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伝えない言葉

第七章 伝えない言葉



                   1


 最初に現場を発見したのが刑事だったおかげで、その後の対応は非常に迅速だった。

 井沢は妙子を車から出すと、地面に寝かせてすぐさま人工呼吸をはじめる。そして雅史は井沢の指示で電話をしたかと思うと、すぐにどこかへ行ってしまった。

 俊樹たち三人は、ただそれを眺めるだけしかできなかった。

 少しするとエレベータの方から宗像がやって来る。

 その後ろには、彼と一緒に応接室に残っていた奥野笑美子、蒔田真輔、栗原洋介の姿もあった。宗像を除くたちは、蘇生措置を受けている妙子を見た途端に短い悲鳴などを漏らし、そのあとは俊樹たちと同じようにじっと状況を見守るしなかった。

 人間、本当に驚いたときは叫び声など上げるほどの余裕もないのだ。

 俊樹はふとそんなことを考えていた。

 さらに時間が経ち、今度は駐車場に救急車がやってくる。

 その頃には宗像の誘導により、俊樹たちは妙子の車から少し離れた場所に移動していた。

 救急車が停車すると、後部の扉から数人の救急隊員が姿を現わす。

 彼らは井沢の説明を受けながら、担架を使って妙子を素早く運んでゆく。

「僕もあれに連れて行ってください」

 そのとき栗原がそう言った。

 さきほどまで井沢の近くで様子を見たり、携帯電話を使って忙しく連絡を取っていた宗像はそれを聞いて彼に目をやる。

「……分かりました。では一緒にこちらへ」

 宗像は鋭い目を栗原に向けると、それを数秒間維持してあとで彼に頷いてみせた。

 そして妙子と栗原を乗せた救急車は、けたたましいサイレンを響かせながら病院へと走り去っていった。

「まさか、犯人がこの建物の中にいたとは思ってませんでした」

 搬送されるのを見届けた宗像が厳しい表情を浮かべて言う。

「同じ手口だったのですか?」

 さきほどからずっと俊樹に身を寄せていた村瀬千寿留が尋ねる。

 妙子を目撃した直後は彼女もショックを受けていた様子だったが、その声を聞く限りでは既に落ち着きを取り戻しているようだった。

「おそらく凶器も同じものではないかと思います。あれは明らかに他殺です」宗像が続ける。「すぐに応援が来ます。それまでの間、皆さんはもう少しだけここで待機していてください。くれぐれも、これ以上現場には近づかないようにお願いします」

彼は全員にそう忠告すると、自分は井沢のもとへと向かった。

「でもそんな……、だって、どうして絵梨果ちゃんが……」

そのあとで蒔田が俯きながらぶつぶつと独り言を呟いていた。

 パトカーが到着すると、一度静まり返っていた場所が再び騒がしいものになる。

 地下にやってきたのは五台ほどだったが、おそらく建物の外にも何台か来ているだろうと俊樹は思った。ここからさらに増えるかもしれない。

 車から降りた警官たちは、宗像の声に応じて慌ただしく行動をはじめる。

 ちょうどそのとき、姿を消していた雅史が帰ってくる。

 彼は宗像と幾つか言葉を交わすと、二人揃って俊樹たちに近づく。

「大変お待たせしました。皆さんはひとまず上に戻っていただいて結構です。お部屋まではうちの人間が付き添います」宗像が言った。

「私、このことを局と絵梨果ちゃんの事務所に伝えたいのですけど」

「何人か寄越しますので念のために同行させてください。あと、建物の中を移動されるだけなら問題ありませんが外出は極力控えてください。こちらが片付いたら私もすぐに事情の説明に伺います」彼が笑美子に応じる。

「君たちも、しばらくはこの建物に残っていてくれ」

 次に雅史が俊樹たち三人に対して言った。

 宗像が離れてゆくと、俊樹たちは雅史と数人の警官に連れられるようにしてエレベータに向かう。

「一つ気になることがある」

 九階まで戻っている途中で凪森がぽつりと口を開いた。

 考えみれば、妙子の姿を見て全員が愕然とする中でも彼だけは表情を崩していなかった。

「どうして彼女は車の中に入れたのだろうか?」

 凪森が俊樹と千寿留だけに聞こえる声で言う。

 人数の関係で二手に分かれてエレベータに乗っていたので、後ろの壁際に並ぶ俊樹たち三人の他には、出入口のボタンの近くに制服の警官が一人いるだけだった。

「あたしもさっきからそのことを考えてた」

「リモコンを使っていたから、たぶん鍵のかけ忘れってことはないよね?」

 千寿留のあとで俊樹が言う。二人とも凪森と同じく小声で話していた。

「だとしたら、犯人はどうやってあのロックを開けることができたのかしら」

 そこで千寿留は目を細めると、口もとに手を当てて考え込むような仕草をして黙り込んだ。

 応接室に戻ると、笑美子はそのまま警官を一人引き連れてどこかへ行ってしまった。蒔田と栗原は同じ部屋で待機していたが、しばらくすると仕事があるからと言って退出していった。あんなことが起きてもラジオ局は平常通りに動いているらしい。

 そして残された三人は、井沢と雅史から局にやって来るまでの妙子の様子などを細かく尋ねられた。俊樹たちは妙子に不審な点はなく、また車から離れるときにはたしかに鍵をかけていたことを彼らにしっかりと伝えた。

 千寿留は事件の状況を聞きたそうにしていたが、刑事たちは事情聴取を終えるとすぐにどこかへ行ってしまい、部屋の前で待機していた他の警官たちに尋ねても調べている最中だという回答しかもらえなかった。

 結局エフエムマスカットから出ても良いという許可が下りたのは、ほとんど日が沈みかけた頃だった。

 三人は帰る前に宗像にひと声をかけるつもりだったが、彼は笑美子と共に出かけているらしく、当分戻ってはこないだろうという話だったので、しかたなくそのまま退散することにした。ただ幸運なことにビルを出たところで偶然井沢を見つけたので、彼らは彼から 現時点で把握している内容を教えてもらうことができた。

 それによると、最初に妙子の車の異変に気付いたのは警備員だったらしい。

 彼らは、毎日定期的に建物全体の巡回をしているのだという。

 そしてその警備員は、ハザードランプのついた軽自動車を見つけると真っ先にラジオ局に連絡を入れた。今日は他のフロアに入っている企業が休みということもあったが、長年ここに勤めている警備員は、それが妙子のものだとすぐに分かった。だがそのときは遠くから見ただけで、傍に近づいて確認するまではしなかったようだ。

 また、彼女を助け出そうとしたときには、運転席のドアのロックだけが解除された状態になっていたらしい。

 車内にいた妙子は既に心肺が停止していた。

 さらに井沢は、さきほど病院から彼女の死亡が確認されたという連絡が届いたと三人に告げた。

 しかし、それを聞いても俊樹が驚くことはなかった。

 不謹慎かもしれないが、それは駐車場での一部始終を見ていれば予期できる結果だった。

 千寿留と凪森も反応が薄い。

 三人とも冷淡な奴だと皮肉に思ったが、おそらくまだ実感がないからだろうと考え直してみる。

 妙子を殺した犯人の行方はまだ分かっていない。

 不審な人物が建物に侵入したような形跡はなく、警備員たちもそういった人間を中には入れていないと主張している。ただし、妙子が殺害された前後に誰が敷地から出たのかと追及すると、彼らは途端に口を濁らせはじめた。

つまりここの警備方針は不審者を中に入れないというものであり、外へ出る者のチェックまではできていなかったことが判明したのである。

 エフエムマスカットでは、以前から職員だけでなく来客者の入場及び退場時刻も記録しており、井沢たちはその記録簿を参考に事件があった時間に局を出入りした者たちを調べることにした。

該当者には、早朝から働いていたスタッフや打ち合わせなどで訪れていた取引先の人間が数名いた。だがその全員とはすぐに連絡がつき、警察はその中に犯人はいないと判断した。

 もう少し早く異変に気づいていてれば犯人を逃がさずに済んだかもしれない、と井沢は悔しそうな顔をしていた。

だが、だからといって警備員を責めることもできない。

 他にもまだ仕事が残っているのだと言った井沢は、俊樹たちに別れを告げると重い足取りでビルの中へと消えていった。

 妙子の車でここまで来ていた俊樹たちはバスで駅まで戻ることにした。

 近くにあるバス停で次の便を待つ間、三人は誰も口をきなかった。

「さっきの続きだけどさ」

 バスに乗り込んだところで俊樹が話を切り出す。

 三人は一番後ろの席に腰を下ろしており、近くに他の乗客はいない。

「犯人が車の鍵を持っていたとは考えられないかな?」彼は二人に話しかける。

「なら犯人はどうやって鍵を手に入れたんだ?」隣に座る凪森が尋ねる。

「うーん、例えば合鍵を作ってたのかもしれない」

「でも、鍵なんて基本的に肌身離さず持っているものでしょ?」

 今度は窓際の席から千寿留が指摘する。

「そんなこと、本当にできるのかしら」彼女は俊樹を見据えて冷ややかに言った。

 二人の否定的な意見を受けて、俊樹は返す言葉をなくしてしまう。

 特に深い考えがあったわけではない。

 ただこのまま押し黙っていると、妙子の悲報について考えて気が滅入りそうだったので、何か話をしていた方が気持ちを紛らわせると思って口にしただけだった。

「宮房の言ったことは、どちらかといえば現実的ではない。だが絶対にないとも言えないだろう」

 そのとき、少し間を開けたあとで凪森が話す。

「その場合だと、犯人は彼女と親しい関係に人物ということになる」

「別に親しくなくても、長時間同じ場所で過ごしている人も当てはまると思う。例えばラジオ局の人たちはそうなんじゃないか? あの人たちなら、下村さんが番組に出ている最中に隙を見てバッグから鍵を取ることできたかもしれないし、何か理由をつけて外出できればスペアなんかすぐに作れるはずだよ」

 凪森のフォローを受けて俊樹が千寿留に説明する。

「うーん、たしかに考えられないわけではないでしょうけど……」彼女が唸る。「まぁどちらにしても、栗原さんと蒔田さんではないのは確実ね。あの人たちは、下村さんがいなくなってからもずっと一緒にいたんだから」

「だとすると、あとは下村久雄と奥野笑美子の二人だな」凪森が言う。

「奥野って言うあの偉そうなおばさんなら無理ではないかもしれない。たしかあの人、会議が終ったあとに警察を迎えに一階に行ったって話してた。もしかしたら、その間に下村さんを襲えたのかもしれない」

「じゃあ車のランプが点いていたのは、彼女をおびき出すためってこと?」

「あの人は下村さんの父親の恋人なんでしょ? だったらプライベートでも彼女と顔を合わせる機会はあっただろうから、少しだけ鍵を拝借するチャンスは充分にあったと思う」俊樹が答える。

「彼女のお父様に頼めば、合鍵を作らなくても予備の鍵くらいはどうにかなったかもしれないわね。そのときは二人の共犯ということになるけど」

「彼女が殺されたときに下村久雄の所在が分からないからなんとも言えないが、そう考えるのであれば、彼の犯行という可能性も出てこないか?」

「事件の前後にラジオ局から出ていった人たちは全員確認済みだって言ってたろ? もし下村さんの父親がその中にいたら、井沢さんがちゃんと教えてくれたはずだよ」

「あたしもそう思うわ」千寿留も俊樹に同意した。

「その確認は、あくまでもエフエムマスカットに来ていた人間しか対象になっていない」

 すると凪森が説明する。

「あの建物に入った彼は、上には行かずに犯行のタイミングを待つ。そして彼女を殺害すると、何食わぬ顔でそのまま外へ出ていった。こうすれば彼がビルにいたという記録は一切残らない」

「でもビルには警備員の見張りがいた。いくら外へ出る人間のチェックがいくら甘かったとは言っても、さすがにそんな人を見逃すとは思えない」

「あぁ、彼らは当然気づいていただろうな」

 反論する俊樹に凪森が頷く。そこには余裕が感じられた。

「つまり、警備の人が嘘をついていると?」

 そこで千寿留が間髪入れずに尋ねる。

「下村久雄はこの辺りでは有名な業界人で、それなりに権力もある人物のようだから、彼であればなんらかの方法で警備員を言い包めることはできるだろう。車の鍵の件は、何か道具を使えば開けることができたのかもしれない。そう考えると、今回だけに限って言えば、犯人にとって最大の障害になるのは、いかに警備員のチェックを掻い潜ってビルの出入りをするかという一点に絞られるだろうからな」

「でも、あの二人は親子なのよ」

「だからどうだというんだ?」

 周りを気にして声をひそめながら言う千寿留に凪森が切り返す。

「たとえそれが親子であっても、人は殺意を覚えるほど相手を憎むことができ、逆に血が繋がっていなくても肉親以上の信頼関係を築くこともできる。血縁関係というのは、実はそれほど特別なものではない。人がその繋がりに拘っているのは、だたの思い込みでしかない」

 千寿留は淡々と言う彼に一瞬言い淀んだようだったが、一度小さく息を吐いたあとで再び話しはじめる。

「……どちらにしろ、今回は犯行の動機がよく分からないわ。何かの恨みがあって角南さんを殺して、そのことを探ろうとしたあたしを襲ったまでは辻褄が合うけれど、そこからどうして下村さんに矛先が向けられたのか、あたしには理解できない」

