そこに在る誰か
第八章 そこに在る誰か
1
「今日はお招きいただきましてありがとうございます」
勧められたソファに座るなり、三崎準はまず頭を深く下げて礼を言った。
「形式的な挨拶は不要だ。顔を上げなさい」
その言葉を受けて、彼は折っていた身体を起こす。
正面の席には、約三秒前と変わることなくこちらを見ながら煙草をふかす下村久雄の姿があった。
エフエムマスカットの関係者を中心にして起きた殺人事件が一応の解決をしてから一週間が経過した火曜日。彼は午前中から下村妙子が所属していた事務所を訪れ、社長の久雄と二度目の面会を果たしていた。
一人娘を亡くした影響が少しはあるのではないかと彼は思っていたが、見る限りでは久雄には特に憔悴した様子がない。もちろん意図的にそう振る舞っている可能性もないとは言えないが。
「こんな朝早くから呼び出して迷惑ではなかったかね?」
「そんな滅相もない。社長のお話をうかがえるのであれば、私はいつでも喜んで飛んできますよ」三崎は愛想笑顔を浮かべて答えると続けて質問する。「それにしても、なぜまた私なんかを呼んでいただけたのですか?」
前回とは異なり、今回は久雄の方から凪森に連絡があった。前回はもともとその場限りのつもりで接触を図ったので、あちらからアプローチをかけてきたのは少し驚きだった。
騒動が収束した今、この件のクライアントである凪森は既に事件についての関心を失っている様子だった。
なので正直な話、久雄の相手をする義理はもう何一つない。
ただ、彼がこの件をどう受け止めているのかという点には個人的に少しばかり興味があったので、三崎はこの呼びかけに応じることにしたのである。
「君はこの前、事件の記事を書くと言ってた。あのときの口ぶりだと、事件が終わったあとの私の心境もきくものじゃないのかな?」
「ええ、たしかにその通りです。私も近いうちに事務所に連絡をさせてもらうつもりでしたが、まさかこんな早い時期に、しかも社長直々にお声をかけていただくとは考えてもいませんでした」三崎は話を合わせる。
「ちょうど予定していた会合がキャンセルになってな、今日のこの時間だけぽっかり余裕ができてしまってな」久雄が口もとを緩める。「それに、むやみに時間を引き延ばしたあとでは風化してしまうからな」
「風化、ですか?」
「生きている限り人間の脳には常に情報が入り込み、使用頻度の低い記憶は新しいものによってあっという間に埋め尽くされてしまう。そういった記憶は、時間が経ってしまうと掘り起こすのが困難になり、仮に思い出したとしても当時感じていたものから形を変わっていることが多々ある。だから早めに対処できるのであれば、何事もその情報が風化されないうちにしておいた方が良い。鉄は熱いうちに打て、という言葉もあるだろう?」久雄が落ち着きのある声で話した。
「……しかし、お言葉ですが今回の事件では社長のお嬢様が亡くなられています。そんなに大変な出来事が、簡単に風化されてしまうようなものなのでしょうか?」
「周りからも似たようなことを言われるのだが、私からすれば、だからどうした、というのが正直な気持ちだよ」
三崎の問いに、久雄が表情を変えることなく答える。
「例えば、私の寿命がもうすぐ尽きるのであれば、鮮明に刻まれたまま死ぬまで風化することはないのかもしれない。だが現実に私が死ぬのは、事故でもない限り早く見積もっても十年か二十年か、おそらくそれくらい先の話だろう。これからそれだけ長い時間を生きてゆくのだから、そのときになって振り返っても、妙子の死は他の物事と大差のないレベルの出来事として分類されるはずだ」
「ということは、今回の事件は些細なことだと?」
「私は妙子でもなければ、娘のために生きているわけではない。あれの母親が死んだときと同じで何もかも忘れてしまうことはないだろうが、だからと言って私自身がそれに囚われることもあり得ないと断言できる」
そう語る久雄はその口調も淡々としている。また彼が肉親を失った悲しみを無理に隠しているようにも見えなかった。
つまり、それが本心なのだろう。
やはり少し変わっている。
ソファに寛いで新しい煙草に手を伸ばす久雄を眺めながら、三崎はそれを再認識する。
「ある筋から聞いた話なのですが、お嬢様のお通夜はご遺体がお戻られる前にされたそうですね」
「そのことでもいろいろと言われているところだ。そういう奴らは、馬鹿の一つ覚えみたいに妙子が可哀想だと言っていたよ。ただそれがあまりにも定型的で滑稽すぎたものだから、不謹慎なのは分かっていたが私は式の最中に必至で笑いを堪えるしかなかった」久雄が苦笑いする。「人間は、心と身体が揃って初めて一つの生命体として成り立っている。つまり精神が消滅してしまえば、あとに残るのはただの肉塊だけだ。そんなものに情をかけたところで何の意味も為さない。それは、少し考えれば誰にでも分かることだと君も思わんかね?」
「たとえ、それが自分の子供であったとしてもですか?」
「当然だ。血の繋がりなどというものは、言ってみれば感傷的になるための単なる要素でしかないのだからな。他の奴らは、自分の知る者が死体になったあとでもなお感情移入をやめようとはしない。そしてその多くは、それがただの自慰行為でしかないことさえ理解できていないように思える。実に愚かだな。まさに愚の骨頂だ」久雄が皮肉たっぷりに言う。
「海外の人たちは、比較的その辺りを割り切って考えていると聞いたことがあります。日本人にそういう傾向が強く見られるのは、やはり文化の違いというものなのでしょう」
「とにかく、私は妙子ではなくなったもののことなどもうどうでもよかった。葬式などという形式的なものも時間と金と労力の無駄でしかないと私は思うが、結果的に火葬には間に合ったのだから最低限の世間体は保ったと評価している」久雄が言った。
「ではそのお考えですと、社長にとって重要なのは肉体ではなく、そこに宿る精神ということになるのでしょうか?」
「肉体はあくまでも精神を守るための鎧みたいなものだ。でなければ、目に見えないそれを分かり易く可視化させるための器と表現してもいいかもしれん。人の精神、つまり思考や感情とは、脳から作り出される電気信号で出来ているわけだからな」
「なるほど」三崎は頷く。「ところで、社長はお嬢さんを殺した犯人をどのように捉えているのですか?」
「どのように、とは?」
「彼が二重人格ではないかという噂はご存じだと思います。そして、社長は身体と心が揃えば一人だと仰りました。だとしたら、社長から見て人格を二つ持つ彼は果たして一人と呼べる存在なのでしょうか?」彼が尋ねる。
「うん。そうだな……」
そこで久雄はテーブルの灰皿を引き寄せて煙草を揉み消すと、腕を組みながら三崎から目を逸らす。彼は目を細め、首を傾け、集中しているのか眠たいのか判断しづらい顔をする。
「……一人であり、また二人でもある」
しばらくの間ぼんやりと天井を見上げたあとで彼が不意にそう呟いた。
「それは、どういう意味ですか?」
「本当に二重人格というものが存在するのであれば、それがどのようにして誕生したのかによってそれは異なる。もともと一つだったものが何らかの理由で袂を分けて二つになったのか、それとも偶発的に一つの身体に二つの精神が最初から存在していたのか、という意味だ」久雄が凪森に答える。「だがそれは単なる捉え方の違いであって、実際に第三者からの見え方としてはどちらも同じ。まるで二人いるように感じることには変わらない。つまりこれも些細な問題でしかない。一人だろうが二人だろうが、他人がその人間を認識するときはどちらでも大差はないと私は考えている」
