3-2 生物部の変人
生徒会選挙のその日は、非常に蒸し暑い日であった。
衣替えにはまだ早い時期でも、男子を中心に多くの生徒がブレザーを脱いで体育館にごった返した。唯一の会長候補である二年生の二条榛名先輩がそれは素晴らしい演説を終えると、拍手が巻き起こる。その拍手には少なからず「もう会長でいいから早く終わろう」という意味合いが込められていたが、まだまだ支援者の応援演説や、副会長候補とその支援者の演説が待っている。しかも副会長立候補者は定員を超えている。
おれとしては、その演説よりもそのあとの投票の段階に飽き飽きした。演説はその内容に注意しなければならないし、第一人に聞かせるため有効な工夫が凝らされていて何かと聞き入ってしまう。それに比べて、クラス委員があたふたと投票用紙の記入方法を伝える演説のほうはひどいものだ。
何? 信任なら枠に丸をつける? あ、信任なら記入しないの? 何も書かなくていいんだね。はいはい。……で、候補者が複数いるときは、定員に合わせて丸を付けるのね。はいはい。
終いには提出が遅いからと見回っていた、同じクラスで選挙管理委員の東尾に手伝われていた。A4サイズとやたらに大きくて余白の多い投票用紙が回収されると、クラス委員は何分もかけて四〇枚ほどのそれらの数を確認し、こぼしてしまいそうに危なっかしく抱えながら教室を出て行った。
東尾はまた忙しく別のクラスの見回りに出かけて行った。実はこの東尾も生物部員である。
早く帰るなり部活に行くなりしたい生徒たちが多かったため、投票終了すぐに終礼がささっと行われ、あっという間に解散となった。さっそく、おれは生物部員のクラスメイトである川崎に声をかけた。角刈りで気さくな男子生徒である。
「ああ、岩出。きょうは取材だったな」
彼とともに生物室を目指す。生物室は特別教室棟の一階にあり、そこへ行くには渡り廊下を歩くなど一年生が使う教室棟の四階からは少々遠い道のりだ。道すがら話しているうち、川崎は昆虫に興味があって生物部に入部したのだとわかった。
「悪いけど、おれには虫に関心を持つっていうのはよくわからないな」
あはは、と川崎は笑った。
「生物部は変わった動物だけじゃなくて、変わった部員もいっぱいだからな。中谷部長なんかカエルの研究にご執心だぜ」
しかも部員たち数人と論文をまとめて、高校生の発表会で表彰されたこともあるそうだ。
「そういえば、新聞部って安斉先輩がいるのか?」
唐突に、青い顔で川崎がそう問うた。
「ああ、いるぞ」
「そうか……まあ、よろしく言っておいてよ。怖いよなぁ、あの先輩」
…………。
もう一年生にまで影響が及んでいるのか?
「あ、川崎だ! 遅いよぉ。ねえねえ、早くこっち来て川崎も見てみなよ。あのね、いまからプラナリアを観察するんだけどさ、川崎はどう切るのがいいと思う? 素直に頭と尻尾で半分じゃつまんないよね。せっかく切断するなら思い切り面白くしないともったいないじゃん。三等分かな? 縦に真っ二つ? やっぱりあたしだったら頭から切り込みをいくつも入れていっぱい首を生やしたいんだよねえ。でもみんな『普通に切ろう』って反対するんだよ、面白そうなのに。ねぇ、どう思う?」
はいはい、と川崎は呆れながらプラナリアの入ったシャーレを覗き込む。
しかし、ついさっき川崎から「変人がいる」と聞かされてはいたが、最初に声を聞いた女子生徒の時点でおれの想像しうる程度を超えている。髪をお団子にした彼女は小顔で目も大きく、どちらかといえばかわいらしい容姿なのかもしれないが、プラナリアの切り方で頬を上気させているのでは台無しとしか言いようがない。
川崎が困り果てた顔を見せる。
「こいつは同級生の岡本唯花。部内でも飛び切りの変人……というかもはや変態だから、こいつの言うことは何ひとつ気にしなくてもいいよ」
紹介を受けた岡本は「虫にぞっこんの川崎には言われたくないね」と、あかんべえ。
……おいおい。
「仲がいいんだな」
おそらく岡本唯花とは反りが合わないと直感したので、皮肉を垂れる。すると岡本と川崎は顔を合わせ、「誰がこんなのと」と互いを指さし睨み合う。大の高校生がこのレベルの言い争いである。
中谷部長はどの人かと川崎に訊いてみると、カエルの水槽は生物室の裏の準備室に置かれているので(カエルは気持ちが悪いと生物室で授業を受ける生徒から不評なので移されたそうだ)、そちらに籠っているのだろうという話であった。普段からあまり部員の前に出るタイプではないらしい。
適当に話すと、川崎は部室棟に行くと言って生物室を出て行ってしまった。部室棟に何か用事があるのか?
誰かが案内をはじめてくれるわでもないので、ハムスターを眺めていると、梶原先生がやってきた。おれが生物の授業を受けているのもこの先生だ。大雑把で小さなことを気にしない、若い男の先生である。髭を生やしているしビール腹なので実年齢よりもずっと老けて見えるのだが。
入ってすぐに佐伯という女子部員を呼び出した。しかし、いない。
生物準備室のほうにも顔を出したため、天然パーマの男子生徒――中谷部長が出てきた。中谷部長も梶原先生が探す生徒の所在はわからないそうだ。
「ううん、いま川崎にも訊いたけどわからないって言ってたしなあ」
曰く、その佐伯という二年生に、職員室の梶原先生の机の横にある荷物を部室まで運ぶよう頼んだそうだが、放課後になっても運ばれていなかったのだとか。
「うっかり忘れてたんだろうな。じゃあ、誰でもいいから代わりに運んでおいてくれよ」
梶原先生はそのまま踵を返そうというところで、中谷部長が言う。
「先生、佐伯を部室に行かせようとしたんですか?」
白衣の先生は立ち止まってぽかんとした表情を浮かべる。
「え? それが?」
「ダメですよ、佐伯は虫が大の苦手なのに。普段から部室には近づかないんです」
「あ、そうだっけ? あとで謝っておかないと。まあ、とにかく荷物は任せたよ」
豪快に笑いながら先生は去っていった。用事はそれだけだったようだ。
どういうことか中谷部長に訊いてみると、生物部は生物室とその準備室のほかに部室棟に部室があり、昆虫の飼育スペース兼飼料置き場として使っているのだという。川崎はそこへ虫の世話に行ったのだ。
梶原先生は月に何度か飼料などを取り寄せ、その段ボールを職員室に置いておくので、適当な部員が運ぶことになっているそうだ。
「しっかり者の佐伯らしくもないな。仕方ない、部室にはほかの奴が運ぼう。一年で決めて」
中谷部長がそう指示する。ええ、と不満の声が漏れる。
「だって、ついでにその新聞部員を部室に案内してやらないと。だから、一年ね」
おれは作り笑いをして曖昧な返事をするしかない。この畑と田圃ばかりの田舎町で育って比較的頻繁に自然と触れ合ってきたおれだが、大きな虫や見たことのない虫にはさすがに抵抗がある。あと、よく台所に出て来る「あいつら」とかも飼っているとしたら、できれば見たくない。
話はおれと部員誰かひとりで荷物を運ぶことに決まった。
一年生部員たちがじゃんけんを始める。
嫌な予感しかしない。