「例の嫌がらせのこともあるし、やっぱりあのラジオ局全体に恨みがあるのかもしれない」

「それにしては殺された二人の繋がりが強い気がする。もしラジオ局の関係者を無差別に狙っているのなら、もっと他の人たちに被害があってもおかしくないもの」

 千寿留は俊樹にそう言うと、視線を逸らしてぽつりと呟く。

「犯人の意図は一体何なのかしら?」


                    2


 翌週の月曜日。

 村瀬千寿留はその日、まだ太陽が高いうちに会社を早退した。

 なぜかというと、前日に県警の井沢刑事から連絡があり、下村妙子の通夜が今夜行われることを聞かされたからである。

 妙子の職業はいわゆる芸能人の部類に入るのだから、告別式はテレビでなどで見かける著名人たちのように日付をずらしたりして盛大に催すのだろうと勝手に考えていたが、どうやらそういうわけではないようだ。

 彼女としては今日の通夜も明日の葬式も参加できたが、同行する宮房俊樹の都合で前者だけに出席することにした。

 現在勤務時間を制限されながら働いている俊樹曰く、葬式に出て一日丸々会社を休むのだけは仕事のスケジュール的にどうしても避けたいとのことだった。

 そんなことばかり気にしているから鬱病の兆候があるなどと言われるのだ、と彼女は車の後部座席にいる俊樹を横目で見て思っていた。

「どうかした?」

「ううん。なんでもない」

 視線に気づいてこちらを見る俊樹に、千寿留は小さく微笑んでみせる。

 隣に座る彼は黒っぽいスーツを着込んでいる。だがそのくたびれ具合から察するに、おそらくいつも会社に着て来ているものの一つだということが推測できる。ネクタイも黒を基調にしたデザインだったが礼式用ではなく、これも職場で見たことのあるものだった。

 一方の千寿留は黒のアンサンブルを着用している。

 しかしこれは井沢の連絡があったあとで急いで買い揃えたものだったので、正直あまり気に入ってはいない。

 二人はまだ二十代の半ば。

 冠婚葬祭といえば、お葬式よりもせいぜい結婚式に出る機会があるかどうかという年齢であるので、どちらもこういった式には慣れていない。

「それにしても、本当にお前は出なくていいのか?」

 俊樹がふと前方に話しかける。

 それは運転席でハンドルを握っている凪森健に向けられていた。

「俺は二人ほど彼女との面識はない。それに、ああいう格式ばった集まりは苦手でね」凪森が澄ました顔で答える。

 彼は通夜が行われる会場まで二人を送迎すると役を買って出てくれていた。

 だが式に出る気は最初からないらしく、車の中は彼だけがカジュアルな服装をしていた。

 面識の有無を理由にするなら、千寿留だって妙子とは二回しか会っていない。

 要するに本音は後者なのだろう、と彼女は思った。

「警察は事件のことであれから何か言ってなかった?」

「下村さんの死因はやっぱり窒息死だったみたい。凶器もこれまでの事件と同じものだろうって」千寿留が俊樹に答える。

「なら同じ犯人の仕業ってことなんだろうね」

「あとね、井沢さんが言うには、事件があったとき下村さんの父親があのビルにいるのは不可能だったって」千寿留はそう付け加えた。

 下村久雄にはアリバイがあった。

 あの日の彼は午前中から自分の事務所に出社しており、犯行があったとされる時間は社長室にいたと他の従業員が証言していた。

「社内の者なら、彼の指示でそう発言させているだけなのかもしれない」

「それだけじゃないわ。どうやらそのときは来客の対応をしていたみたいで、その相手にも確認が取れているそうなの。だから彼が自分の娘を殺していないのは間違いないわ」千寿留は凪森に説明する。

 バックミラーを見上げると、得意げな笑みを浮かべる自分の姿が映っていた。

 その先にいる凪森はずっと無表情を通している。

「だとすれば、一連の事件の犯人は消去法で奥野さんに絞られるってこと?」

「いや、そう単純にはいかないと思う」

 凪森が俊樹に向かって話す。

「最初の事件を思い出してみろ。角南が殺されたとき、下村妙子を除く容疑者たちは一つの席に固まっていた。一連の事件が彼女単独のものだとすれば、そのときどうやって他のメンバの目を欺くことができたのか、という疑問が新たに出てくる」

「そういえばあの人、村瀬さんが襲われたときも一人じゃなかったよな?」

「下村久雄と一緒だった」

「そっかぁ……。なら奥野さんが犯人だとしたら、前に出てた共犯説じゃないと上手く説明できなくなっちゃうんだな」俊樹が天井を見上げて呟いた。

 そこで千寿留が切り出す。

「あたし、土曜日のことがあったあとでもう一度考えてみたんだけど、もし犯人が複数だとしたら、なにも角南さんのときに居合わせた人たち全員である必要はないんじゃないかなって」

「まだ他のパターンがあるの?」

 彼女はそれに頷いてから話しはじめる。

「角南さんの件は、奥野さんと下村さんの二人が仕組んだものだとすれば話がスムーズになると思わない? 実際に居酒屋で彼を殺害したのはあのとき事件現場にいた下村さんで、共犯の奥野さんは他の人たちと一緒にいることで自分のアリバイを作っていた。あたしの推測では、その計画は下村社長がエフエムマスカットにやって来るのが分かった時点で、どちらかが考えたのだと思うわ」

「だけど、あの日急患が出て診察が遅れなければ僕ら四人で飲みに行くことはなかったはずだよ」

「そのときは、下村さんが率先的に誰かを食事に誘えばいいだけだわ」

 そう答えたあとで千寿留は俊樹にきく。

「ところで、宮房君たちがあのお店にしようって言ったのは誰だったの?」

「誰っていうか、みんなで話してなんとなく決めたはずだけど」

「最初に提案したのは下村さんだったんじゃない?」

「どうだったかなぁ。あのときのことなんて、もう詳しくは覚えてないから」彼が首を傾げる。

「たぶんあのお店になるように、下村さんがそれんとなくみんなを誘導していたんじゃないかとあたしは思うの。宮房君たちなら彼女の職場の人間関係なんて知るわけないし、ラジオ局の人たちは奥野さんが引きつけているから、下村さんは誰にも怪しまれずに計画を実行できると考えたはずだわ。そして店に入った彼女は、食事を楽しんでいるように装いながら角南さんを殺害する機会をずっと待っていた。もしかしたら、犯行のタイミングは奥野さんが教えていたのかもしれない。携帯電話を使えば合図を送るくらいは難しくないでしょうから」

「それが本当なら、村瀬さんを襲ったのも下村さんだった?」

「初めて会ったとき、彼女はあたしが事件を調べようとしているのを知ってマークしていたのだと思う。そのあとで宮房君から栗原さんとのことを聞いて、彼女は第二の犯行を決めた。二人のどちらかと選ぶのならあたしの方が襲いやすかったはずだし、栗原さんに対しては、わざわざ危害を加えなくても他の方法で口封じできると考えたのかもしれない」

「他の方法?」

「栗原は彼女に好意を持っていた。だからそれを上手く利用すれば、彼を自分たちの側に引き込むことができた」

「そういうことよ」

 千寿留は凪森の意見に同意する。

 すると、それが意味することを察して俊樹が顔をしかめた。

 おそらく彼は、下村妙子という人物を見た目通りの清廉潔白な女性として認識していたに違いない。だが今話した内容は、彼が抱いていたイメージとは大きくかけ離れたものであった。

 どちらかといえば、俊樹は物事を素直に受け止めるタイプの人間である。なので彼がそのギャップに戸惑っているだろうということは千寿留にも容易に想像ができた。

「だけど、下村さんはあたしを殺すことができなかった」彼女は話を続ける。「それが原因だったのか、それとも他に理由があったのは分からないけれど、たぶんそのあとで彼女と奥野さんの間で何かトラブルがあったんじゃないかしら? だから奥野さんは、下村さんが事件の真相を誰かに漏らす前に彼女を殺すことにした。こう考えると辻褄が合うと思わない?」

「彼女たちは下村久雄のことでそもそも良い関係ではなかった。だが角南に恨みがあるという点では利害が一致していたから、お互い仕方なく手を組んでいただけだったのかもしれない。そしておそらく、二人の力関係は奥野笑美子の方が上だったはずだ。その点を考慮すると、下村妙子は無理矢理実行犯を強要させられていた可能性も出てくる。そのせいで二人の関係はさらに悪化していき、結果として仲間割れが起きたと考えられなくもないな」

「でもさ、それはあくまでも想像だろ?」

 二人の話に俊樹が言い返す。

「それに、今のには最初の事件でどうやって凶器を隠したのかっていう重要な部分が抜けているよ」彼は千寿留たちを不満そうに見て言った。

「凶器の件もちゃんと見当がついているわ」

 そこで千寿留は反論する彼に告げる。

「たぶん、犯人は少し丈夫な紙のような素材を使ったのよ」

「紙?」

「ええ。でなければ、フローリングを掃除するときとかに使うモップに貼りつける使い捨ての繊維状のシートだったのかもしれない」

 それを聞いて俊樹が首を捻る。

「……そんなので人を殺せたりできるわけ?」

「一枚だけなら無理でしょうけど、何枚かを一つに束ねれば人の首を絞めても破れないくらいの強度にはなると思うの」千寿留が言う。

「なるほど。もしそれが可能だとすれば、凶器が発見されないのも説明できる」

「どういうことだよ?」

「そういったものが凶器であれば、角南が殺された場所は犯行のあとで簡単に処分できる格好のロケーションだった」

「えっ! それってもしかして……」

「そうよ。犯人は凶器をトイレに流すことで証拠を隠蔽したのよ」

 声を上げて驚く彼に千寿留がはっきりと言った。

「あたしが襲われたとき、首を絞めていた凶器はロープみたいなものではなくて、もっと柔らかい感触だった。そこから連想していくと、ああいうものなんじゃないかなって思えたのよ」

「紙、もしくはそれに近い素材であれば、小さく折りたためば誰にも気づかれずに衣服の中に隠すことができる。犯行が終ればまた同じ場所に隠しておいても良いし、村瀬さんの言う通り簡単に捨てることも可能だろう」

「念のために細かく千切って流しておけば、他のものに紛れて見つかる危険もないわ。そうすれば手元にはもう凶器は残っていないのだから、角南さんを殺したあとも慌てて逃げなくてもよくなる。それに、なにより簡単に手に入る物だしね」

「いやぁ、まぁそれならできないでもないかもしれないけど。でもやっぱりなぁ」

 千寿留たちが説明しても、俊樹は納得いかない様子で眉間に皺を寄せたままだった。

 どうあっても妙子が殺人犯だとは考えたくないらしい。

 千寿留は、腕を組みながら独り言をぼやく彼を眺めてそう思った。

 顔見知りなのだからその可能性を信じたいくないという心情は理解できたが、幾ら性格とはいえ、彼がそこまで妙子を信用していたのかと邪推してしまうと、故人に対して嫉妬に近い感情が湧いてこないでもなかった。

「そんなに思い悩む必要はない」

 少し間を空けたところで凪森が口を開く。

「さっき自分でも言っていただろう? これはあくまでも推測だ。決して事実とイコールだとは限らない」彼は難しい顔を続ける俊樹に声をかける。

「ああ、たしかにそうだな」そこで俊樹がため息をつく。

「けど、今のところは有力な説だと思うわ」

「ただし、それはあのメンバの中に犯人がいるという前提があっての話だ。もしその条件が成り立たなければ、真犯人は別にいるということになる」

バックミラーからこちらを見ていた凪森がそう言った。

「もしかして、今の話はもう警察に?」

「まだよ。思いついたのは井沢さんから連絡をもらったあとだったし、今日のこともあってばたばたしていたから。下村さんのお通夜が終ってから伝えようと思ってるわ」

「そっか」

「この推理がきっかけで何か証拠が出てくれば良いんだけど……」

 千寿留は複雑な表情でこちらを見つめる俊樹を気にしながら呟いた。

 話をしているうちに車は会場へと到着する。

 そこは冠婚葬祭専用の施設らしい。建物の裏にある駐車場にかけられた看板にそのようなことが書かれていた。

 エフエムマスカットの正面にも同じようなものはあったが、ここは市街地から随分南へ離れた場所だった。

 事件現場の近くで式をするのは縁起が悪いからだろうか、と千寿留は解釈してみる。

「式が終わったらまた迎えにくればいいか?」

「うん。それで頼む」

 建物の前で車を停めてきく凪森に俊樹が言う。

「ごめんね。わざわざ乗せてもらっちゃって」

「気にしなくていい」凪森が答える。「調べてみたらこの辺りには飛行場があるらしい。今まであまり来たことがないところだから、 暇潰しにドライブするにはちょうどいいだろう」彼は珍しく小さく笑った。

「それじゃああとで連絡するから、またよろしくお願いします」

 彼女は丁寧に言うと隣に置いていた荷物を肩にかけようとする。

 自宅に戻る時間がなかったので、この服は会社のロッカーで着替えていた。そのためいつも会社に持って出かけているバッグは、衣類も入っているのでかなり膨らんでいた。

「あ、しまった」

 そこで千寿留は思わず声を上げてしまう。

「どうしたの?」俊樹が反応する。「もしかして、何か忘れ物でもしてきた?」

「ううん、それは大丈夫。ただうっかりしててちゃんと閉めてなかったみたい」彼女はそう答えながらもう一度手元に目を向ける。

 左手に持っていたバッグは、ファスナが半分以上開いていた。

 そこからは衣服をまとめた袋や仕事関連の荷物などが丸見えの状態だった。

 ここに来る途中で何かを落としたということはないだろうが、会社から凪森と待ち合わせていた駅前までの間、半ば私物を公開させながら大勢の人が行き交う街中を歩いてかと考えると彼女は急に恥ずかしくなった。