「はぁ……」
「納得できない顔をしているな。私が誤魔化しているとでも思っているのか?」
「いえいえ、そんなことは」
三崎は懸命に首をふって否定する。
しかし、本音を言うとその指摘は図星だった。
きっと久雄も自分が何を言っているのか分かっていないのだろう思ったが、それは決して口には出さなかった。
「……では、最後にもう一つご質問させていただいてよろしいでしょうか?」
久雄との間に微妙な緊張感ができそうだったので、三崎は強引に話題を変える。
「社長は、武井光にどういった刑を望みますか?」
「そんなものは何もない」久雄が答える。
「何もない……、というと?」
あまりにも即答だったので、彼は訝しげに目の前の初老の男を見つめる。
「彼は殺人を犯し、そして警察に捕まった。そうなれば、あとは法律に則って適正な判断の下で罰が与えられるだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「しかし、犯人のことが憎くはないのですか?」
「憎んだところで死者が甦ることはない。また仮にそんな下らない私的感情を持ったとしても、それが犯人に課せれる刑の重さに加えられることもない。いや、そんなことはあってはならない」久雄が低い声で言う。「たとえこの件で世間が納得いかないような判決が出たとしても、それは犯人のせいではなく、そういった制度を作った社会と今までそれを容認してきた我々の責任だ」
彼はそこで煙草に火を付ける。
「念のために言っておくが、今のは別に妙子が角南君を殺したことを擁護して言っているわけでもない」
「ええ、それは分かっているつもりです」三崎が頷く。
「本来なら娘も法の下で裁かれなくてはならなかった。私も妙子が角南君に殺意を持った理由を想像できていないわけではないが、それを妄想までに留められずに、実際に行動を起こしてはいけないことなのだ。この社会の中で暮らし、そこから生まれる恩恵を享受しているにも関わらず、定められたルールに逆らうというのは決してあってはならない」
そこまで一気に言うと、久雄はしっかりと凪森を見据える。
「もしや君は、犯人には死刑になってほしいというコメントでも欲しかったのかね?」
「いえ、別にそういうわけでは……」
「もし犯人を悪に仕立て上げたいと思っているなら、その考えは改めるべきだ。それをしてしまったら最後、今度は君自身が加害者になり、それと同時に罪人は一瞬にして孤独な被害者へと変わってそれまでの立場が逆転することになるだろう。悪を討っているつもりで、実は知らず知らずのうちに自らが悪になるという構図だな」
皮肉な笑いを浮かべた久雄がすぐに真顔に戻って続ける。
「犯人が二重人格だろうがなんだろうが、そしてこれからどうなろうと私には一切関係がない。たしかに優秀なビジネスパートナの一人と娘を失ったのは大きな痛手だったが、この世界で生きている以上、誰がいつ死んでもおかしくのは暗黙の定説だろう。角南君と妙子の場合は、単にそれが今だったというだけのことだ」
「たとえそれが理不尽な理由で命を奪われたとしても、ですか?」
「無論だ。ならきくが、何か理由さえあればどんな殺人でも肯定して良いのかね?」
そこで逆に問いかけられると、三崎は言葉を返すことができない。
久雄が続ける。
「人生を全うするという言葉は、なにも長く生き続けた者だけに送られるものではない。寿命というのは人が産まれてから死ぬまでの期間のことを指し、それに至るまでの原因は考慮されない。自然死でも不慮の事故でも、はたまた人為的な殺人でも、死んでしまえば結果的には全て等しいものなる。その事実に賛美や憐憫の情を抱くのは当事者ではない人間の卑しいエゴでしかなく、納得できるできないなどという感情論を持ち込むのは死というものを直視できていない証拠、つまり生きている者の甘えだな」
そう言い切ってから久雄が煙草を咥える。
三崎は、そのあとで吐息と共にゆっくりと紫煙を漏らす彼の姿をじっと眺めていた。
実にシンプルな考え方だと思った。
世間ではそれを非情だと言う者が多くいるだろう。だが、人が直面する現実にはそもそも情など含まれていない。本来そこには、何かの原因とそれによる結果しか存在しないものなのだ。ところが人間は、そこに感情という名の異物を持ち込み、自分たちが納得できる形へと事実を上塗りしてしまう。それによって、ごく簡単な物事でさえもその本質を見定めるのが困難になってゆく。
一連の事件で謎だとされていた事柄も、実際のところは全てがなんの変哲もない、ごくありきたりな現象でしかなかった。それなのに誰もが不思議だと感じたのは、それぞれの当事者たちの誤解や思い込みといった人間独自の情動作用がもたらした結果であると解釈できた。
「他に何かききたいことは?」
長い沈黙のあと、一服し終えた久雄が声をかけてくる。
「いえ、私からはもう」
そこで思考を中断させるとにっこりと笑顔を浮かべて礼を言う。
「お話ありがとうございました。おかげで良い記事が書けそうです」
「嘘はつかなくていい」
すると、すかさず久雄が言った。
見たところリラックスしているようだったが、目つきだけは鋭い。
「嘘? それはどういうことでしょうか?」
落ち着いた口調で凪森が言う。
ここで表情を変えるのは厳禁だ。営業スマイルを維持する。
「無理に隠す必要はない。初めて会ったあとでいろいろと調べされてもらったが、私が知る限り、あの時点でこの事件を取り上げようとしている出版社はまだ一つもなかった。また、三崎準というフリーライタの活動記録も何一つも見つからなかった。つまり君は身分を偽って、今、私の前に座っている。君は一体何者かね?」
久雄が真面目な顔で問いかける。
「身分を偽るなんて滅相もない。それは何かの誤解ですよ。もしかしたら、お調べになられた情報が間違っていたのかもしれません。ああいったところにはそういった管理が杜撰だという噂を聞きますし、それに私はこれまで細々とした記事しか請け負っていませんでしたので、単にあちらもうろ覚えだったのでしょう」
三崎は白を切ってみせたが、それが目の前の相手に効果があるとは思っていない。
彼は頭を巡らす。
久雄を除くと、オフィスの中には事務員と思われる女性が数人いるだけなのは訪問したときに確認していたので、やろうと思えば強引に逃げることは可能だと思った。また、以前渡していた名刺に書かれた電話番号は使い捨てだから足が着く恐れもおそらくない。
それらの理由から、偽装がばれた場合の焦りや危機感はさほどなかった。
彼がまず思ったのは、自分はそんな偽名にしていたのか、という程度の感想だった。
「それに、仮にもし社長の言われることが本当だとすると、貴方はなぜ私を不審人物と分かった上でこんな話をなさったのですか? どうやら私たちが話している間に警察を呼んでいるようにも見えませんし」彼は笑顔を崩さずに続ける。
外の様子は特に慌ただしくはなっていない。
ここは芸能事務所だ。
もしそんな場所で警察沙汰があれば、それこそスキャンダル好きな雑誌の餌食になってしまい、会社にネガティブな印象を植え付けられる可能性がある。世間的なイメージが大事な企業としてはそういったリスクは避けたいだろうという打算もあった。
