3-4 戸惑う選管
こんなものが生物部の部室にあっていいはずがない、と投票用紙を持ち帰った。
投票用紙は二条先輩が信任投票にかけられているものだったので、紛れもなく今年のものだ。しっかりと確かめたわけではないし無記名ではあるが、枚数からして一学年ぶんまるまるの紙の束である。
開票作業がどこで行われているか知らなかったから、とりあえず生物室へ戻った。すると、背の高い女子生徒がドアの前に立ってるのに出会う。
「あ、戻ってきた。ごめんね! 唯花ちゃんに……新聞部の岩出くんだっけ? クラス委員の仕事があって忙しかったから、つい荷物運び忘れちゃって」
待っていたのは佐伯先輩だった。
「優樹菜先輩、忙しいからって忘れちゃダメですよ!」岡本がにやにやと笑う。「それより、ミルワーム持ってきたんで、ハムちゃんにあげましょう」
いまにも岡本に部屋の中へ引っ張られそうになる佐伯先輩は、ふとおれの手元に目を向ける。
「その箱は?」
「部室から持ってきたんですけど、どうやら投票用紙みたいで――」
「ええ!」
言い終える前に佐伯先輩が声を上げた。
「大変! すぐ中に入って」
岡本そっちのけでおれを部屋の中へ入れた。
いったいどういうことかと思ったら、中谷部長や部員たちのほかに、先日新聞部で見かけた南先輩と、任期切れになった生徒会長の北本速人先輩がいた。その顔ぶれからしておれがいま持っている投票用紙の紛失で大騒ぎになっているのだとわかったが、どうして生物室にそういった面々が集まっているのだろうか。
佐伯先輩が南先輩に簡単に事情を説明すると、南先輩がこちらへ歩み寄ってきて箱の中身を確認した。
「本当だ……! よかった、見つかって。一学年ぶんごっそりなくなるからどうなることかと思ったよ」
おれから箱を受け取り、安堵の表情を見せる。おれ自身もここまで選管の生徒たちが間違いなく探しているこの紙の山を、どこに持っていけばいいのかもわからず持って歩くのにはかなりドキドキしていた。
南先輩は首筋に流れた汗を肩で拭うと、段ボールを抱えなおして、生徒会室に戻ると言う。ストップしていた開票作業を急がないといけない。
そういえば、開票作業は生徒会室で行っていたのか。
生徒会室へは生物室から直接中庭に出て歩いていくのが最短ルートだ。南先輩が中庭に出る扉を開けたとき、佐伯先輩が呼び止める。
「開票は始まってるんでしょ? 榛名はどう?」
南先輩が振り返る。
「開票速報は新聞部にでも訊いてくれよ。やってないと思うけどさ」
佐伯先輩は岡本と一緒にハムスターの籠を覗き込んでいる。普段からハムスターを特にかわいがっているのだという。
生物部には同じクラスの川崎と東尾くらいしか知り合いがいない。川崎はいま席を外しているようだし、東尾はそもそも選管で忙しいからきょうは会えないだろう。取材をしていなければただの邪魔な一年生になってしまうので、取材という建前で黒板の前で話している中谷先輩と北本先輩に加わることにした。当然、投票用紙の紛失という事態が一体何だったのかが気になるからだ。生物部と生徒会の関係などから訊いていけば、ちょうど取材にもなるではないか。
「生徒会室で何かあると、生物部に訊きに来るんですか?」
このように訊けば生物部の取材ともとれる。我ながらよく考えた。
おれの質問に、ふたりの三年生がこちらを振り返る。
「そう。部屋が直線上にあるとお互い何をしているかが筒抜けだから」と中谷部長。
「ご近所付き合みたいなものだよな。どっちもほぼ毎日活動してるし」と北本会長。
先刻南委員長が出て行った中庭へと通じる扉の窓から見ると、中庭と教室棟の廊下とを隔てた向こう側に生徒会室がある。いまはそのドアが全開になっていて、中で開票のためか人影がごそごそ動いているのが見える。
ここは生物室――何枚かのガラス越しに生徒が動くのを見ていると、飼育箱を覗いているかのようだ。
ドアが開けっぱなしならよく見えるよな、とおれが呟いたのを、北本先輩が聞いていた。
「この時期はエアコンを使うと怒られるから、ああしてドアと窓を開けておくしかないんだよな。きょうなんか熱いから選管は汗だくなんじゃないか」
紙が風で飛んでしまわないようにするのが大変だった、と生徒会長は振り返る。
とはいえ、紙が飛ばされることがあっても部室棟にまで飛んでいき、しかも施錠された室内に入っていくことなどあるはずがなかろう。そうなると、誰かが生徒会室から盗み出して運んでいったということになる。それはいま話しているおれを含めた三人や、南先輩に共通している認識だ。
「でも、中谷先輩は生徒会室に誰かが入って盗み出していくさまは見ていないんでしょう?」
「ああ、見ていない。見ていたのは、南くんが部屋を出て選管たちが見回りから戻るのを待っていたところだけだ。ほかの部員たちもそう言っている」
中谷部長の言葉に、ふと思い出す。
「そういえば、北本先輩はどうして選管と一緒に?」
生徒会役員選挙の開票の場に生徒会の関係者がいてはいけないと考えるのが自然だ。
「それはもちろん、生徒会室を開けるには俺たちが鍵を借りて開けるしかないからだよ。ついでに部屋の使い方を教えないとね」
…………。
「もうひとつ。あの段ボールは生徒会室のものですよね?」
「うん、たぶんね」
北本先輩は頷いた。
もう一度、窓越しに生徒会室のほうに視線を向ける。テーブルいっぱいに置かれた投票用紙を、生徒たちが選別し記録している。何本もの手が机の上で忙しく動いているのが見える。ドアから覗く恰好になるこの場所からだと、全身が見えるのはテーブルの右側にいる生徒だけだ。あとは手だけが伸びて見える。
――なるほどね。
ハムスターの籠のところではまだ佐伯先輩と岡本が話し込んでいた。
話の内容というと、岡本がさっき部室に行っているあいだにプラナリアの実験が終わってしまったという愚痴で、どうして単純に二等分にしてしまったのだと文句を言って佐伯先輩を困らせている。
見ると、ハムスターに餌付けをしているようだったが――
「お、おい」
これはまずい、と思って岡本の腕を引っ張る。
なんだよ、と抗議する岡本に耳打ちする。
「佐伯先輩って虫が苦手なんだろう?」
岡本はそのとき小脇にミルワームの虫籠を抱えていた。ああ、と岡本はようやく気が付いたらしく、その籠を佐伯先輩から見えないよう背後のテーブルに置いた。当の佐伯先輩は青い顔をしてほっと一息ついているではないか。いまもハムスターが虫を咀嚼しているのか、籠からは目を逸らしている。
まったく、そのくらい気が遣えないのか――
「うわ!」
おれがいま引っ張った右手で、岡本はミルワームを一匹摘まんでいた。
「別に驚かなくても。いま持ってるやつはあげちゃうよ」
と、岡本はミルワームを投げ入れた。
「お、お前、素手で……! そういうのって、ピンセットを使うんじゃないのか……?」
「別に要らないよ、大きい種類じゃないし」
……根性があるんだな。
ハムスターの籠を覗き見る。この小動物が本当にミルワームを食べるのか、少々怖いもの見たなのか興味が湧いてしまった。見て後悔したのは言うまでもない。