 なんとなく頬の体温が上がった気がする。顔が赤くなっているかもしれない。

「あ、村瀬さん、それってこの前のやつだね?」

 千寿留がバッグを凝視していると、俊樹が彼女に向かって言う。

「え? ああ、これのこと?」

 そこで我に返った彼女は、俊樹が見ているものに気づいて自分をそちらを向く。

 彼の視線は、バッグの中から顔を出している一枚の冊子に注がれていた。

 それは数週間前に三人で鑑賞した映画のパンフレットである。

「映画に行ったあとで柏木さんとその話をしてたときに、パンフレットが見たいって言われたから会社まで持っていってたの。それで、それっきり入りっぱなしにしたみたい」

「柏木さん、それ見てなんて言った?」

「よくこんなののパンフレット買う気になったよねって」

「だろうと思った」

 渋い顔をして言うとそれを見て俊樹が笑った。

「主人公がころころ変装する話だったな」

 凪森も身体を捻ってこちらに顔を向ける。

「怪盗二十面相のパロディだろ? もう忘れたのか?」

「ちゃんと覚えてる」

 凪森はすぐに答えると、そのままじっとパンフレットを見つめる。

「どうかしたの?」千寿留が声をかける。

 彼女は、凪森がずっと真剣な目をしていたのが少し気になった。

「いや、なんでもない」

 凪森はそこから目を離して応じるとすぐに姿勢を元に戻した。

 千寿留はその様子を眺めて首を傾げる。

 彼が何に関心を示していたのか、彼女にはそれがさっぱり分からなかった。


                   3


 千寿留たちが車を降りると、凪森はすぐに車を出してどこかへ走り去っていった。

「よし、それじゃあ行こうか」

 俊樹が上半身を軽く伸ばしてから言う。

 それは千寿留に話かけるというよりも、自分自身に言い聞かせているようなニュアンスが含まれていた。

 建物の中に入ると、一階のロビィには喪服姿の集団が形成されていた。

 入口に大きく掲げられている看板によれば、今日の式は妙子の通夜しか予定されていない。つまり今ここにいる人々は、全員同じ式の参加者ということになる。

「お通夜って、親戚とちょっとした知り合いくらいが来るものだと思っていたけど、僕が思っていた以上に大勢いるよ」

「いくらローカルのタレントさんとは言っても、やっぱり一般人とは違うってことね」

 ロビィを見た感想を漏らす俊樹に千寿留が同意する。

 そこには式の受付をする者やソファに座って寛いでいる者、また立ったまま歓談している者など様々だ。中には、既にハンカチで目元を押さえて涙を堪えている者の姿も見ることができる。だが人々は皆あまり共通して大きな声は出しおらず、比較的静かに式が始まるのを待っているようだった。

 千寿留たちは、まず荷物を預けてから受付の列に加わる。

「宮房さん」

 二人が最後尾に並んで順番を待っていると、不意に横から声をかけられて俊樹が咄嗟に顔を向ける。

 千寿留もそちら見ると、そこには礼服を着た体格の良い色黒の男性が立っていた。

「ああ、先生もいらっしゃってたんですか」

 その姿を確認して俊樹が口を開く。

「もちろん来てるに決まってるじゃない」

 男は笑顔でそれに応えると、その次に後ろを振り向く。

 すると彼から二、三歩離れた場所に、ゆったりとした長袖の黒いワンピース姿の武井光が大人しく立っていた。

 以前会ったときと同じようにしっかりとメイクをした光は、男性に手招きをされると無表情でその隣までやって来る。

 光と同行していることや俊樹が口にした先生という単語、そしてなんと言っても外見からは想像できないその甘ったるい口遣いから、千寿留は彼が噂に聞いていた烏城クリニックの梶薫医師なのだということに気づいた。

「そちらの可愛らしい方はどなた? もしかして彼女さんかしら?」

 俊樹にそう尋ねながら、その男性は興味津々といった風に大きく目を開けて千寿留を観察する。

「いえ、そういうわけでは……」

「最初に問診したときはいないとか言ってたくせに、本当はちゃっかりいたのね……。駄目じゃない、嘘なんかをついりしたら」

 男は俊樹の言葉を遮ると表情を変えて一方的に喋る。

 感情の豊かな人物、というのが千寿留の第一印象だった。

「初めまして、村瀬千寿留と言います。梶先生のことは宮房君から伺っています」

 彼が話し終えてから彼女は自己紹介をする。

「先生、彼女が前にお話しした友人です」

「え? じゃあ、例の事件で犯人に襲われたっていう……」

 俊樹が補足すると、梶はすぐにはっとして声のトーンを落として言った。

 その紹介の仕方にはいささか不満が残ったが、間違いではなかったので千寿留は無言で梶に微笑んでおくことにする。

「烏城クリニックという病院で医者をしている梶薫と申します。私も貴女のことは宮房さんから少し聞いているわ。でもこんな美人さんが恋人じゃないなんて、貴方、絶対に損してると思うわ」

 千寿留に頭を下げた彼は、続けざまに俊樹に向けてにやりと笑いながら言った。

「先生たちは、いつ下村さんのことを?」

 俊樹はそれを無視するように話題を変える。

「今朝病院に出てきたときよ」梶が小さく苦笑したあとで答える。「妙子ちゃんは私の患者さんだし、それを抜きにしても出席しなくちゃと思って、慌てて仕事を切り上げて光ちゃんと一緒に来たところなの。だからあの子が事件に巻き込まれたらしいのは聞いてるけど、頭の中ではまだその実感も、気持ちの整理もできていないのよ」彼は暗い顔をする。

「僕たち、下村さんが亡くなった日に彼女と一緒にいたんです」

「そうなの?」

「はい。下村さん、途中で席を外してから戻って来なくてみんなで探していたんです。そうしたら彼女、車の中で……」俊樹が掻い摘んで説明する。

「もしかして、これまでと同じ犯人だったりするの?」

「そこまではまだなんとも。けど警察はこれまでと同じ手口だと言っているので、おそらくは……」

「どうして、こんなことになっちゃったのかしらね……」

 梶が心痛な面持ちで呟く。

 横にいる光もどこか悲しそうにして無言のまま俯いている。

 さすがにこの状況で、妙子が事件の一端を担っていたかもしれないなどという話ができるはずもなかった。

 梶と光は既に受付を終えているらしく、軽く言葉を交わすと一旦列から離れていった。

 千寿留たち二人は、受付を済ませると彼らと合流するために移動を始める。

 するとそのとき、後ろにいた俊樹が肩を叩いてくる。

「なに?」

「あれ、井沢さんたちじゃない?」

 俊樹は梶たちが待っている場所とは反対の方向を眺めて言う。

 そこでそちらに視界を移すと、たしかに県警の宗像と井沢の姿があった。

「本当だわ」千寿留は彼に頷いてみせる。「ねぇ、先にあっちに行きましょう」

 彼女はそう言うと、俊樹の返事を待つことなく刑事たちのいる場所に方向転換した。

 井沢の連絡からさらに一日が経過している。もしかしたら、それまでの間に新たに判明したことがあるかもしれないという期待があった。

 千寿留が足早に近づいてゆくと、刑事たちもそれに気づいてこちらへ向かってくる。

「やはりいらっしゃってましたか」

 宗像が彼女と俊樹に声をかける。

「昨日は、わざわざ連絡していただいてありがとうございました」

「いえいえ、お礼を言われるほどのことじゃありませんよ」

 千寿留が頭を下げると、宗像の隣にいた井沢が愛想良く応える。

「それに私が村瀬さんたちにお伝えしたのは、奥野さんからの要望でもあったので」

「奥野さんが?」

「はい。昨日彼女から連絡があって、もし都合が合えばお二人にも参加してもらいたいという話でした。あの感じだと、みなさんのことを下村さんのご友人と思われていたみたいですね。連絡先が分からなかったのでこちらに掛けたと言っていました」井沢が千寿留に答える。

「そういえば、もう一人の方の姿が見えないようですが」

「凪森ですか? 彼は欠席です」

 ふと口を開く宗像に俊樹が言う。

「僕たちをここまで送ってはくれたんですけど、もともと式には出る気がなかったみたいです。すみません」

「なるほど。そういうことですか」

「お二人も式には出られるんですよね?」

「ちょっと顔を出しに来ただけですから、我々はすぐにお暇するつもりです。式に参列するよりも、早く犯人を特定することの方が先決です」宗像が話した。

「実はここだけの話なのですが、下村妙子の遺体は現時点でここにはないんですよ」

 そのあとで井沢が二人に囁く。

「それ、どういうことですか?」千寿留が眉をひそめる。

「司法解剖の手続きがまだ終わってませんで、まだご遺族にお返しできていない状態なんです。それでつい数時間前に許可が出たので、そのことを伝えるために私たちがここに来たというわけです。本来なら検査にはまだ時間がかかるものなんですが、何を考えたのか彼女の父親が遺体が戻る前に式の日取りを決めてたという連絡を受けまして……。いやぁ、まったく参りましたよ」

「どうやら、遺体がなくても葬式くらいできるという理屈らしいですな。葬儀屋の人間にとりあえず明日には間に合うことに伝えたら胸を撫で下ろしていましたが、彼らも呆れ果てていました」

 井沢と宗像が説明する。

「どうしてそこまで急ぐ必要があったんでしょうか?」

「下村は来週からどうしても外せない仕事があるらしくて、できるだけ早く終わらせたい様子でした。要するにスケジュールの都合ですよ。自分の娘が殺されたってというのに、酷い親もいたもんです」井沢が吐き捨てるような口調で俊樹に答える。

「そういうわけで、検査結果もこちらまで届いていないのが現状です。今日中には全て出揃うらしいという話ですが、まだ担当の部署からの報告はありませんね。ただ、そろそろ大まかな情報はきいてもいいでしょうから、何かが分かり次第、あちらで待機してる棚部から連絡があるでしょう。ここの用件が終ったら、こちらからも問い合わせるつもりです」

 千寿留は、その宗像の話を聞いてがっかりした。

 久雄の要求はもちろん不可解だったが、警察がそんな悠長に構えているのはどうなのかと思い少し苛立ちを覚えた。

「それ以外で何か分かったことはありますか?」

 冷静を装って次の質問をしてみると井沢がそれに応える。

「事件との関連があるかはまだ不明ですが、下村妙子が殺された日、彼女は村瀬さんたちを連れて行く前にもエフエムマスカットに来ていたのを、あのビルの警備員が見かけていたらしいんです」

「じゃあ、下村さんは一度ラジオ局に行ったあとで僕たちを迎えに来てくれたってことですか?」

「そういうことになります」彼が俊樹に頷く。

「ちなみに、下村妙子があの局で担当しているラジオ番組は平日しかありません。たまに打ち合わせなどでやって来ることもあったらしいですが、最近は基本的に土曜日が彼女の休日だったそうです。もちろん、あの日も仕事はありませんでした」宗像が補足した。

「仕事でもないのに顔を出していたなんてなんだか不思議ですね」

 千寿留はそう呟いたあとで井沢に尋ねる。

「エフエムマスカットではちゃんと入局の記録をしているはずでしたよね? そちらはどうでしたか?」

「彼女はたしかに午前中に一度局の中に入っていましたが、数分後にはすぐに出てしまっていたようです。受付の女性がそれを確認していました」

「そんな短い間に、下村さんは何をしていたんだろうね」

「私たちも同じ疑問を持ったのですが、他に彼女を見たと言う声もなく、本人もこんなことになったので詳細は結局分からずじまいなのです」井沢が俊樹に話した。

「あの、私、事件のことを自分なりに考えてみたんですが……」

 そこで千寿留は、宗像と井沢に自分が考えていた推理を披露することにした。

 ここに来るまでの車の中で話をしたとき、凪森がラジオ局の関係者以外の犯人の可能性を視野に入れているような発言をしていたが、彼女はその考えには否定的だった。

 殺された二人の共通点といえば、今のところエフエムマスカット絡みだとしか思えない。だとすれば、犯人もそれと同じ接点を持っている可能性の方が高く、全く関係の無い人間の仕業だとするのはいささか突飛すぎる。現実的に考えれば、彼らを殺すことで一番得をするのは、今容疑者として挙がっている者の中では笑美子が一番だと思った。

「下村さんが事前にラジオ局を訪れていた意図までは分かりませんが、それだと今回起きたことはある程度説明がつくはずです」

「奥野と下村妙子の共犯、ですか」

 千寿留が話し終えると、それを静かに聞いていた宗像が呟く。

「下村妙子の当日の行動には多少引っかかる点もありますが、実はそこまで重要ではない些細なことだったのかもしれません。ですので、貴女が今言われた可能性も充分に考えられる」彼は小さく頷きながら千寿留にそう言った。

 その口調から自分の意見が好感触だったと悟った千寿留が顔を綻ばせてさらに続ける。

「井沢さんのお話だと、私たちをここに招待したのは奥野さんということになります。私は今、それが少し気になっているんです」

「つまり奥野が何かを企んでいると?」

「もし奥野さんが犯人だとしたら、自分への疑いが強くなるという予想は簡単にできることでしょう。ですから、少なくともこれ以上穏便にしてさえいればやり過ごせる状況だとは思っていないはずです」