「そちらこそ誤解しないでほしい。今のはただ興味本位できいただけのことであって、別に無理にその回答が欲しいわけではない。言いたくないのであればそれはそれで構わん。私としては、今の話を我が社の不利益になるような形で公表しなければ、君が何者であっても追及するつもりは一切ない」久雄が言った。
「でしたらもう一度お尋ねしますが、なぜわざわざ私にこんな話を?」
「うん……、単なる気まぐれ、といったところかな」
その問いに久雄は口を斜めにして答える。
「誰かに一度こんな話をしてみたい気分だった。だがうちの会社の人間にしたいとは思わなかったし、本物の記者なんかに話したら大なり小なりその影響が出るのは目に見えている。ならば、なんの関係もなさそうな奴に話し相手になってもらうのが一番手っ取り早い気がしたというわけだ」彼が言う。「しかしその程度のことで君のような者を呼び出したということは、私も今回の件でそれなりに感情的になっていた証拠かもしれん」
久雄は悪戯っぽい笑いを浮かべる。
それは彼から醸し出される威厳ある雰囲気とは対照的なもののように思われたが、意外にもマッチングしていた。
「しかし、仮に私がこのことをどこかに流す可能性だってあるのではないですか?」三崎が言う。「そしてそこから話が脚色されて広まってしまうと、場合によってはこの事務所にとってマイナスになると思いますが」
「そのときは最初の出所になりそうな場所を全て押さえておけばさしたる支障にはならない。下村久雄という名前を舐めてもらっては困る。それくらいの根回しは造作もないことだ」
すると久雄が笑みを消して話す。その瞬間が、今までで一番好戦的な目をしていた。
「もちろん今のは冗談です。失礼しました」
正面からの強いプレッシャを感じつつも、三崎は余裕の表情を維持したまま言う。
その次に、彼はふと久雄の後ろにある窓に目をやる。
開け放たれたブラインドの向こうには、今すぐにでも雨が降りそうな空模様があった。
2
電車が駅で停止すると、宮房俊樹は急いでそこから飛び出して駅の脇にある横断歩道を渡りきった。
朝からなんとか堪えていた空は、彼が会社のビルを出た途端にぽつぽつと雨粒を落としはじめていた。
俊樹は、自分が俗に言う雨男であると思っている。
昔から外に出かけるイベントがあると、その当日はかなり高い確率で悪天候になっていたという記憶が何度もあった。
特に酷かったのは高校生のときで、体育祭の直前に大型の台風が彼の住む地域を直撃したせいで停電が二日近く続き、激しい暴風雨のせいで近所のパチンコ店の屋根の一部が剥ぎ飛ばされそうになったという出来事があった。また比較的近年だと、大学時代に所属していたサークル活動も練習日には決まって曇りや雨だったという印象が強い。
それらに比べると、今のこの天気は数日前から予測できていたものだったので、雨男云々というのは適用されないかもしれない。さらに言えば、今日の彼はただ単に傘を忘れていただけでもある。
(もしかしたら、実はタイミングが悪いだけなのかもしれない)
ふとそんな思いがよぎったが、それでも彼は雨に打たれるといつも自分の境遇に顔をしかめるようになっていた。
幸い雨足はまだ弱く、傘がなくてもそこまで濡れる心配はなさそうだ。
俊樹はジョギング程度のスピードで大通りの突き当りを曲がった。
火曜日の午後。恒例の通院日である。
梶の診断を受けはじめて既に一ヶ月以上が経過している。
以前は仕事のことを考えて眠れない日も多かったが、今はそういったこともなくなって肉体的にも精神的にも安定している。このままこの生活を現状維持していいのかもしれないと彼は時折思うことがあったが、その分会社ではプロジェクトの補助的なポジションで働かされることが多くなっており、本音を言えば若干仕事に物足りなさを感じていた。
「雨、大丈夫だった?」
声をかけられたのは、彼が烏城クリニックのある建物に到着したときだった。
「霧雨で助かったよ」
息を整えながら答えると、俊樹はビルの入口で待っていた村瀬千寿留に顔を向ける。
全身に雨を受けている彼とは違い、千寿留はスニーカとジーンズの裾が濡れている程度だった。その手には以前見かけた水色の傘がしっかりと握られている。
彼女は先週解決した事件のことで梶から話を聞きがっていた。そこで俊樹が梶にそれを伝えたところ、彼を診察するときなら時間が取れるという答えが返ってきた。
そういうわけで、今日は千寿留も同伴している。
時間もいつもより早く、彼女が昼休みを取っている最中に予約を入れていた。
「宮房君、傘はどうしたの?」
「いやぁ、実は家に忘れちゃって」
彼女の指摘に俊樹は苦笑するしかなかった。
「下村さんの車のことだけど、やっぱりドアの部分が故障してたらしいわ」
ロビィでエレベータを待っていると千寿留が話しはじめる。
「あれから警察が彼女の車を使って試してみたら、普通の鍵なら問題なかったけど、リモコンを使ってロックしようとしても運転席のドアだけが作動しなかったんですって」
「凪森が言ってた通りだったってわけか」
俊樹の呟きに彼女が頷く。
「詳しく調べてみたら、どうもあの車、前に事故を起こしていたみたい。一応修理はしていたそうだけど、あの車を譲った人は下村さんにはそのことを内緒にしていたみたい」
「事故車だったのか……、じゃあドアの不具合はその事故のせいだったのかもね」
「直接原因かどうかまでは分からないけど、たぶんそうだろうって井沢さんは言ってたわ」千寿留が言う。
俊樹はそれを聞いてたまらず溜息をついた。
烏城クリニックのドアを開けると、二人は待合室の椅子に並んで座る。
院内のほんのりとした優しい雰囲気は何も変わっていない。だが、つい先日までいたはずの妙子と光の姿が見当たらない部屋は以前よりどこか少し物悲しく思えた。
「宮房さん、どうぞぉ」
これといった会話もなく二人が待っていると、しばらくして診察室から梶が顔を出す。
俊樹はその声に応じて腰を浮かせると、次に隣の千寿留に視線を送る。
彼女は腰を下ろしたまま梶を見たあとで、戸惑うようにこちらにも目を向けていた。
「ああそうだったわね」
梶は千寿留の様子を見て気づくと、そのあとで俊樹に尋ねる。
「どうする? 診察は一人の方が良い?」
「いえ、僕は一緒でも構いませんよ」俊樹は梶と千寿留を交互に見てから答える。
「だったら二人まとめていらっしゃい」
梶は小さく笑みを作ると、自分は部屋の奥へ引き返した。
俊樹は千寿留に向かって一つ頷く。そして、それを合図に彼女が立ち上がるのを確認してから診察室に移動した。
千寿留がいるからと言って、梶の診察はいつもと変わらなかった。
これまでと同様、健康状態や日常の生活状況などの質問が続いたあとで、俊樹は現在の心境を梶に話した。
「要するに、そろそろ制限を解除したいってことかしら?」
「できることなら、ですか」俊樹が答える。「あの、それは別に今の仕事が溜まってるからとか、職場で肩身が狭いからって理由ではなくて、純粋にもうちょっと働きたいなと思ったからなんです。ここに来る前までの僕は目の前の仕事を片付けるのが精一杯でそれ以外は何も考えれずにいましたけど、今は先生の診察のおかげもあって、多少は自分の状態を観察できるというか、こう、全体的なバランスみたいなものを意識しながら働くことを覚えてきていると思います。そして今の制限の中だと、それが上手く機能しているような気がするんです。まだこの状態を続ける必要があると先生が判断されるのであれば仕方ないですけど、僕個人としてはそろそろ次のステップに行きたいなと。以前よりも余裕ができたおかげで仕事をする意欲も出てきていますし、それにこの状況に長く慣れすぎてしまうと、元の勤務状態に戻ったときに身体がついていかなくなるかもしれないって不安もありますし」
