そのくらい恥ずかしがることもないのに。
ふたりでガラスに並んで寄りかかる。また数十秒の沈黙。
「普段こうしてここで何か飲んでいるのか?」
「うん、たまに。晴れてる日は気持ちがいいの」
まだ恥ずかしいのか、少し頬が赤らんでいる。それとも……いや、これ以上は妄想だ。
「岩出くんのお昼は購買なの?」
また黙ってしまうかと思えば、宮村が話を続けた。
「普段は食堂。きょうはたまたま席がなくて。宮村は?」
「わたしはお弁当。きょうはちょっと食欲がなくて、少ししか食べてない」
「だからこの早い時間でもここにいるのか」
こくりと小さく頷いた。
「おれの家は共働きでな。朝忙しくて弁当は作れないんだ」
「へえ……じゃあ、今度わたしが作ってあげようか?」
「え?」
「一個ぶんくらいなら多く作れるよ。どう?」
だんだんと宮村の声が小さくなっていく。
「宮村がいいなら……いいのか?」
「うん。練習だから。それに、週に一回お菓子を作るくらい料理は好きだし」
「なら、ぜひお願いするよ。宮村の気が向いたら」
どうしよう、すごくうれしい。
気恥ずかしくなって、お互い目を逸らして次の言葉を躊躇する。このまま時間が過ぎてしまうのは嫌だな――と、ここでいい話題を思い出す。
「ところで、宮村。きのう野々村先輩の話を聞いただろ? ほら、雨なのに全然濡れていなかった男の子の話」
「うん」
「あれ、どういうことかわかったんだ」
「え? 本当に?」
「ああ、簡単なことだった。『どうやって濡れずに来たか』と『どうして濡れずに来たか』とを間違っていただけだったんだ」
宮村は小首を傾げて続きを促す。
「野々村先輩は男の子が自分で歩いてきたと勘違いしたから、濡れていないことを不思議に思ったんだ。でも、そうじゃない。男の子は店まで歩いてきていなかった」
「というと?」
「傘を差した母親に抱っこされて来たんだよ。おんぶされていたのでもいい。そうすれば、歩いてくるよりはずっと濡れないはずだ。母親の足元がずぶ濡れだったのは、男の子を抱いていて足元にまで気が回らず、大きな水溜まりにでも入ってしまったからかもしれない」
ほええ、と宮村が妙な相槌を打つから、くすりと笑ってしまう。それでも、お下げの少女は目を爛々と輝かせている。
「すごいね、推理小説みたい」
「そんな大それたものじゃないさ。で、宮村は推理小説が好きなのか?」
千載一遇のチャンス、そんなふうにおれは思っていた。
「うん、小説が好きで、特にミステリーが好きなの。だから、新聞部に載ってる小説もいつも読んでるよ」
――どきりとした。
「……読んでくれていたのか」
「『手紙を開くとき』だよね。これからどうなるか楽しみ」
…………。
宮村はいま、ミステリーが好きだからアリスの小説を読んでいると言った。
だが、それはおかしい。
アリスの小説がミステリーであることは――Alice Memoを読んで今後の展開を知っているおれや新聞部員のほかには――アリス本人しか知り得ないはずだ。それなのにどうして、まだミステリーとしての展開をさほど見せていない『手紙を開くとき』がミステリーであると言ったのか。
いまおれは、アリスに最接近しているのかもしれない。
「あの小説の展開は、実はおれも知らないんだ。このみと直登の関係が進展していくんじゃないか? たぶん、恋愛小説だから」
もどかしいことに、カマをかけるにも「アリスと無関係な人物」を装わなくてはならない。アリスはおれがAlice Memoを持っていると知っていても、宮村がアリスである確証がない以上、おれはAlice Memoの存在を内密にする必要があるからだ。あくまでAlice Memoは切り札であって、そこまでの過程をショートカットすることはできない。
少しだけ会話に間が空く。
「……あれはきっとミステリーだよ」
「そうなのか?」
「これでもわたしはいろんな本を読んだから、どんなお話がミステリーか、言い回しとか設定とかから……何となくわかるんだ」
宮村の言葉に推量や婉曲が交じり、主観的な見解だと強調する言い方に替わっている。
「そうか、そういうものなのか」
このときの胸の高鳴りを、いったいどうやって形容できようか。