「わざわざ僕らを呼んだってことは、まだ村瀬さんを狙っているってこと?」

「正確にはあたしと宮房君ね」千寿留が言う。「ただこんなに人がいるのだから、前みたいに襲われるようなことはないと思うけど」

「それは分からないよ。最初の事件だってお客さんが大勢いた中で起きてるんだから」

 俊樹が言い返す。その顔はいつになく真剣で、千寿留に向かって訴えるように話していた。

「村瀬さんの言うようにあのときとは状況が違いますから、私も過剰に心配をされる必要はないとは思いますが……、親父、どうする?」

 二人のやりとりを見ていた井沢が宗像に目を向ける。

「そうだな」

 宗像は数秒間井沢と顔を合わせると、そのあとで千寿留たちに話す。

「分かりました。では念のためにうちの者を何人か寄越すことにしましょう。我々もそれが来るまではこちらに残りますのでご安心ください」

「大丈夫です。いざとなったら宮房君に守ってもらいますから」

 千寿留は、そこで俊樹の腕を取ってから冗談交じりに応える。

 これまでの傾向から、彼女は俊樹がそれで狼狽えるだろうと予想していた。

 だが今回はいつもとは違い、彼は照れることもせずにただ首を縦にふっただけだった。

「ほお、これは頼もしいですなぁ」

 その様子を見た宗像がにんまりと笑う。

 千寿留も隣に目をやると、俊樹は緊張した表情でこちらを見つめていた。


                   4


 場内に通夜の開始を告げるアナウンスが流れると、千寿留たちは刑事たちと別れて式場へと向かった。

 会場のホールにはパイプ椅子がずらりと並べられており、二人は後方の空いている席に腰を下ろす。

 千寿留がなんとなく周囲を見渡していると、二列ほど前に梶と光を見つける。年齢層は若干高めだったので光のワンピースは識別し易かった。

 他に知っている顔がいないかと探してみたが、ざっと見た限りではそれ以外に知り合いは見当たらない。蒔田や栗原はまだ仕事なのだろうか。一番前の席には久雄と奥野笑美子がいるものと思われたが、この位置からでは確認できなかった。

「お焼香ってこうだったよね?」

 不意に隣に座る俊樹が口を開く。

 彼は既に左手に数珠を握りしめ、不安げに千寿留の顔を見ながら右手を額につけるジェスチャをしていた。

「僕、こういうのって小学校の頃のお祖母ちゃんの葬式以来だからさ」

「それで大丈夫だから落ち着いてね」千寿留はそわそわしている彼に言った。

 座席が埋まると、ほどなくして四十代から五十代あたりの剃髪の男性が現われる。

「子供の頃、住職のことをおじゅっさんって言ってなかった?」

 俊樹が話しかけてくる。

「ううん、あたしはずっとお坊さんだったけど」

「そっか。うちは従兄弟が七人いるんだけどね、上の子たちはみんなそう呼んでたから、昔からそれが普通だと思っていたんだ。だけど学校でその話をしてみたら、みんなそんな呼び方はしないって言われてさ」

「そうなんだ。それで?」

「いや、ただあれはカルチャーショックだったなぁとかふと思い出ちゃっただけ」

 彼は感慨に浸るようにして言うと、そのあとで特に話を続けることもなく前を向いてしまう。

 きっとどうにかして緊張を解したかったのだろう。

 千寿留は、唇を結んだ俊樹の横顔を見ながらそんなことを思った。

 祭壇の前までやって来た僧侶は、背を向けて着席するとおもむろにお経を読みはじめる。

 出席者は、いずれも沈黙を保った状態で式の場内に響き渡る特有の語り口調を聞き入っているようだった。

 読経が流れる間、千寿留はその一定のテンポで耳に入り込んでくる詠唱をBGMにして自分の意識を思考の中に潜らせていった。

 宗像たちには自信満々に話していたが、実は今の推理ではまだ説得力に欠けるのではないかと彼女は内心感じていた。

 まず犯人が妙子の車の鍵を入手した経路についてだ。

 下村親子は同居していた。だから久雄の恋人である笑美子なら、彼の家へ訪れた際にその鍵を手にすることはできたかもしれない。

 しかし、小さな子供ならまだしも妙子は立派な大人である。

 もちろん家庭ごとの親子関係にもよるだろうが、一般的な考え方をすれば、たとえ同じ屋根の下で暮らしていようとも普通はそういったものは個々でしっかりと管理するものではないだろうか?

 妙子自身も久雄からは独立していると話していたので、一緒に暮らしていてもそのあたりはしっかり区切りをつけていたはずだと推測できる。

 そう考えると、彼女が私物を自分以外の人間が簡単に触れられるような場所に置いていたりするだろうかという疑問が千寿留の中で生まれていた。

 次に犯行で使われた凶器の問題。

 今考えている説であれば、一件目の事件で凶器の痕跡がないという点はクリアできる。ただ俊樹からも指摘があったように、本当に紙や繊維のようなもので成人の男女を絞殺するだけの強度が得られるのかどうかまではまだ検証できていない。

 さらに千寿留自身が犯人に襲われたときに触れた凶器の感覚。

 あれはたしかに彼女が想像している物に近かったが、はっきりとそれだと断言できるわけでもない。実は他にもワイヤーなどの殺傷能力の高そうな凶器も候補に挙げていたのだが、当時の記憶と未遂に終わって自分の首に残っていた痕から考えると、少なくともそういった硬い材質ではないのは確実だった。

 そして今一番気になっているのが、井沢が言っていた妙子の不審な行動についてだった。

 もっと詳しい当時の状況を知りたかったが、唯一真相を語ることができる本人はもうこの世にはいない。これ以上目撃証言が出てこないようなら、この件は事件との関連の有無の判断ができないままうやむやになってしまうだろうと彼女は思った。

「村瀬さん」

 急に耳元で名前を呼ばれ、千寿留は咄嗟に顔を向ける。

 俊樹が身体を寄せてこちらを見ていた。

「そろそろ僕らも準備しないと」彼が言った。

 そこで彼女は会場を観察する。

 つい先ほどまで続いていた僧侶の声は既に聞こえず、祭壇の近くには参加者が並んでいた。その列は二人から向かって右端にある会場の壁際の方に続いており、前に座っていた者から順に席を立ってそちらへと移動していた。

「あれ? もうお焼香?」

「そうだよ。さっきからずっと難しい顔していたけど、どうかしたの?」

「ううん、なんでもない」千寿留は首をふって答える。

 ほんの少しつもりだったが、かなり自分の世界に没頭していたらしい。

「僕らもそろそろ行こう」俊樹が席を立ちながら言う。

 千寿留はそれに頷くと、自分も腰を上げて彼についてゆく。

 列は長かったが、一人あたりの時間が短いのでスムーズに流れていた。

 俊樹の順番になると彼はゆっくりと祭壇へ向かう。そして若干ぎこちないながらも無事に焼香を終えてその場を離れた。

 次に千寿留が前に出る。

 彼女はまず最前列にいる喪主に一礼すると、目の前にいた恰幅の良い白髪の男性が無表情で頭を下げた。

 これが妙子の父親の久雄だろう。

 その証拠に、隣には和服姿の笑美子がどこか翳りの見える表情でお辞儀を返していた。

 彼女は二人を見てから身体の向きを変えて祭壇まで進む。

 焼香台の上には妙子の写真が飾ってあった。

だが、その下に置かれた棺桶の中は空のままだ。

 果たして、参列者のうちどれだけの人間がその事実を知っているのだろうか?

 千寿留は宗像たちの話を振り返って思った。

 遺影の中の妙子は髪が短かった。

 彼女は数秒それを見上げてから焼香を行う。

 そういえば最近写真を撮っていないと妙子は話していた。ということは、おそらくこれもエフエムマスカットに貼られていたポスターと同じ時期のものなのだろうか。

 視線を落として軽く瞼を閉じながら、妙子と接することができたごく短い時間について思いを馳せていた千寿留は、そこで突然脳裏に何かが閃いた気配を感じてはっと目を開く。

 しかしそれは一瞬のうちに消え去ってしまい、すぐに思い返そうとしても頭の中には既にとても曖昧で不安定なイメージだけしか残っていなかった。

 千寿留はそれでも必死に記憶を手繰り寄せようとする。

 しかし、それは不意に聞こえてきた大きな咳払いによって中断されてしまった。

 そこで彼女が振り返ると、後ろで列を作っている人々がじっとこちらを見つめているのが分かった。

 つい思い出すことばかりに意識が向いて、流れを妨げてしまったようだ。

 それを理解した彼女は、慌てて次の番を待つ年輩の男性に深々と頭を下げると足早に祭壇を離れることにする。

 ただ、席に戻る間もさきほど感じたものを捕捉しようと再び思い出そうとしてみる。

 あれは例えるならそう。

 ずっと葡萄を食べていたはずなのに、その途中で無意識のうちに一粒だけマスカットを口に入れたような類の、薄らとした印象でありながらそれでいて妙に後味が残っているような感覚だった。

 席に着いたあとも、彼女の大部分は式よりもそのことに意識が傾いていた。

 強い違和感があった。

 何か引っかかっるものはたしかにあるのだが、はっきりとは掴むことができない。

 どんなものなのか全く分からないのであれば潔く諦めれたのかもしれないが、それはまるで彼女をからかうかのように片鱗をちらつかせながら思考の中にこびりついていた。

 そのもどかしさを不快に感じて千寿留は思わず顔をしかめる。

 式は滞りなく進行しているようだった。

 全員の焼香も終わり、続いて喪主の挨拶になると、久雄が落ち着いた口調で話しはじめる。その顔には涙も悲壮感もなく、彼は淡々と参列者に簡単な礼を述べただけで早々にスピーチを切り上げた。

 久雄が話し終えると式は一旦お開きとなり、人々は席から離れてぞろぞろと会場をあとにする。

「もしかして気分でも悪くなった?」

「え?」

 急に声をかけられたので、千寿留は反射的に声を出す。

 そのあとで隣に目をやると、俊樹がこちらを覗き込んでいた。

「さっきからずっと俯いているし、なんだか様子も変だよ」

「あぁ違う違う。そういうわけじゃないの。ただちょっと考えごとをしていただけ」

「そうなの?」

「うん、だから大丈夫」

「そっか、ならいいんけど」

 彼女が手を振りながら応えると、俊樹は心配そうな表情でひとまず頷いた。

 読経のときからぼんやりとしていたので、おそらくずっと自分のことを気にかけてくれていたのだろう。

 そう考えると少し嬉しかった。

「さてと、それじゃあそろそろ帰ろうか?」

 千寿留は、笑顔で俊樹に言ってからゆっくりと席を立ち上がった。

事前に受けていた説明では、式のあとに場所を変えて食事会のようなものが行われるらしかったが、二人はそこまで参加する気はなかった。

 まだ頭の中はもやもやしていたが、だからと言ってここに居座っていても意味がない。

 千寿留は消化不良の思考をひとまずペンディングさせることにして、その名残惜しい気持ちに区切るために最後にもう一度祭壇を眺めた。

 写真の中の妙子はこちらを見つめている。

 色白の肌に小さな顔。

 そして彼女の物腰をそのまま表している穏やかな微笑み。

 それらは全て、過去二回会ったときと同じものだった。

 唯一違う点といえば、そこに映っている妙子は千寿留の知ってる綺麗な長髪とは違い、耳元あたりで揃えられたショートカットであるというところくらいだ。

 ラジオ局のポスターを見たときにも思ったが、やはり髪型が違うだけで見た目の印象がかなり変わってくる。

 生前の妙子を反芻していた千寿留は、そのときふと凪森のことを考える。

 どうしてそこで彼を思い浮かべたのかは彼女にも分からない。

 なんの脈絡もなく脳裏に現われた凪森は、会場まで送ってくれたときに彼女の私物を見てどこか興味深そうに笑っているあの顔だった。

「……えっ?」

 その瞬間、千寿留は無意識で声を上げる。

「どうしたの?」俊樹がそれに気づいて話しかけてくる。

 しかし、彼女は今それに応じることができない。

 さきほど掴み損ねていたものが突如蘇っていた。

 それはまるで、照明のスイッチを押したように方向を見失って行き詰っていた彼女の思考にぱっと明かりを灯して道を示すようだった。そして今の千寿留は、一気に湧き出てきた閃きを処理するだけで精一杯になってしまい、他に気を回す余裕など持てなかった。

「……ごめん。ちょっと待って……、何も言わないで」

 俊樹に向かって口を開くことができたのは十秒近く経ったあとのことだった。

 ただ意識の大半はまだそこにはなく、彼女は再び黙り込む。

 無意識のうちに口もとに左手を当て斜め下を睨むようにして目を凝らしていたが、焦点はどこにも合っていない。

 集中して考えるときにする癖だった。

 彼女は、こめかみの力みを感じながら思考をフル稼働させる。

 一点だけに意識を傾けることで頭の回転が活発化する感覚。

 実際にはそうなっているわけではないだろうが、そういう気持ちにさせるのが大事なのだと理解している。

 要するにマインドコントロール、自己暗示の一種だ。

 でも、そうだとしたらどうして……。

 千寿留は、言葉にすることなく自問自答を繰り返しながら緩やかにゴールに近づいてゆく。けれど一つの疑問を解消させる度に不安要素が芽を出し、それはあるところで新たな疑問へと成長して突き進もうとする思考の前に立ち塞がった。

「……あたし、ちょっと行ってくるわ」千寿留は唐突に口を開く。

「へ?」

 すると、不意を突かれた俊樹がきょとんとした顔でひどく間の抜けた声を出す。

「行くってどこに?」

「ごめん。もし少し待っても戻って来なかったら、あたしのことは気にしないで帰ってくれればいいから」

 彼女はその質問には答えずにそう告げると、すぐさま急いで歩きはじめる。

 背後で俊樹が何か言っていたが、その相手をしている暇は一秒もなかった。

 事件のことで新たに思いついたことがあった。

 まだ完全に納得できるほどの説得力はなかったが、おそらく警察はその一端にすら気づいていないはずだ。

「とにかく確認しておかないと」

 会場を出た千寿留はそう独り言を呟くと、意識を切り替えてロビィをたむろする喪服の群れの中から宗像たちの姿を見つけ出すことだけに集中した。


                   5


「村瀬さん!」

 俊樹は一人で出口へ急ぐ千寿留を呼び止めようとしてその背中に声をかける。

 しかし彼女は振り返るどころか一度も立ち止まる素振りもなく、彼を無視してロビィへと消えいった。

 そこで会場に取り残された俊樹はしばし呆然とする。

 もし千寿留の推理通りにこの事件の犯人が奥野笑美子であったとして、さらに彼女がなんらかの意図を持って俊樹たちを呼び寄せたのであれば、ここで別々になるのはできるだけ控えるべきだと彼は思っていた。