「その気持ちは分からないでもないわ」梶が相槌を打つ。
「ですから、今度は自分をコントロールすることを念頭に置きながら通常の勤務状態で働いてみたいんです」
「うーん、そうねぇ」
俊樹がそう言うと、梶は腕を組んで小さく唸る。
(切り出すにはまだ早かったかもしれない)
終始渋い顔をしている梶を見つめながら俊樹がそう思う。
「やっぱりまだ駄目なんでしょうか?」彼は少し落胆して尋ねる。
すると、そこで梶の口調が急にトーンを変える。
「なんてね」
彼は口もとを緩めて言った。
「うん、それでいいんじゃないかしら。貴方はもともと鬱にかかる手前の段階だったわけだし、私がこの一ヶ月半近く様子を見た感じでは、ひとまず悪い方には向いてないでしょうから」
「本当ですか!」
「ええ。今、貴方自身が話したようなことを自覚しはじめているのならきっと大丈夫だわ」
梶はそう言って頷くと、椅子を回転させて机に身体を向ける。
「来週から通常の勤務ができるように診断書を書いてあげる。それでいいわね?」
「ありがとうございます」俊樹は深く頭を下げた。
「良かったわね」
「うん」彼は千寿留にほっとした顔を見せる。
「でも油断は禁物よ。いくら意識するとは言っても、これからまた忙しい生活になるのは目に見えているんだから、少しでもまずいと思ったらすぐにブレーキをかけて、一度冷静になって自分の状態を確認すること。あと、あまりいろんなことを気にしないようにすることね。貴方は責任感が強い方だから、多少怠けると感じるくらいがちょうど良いと思うわ。分かった?」
「はい。肝に銘じます」
「村瀬さんは仕事仲間だったわよね?」梶が手を動かしながら千寿留にきく。
「そうです」
「だったら、できれば宮房さんの様子を見ていてもらえないかしら? 彼の性格からして、気づかないうちにどこかで無理をするだろうっていうのは簡単に想像できてしまうから、そんなことがないように監視してくれれば嬉しいわ」
「分かりました。私が見れる範囲でならですけど」
「よろしく頼むわね」梶が千寿留に微笑んだ。
俊樹はその二人のやりとりに苦笑するしかなかったが、そのあとであることに気づいて口を開く。
「それじゃあもしかして、診察も今日で最後ってことですか?」
「ええ。でも不安に感じたらいつでもにいらっしゃい。サービスするわよ」梶が答える。
「……先生、そういう冗談はやめてください」
片目を瞑って話す彼に俊樹は半ば呆れ気味に言った。
「あら、ちょっと不謹慎だったかしら。ごめんなさい」
梶はすぐに謝るが、そこには悪びれもなく澄ました顔があった。
その一連の動作がオーバーリアクションだったせいか、隣の席に座る千寿留がくすくすと笑いはじめる。
「……光ちゃんもね、この前私にそんな笑顔を見せてくれたわ」
千寿留を見た梶がぽつりと呟く。彼は既に真面目な表情になっている。
「それは、いつのことですか?」
「一昨日の日曜日よ。私はあの子のことを診ていたから、警察に呼ばれていろいろと事情を聞かれたの。そのときにちょうど光ちゃんと面会ができてね……。それで今みたいにふざけて冗談を言ってみせたら、あの子、貴女みたいに笑っていたわ」
千寿留にそう答える梶の声は、どこか悲しげに響いた。
「私、一度先生にお聞きしたいことがあったんです。もしかすると、先生は武井さんが犯人じゃないかと初めから気づいていたのではないですか?」彼女が尋ねる。
「確証は何もなかったわ。けどあとのとき、光ちゃんがあんなところに立っていたからとても嫌な感じはしていた」
「そうか。先生は武井さんが男だって知っていたんですもんね?」
そこで俊樹が呟く。
居酒屋の騒動で俊樹たちが現場に駆け付けたとき、光は紳士用ではなく婦人用のトイレから出てきたところだった。そしてその際に、光の姿を目にした梶が思わず顔をしかめたのを俊樹は今もはっきりと覚えていた。
あのときは酷い場面に遭遇してしまったこと、そして角南の遺体を見て絶句している光の心情を思い計っての表情だと考えていたが、今思えば、男性である光が場違いなところに立っていたことに違和感を覚えていたのだと推測できた。
「最初は何かの間違いだと思った。例えば女性の方の光ちゃんが、ついそっちに足を向けちゃったんじゃないかとも考えたわ」梶が言う。
「どうして武井さんが男だと教えてくれなかったんですか?」
「患者さんのプライベートな情報を守るのは医者としての義務だからよ。それに、光ちゃんの場合は女性として振る舞うことの方が多かったから、それが当たり前になっていた部分も少なからずあった。最近はあの子に別の人格があるという意識も少し薄れていたわ」
「先生は、以前から武井さんの二重人格を治そうとされていたのですね?」
「正直な話、光ちゃんが精神分裂症を患っているのかどうかは、私も未だにはっきりとは判断できていないの」梶が千寿留に答える。「最初にあれを見たとき、私は光ちゃんが悪ふざけをしてるいのだと思った。さすがに今はそんなこと思ってないけど、それでも本人の思い込みが原因で無意識のうちに二つの性格を演じているだけなのではないかとは疑っているわ。だから私がしていたのは、治療というよりはあの子自身にそのことを少しずつ理解させることだった。自分を知ってもらうことで、いずれ症状が解消できるのと考えたのよ」
彼は椅子の背に深くもたれかかると、真剣な顔をして話しはじめる。
「初めのうちは順調に進んでいたわ。男性の意識とは違って、女性の光ちゃんは他人とコミュニケーションを取ることがとても苦手な子だったけど、時間をかけていくうちに心を開いて、自分自身についても少しずつ話をしてくれるようになっていたわ。でもラジオ局で働き始めるようになると、急に塞ぎ込んでしまったのよ」
「武井さんは、角南さんから嫌がらせを受けていたそうです」
「光ちゃんはどうもその人に言い寄られていたらしいわ。あの子はもともと綺麗な顔をしているし、女の子のときには女性物を着てメイクもばっちりしていたから、すっかり勘違いされちゃってしつこく口説かれていたみたい。あの子はそれが嫌で仕方がなかったけど、はっきりと自分の気持ちを口にできなくて悩んでいた。でもあるとき、それを見兼ねた男の方の光ちゃんが、彼女の代わりにその人に向かってはっきりと拒絶したらしいの。でも結果的にそれが裏目に出て、それまで光ちゃんに甘くしていたその人は急に態度を一変させてあの子を苛めるようになった。彼は職場の権力者だったらしいから、まさか若い小娘に断られるとは思っていなかったんでしょうね。その自尊心を傷つけられたこともあって、光ちゃんはかなり酷く扱われていたそうよ。それでも、あの子はできる限り我慢していたみたいだけど、最終的にはストレスからくる体調不良が原因でその仕事を辞めるざるを得なかった。そしてそれ以来、あの子は精神的なストレスをずっと抱え込むようになってしまったの」梶が話を続ける。「ラジオ局辞めると光ちゃんの体調も回復に向かいはじめて、しばらくしたらまた新しい仕事をはじめることができるようになったわ。だけど少しすると当時の辛い記憶が甦ってしまうらしくて、そうなるとあの子はもう職場に行けなくなったわ。きっと働くことがそのストレスのトリガになっていたんでしょうね。そんなことを繰り返していたから、ここ半年くらいの光ちゃんは何か仕事をするでもなくここに通うだけの生活をしていたの。例の出来事があって以来、男の光ちゃんはさらに顔を出さなくなって、女の光ちゃんも心を閉ざしはじめるようになってしまったわ。宮房さんには前に話したけど、カウンセリングっていうはお互いの協力があって初めて成立するものだがら、患者さんが対話を望まなくなると状況を進展させることは難しくなっていくの。私はそうならないように何度も話しかけていたのだけど、光ちゃんがそれに応じてくれることはほとんどなかった。自分の中だけで全てを完結させているようだったわ。だから、最近はあの子にどう接していけばいいのか分からなくてずっと困ってた。そして、そのことで悩んでいるときに起きたのがあの居酒屋の事件だったの」