 特に千寿留は一度犯人に狙われているのだ。

 あのとき地面に倒れて苦しそうにしていた彼女の姿は、今でも俊樹の記憶に鮮明に焼き付いて忘れることができない。今思い出すだけでも胸が締め付けられる光景だった。

 県警の二人は応援を呼ぶと言っていたが、式の間にそれらしい者の姿を見かけることはなかった。だから千寿留の身を直接守れるのは自分しかいないと考えた俊樹は、雅史たちと別れてからずっとそれを意識していた。

けれど式も終わり、あとは帰るだけというタイミングで彼は彼女の突発的な動きに対応できなかった。

 こうやって戸惑っている間にも、千寿留が彼から遠ざかっているのは間違いない。

 それを認識したところで彼はようやく我に返る。

 千寿留の姿は既に完全に見失っている。もしかしたら彼女はもう建物の中にはいないのかもしれないが、ここで諦めたら自分は絶対後悔するだろう。

 俊樹は自分の頬を叩いて気合い入れると、急いで彼女のあとを追うことにした。

 食事会までにはまだ時間の余裕があるらしく、ロビィには妙子の通夜に参加した者たちが各々に散らばって寛いでいた。

 俊樹は必死で千寿留を探す。

 人数は多かったが、建物はそこまで広くないので彼女を見つけるのは難しくないだろうと予想していた。しかし実際にやってみると、全員が似たような格好をしているせいで特定の個人を識別するのは普段よりも時間がかかりそうだった。

 俊樹はロビィを歩き回りながら、顔を休みなく動かして辺り観察する。

 するとそのとき、いきなり背中から進行方向とは反対の抵抗を受けて躓きそうになる。

「おぉっと」

 彼は反射的に叫びながらも、なんとか倒れるのだけは堪えて後ろに振り返ってみる。

「なんだ武井さんか」

 そこには黒いドレスの光が立っていた。

 唇は横一文字に結ばれており、右手でしっかりと彼の背広を掴んでこちらを見ている。

「どうしたの? 梶先生は?」俊樹は周りを確認する。

 近くに梶の姿はない。

 トイレにでも行っているのかもしなかったが、全く質問に答えようとしない光を前にして彼は不思議に感じる。

「何かあったの?」

「式が終わったあとで先生とはぐれてちゃったんです。それで、ロビィいればたぶん会えると思ってさっきからうろうろしてるんですが……」

 尋ね直すと光がぼそりと言った。

「電話は? 繋がらないの?」

「先生は携帯電話を持たれていないんです。プライペートのときは自分の時間を大切にしたいから、他の人から呼び出されたくないからって」

「なら受付に頼んでみようか? アナウンスくらいしてくれると思うよ」

「そこまでしなくても大丈夫です。先生とは車で一緒に来ているので、車があるかどうか分かれば、少なくとも先生はここにいることになりますから」

「でも、先生が武井さんを置いて帰ったりはしないと思うけど」

 俊樹はそう言ってから光に質問する。

「武井さん、この辺りで村瀬さんを見かけなかった? 少し前に会場からこっちに出てきたはずなんだけど」

「ずっと先生を探すことしか頭になかったので、他の人を見ている余裕は全然ありませんでした」光が首をふる。

「そっかぁ……」

 それを聞いて俊樹は肩を落とす。

「いやね、僕も彼女がはぐれちゃって困ってるんだよ」

「そうなんですか。でしたら、私も探すのを手伝いましょうか?」

「本当?」

 その申し出に俊樹は声を上ずらせる。

「はい。でもその前に、一つだけお願いがあるんです」

「何?」

「まず先に梶先生が帰ってないことを私と確かめてもらえませんか?」光がこちらを見てそう懇願した。

 しかし、俊樹はそれに渋い顔をする。

「参ったな……、僕の方も結構急いでるんだよね」彼が重い口調で言った。

「一緒に駐車場まできてもらえるだけでいいんです。だからすぐに済みます」光がすかざす話す。「あの、実は私、暗いところが大の苦手なんです。だから一人であっちまで行けなくて……」

 光はそう続けると、そのあとで黙り込んでしまった。

「あぁ、なるほど」

 その様子から俊樹は納得する。

 駐車場は建物のすぐ裏にあるのだが、そこには照明がほとんど付いていなかったことを薄らと記憶していた。

 そして今、出入口に目をやると外は一面が闇に支配されている。

 暗い場所が駄目な人間にはきついシチュエーションかもしれない。

 だがその一方で、光が一人で確認している間にこちらは千寿留の捜索を続けて、途中から合流してもらった方が効率がいいのではないかという気持ちも少なからずあった。

 なぜなら、駐車場は建物からゆっくり歩いても一分くらいしかかからないほどの距離にあった。だから幾ら苦手でも、すぐ近くなのだからわざわざ自分がついて行く必要はないのではないかと思った。

 しかし、普段からあまり感情を表に出さない光が心細そうな顔をしているのに気づいたとき、俊樹はあることを思い立つ。

 もしかしたら、光が通院している理由というのはこれなのかもしれない。

 どういったことが原因で光が烏城クリニックにかかっているのかは未だに知らないが、そういった恐怖症を抱えている可能性は充分にある。現に目の前にいる光は、顔を下に向けたままどこか落ち着きがない。その緊張具合から察しても、光が暗闇を相当苦手にしていることが想像できた。そう考えはじめると、光の口調や態度もいつものような突っ慳貪ではなく、むしろ彼に甘えているようにも思えなくはなかった。

「分かった。なら先に梶先生の車を確認に行こう」

 少し間を置いてそう言うと、俯いていた光がぱっと顔を上げる。

「本当ですか?」

「うん。でもその代わり、それが終わったら僕の方の協力もお願いするよ」俊樹が言った。

 怯えている光が不憫に思えたのも理由の一つだったが、それと同じくらいの比重で、いつもは見られない仕草で自分に頼ろうとする光が新鮮に感じたということもあった。

「分かりました。ありがとうございます」

 光はそれに応えると、彼に愛らしい笑みを浮かべた。

 二人はそれからすぐに駐車場へ向かった。

 町外れにある建物周辺は、住宅地から離れていることもあって人影もなく、近くを通る道路もこの時間は交通量がほとんどない状態で閑散としていた。

 たしかに女性が一人で出歩くには抵抗があるかもしれない。

 俊樹は、すぐ後ろで彼に離されないようにぴったりとついてきている光を確認しながらそう思った。

 覚えていた通り、駐車場には照明がほとんど設置されていなかった。

ただそのスペースはさほど広いわけではないので、建物の屋上の看板を照らしている明かりと脇にある道路に立てられている街灯のおかげで全く何も見えないという事態だけはなんとか回避されている。

とはいえ暗くことには変わりがなく、駐車場の端から端を奥を眺めてみてもぼんやりとしかその全体像を捉えることができなかった。

 二人は、光の記憶を頼りに目的の車を探しはじめる。

 駐車スペースはまだ充分埋まっているようだった。

 ここはお世辞にも交通手段が良い場所とは言えない。おそらくタクシーを利用しなかった者のほとんどが車で参加しているのだろう、と俊樹は思った。

「ありました。これです」

 一台ずつ車を確認していると、その途中で光が口を開く。

 俊樹がそちらに向かうと、そこには黒い乗用車が停められていた。

 車は建物から見て一番奥の列に一台だけぽつりと置かれており、最初は闇に紛れて車体の色がよく分からなかった。

「誰もいないみたいだね」

 俊樹が中を覗きながら呟く。

 車内は無人である。つまり梶はまだ建物にいるということだ。

「ですね。良かった……」

「先生が一人で帰るわけがないよ」彼はほっと息を漏らす光に言った。

「なら梶先生、もしかしたら私のことを探してるのかもしれません」

「たぶんそうだと思うよ。僕も村瀬さんも探したいし、早くあっちに帰ろう」

「でも、この辺りは探しておかなくてもいいのですか?」

 建物に戻ろうとして俊樹が車に背を向けたところで光が言う。

「ここ? いや、さすがにそれはないと思うけど」

 彼はそこでさっと見渡すが、周りには自分たち二人以外誰の姿も見えない。

「私、式が終わってからずっとロビィにいましたけど、村瀬さんにはお会いしませんでした。だから、もしかしたらもう外に出ているんじゃないんじゃないかなって」

「たしかに中にいないのなら、もうどこかに行っちゃってるような気もするけど」

 俊樹はそう言うと、携帯電話を取り出して千寿留の番号を呼び出してみる。

 しかし、コール音は鳴っても彼女がそれを取ることはなかった。

「梶先生が待っているかもしれないので、私は先に行って建物の方を探してみます。なので宮房さんは、一応念のために外を探された方が良いのではないでしょうか?」

「うーん」

 そう言われて俊樹は唸り声あげる。

 光の提案も一理あるように思えた。

 このまま二人一緒に行動していても、例えば建物の反対から外へ出てきた千寿留とすれ違ってしまう可能性もあり得る。一番要領の良い方法を選択するのなら、ここで二手に分かれるのが最適だろう。

「だけど武井さん、一人じゃあっちまで戻れないでしょ?」彼は建物を見て言う。

「さっきまでは凄く不安でしたけど、これくらいなら走れば我慢できるとような気がしてきました」光が答える。「私は大丈夫です。でも一人だと心細いので、外の見回りが終わったら宮房さんもすぐ戻って来てくださいね」

 光は小さく笑って言うと来た道を引き返してゆく。

「あ、ちょっと……」

 俊樹は声をかけたが、光はそれを相手にすることなく駆け足で離れていってしまった。

 気丈に振る舞ってみせてはいたが、本当は全力疾走しないと耐えられないくらい怖いのだろう。

 黒いスカートを勢いよくなびかせながら脱兎のごとく走り去るのを見て俊樹はそう推測する。

 彼は光のことが若干心配だったが、建物に辿り着くまでの短い間で何かが起こることもないだろうと考えてあとを追うことまではしなかった。

「さてと……」

 光が暗闇に同化したのを見届けると、俊樹は焦点を目前に切り替える。

 そんなことはまずないはずだとは思っていたが、光の意見に従って千寿留の姿を確認してみることにする。

 駐車場に来てから目的の車を見つけるまでの間に数台の車が出て行っていたが、それ以降はどれも動く気配がない。通夜に参加していたかなりの人数が食事会に参加するらしい。

 一体、千寿留はどこに行ってしまったのだろうか?

 見逃しがないように目を凝らして歩きながら俊樹はぼんやりと考える。

 式の途中から彼女の様子がおかしいのには気づいていた。

 はじめは体調でも悪くしたのかと思っていたが、どうやらあれはただ物思いに耽っていただけだったらしい。

 ということはおそらく、いや、十中八九事件のことを考えていただろう。

 もしかしたら千寿留はこの事件の犯人が分かったのかもしれない。

 俊樹は、式のあとで彼女が見せたあの驚いた表情と慌てた様子を思い浮かべる。

 だとすればそのあとの行動も想像できる。

 彼女はきっと、それを知らせるために宗像たちを探しに飛び出して行ったに違いない。

 だが俊樹が見た限り、ロビィには彼らの姿はなかった。他に警察らしき人間もいないように思えたが、私服警官が紛れていて区別がつなかっただけということも考えられる。

 そこで彼はパトカーがあるか探してみるが、それらしき車は見つからなかった。

 千寿留から笑美子が犯人である可能性を指摘されていたので、わざわざそんな目立つような真似はしていないのかもしれない。

 仮に千寿留が宗像たちと一緒だとすれば、ひとまず身の安全は保証していいだろう。

 雅史に連絡して確認した方がいいかもしれない。

 そこまで考えると、俊樹はもう一度ポケットから携帯電話を取り出そうとする。

 するとそのとき、突然身体に衝撃が走った。

 一瞬何事かと気が動転したが、すぐに自分が羽交い絞めにされていることに気づく。周囲の暗闇に加えて考えごとをしていたせいで 完全に不意を突かれてしまっていた。

 首には何者かの腕が巻かれている。

 彼は必死にそこから逃れようとするが、自分を襲っている人物は後ろに体重をかけられているらしく、無理矢理仰け反った体勢にされて上手く力が出せない。

 その腕は細いくせに力強く喉元を絞り上げており、助けを呼ぼうにも嗚咽のような声しか出ない。

 俊樹はそもそも力勝負が苦手である。

 中学と高校で毎年あったスポーツテストの筋力の成績は、いつも平均よりも下だったという記憶がある。瞬発力を必要とする種目よりも、長距離走のような持久力が得意なタイプだったと自分も自覚していた。

 どうしてこんなときにそんな下らないことを考えているのか、と彼はふと我に返る。

 頸動脈は圧迫され続け、あまりの息苦しさのせいで次第に抵抗する力も弱まってきている。

 耳元で背後にいる者の吐息が微かに聞こえる。

 これは誰だ?

 もしかしてこいつが事件の犯人なのか?

 だとしたら、自分はこのまま殺されてしまう?

 疑問詞ばかりが頭に浮かぶ。

 ただ、それを考えている間は苦痛を忘れられるような気がした。

 きっとこれは、死に至る恐怖を和らげるために無意識で作用する本能なのだろう。

 千寿留もこれと同じものを感じたのだろうか?

 俊樹は意識が遠のいてゆくのを感じながら思う。

 人は死ぬために生きている。

 だから死ぬ間際に人生を満喫できたと思えるかどうかで、自分が生きてきた価値が分かる。

 以前梶がそんなことを話していた。

 ただ現にそれが目前まで迫っているというのに、俊樹にはその評価ができるだけの余裕がなく、脳裏に走馬灯が駆け回るようなこともなかった。

 人には自分がいつ死ぬかを決めることができ、それこそが人間が持つ最も大切ものである。そしてその権利を奪う行為は決して許してはならないものだとも言っていた。

 そう、これは光の言葉だ。

 しかし俊樹は、その悪意ある執行者に対して何も感情を抱くことができない。

 今はただ、水泳をしたあとに訪れる疲労感と同じ種類の心地良さに全身が支配されているだけだ。

 こんなことなら、ちゃんと身体を鍛えておけばよかった。

 最後にそんな呑気なことを思うと、彼の意識は静かにシャットダウンした。


                   6


 凪森健はくわえていた煙草を左の中指と人差し指で挟んで抜き取る。

 そして蓄えていた煙を呼吸と共に肺まで吸い込んでからゆっくりと吐き出すと、彼は思わず口もとを緩める。

 後ろには空き地のようなスペースがあり、そして目の前の道路を隔てた先には鉄柵で囲われた大きな敷地が広がっている。さらにその向こう側には滑走路があるらしかったが、日没を終えぽつりぽつりと街灯に照らされるだけのこの場所からでは、それをはっきり確認するのは難しい。

 下村妙子の通夜へ出席する俊樹と千寿留を会場まで送った凪森は、二人を待っている間に近くにある飛行場までやって来ていた。

 それに特に深い意味はない。この一帯には暇潰しができそうな場所がなかったのでなんとなく見物をしようと思っただけだ。

 しかしいざ到着してもその中に入れるでもなく、結局はただ手持ちの煙草を消費しながらこの人気のない場所をぼんやりと眺めることしかできなかった。

 街灯のおがけで多少の明かりあったが少し離れると周りは真っ暗で、興味をそそるものがあったとしてもそれを見ることは叶わない。ただし、仮にこれが日中だったとしても同じように退屈な風景しかないのは容易に想像できた。

 車は少し離れた路肩に停めてある。

 こんな時間のこんな辺鄙な道路を通るとしたらやんちゃ盛りの青少年たちくらいのものだが、彼らが活動するのはもっと夜が更けてからだろう。

 彼は腕時計を見る。

 二人と別れてからまださほど経っていない。

 会場では、ようやく式が始まっている頃ではないかと予想する。

 時間はまだ充分にあったが、彼はもうドライブの続きをする気はない。それよりも、傍にあるガードレールに腰を下ろして誰にも邪魔されずに考えていたい気分だった。

 世間では、自分たちが簡単には理解できない事象を納得できるようにしてゆくことを、謎を解く、と表現したりする。

 誰が初めにそう言ったのかは知らないが、なかなか巧い言い回しではないか、と凪森は感心してみる。

 思考とはパズルのようなものだ。

 ある物事を考えるとき、まずそれを構成する幾つものキーワードが思考の中に散りばめられ、人々はその無造作に混在するピースを繋ぎ合わせることで事象を正確に捉えようとするのである。

 誰であっても最初は事象の全容を知ることはない。もし初めからそれを把握できている者がいるとすれば、それは先人たちが試行錯誤して作り上げたパズルの全体像を予め知っていたからだ。それ以外は決してあり得ない。

 俗に天才と呼ばれる者たちでもそれは例外ではなく、彼らはただ常人では考えられない手法で異常なほど素早くパズルを組み立てることができるということだけのことだ。それは人とコンピュータとで例えると分かり易いかもしれない。

 さて、パズルを作るときに気をつけないといけないのは、何も考えずにとりあえず近くにあるピースから順に繋げていっても無駄だということだ。まずはピース同士の嵌め込みが合致するかを確かめ、合わなければピースの山の中から別のものと探し当てる。ときにはピースの向きを変えることも必要だ。特に思考の場合は、本物のパズルのような絵柄や接合部の形状などのある程度判別がし易い要素が明確ではないので尚更注意しなければならない。

 しかし、それでも時折どうしても形の合うピースが見つからないケースもある。

 そういったときは、ピースを常識では考えられないような向きにしてみると意外にしっくりすることもある。

 思考にとってのピースの向きとは、つまり物事を捉えようとする者が持っている認識や偏見、思い込みといったものだ。それらは思考の道筋を簡略化して結論へ到達する速度を高める効果がある反面、本来なら数え切れないほどある選択肢を無意識のうちに排除してしまうというデメリットもある。

 奇抜で一見普通ではあり得ないと思われる考え方の多くは、実のところ自分の固定観念から生じる嫌悪感などの心理的な抵抗が割り込むことで、そう考えてはいけないと勝手に規制しているにだけ過ぎない場合が多い。思考とはパズルのように一つのピースに四つの繋ぎ目しか存在しないわけではなく、人によってその数に違いがあるものなのだ。

 パズルを解くことで重要なのは、自分の感情に囚われることなくこつこつと作業を続けることだ。それは実物でも思考でも共通している。

 それを踏まえて、凪森は今回の起こった事件を改めて思い起こしてみる。

 おそらくこの事件は、大きな視点で見ればとてもシンプルなものとして処理できたはずだ。それなのに事件に関わった者たちの余計な思い込みが絡まりあったことで複雑なパズルへとその姿を変えてしまったのではないだろうか、と彼は思う。

 人間とは不定の存在だ。

 例えば今まで明確な答えを示していた数式でも、どこかに一つ不定要素が加わるだけで途端に答えが導き出せなくなる。それと同じでごく簡単で確固とした事象であっても、人間が関与した瞬間、それは少なくとも人から見たときには難解なものに変貌してしまうのだ。

 人間が不定でなれば、いや、この事件に人が関わらなければ犠牲者が出ることはなかったはずだが、そんなことを言えばそもそも人間がいなければこんな事件は起きなかったのだから、そういった考えは本末転倒以外の何者でもない。聞こえの良い言い方をするなら、それは人間が本質的に持つパラドクスと表現してもいいかもしれない。

 ただ違う見方をすれば、人間が存在する以上、この世の中はどんなに確固とした定義がされたものでも一瞬にして崩れ去る危険性が付きまとうということだろう。そもそもその定義ですら人が見定めて作り上げたものに過ぎない。

 おそらく多くの人々は、自分のいる世界がそんな曖昧なものであることを意識することなく、まるで鳶職のようなバランス感覚を駆使して生きているのだろう。

 凪森は短くなった煙草を足元に落とすと、ガードレールから立ち上がってそれを揉み消す。そして上着から取り出した携帯式の灰皿に吸殻を入れた。

 これを俊樹あたりが見ると、きっと柄にもないと言って笑うことだろう。

 だが、別に良心が痛むからそうしているわけではない。

 言ってみれば防衛措置の一環だ。そこから後付けされる形でエチケットの五文字が追加されるのであれば、それはそれで儲けものと思えばいい。

 彼は新しい煙草を引き抜くと、それを唇に挟んでライターで火を付けて勢いよく吸い込む。

 やはり最初のひと口が一番美味い、と煙を吐きながら思う。

 もちろん、それが単なる思い込みによる作用であることも理解している。

「バーサーカか」

 半分ほど吸い終えたところで、凪森は意識的にその単語を口にする。

事件に限っていえば、興味を引くような事象はもう何も残っていなかった。あとはもっと根本的な部分で少し気になっていることがあるくらいだ。

 そこでふと思い立って腕時計を確認する。

 俊樹たちから事前に伝えられていた式の終了時刻までにはまだまだ余裕がある。

「今のうちに確かめておくのも一興、かな」

 彼はすぐに決断すると、吸いかけの煙草をアスファルトに落として踏みつぶす。

 思い立ったことがあればできるだけ早く行動に移す。

 それが凪森の持つポリシィの一つであった。

 火の始末を終えた彼はすぐにその場を離れると、背後から微かに足元を照らす街灯を頼りに愛車へと歩きはじめた。


                   7


 初めに感じたのは、僅かに全身を揺さぶられるような感覚だった。

 視界は真っ暗だった。

 いや違う。

 それは自分が目を瞑っているからだ。

 薄らと回復してゆく意識の中で俊樹はそんなことを考える。

 頭痛と倦怠感のせいで目を開けるのが億劫だった彼は、とりあえずそのままで現状把握を継続していくことにする。

 まず右半身の下からほどよい反力を感じる。ソファのようなものに寝かされているらしい。ただ手足はどちらも縛られ、両手は背中に回された状態でだったのでほとんど動かすことができない。顔の周りには異常はなさそうだったが、呼吸をする度に喉に鈍い痛みが走った。一番酷いのは首回りの違和感だと思われる。

(たしか、駐車場でいきなり襲われて……)

 俊樹はそこでようやく思い出した。

 あのときはもう駄目だと思ったが、どうやら気絶させられただけのようだ。

さきほど感じていたのは身体の接地面から伝わる微小な振動だと分かる。そして耳が捉えたエンジン音から、自分が車の中にいることに気づいた。

 どこかに運ばれているらしい。

 しかし、この車がどこに向かっているのかまでは分からない。

 そこまで考えたところで、俊樹は身体を拘束されている不快感に耐えきれずに呻き声を上げてしまう。

「目が覚めましたか」

 するとそれに反応して声が聞こえてきたので、俊樹はゆっくりと目を開ける。

 予想通り車の後部座席に寝かされていた。

 瞼の裏ほどではないものの周囲は暗い。

 俊樹の位置から見える範囲では、前方に備え付けられているデジタル時計やメータがほんのりと光を放っている程度である。

 どうやら、気を失ってから三十分近く経っていたらしい。

「もう少し待ってくださいね。そろそろ着きますから」

 その声は運転席から聞こえる。

 ただこの暗さではぼんやりとシルエットが浮かんでいるくらいで、それが誰なのかまでは分からない。

 この人物が事件の犯人なのだと俊樹は直感する。

 じゃないと、それ以外でこんな目に遭うような心当たりがなかった。

 おそらく千寿留が襲われたときと同じで、事件に首を突っ込みすぎたのがいけなかったのだろう。

 でも、まさか自分が狙われるとは思ってもみなかった。

 千寿留のことばかり気にしていてすっかり油断していた。

 俊樹は唇を噛む。

 ということは、犯人は通夜の会場に来ていたことになる。

 だが、少なくともここにいるのが奥野笑美子ではないことだけは確信できた。

 なぜなら、やや高音であるものの前方から発せられる声は明らかに男性のそれだったからだ。

「あと、大きな声を出すのは止めてください。たぶん助けを呼ばれても外に声は漏れないでしょうし、急に叫ばれると手元が狂ってしまうかもしれませんから」運転席の声が俊樹に忠告した。

 栗原や蒔田ではない。式のときに初めて聞いた下村久雄のものとも違う。

 俊樹はその声の持ち主を推測する。

 話し方や声色などから判断して、これまで考えられていた事件の関係者の中には該当する者いないように思えた。

(でも、これはどこかで……)

 心当たりはないはずだったが、彼は似たような声を聞いたことがあるような気が微かにしていた。しかしそれが誰なのかまでは思い出せない。

 答えが出てきそうでなかなか出てこない。しかも今の状況ではなんの抵抗もできない。

 俊樹は、歯がゆい気持ちを抱えたままじっとしているしかなかった。

 車はそこから五分ほど走り続けたところでゆっくりと減速をはじめ、そのまま完全に停止する。

「お待たせしました」

 サイドブレーキを引きながら運転席の人物が言った。

 そして、ルームライトに手を伸ばしてからこちらに身体を向ける。

「なんで……」

 喉の痛みのせいもあって、その俊樹の声は小さく掠れた呟きにしかならなかった。

 明るくなった車内には知った顔が映し出されていた。

 それを見た彼は目を大きく見開いた。

「気分はどうですか?」

 驚く俊樹を愉快そうに見つめながらその人物が話す。

「一応気絶させる程度の力で手加減したつもりですが、こういうのは初めてだったので少し自信がなかったんです。でも意識はちゃんとあるみたいですから、とりあえずは大丈夫みたいですね」

「……武井さん、これは、どういう……」

 俊樹は呆然としたまま声を振り絞ってその名を呼ぶ。

 襲われたショックでどこかおかしくなったのではないかと俊樹は自分の目を疑った。

 けれど見間違えなどではない。

 今こちらを眺めているのは、肩までかかる髪に黒いワンピース着ている人物。

 それは紛れもなく武井光その人だった。

「どうもこうもありません。こういうことです」光は小さな笑みを浮かべながら応える。

 何がこういうことなのかさっぱり分からなかった。

 否。

 本当は理解している。

 ただ、そんなことを考えたくなかった。

「まだ分からないんですか?」

 そうやって困惑する俊樹を嘲笑うように、光は続けて彼にはっきりと告げる。

「妙子さんを殺したのは、この僕なんですよ」

 しかし、それを聞いても俊樹は素直に信じることができなかった。

 こんな顔をする光を見るのは初めだった。

 また光の話し声はなぜかいつもと違っていたので、彼は目の前にいるのが別人であるような錯覚に陥っていた。

「嘘なんかじゃありません。あの日僕は、宮房さんたちよりも前に妙子さんに連れられてあのビルにいました。そして誰にも見つからないように隠れながら、妙子さんを殺すタイミングをずっと待っていたんです」