彼は嘆息すると、数秒間目を瞑ったあとでさらに話す。
「事件現場にいた光ちゃんを見たとき、万が一のことを疑わなかったのかと言われればそれは嘘になるわ。でも私は、それは悪い方に考え過ぎだろうと思ったのよ」
「そういえば、先生は僕に忠告をしてくれていましたよね?」
「いつ?」
「ほら、村瀬さんが襲われたあとにバーサーカの話をしてくれたときです」
俊樹は彼の目を見ながらそう答えた。
「もし光ちゃんの仕業だったとしたら、そこまで歪んでしまった心に対して私は医者として何もできなかったことになるわ。もちろんあの子が犯人だとは思いたくなかったし、そんな真似ができる子じゃないと信じていたけど、それ以上に自分の無能さが公に知られることの方が怖かった。だから、あそこで殺されたのが光ちゃんの状態を悪化させた人物だと聞いたとき、私、凄く不安になっていた。けど、かと言って警察に光ちゃんを売るようなこともはできなかった」
「だから、それとなく武井さんの可能性を僕に気づかせようとしていたんですね」
「抽象的に話すしかなかったから、全然伝わってなかったみたいだったけどね」
梶が苦笑いを浮かべて言った。
「あの頃から、私は光ちゃんのことが気になっていたわ。妙子ちゃんのお通夜があると聞いたときも、光ちゃんは自分から式に出たいって私に言った。あの二人は仲が良かったからそれは当然だとは思ったけど、普段は自分から積極的に何かに関わろうとしない子だから、、もしかしたら何かあるのかもしれないと思った」
「そういえば、僕が武井さんに乗せられていた車は先生のものだったんですか?」
「ううん、あれは光ちゃんの車よ。私、あの子が車を持ってるなんて全然知らなかったわ」
「あの車はレンタカーだったと警察が言っていました」
「そっか……。じゃあ、私には嘘をついていたのね」
補足する千寿留を見て、梶がまた溜息をついた。
「あの夜はできるだけ光ちゃんの近くにいるようにしていたけど、ほんの少し目を離した隙に見失ってしまっていたの。式が無事に終わって、あとは帰るだけだと思って油断したのね。ロビィや会場を探し回ったけどあの子はどこにもいなかった。そのあとで駐車場に行ったら、光ちゃんの車はもうなくなっていたわ。私はそこでようやく悪い予想が当たってしまったんだって気づいたのよ」
「あたしたちが先生に連絡したのは、ちょうどその頃ですね?」
「そうよ。私がしばらく途方に暮れていたときに、貴女たちから電話がかかってきたわ」
「え、何それ?」
そのとき俊樹が口を挟む。
「その話、初めて聞くんだけど」彼は隣の千寿留に向かって言う。
「あたしが宗像さんたちと合流したあとで、井沢さんの携帯電話に警察経由で凪森君から連絡がきたのよ。梶先生と連絡を取って欲しいって。それでどうしたのかと思って事情をきいたら、彼、武井さんの性別が知りたいって言ってね。あれを聞いたときは、あたしたちも何がなんだかさっぱり理解できなかったわ」
「そんなことがあったんだ」
「うん。でも凪森君は事件に関する重要なことだって言ってたから、とりあえず先生に確かめてみたの。そこで武井さんが男だと分かって、それでも充分驚いてたのに、凪森君にそれを伝えたら今度は彼が犯人だなんて言い出すもんだから、あのときは皆であっけらかんとしていたわ。凪森君とはそのあとすぐに合流したんだけど、武井さんを探すためにお通夜の会場に戻ってみたら、会場にいた警察の人からちょっと前に武井さんと宮房君らしき二人が建物から出て行ったって聞かされたものだから、急いであの辺りで人気の無さそうな場所を回っていたのよ」千寿留が説明する。「でも本当に間に合ってよかった。食事会の前で帰った人が少なかったおかげで、見張りの人も宮房君たちの車が走っていった方角まで覚えていたのが早期発見に繋がったって宗像さんも話していたわ」
つまり、もしそのときに目撃されていなかったら自分は殺されていたということになる。
そう考えると、俊樹は改めて身が引き締まる思いがした。
「あとになって、例の角南さんを殺したのが妙子ちゃんだったって聞いて、私もの凄く驚いたわ。ただそれが、彼女がここに受診していた理由の一つだったことも知っていたから、それなりに納得もできた。人殺しなんてしちゃいけないのは重々承知のつもりだけど、私は彼女が苦しんでいるところを見ていたから尚更ね。けどその妙子ちゃんも光ちゃんに殺されちゃったわ……」
梶が暗い顔をして言う。
「今回のことは、私にも少なからず責任があるわ。本来なら患者さんの精神状態を診ながら、こういった非常事態を未然に防ぐのも医者の大きな役割なのに、私はそれを果たすこともできずに犠牲者まで出してしまった。もっと二人のことをケアしておけばこんな事件は起こらずに済んだのかもしれない。そう思うと、今まで自分がやってきたことの無意味さに失望するしかないわね」彼は力なくうなだれる。
「それは違いますよ。だって先生は言ってたじゃないですか。心の治療にはお互いの協力が大事なんだって。人が考えていることは誰だって、ときには本人でさえ理解できていないことがあります。だからはっきりと言葉で伝えてもらえない限り、他人の気持ちなんて分かるわけがないんです。少なくとも僕が見てきた中では、先生はあの二人を理解しようとしていましたし、二人もそれを受け入れていたと思います」
「私も別に手を抜いていたわけじゃないわ。医者としても友人としても、あの子たちと真剣に接してきたつもりよ。だけど、それでもこんな酷い結果になってしまったってことは、つまりそれでもまだまだ努力が足りなかったってことなのよ」
口調を強めて言う俊樹に梶がそう言い捨てた。
そのとき、二人のやりとりを黙って見ていた千寿留が口を開く。
「他人に踏み込まれたくない領域というは誰だって必ず持っているものだと思います。そしてそれは、たとえどんなに親しい間柄になったとしても決して打ち明けることはありません。なぜなら、自分以外の人はみんな他人だからです。友達だって恋人だって家族だって、どんなに心を通わせることができても決して自分と等しくなることはありません。今回の事件で下村さんと武井さんがしてしまったことは、きっとその領域にあったものが表に出た結果だったのではないでしょうか? だとしたら、それは先生がいくらフォローしたところで防ぐことはできなかったでしょう」彼女は冷静な声で続ける。「もちろん、こんなことが起きたのにそれを仕方がなかった、どうしようもなかったという言葉だけで済ませられるとは思っていません。ですが、本人たちからの積極的な働きかけがない限りその予兆を完全に見抜くことは誰にもできなかったのではないかとあたし個人は思います」