 光が冷静な口調で話す。

 俊樹は悪い冗談だと思いたかったが、残念ながらそういうふうには見えなかった。

「でもどうしてあんなところに?」

「前の日に妙子さんから連絡をもらったんです。俊樹たちが帰ったあとで、二人で少し話し合いをする予定でした」

「話し合い?」

「角南さんのことでちょっと」光が言う。「角南さんが殺されたとき、僕は妙子さんが彼の首を絞めているところを目撃していました。そのことは今までずっと秘密にしていたのですが、どうやら妙子さんにばれてしまったみたいで呼び出されていたんです。たぶん妙子さんは、僕を殺して口封じをするつもりだったんだと思います。でもこっちもそのつもりだったので先手を取らせてもらった、というわけです」

「えっ? 角南さんを殺したところを見たって……、えっ?」俊樹はきき返す。

 怪しげな笑みを浮かべながら語る光の言葉をすぐには呑み込めなかった。

「そうです。あのとき僕は、トイレの個室の隙間から妙子さんの犯行の一部始終をこの目でしっかり見ていたんです」

「けどあそこは男子トイレなんだよ? どうして、武井さんがあんな場所にいなくちゃいけないのさ?」俊樹がすぐに反論する。「それになんだかいつもと話し方とかが変だし、君が何の話をしているのか僕には全然分からないよ……」彼は半ば投げやりに言った。

「あぁ、そういえば、まずそっちの説明をしないといけませんよね」

 困惑する俊樹に向かって光が納得したように呟く。

 そこで光は運転席から立ち上がって外へ出たかと思うと、後部座席のドアを開けて中に入ってくる。

「ちょっ、ちょっと何を」

 次の瞬間、俊樹は慌てて声を上げる。

 窮屈なスペースに腰を下ろした光は、俊樹をうつ伏せにさせると何を思ったのかおもむろにその上に覆いかぶさろうとしてきた。

「口で言っても信じてもらえないでしょうから、実際に肌で感じてもらうことにします」光が淡々とそう話した。

 俊樹はほとんど身動きが取れない。

 無理矢理もがこうと思えばできないこともなかったが、この状況を打開できるほどの効果は得られないのは明白だった。

 光が縛られている俊樹の手首を押さえ込みながら身体を押しつけてくる。

「え……?」

 そのとき、俊樹は思わず声を漏らす。

「これで分かったでしょう?」

 耳元で光が囁く。

 違和感があった。

 今、彼の背中には光の胸部がぴったりと密着していたが、そこには本来あるはずものが感じられなかった。

「これは、どういう……」

「そのまんまですよ」

 身体を離してから光が言う。

「要するに、僕は男だということです」

 背中が軽くなると、俊樹はすぐに首を捻って光を見上げる。

「凄く驚いているみたいですね。やっぱり、僕が女だと思い込んでいたんですか?」

 すぐ傍に座る彼女、いや、彼はこちらを見て愉快そうに歯を見せて笑っていた。

 そうはそうだ。

 光は以前からスカートを穿いていたときもあったし、今だって女性の衣装を着用している。それにいつも丹念にメイクを施していたので、俊樹は今まで一度も光が同性だと疑ったことがなかった。

「人ってやつは、他の五感に比べると視覚から入ってくる情報に頼り過ぎていています。そして一度先入観ができてしまうと、それをなかなか払拭できない。だからこんな致命的な誤解をしてしまうんですよ」

光は俊樹の思っていることを見透かすように話すと、今度は彼を仰向けにさせる。

「じゃあ、ずっと騙していたのか」

 光のなすがままに身体を反転されながら俊樹が言う。

 背中の下敷きになった腕は若干痛いが、こちらのほうが呼吸するのが楽だった。

「それは違います。別に僕は誰かを騙そうなんてこれっぽちも思っていませんでしたし、ついでに言えば趣味でこんな格好をしているわけでもありません」

「ならどうして?」

「そうですね。こういう説明をしてもおそらく信じてはくれないでしょうが、宮房さんが今まで接してきた武井光は、正確には僕ではないんですよ」光が答える。

「……言っている意味が分からない」

「彼女は僕であって僕でなはない。つまり、この身体の中にいる別の意識みたいなものなんですよ」

「まさか、それってもしかして二重人格……」

 平然とした顔で話す光を見て、俊樹はその言葉を口にする。

「世間的にはたぶんそういうことになるんでしょうね」

 光が肩を竦めるとそう言った。

「もうずっと昔、物心ついた頃から僕らは二人になりました。正直、それが何なのかは知らないですし、どうしてそうなったのかも分かりません。ただあるとき、僕以外の誰かが僕の身体を勝手に動かしていることに気がついたんです。そのときはとても驚きましたが、身体が乗っ取られている間の記憶はちゃんとあったので、僕にはもう一つの自分がいて、その子は女の子なのだと理解するようになりました。僕らはお互いに話しかけることができませんでしたけど、彼女もなんとなく僕の存在には気づいていたみたいです」

 彼は俊樹から視線をはずすと、ぼんやりと前を見ながら話しはじめる。

「もう一人の僕は、最初はあまり表には出てきませんでした。でも僕が成長するとその頻度も増えてきて、ここ数年は彼女の方がこの身体を支配していることが多くなっています。僕としてはそれには少し不満がありますが、意識の交替をコントロールする術がないのでそれを素直に受け入れるしかありません。だから角南さんが殺された日も初めは彼女の意識が前面に出ていたのですが、梶先生の診察が終わったあとで珍しく僕の方に意識が切り替わっていたんです。ただ僕と彼女では言葉遣いも性格も違うので、もし宮房さんや妙子さんにばれたらいろいろ説明が面倒ですし、それに彼女の方は僕らのことを他人に知られるのを昔から怖がっていました。たぶん、それが原因で人から変な目で見られるのが嫌なんだと思います。正直僕はそこまで気にしていないのですが、彼女の意志を尊重して、みなさんに気づかれなようにできるだけ大人しくするつもりでした。ですが、あの店に角南さんがいたことでそれは大きく変わってしまった」

 光はそこでひと息つく。

 これまで見てきた光とは違い、今日はとても饒舌だった。

 やはりそれは人格が異なるからなのだろうか。

 自分で口にしておきながらも、俊樹は光が多重人格者だとは未だに信じることができずにいた。

「僕がエフエムマスカットで働いていたことは聞いていますよね? あのとき僕、というよりもう一人の僕は角南から頻繁に嫌がらせを受けていたんです。その件で彼女は酷く傷つき、それが原因でラジオ局の仕事を辞めることになりました。だからあそこで偶然角南を見つけたとき、僕は彼を殺すことでその復讐を遂げようと思いついたのです」

「なんで……、人を殺すのは許せないって言っていたのは、武井さんだったじゃないか」

「そんなことは、あの苦しみを知らないから言えるんですよ」

 俊樹の言葉に光が即座に反応する。

 その言葉にはとても暗く冷たい響きがあった。

「仕事を辞めたあとも、彼女はあいつから受けた仕打ちを忘れ去ることができずに、ずっと苦痛に悩まされ続けていました。そしてそれは僕にとっても他人事ではなくて、彼女の精神状態が一番酷いときには、もう何もする気力さえ起こらなくなって、外にも出ずろくに食事も摂らないまま、一日中ベッドの上でぼんやりしているだけという時期もありました。そんなことを繰り返しているうちに、僕らは自分が生きているのか、それとも死んでいるのかという認識さえ自覚できないほどになっていきました。そして次第に、もうこんなに苦しむのなら今すぐにでも死んでしまえば良いのではないかと思いはじめて、実際に自殺にも何度か挑戦しました。けれど結局死ぬことはできず、その度に失敗したことによる挫折と、まだ生きないといけないのかという絶望感を味わいました。要するに、僕らは自分の死を決める権利を行使するほどの強ささえ持っていなかったのです」

 右手でもう片方の手首に触れながら彼が話す。

 そういえば、光は夏場でも長袖を着ていたのを俊樹は思い出した。

「死ねないのなら生きるしかない。でも僕らにとっては、生きていること自体がストレスでしかありませんでした。だから僕は、少しでも負担を和らげる方法を考えるようになりました」光が続ける。「まず、ストレスを解消するには自分の欲求を満たしておけばいいのではないかと思いつきました。そして欲望を満たすためには、自分の望むものを体験するか、もしくはそれを理解すればいいだろうという考えに至りました。僕らの望みは死ぬことです。だからたとえ自分自身は叶わなくとも、せめてそれ以外の何らかの死に触れていれば、今よりも少しはそれに近づけるかもしれない。そして死を理解できさえすれば、この苦痛から逃れられるのではないかと思うようになったのです」

「それじゃあまさか、エフエムマスカットであった動物の虐殺事件の犯人も……」

「死に触れると簡単に言っても、普通の生活をしているだけではそんな場面には滅多にお目にかかれません。ですから、それを実践するには自分からそういうシチュエーションを作らざるを得ない。また死をイメージするには、できるだけ実感の湧きやすい対象が必要です。そう考えた結果、まずは比較的手頃な動物からはじめることにしました」

 俊樹の呟きに光が答えた。

「ラジオ局に投げ込んだのは、やっぱり角南さんに嫌がらせをするためだったのか?」

「たいした効果はないと思いましたけど、殺したあとの処理にも困りましたし、少しでも憂さが晴れればという気持ちはありました」光が頷く。「僕はそれを続けていくうちに、以前よりも死というものにある種の親しみを持つようにもなりました。またそれと同時に、命を奪うまでの過程とそれが消えてゆく瞬間を目撃する度に興奮する自分にも気づきました。前に彼女が話したと思いますが、僕は自分以外の者を殺すことは最低の行為だと考えていたので、そのとき湧き起こった感情はあまりにも予想外でした。ええ、つまり完全に魅了されてしまったというわけです」

 そう言って彼がにやりと笑った。

「僕はすぐにのめり込んでしまうと、毎晩のように外を徘徊しては獲物を探すようになりました。初めは刃物を使って処理していましたが、途中から素手で首を絞めるスタイルに変えました。その方が、生きているときと死んだときの境界線がよりリアルに実感できると思ったからです。ただ、徐々に動物たちが捕りにくくなったのと、警察の見回りやラジオ局の警備が以前より厳しくなったこともあって、このまま同じこと繰り返すのは困難だろうと思うようになりました。けどあの快感を知ってしまっていた以上、はいそうですかと簡単に止める気もありませんでした。そこで僕は、この際思い切って対象を人に変えることにしました。リスクが増すのなら、小動物でも人間でも同じことだと思ったからです」

「だから角南さんを?」

「そもそもの原因である彼がいなくなれば、もしかしたらこれまでの苦しみもさっぱりなくなるかもしれないというのがそのときの理由でしたが、今思えば、ただ彼を殺すための大義名分が欲しかっただけだったのでしょう。その頃には、もう犬や猫くらいでは物足りなりなさを感じはじめていましたから」

 俊樹は、そうやって光が話し続けている間も現状を打開する方法を探していた。

 手足のロープはきつく結ばれているため逃げ出すことは難しそうだったが、幸い携帯電話は奪われていない。彼は光の様子を窺いながら、ズボンの後ろポケットに手を伸ばしてそれを取り出そうとする。

「ですが、結局角南を殺すことはできませんでした。店の中で奴を見つけてからずっと機会を狙っていたのですが、急にトイレに行きたくなってしまったのが運のつきでしたね」光が皮肉な顔して言う。

 どうやら俊樹の動きには気づいてないようだ。

「妙子さんがいなくなったあとで、僕は個室から出て角南の様子を見ることにしました。彼が死んでいるのはひと目で分かりました。そしてそのとき、僕は急に湧き起こった衝動を抑えられなくなって彼の首に触れてみました。角南はまだ温かくて、それは動物を殺した直後と何も変わらないはずだったのですが、目の前で死んでいるのが自分と同じ人間だというだけでその印象は全然違いました。今まで何十年もの間その肉体に宿っていた角南という人格がほんの数分の出来事で消失したのだと思うと、僕の心は激しく揺さぶられました。感動というのは、まさにあんな状態のことを指すのだと思います。本当ならしばらくその余韻に浸っていたかったのですが、僕はすぐにそこから立ち去る必要がありました。なので、角南の近くにあった妙子さんのものらしき髪の毛を拾い集めてから女子トイレに移動したんです。たぶん、奴が抵抗したときに抜け落ちたんでしょうね」

「どうして、そんなものを?」

「彼女に先を越されたのが悔しかった。だから僕ではなく彼女が殺したという証拠がそこにあるというのが我慢ならなかったんです。それにしても、あのとき女物を着ていたのは幸運でした。もしあそこですぐ席に戻っていたら、きっと僕に容疑がかけられてしまってそれから先の行動にもいろいろと支障が出ていたと思いますから」

 そこで俊樹がきく。

「なら村瀬さんを襲ったのも武井さんなのか?」

「ええ、そうですよ」

「でもなんで? 君が彼女を襲う理由なんて何もないはずだろ」

 険しい表情で光に問い詰めながらも、彼は背中の後ろで作業を進めている。

 指先は既に携帯電話に触れていたが、まだ掴み取れてはいない。

「角南が殺される様子を目撃したことで、僕はいっそうこの手で人を殺してみたいと思うようになっていたんです。でも次の候補はなかなか決まらなかったので、あの日から早く誰かを殺したいという気持ちだけが先走っていました。そんな状態が続いていたとき、宮房さんからあの村瀬さんという人が栗原さんと会うことを聞いたんです。それを知ったとき、僕はすぐに彼女を狙うことにしました。もちろん最初に疑われるのは栗原さんだろうというのはあらかじめ予想できていました。栗原さんの行きつけの店のことは覚えていたので、僕は宮房さんたちと別れたあとでその近くで二人が来るのをずっと待っていました。そうしたら案の定栗原さんが現われて、そのあとに村瀬さんも店に入っていきました。あとは彼女が一人になったところを襲えば、目的は達成されるはずでした」