「人間は目に映るものしか見ることができない。だから見えない心を察したり、理解できたと思えるのは錯覚、いや、単なる自分勝手な妄想でしかないってことね……。だとしたら私は、いつの間にか一般人よりも他人の内面を知ることができると思いあがっていたんでしょうね。これって、たちの悪い職業病だわ」
梶が自嘲する。
その笑みからは彼の虚しさを感じることができた。
「でも、やっぱり私はそれでも自分を責め続けるでしょうね。だって、あの二人は私の大切な友人なんですもの。そんなことしても事実が変わるわけでも時間が巻き戻されるわけでもないし、何の意味もないただの自己憐憫だってことも分かってはいるのだけど」
彼は俊樹と千寿留を見てそう呟くと、遠い目をして大きく吐息を漏らす。
「どうして、こんなことになってしまったのかしら……」
3
俊樹と千寿留は、梶との話を終えるとすぐに烏城クリニックを出ることにした。
あの様子からして、彼はしばらく立ち直れそうにないだろう。
しかし、ある程度なら時間が解決してくれるのはずだと俊樹は思っていた。
たとえそれがどんなに辛く悲しい記憶だったとしても、そのとき受けたショックは次第になりを潜め、新しい記憶や刺激に気を取られているうちに当時の生々しい感情は凍結されてゆく。そのショックがあまりにも強い場合は傷痕が残るかもしれないが、それもさらに時間をかけることで大抵は気にならなくなる。つまり、人が受ける傷は肉体的なものでも精神的なものでもほとんど変わらないのである。
今の梶は傷を負った直後の状態だ。その傷口が凝固をはじめて、かさぶたを形成するのはまだ先の話だろう。だから、しばらくは妙子や光のことを反芻する度にむず痒くて腫れぼったい箇所を掻きむしることもあるはずだ。けれど、いつまでもそこから血が流れるわけではない。もしかしたらそれが痣になっていつまでも記憶に留まるかもしれない。だが仮にそうなったとしても、ふと思い出したようにその痣を見つめたとき、そこから感じる過去の苦く哀愁のある記憶に一種の愛おしさを感じるようになるはずだ。
要するに、そうなるまでに彼がその傷とどう付き合っていけるのかによるのだろう。
「それじゃあ、あたしは会社に戻るから」
一階に降りたところで千寿留が言った。
俊樹は会社を早退していたが、彼女は昼休みを使ってここに来ていただけだ。これから職場に戻って仕事をしなければならない。
「間に合いそう?」俊樹は腕時計を確認する。
おそらくこのまま一直線で帰ったとしても午後の始業ぎりぎりだろう。
「ちょっと遅れるかもって伝えてあるから、軽くお昼を食べてから帰ってもたぶん何も言われないと思うわ」
「あぁそうなんだ」
それを聞いて彼は安心する。
「でも、僕だけこのまま帰るっていうのは、なんだか後ろめたい気分だなぁ」
「何言ってるのよ。来週になったらどうせ仕事がいっぱい割り振られるんだから、今週はゆっくりしておいた方が良いに決まってるじゃない」
俊樹が申し訳なさそうに言うと、千寿留がすぐに言い返してくる。
「うん、それもそうだね」
「そうそう。怠けれるうちに怠けておかなくっちゃ」
彼女はそのあとで彼に向かってにっこりと微笑んだ。
ロビィを抜けて外に出てみると、雨はさきほどより強くなっていた。
「どうするの? 悪いけど、傘は貸せないよ」
ビルの庇から本降りの空を見上げて千寿留が言った。
俊樹とは違い、彼女は自転車でここまでやって来ていた。
近いとは言えなかったが、ここから会社まではそこまで遠くもない。電車の待ち時間などを考慮すれば、その方が幾分早くて融通も効く交通手段だった。
「それなら大丈夫。なんかさ、凪森が車で送ってくれるらしいんだよ」
「凪森君が?」
「うん。あいつ、今日は朝から出かけるらしくて、その用事が昼までに終わるからそのついでに飯でも食おうって話になっててね。ここの場所は言ってあるから、たぶんもうそろそろ来るとは思うんだけど」俊樹はこちらに目を向けた千寿留に話す。
「なぁんだ。後ろめたいとか言って、実はちゃっかり予定入れてるんじゃない」
彼女が口を尖らせる。
「あたしはこれから雨に濡れながら仕事に戻らないといけないのに。良いお待遇ですこと」
「いやぁ、ごめんごめん」
俊樹は咄嗟に謝ってみせるが、彼女が冗談で言ってるのはその口ぶりから分かった。
「でも用事ってなんだろう? それに今日はお休みなのかな?」
「うーん、どうだろう。僕も詳しいことまでは聞いてないから」
その疑問に対して、彼は曖昧に返事をするだけに留める。
千寿留とはそのあとすぐに別れた。
会社が所有する年季の入った自転車に乗って坂を下りてゆく彼女を見送りながら、俊樹はぼんやり考える。
千寿留には凪森のことを大学時代の友人とだけ紹介したくらいで、それ以外はまだ何も話していなかった。
表向きの理由としては、見た目だけでも充分怪しいのに、これ以上不審がられそうなことを話すのは彼のイメージを損ねてしまう恐れがあるという友人としての配慮があったからだ。しかし本音を言えば、凪森の現状を彼女に上手く説明できる自信がなかったからという理由が大きかった。
「……ま、追い追いでいっか」
そこで俊樹は意識して独り言を呟いてみる。
頭の中で処理するより、声に出した方が自分の意思を明示できるような気がした。
するとそのとき、目の前の道路を走っていた一台の車がビルを通り過ぎたあたりで減速するのを彼の目が捉える。
その白と赤を基調とした車には見覚えがあった。
俊樹は右手を頭上にあげて雨を避けるようにしながらそちらに駆け寄ると、中にいる人物を確認してから助手席に乗り込む。
「わざわざ寄ってもらって悪かったな」
シートベルトを掛けながら声をかけると、運転席に座る凪森健がこちらを見る。
「気にするな。ちょうど通り道だったんだ」
彼はそう答えるとすぐに車を発進させる。
「で、どこに行ってたんだ?」
「別に話すほどのことでもない」
凪森は簡潔に告げると、それ以上何も言わなくなる。
「あっそう」
黙って運転する友人の姿を見て、俊樹はすぐにその話題を諦めることにする。
彼は無表情だが特に機嫌が悪い様子でもない。いつもの凪森である。
「それよりも、そっちの方はどうだったんだ?」
すると今度は彼の方から質問が飛んできたので、俊樹はさきほどの梶との会話を伝ることにする。
俊樹が話している間、凪森はずっと前を向きながらそれを聞いていた。
「梶先生は武井さんが僕や村瀬さんを襲った動機が分からないって言ってたけど、凪森はその理由が分かってたんじゃないか?」
ひと通り話し終えると、俊樹は一週間前から気になっていたことを凪森にきいた。
「あぁ、なんとなくではあったけどな」
その質問に彼が頷く。
「初めは理由もなく身近な人物を無差別に狙ったのではないかと考えていたが、それにしては村瀬さんとの接点が薄すぎると思った。彼女を襲うにはやはり何か動機があったのではないか? だとしたらそれは何なのか? そう考えていたときに思い浮かんだ。もしかしたら、それは下村妙子を襲った理由と同じではないかとな」
「同じというと?」
「他者へ向かう嫉妬心は、他の誰かに注がれる好意から生まれるという意味だ。そしてそのどちらも度を越えてしまうと、時折それは殺意へに変わることがある」凪森が答えた。
「やっぱり、凪森は分かってたんだな」
「なぜ下村妙子が殺されなければならなかったのかを考えているときに思いついた」
彼は俊樹に頷きながら言った。
「独占欲や支配欲を満たすためという動機は、ありがちな理由だと言われればたしかにそうだろう。ただ世間で月並みだと思われている事象は、これまでにもそういった事例が認知されるほど数多くある証拠、つまりいつどこでも起こりうる可能性があるということだ」
「武井さんが下村さんに好意を持っているのは分かっていた。でもそれは友人としての親しみだと思っていたし、まさか自分にもそれが向けられているとは考えれなかった。しかもそのせいで村瀬さんも危ない目に遭ったっていうのが、俺としてはちょっとね……」
「だが、それは宮房自身ではどうにもできなかったことだろう?」
そう言って溜息をついた俊樹に向かって凪森が話す。
「他人の心中を読み取れると思うことはただの傲慢な自惚れ以外のなにものでもない。だから彼の気持ちが分からないの当たり前であって、そのことについて宮房が責任を感じる必要はないと俺は思うがな」
「ああ。うん、そうだったな」
俊樹は、さきほど千寿留が梶に話したことを思い出しながら言う。
あまりいろいろと気にしすぎるのは良くないのかもしれない。
梶からもその忠告を受けたばかりだ。
これからは少し注意しなくてはいけない、と彼は思った。
そこで会話が途切れると、二人はしばらく無言になる。
俊樹は凪森から目を離して前を向く。
目の前では車のワイパーがフロントガラスに衝突する雨粒を排除している。その規則的正しい動きは一見退屈かに思われたが、それをじっと眺めていても不思議と飽きることはなかった。
機械的な反復動作はその一連の流れが簡単に把握できる。そしてそれが延々と繰り返されて続けると、しだいに心は確証された次の動きを期待し、それが予定通りの結果を出すことでどこか満たされた気分になることができた。
「なぁ、武井さんは本当に二人だったんだろうか?」
「それは、宮房が考える一人とはどういった状態を指すのかという定義によるだろうな」
遠くを眺めながらそう呟くと、それに凪森が答える。
「前にも言ったはずだ。人は、自分の中にある幾つもの人格を集約することで一人を装っている。たしかに武井光は二面性を持っていたのかもしれないが、それはあくまでも目に見える顕著な部分でしかない。もしかしたら、彼にはまだ他の側面が潜んでいるのかもしれない。そしてそれは別に稀なことではなく、例えるなら交流の電圧を受ける蛍光灯みたいに、普段気にしていないだけで俺たちの中でも意識の入れ替えは頻繁に起こっている」彼が言った。
「そういえば武井さんの車の中で首を絞められたとき、俺、全然抵抗しなかった」
そこで俊樹がふと口を開く。
「そりゃあ手足は縛られてたし、馬乗りになられて身動きが取れなかったってのもあったけど、なんというか、殺されると思っても反抗しようとかそこから逃げようとか、そんな気持ちが出てこなかった。本当は怖いはずなのに、どうしてかは分からないけど武井さんのされるがままになってた。しかも息ができなくて苦しいはずなのに、少しずつ気持ちいいって言うか、心地良いまったりした感覚になってきて、途中くらいからいっそこのまま死んでもいいのかもしれないみたいなことも思いはじめる始末でさ……。今改めて思うと、あのときは本当に自分が急に別人に変わったみたいな不思議な感じだった」彼は記憶を反芻しながら話した。
「生きているものは生命活動が止まれば自ずと死が訪れる。このことから、生から死への状態移行はシンプルでかつシーケンシャルなものだと言え、それは誰もが知識として持っているものでもある。また、人はパターンというものを好む傾向がある。もちろん宮房がそう感じたのは苦痛を和らげるための本能的な措置も含まれていたと思うが、殺される過程でお前自身の中に死へ向かうという決められたパターンを望む意思が顔を出したとしてもおかしくいことではないだろう」
「死にたくなんてないのに、そんな正反対の気持ちが急に生まれるものなのか?」
「人の心は必ずしも一貫性があるわけではない。むしろ所々ばらばらでかつ矛盾しているのが普通で、それらが明確に統率されることの方が珍しいのではないかと俺は思う。だから死を望む意思はずっと前から宮房の中に存在していたが、いつもは他の感情に紛れてしまってお前自身も認識できていなかっただけだった。そしてそれは、死を強く意識したのを契機にして初めて前面に現われることになった。人間というのは、強い感情が芽生えるとそれに支配されて時折自分を制御できなくなる。おそらくそのときの宮房は、普段のお前にはない別の感情が混在していた状態だったのだと推測できる」
「感情が違えば人格も変わる、だったっけ?」
俊樹は、以前凪森が話していたことを思い出した。
「そうだ。それゆえに人間は不安定な存在であり、いつも自分の中に潜む幾つもの矛盾を誤魔化しながら、そして周りの者たちにも統一された人間なのだと振る舞うことでなんとかバランス保って生きているのだろう。いやもしかしたら、不安定なのは人という存在ではなくて、生きているという状態なのかもしれないな」
「つまり生きていることがいけないって言いたいのか? でも生きていないと人が存在してる意味なんて何もないだろ? 死んだ人間なんて、言ってみればただの有機化合物でしかない。自分の人格がどうこうという以前に、こうやって話すことも動くこともできないんだから」
「そう考えてしまうのは、おそらく俺たちが生きているからだろう」
そこで凪森が言い返す。
「それに安定した状態が必ずしも良いとも思っていない。不安定なときは、バランスを崩そうとする力とそれを安定させようとする力、その二つの相反する力が同時に作用することによってエネルギィが生まれる。だから人は、不安定であるからこそそのエネルギィを利用して生命活動を続けられていると考えれなくもない。もし常に安定した状態であったなら、人は生きることができていないのかもしれない」彼は俊樹を見ることなく話した。
「それで言うと、武井さんは安定した状態になりたかったんだろうな」
俊樹は腕を組んで再び正面を向く。
「彼女、……いや彼は以前から死にたかったって言ってた。動物の虐殺や今回の事件を起こしたのも、全ては自殺の代わりにしていたことだったんだ」
「死んでしまえば生きているときに感じるものは全てなくなる。だからストレスから逃れるために自殺を選択した。自分自身を殺せるのであれば、彼にとってはそれが一番幸せな方法だったんだろう」
「だけど、それだけの理由で簡単に人が殺せるものなのか? そうやって現実を直視しないまま逃げてしまったら、あとで後悔したりするんじゃないんだろうか?」
「肉体が死ねばそこに宿る精神も消滅する。つまりそんな感情が生まれることはない」
俊樹の問いかけに凪森がきっぱりと答える。
「後悔とは生きているからこそ感じるものだ。たとえ生きている間に後悔したとしても、死んでしまえばそれは綺麗さっぱり消えてしまう。もしかしたら彼は何かを悔いていたのかもしれないが、それ以上に自分を終わらせたかったのかもしれない。結果的にはそれも叶わなかったわけだが、端的に言えばただそれだけのことだ。それに現実逃避の何が悪いと言うんだ? 目の前にある問題と向かい合うのも、そこから背を向けるのも本人の勝手だろう。そしてその結果死を選んだとしても、それは個人の自由だ」
「でも、そんなの悲しすぎるだろ」
「それは宮房の所感であって、武井光本人の意思とは何も関係ない。それとも宮房は、自分が死んでほしくないと思うから、たとえどんな苦しいことがあっても無理をして生き続けろと彼に命令できるとでもいうのか?」
凪森にそう言われて、俊樹は一瞬言い淀む。
「……俺はただ、できれば自殺なんてしてもらいたくはないし、それに長生きしてればたぶん良いこともあるだろうって思ってるだけだ」
「ならきくが、宮房は誰のために生きているんだ? 自分が生きたいと思っているからか? それとも他の誰かから、お前の死ぬと気分が良くないから長生きしろと理不尽な要求をされているからか?」
俊樹は言い返されると口をつぐむしかなかった。
そこで少しの間、車内は微かに聞こえるエンジン音だけになる。
「人は常に自分のために生きている。他人の願い、しかも自分の意思に反したものに従って生きている人などいない。多くの人は長生きしたいと思い、周囲の人間もそれと同じように願っているのが一般的だ。そしてその考えが主流であることで、命がある以上少しでも長く生き続けなければならない、早く死んでしまったり、特に自らの手で命を絶つことはあってはならない、という思い込みが人々には刷り込まれている。だが、本当にそれが正しいのかと俺は疑問に感じる。例えばこれから先何十年も生きなくてはならないと、まるで生きることを義務のようにしてしまったら、それに息苦しさを覚える者も現われるはずだ。それならば、逆にいつでも自分の意思で死ねる自由があると思った方が精神衛生的には健全ではないかと思う。そこから考えてゆくと、現在の苦痛と確証の無い未来とを天秤にかけた結果、命を絶つ方にメリットがあるとした武井光の判断は、世間が作りあげた悪い固定観念を取り払った真っ当なものではないのかと俺は評価している」
俊樹が返答できずにいると、凪森が続けてそう言った。
「でもそれを肯定してしまったら、世の中は自殺する人ばかりになってしまうかもしれないじゃないか。凪森はそれが正しいと言うのか?」
「世の中に絶対正しいものなど存在しない。ただ世界には膨大な数の人が生きているのだから、中にはそういった考えをする人間がしてもおかしくはずだ。なのに冷静な考察もせず、それを悪だと一方的に決めつけるのはいかがなものかと思っているだけだ。ただ、個人的には死を選べる自由はとても高尚なものだと考えている。下らない偏見に縛られながら寿命が訪れるのをじっと待つのではなく、自分の納得したところでこの世から姿を消せるとしたら、それほど贅沢なことはないだろう」彼は表情を変えずに淡々と話した。
「じゃあ凪森はさ、本気で死にたいと思ったことがあるのか?」
「心から願ったことは今のところないな」
「そっか」
その返答をきいて俊樹は少しほっとする。
「宮房はどうだ?」
「そりゃあ、たまに大袈裟な表現で死にたいって口にすることがあるけど、真剣に考えたことは一度もないよ。やっぱり死ぬって怖いことだから、できるならこれからも考えたくないな」彼が答える。
「生きるということは、つまり死に向かうことだ。それは、今のところ避けようのない事実でもある。そして死は、自分で命を絶たない限り、ほんとんどのケースでそれがいつ起こるのかさえ予期できないものだ。だから自ら死を望まないのであれば、いつ死んでもいいような生き方をしておけば良いのかもしれないな」
凪森は話し終えると再び運転に集中する。
「要するに、生きるって死ぬための準備期間みたいなもんなのかもな」
俊樹は、背もたれに寄りかかりながら小さくそう呟いた。
生とは一方通行。
多少の車線変更は可能だが、決してUターンの望めない一本道。
一度生まれたら最後、あとは死ぬことしかできない。
ならば、生きることになんの意味があるのだろう?
例えば、いつやって来るか分からないゴールの瞬間までに何かを成し遂げて、この世界に己を知らしめることが生きる目的なのだろうか?
たしかに大きな功績を残せば、自分が死んだあともその名は語り継がれるだろう。またそこまでしなくても、他人と深く関わりあうことができれば、その者たちの記憶の中に自分を刻むことができる。そうやって、自分がこの世界に存在していた証拠を残すために人々は生きているのかもしれない。
しかし、それはあくまで第三者から見た場合にすぎない。
死んだら最後、自我は跡形もなく消え去ってしまうのだから、主観的な視点で言えばそれ以降の世界で自分がどういった扱いをされようが、そんなものはあとの祭りでしかないのだ。
ならば、自分が消えてしまう前にその意味を見出す必要があるだろう。そしてそれは、凪森の言ったようにいつ死が訪れても良いと思えるほどの価値を手に入れること、その状態や環境を作り上げることではないだろうか。
つまり自分が満足できる状態で死を迎える準備をすることが、すなわち生きる意味なのではないかと彼は思った。
妙子は自分の予期せぬうちにゴールに達してしまった。
彼女は少しでも満足できる形を作ることができていたのだろうか?
そして光は、その形を作ることができないまま早々にゴールを目指そうとした。
いやもしかしたら、今回の事件で光が起こしたことはゴールに進む過程の中で彼が見出した普通とは少し変わった形態の一つだったのかもしれない。
ならば自分の場合はどうだろうか、と俊樹は考える。
例えば今、この車が事故に遭って突然死んでしまう可能性だって充分に有り得る。もしそうなったとき、自分はこれまでの人生が満足できるものだったと評価できるだろうか?
そこで彼は、今まで自分がどう生きてきたのかを振り返ってみる。
決して不満ばかりだったとは言わないが、納得できない部分も多いはずだ。
否。
むしろそれ以前に、自分には理想とする形がまだイメージできていない。
これまでは目先のことばかりに気を取られ、それよりあとのことは追い追いでも大丈夫だと思っていた。
だがそれでは遅いのかもしれない。
本当はそのことに気づいたときから、どんなにゆっくりでも自分の形を構想しそれを作るべきなのかもしれない。
今からでもまだ間にあうだろうか、彼はと思う。
生きている限り手遅れではない。
今はそう願いたい。
「ところで食事はどうする? どこか行きたい場所はあるか?」
そこで不意に凪森が口を開いた。
「いや、特にないけど」
俊樹はその声に反応して考えるのをやめると、隣に向かって苦笑いを浮かべる。
「っていうかそれ、今更きくことか? 走りだしてもう随分経ってるだろ」
「その話をするのをすっかり忘れたのに今気づいた。もし指定がないなら、もう少し行ったところにドイツ料理の店があるんだが、そこでも構わないか?」
「もともとそのつもりだったんだろ?」
そう言うと友人はしれっとした顔で頷く。
「ならそれでいいよ」
俊樹は呆れながらそう返事をすると、またぼんやりと思考の中へ潜る。
これからは、ずっと先を見越したヴィジョンを展開していこう。
もしかしたら、その途中で今まで知らなかった新たな自分の内面と遭遇し、それに翻弄されることもあるかもしれない。しかし、それでも自分はそれらをまとめあげ、表面的には一人であると装いながら望むべき形を模索していかなければならない。たとえそこに在る意思たちがその形を否定したとしても、論理式のように彼らを包含してさえいれば事象は必ず真となるのだから。
そんなことを思い馳せながら、俊樹は秋雨が降りしきる街並みを通り過ぎていった。
この「和と積と、外と内と」は2012年8月に書きあげた同作品に多少の加筆修正をしたものになります。
『世の中、生きにくい時代になった』というセリフは常套句として使われているように思えますが、そういうのを耳にしてしまうと、いやむしろその逆だろう、と考えることがたまにあったする昨今です。