「だけど、そこに僕らが来た」

「僕としては、あとほんの何分でも遅れてくれていれば良かったのですけどね」

 光が苦笑いを浮かべる。

「彼女を殺し損ねたせいで僕は自分の欲求を抑えきれなくなりました。寸前のところで阻止されたのがなおさら良くなかったんだと思います。今すぐにでも誰かを殺さないとどうにかなってしまいそうなくらい我慢できないところまで来ていました。なので僕は、早急に次の行動を取ることにしました。そこでまず栗原さんをターゲットにすることを考えました。村瀬さんの件で疑われている彼を自殺に見せかけて殺せば警察を誤魔化せれるだろうと思ったのです。ただ実際にそんなに上手く偽装できるのか疑問でしたし、彼と僕の体格差では確実に仕留められる自信もなく、実行に移すかどうか悩ましいところでした。妙子さんから呼び出しがあったのは、ちょうどそのことで悶々としていたときです。はっきりとは言ってませんでしたが、妙子さんは僕が村瀬さんの件の犯人で、さらに彼女自身の犯行を目撃していたことにも気づいているような口ぶりでした。そしてその連絡があったとき、僕の中ではある興味が湧いてきました。もし好きな人を殺したら、自分は一体どんな気分になるのだろうかという興味が」

 俊樹はそれを聞いて目を大きくする。

 驚きのあまり、もう少しで取り出せそうだった電話から手を離してしまった。

「ラジオ局で働いていたときから、僕は妙子さんに惹かれていました。今までずっと隠していましたが、異性として彼女に好意を持っていました。栗原さんを狙おうとしたのは、彼が以前から嫌がる彼女にしつこく付きまとっていたからです」

 俊樹の様子を見た光が目を細めて続ける。

「たぶん妙子さんは、秘密を知っている僕を殺すつもりだったんだと思います。けどまさか返り討ちに遭うとまでは思ってなかったらしく、こちらが逆に襲いかかったときはとてもびっくりした顔をしていました。そして僕は、彼女の首を絞め、その苦しみもがく表情を眺めながら今までにない気持ち良さを感じていました。あれは単なるストレスの発散でしかなかった動物狩りや角南の死に触れていたときとは全然違う感覚。どう言えばいいのか分かりませんが、敢えて表現するのなら、独占欲とか支配欲とか……、いや駄目だな、そんな使い古された言葉じゃあの快感を説明できない……。とにかく、僕は顔を歪めながら必死に抵抗する彼女の姿がとても綺麗で愛おしくて、もう興奮しっぱなしでした」

 光は途中から大きな身振り手振りを使って話した。

 まるで俊樹のことなど眼中にないかのように、彼はにやけた顔でぶつぶつと大きな独り言を呟いていた。

「本当は永久にその時間が続いてほしかったけど、ふと気づいたときには妙子さんはもう動かなくなっていました。でもあのときの光景は今もはっきりと目に焼き付いています。思い出すだけで顔がにやけてしまって困るくらいです」

そこでにやりと笑った光は、そのあとで軽く息を吐くと、今度は急にぼんやりとした顔で口を開く。

「それにしても人間って強欲ですよね。少し前まではいつ死んでもいいなんて思っていたくせに、一度楽しいことを覚えたらそんなことはすっかり頭の隅に追いやってしまう。しかもある程度心が満たされた直後でも、もう一回、もう一回って求めていって、その次がないと以前より一段と不満を感じやすくなる。だから僕は、妙子さんを殺してもまだ満足できませんでした。だから決めたんです。今度は宮房さんにしようって」

 彼はふと俊樹に視線を戻して言った。

 その目からは、狂気の一端を感じ取ることができた。

「だけど、なんで僕を……」

 俊樹はただそう問いかけながらも、光がこちらに目を向ける直前に携帯電話を取り出すことに成功していた。

 今は身体を傾け、後部座席の座面と背面で三角形を作るような体勢になっているので、背中の後ろでブラインドタッチを試みる指先に光が気づくのは難しいはずだ。

「どうやら、もう一人の僕は宮房さんのことを慕っているようです。僕は大好きな妙子さんを殺して最高の喜びを得ることができました。だからそれと同じで、貴方を殺すことでもう一度あの感覚を味わいたいのです」

 光がさらに語りはじめる。

「角南の死を見届けたあと、僕は女子トイレで時間を潰している途中で彼女と意識が入れ替わっていました。ただ彼女は僕と違って、初めて人の死を目撃してショックを受けていたようでした。そのあとで倒れている角南を見て悲鳴をあげたのは、演技ではなくて本当に彼女が動揺していたからです。そしてそのとき、情緒不安定になっていた彼女を優しく介抱してくれたのが宮房さんでした。僕個人の感想を言えば、あれはいわゆる吊り橋効果だったと思うのですが、ともかくあれから彼女が貴方に惹かれていったのは事実です。内向的な性格なので、自分の気持ちを表には出せないでいましたけどね。ちなみに、僕が村瀬さんを殺そうと考えたのもそのことがあったからでした。ショッピングモールで貴方たち二人と会ったとき、もう一人の僕はそれを見てひどく落ち込みました。自分がいくら女性の心を持っていてもこの身体は男のそれでしかない以上、貴方と結ばれることは決して叶わないというのは彼女も自覚していました。それだけに貴方と仲睦まじそうにしている村瀬さんに対して、強い羨望と嫉妬を抱いているのが僕にもひしひしと伝わっていました。僕が栗原さんを疎ましく思うのと似たようなものです。でも結局村瀬さんを排除することもできず、彼女は自分の気持ちをどのように消化すればいいのかと思い悩んでいました。だから言ってやったんです。宮房さんを手に入れるためには、僕が妙子さんにやったみたいに殺してしまうしかないって。もう一人の僕は、初めはその提案に猛反対しましたけど、最終的には僕の説得に応じてくれました。どうやら彼女も、角南と妙子さんを殺したときに僕が得た快楽と同じものを少なからず感じていたようですね。お互いの意志統一が確認できればあとは行動に移すだけです。じっくり計画を練ってからでも良かったんですが、その間に警察に突き止められる可能性もあったし、はっきり言ってそんなに我慢できる状態でもなかったので、僕らはすぐさま実行することにしました。宮房さんたちがお通夜に来るのはなんとなく予想していましたから、そこが一番早いチャンスだと思って狙っていたのです」

「もし僕が来ていなかったら?」

「そのときはまた別の機会にすればいいだけの話です。なにせ僕らと貴方は同じ場所に通院しているんですから、そんなものはよりどりみどりですよ」

 そう言いながら光は鼻で笑った。

「さてと、なんだか長々と話してしまいましたね。けど、それもそろそろおしまいにしましょう」

「ここはどこなんだ?」俊樹が尋ねる。

 その質問自体には意味がない。ただ時間稼ぎをするために出た言葉である。

 背中では、自由を制限された手が慎重に携帯電話を操作している。

 誰でも構わないので自分が危機に瀕している旨を知らせればそれで良い。ボタン配置はなんとなく覚えていたので、画面を見なくてもメールくらいは簡単に打てるだろう。

 俊樹はそう思っていたが、この状況下で光に勘づかれないようにするのは想像以上に難しかった。

「式場からちょっと離れたところですよ」

 そのとき光は席から離れると、中腰になってこちらと向かい合う。

 そしておもむろに右手を差し出したかと思うと、俊樹の身体をかすめてその後ろに腕を伸ばした。

「こんなことをしても無駄です。それに、今連絡したところで助けが来る頃にはもう何もかも終わってるんですから」光は奪い取った携帯電話を見せびらかしながら言った。

 そこで俊樹は舌打ちする。

 光の余裕のある表情から、彼は随分前から気づかれていたことを知った。

「この時間帯にこんな外れまで来る人なんて滅多にいません。それに、妙子さんのときとは違って今日は近くに大きな池もありますから、死体の処分に困ることもない。誰の邪魔も入らなくて事後処理も簡単に済む。今の僕にとってこんなに適した場所はあまりないでしょうね」

 俊樹は光から目を離して外を眺める。

 辺りは明かり一つ見当たらず、そして窓を締め切っていることもあってか、外界からの音は何も聞こえてこない。

 すると、光がその隙を突いて素早くこちらに乗りかかってくる。

 身動きの取れない俊樹はせめて声だけでもあげようとしたが、その意志に反して口は動かなかった。

 きっと、日頃大声を出す機会がほとんどないせいだろう。

 彼はふとそんな余計なことを思い浮かべていた。

 すぐに馬乗りになられたせいで、抵抗しようにも既に足掻くこともままならない。

 衣服越しの触感から、光の身体が見た目よりもがっちりしているのが分かる。普段からサイズの大きな服を着ていたのは、おそらくこの肉体を隠すのが目的だったのだろう。体格では俊樹よりも小柄だが、力勝負では勝てそうになかった。

「さようなら。僕らの大好きな宮房さん」

 光の宣告と同時に、首に添えられていた両手に力が込められる。

 俊樹は反射的に口を開いたが、そこから出てくるのは声にならない嗚咽だけだった。

 車内には、息が漏れるような自分の呻きと光の息遣いだけが聞こえる。

 苦しさのあまり顔が歪む。

 だが振りほどく術はない。

 相手を睨みつけるだけで精一杯。

 しだいにフェードアウトしてゆく視界。

 先刻のリプレィ。

 目の前にはこちらを見つめる光。

 苦悶する自分とは違い、その中性的な顔は恍惚な表情を浮かべている。

 今の光は男なのだろうか?

 それとも女性の彼に入れ替わっているのだろうか?

 素朴な疑問が頭をよぎる。

 今度こそ本当に危機に直面しているというのに、やけに冷静でいる自分に俊樹は驚く。

 そこには死の恐怖も、光に対する憎しみや怒りさえも湧いてこない。

 心はなぜか穏やか。

 これは一体誰だ?

 彼は思う。

 まるで、自分ではない誰かが殺されようとしているのを眺めている気分。

 苦しむ自分と、それを静観する自分が混在した状態。

(もう一人の僕……)

 もしかすると、自分にも別の人格がいたのかもしれない。

 そして今、無意識のうちにそれが交替したことで客観的に己の死を捉えようとしている。

 もしかしたらただの錯覚なのかもしれない。

 しかしその二つの存在を感じ取った以上、俊樹にはそれが現実だった。

 片方の自分はそろそろ完全に消失へ向かおうとしている。

 五感がなくなってゆく。

 彼は、もう何も動かない。

 もう、何も感じない。

 ……

 ……

 ところが次の瞬間、俊樹の全身を唐突な刺激が駆け巡った。

 それ自体は大したものではなかった。

 ただ、一時的に全てが失われていた彼にとっては劇的な変化であった。

 急速に感覚が蘇ると、耳元では大きな音が響き渡っていた。

 それを少し喧しく感じると、俊樹は眉間に皺を寄せてからゆっくりと瞼を開いてみる。

(ちょっと前にもこんなことがあったな)

 彼は既視感を覚えた。

「村瀬、さん?」

 視線の先、ついさきほどまで光がいたはずの空間には村瀬千寿留の姿があった。

「宮房君!」

 こちらを覗き込んでいた彼女は、俊樹が目を覚ましたことに気づいて声を上げると、すぐに後ろに向かってさらに大きな声を出した。

 手足の拘束はまだそのままだったが、首から上は既に自由になっている。

 彼は軽く首を起こして状況を確認する。

 車内は足元のドアが開けられていること、そして光の代わりに千寿留がいることを除いてほとんど変わりがない。ただし外はさきほどとは違い、こちらに向かって強い明かりが灯っていた。

 車のライトだ、と彼は思った。

「良かった。本当に良かった……」

 再び向き直った千寿留は、俊樹の胸に顔を埋めて独り言を呟いている。

 彼女は涙を浮かべていた。声も震えている。

「どうして、ここに?」俊樹は話しかける。喉の違和感はさらに増していた。

「凪森君が下村さんを殺した犯人は武井さんだって言ってから、みんなであの子を探していたの。そうしたら式場で見張りをしていた刑事さんが、あの子と宮房君が外に出ていくのを覚えてたらしくて」千寿留が顔を上げて話す。「それで、車が走っていった方向を必至で探してここを見つけたわけなの」

 彼女は指先で瞳を拭いながら言った。

「ぎりぎり間に合って良かった」

 すると、千寿留の奥から凪森健が顔を出す。

 特別心配しているような様子には見えない。いつも通りの淡々とした凪森である。

「武井さんは?」俊樹がきく。

 彼は光の姿がどこにも見当たらないことが気になっていた。

「県警に拘束されて今はあっちの中だ」

 凪森がヘッドライトを点けている車に目をやる。

「どう? 身体におかしなところはない?」

「縛られて窮屈なのと、あと喉が痛いかな。それ以外はなんともないよ。なんだか凄く疲れてるけどね」俊樹は千寿留に笑ってみせる。

「警察が救急車を呼んだ。じきに到着するだろう」

 凪森の言葉通り、しばらくすると甲高いサイレン音がこちらに近づいてきた。

「武井さんは、男だったよ……」

 俊樹は横になったままでぼんやりと二人に告げる。

「ああ、だから彼が犯人じゃないかと思った」

「えっ?」

 その返事に彼は目を大きくする。

 想定外の反応だった。

 凪森は車にもたれかかりながら、まるで全てを承知しているような顔をしていた。

「あたしも、そのことは宮房君たちを探している途中で教えてもらったわ。けどしっかりとした話を聞いているわけじゃないから、まだ納得できない部分もあるの」

 千寿留も凪森を見つめている。

「とりあえず今は宮房のことが第一だ。もし説明が必要ならあとでいくらでもできるし、それに話をするなら警察も一緒の方がなにかと効率が良いしな」

 彼は、二人に向かって微かに笑みを見せながらそう言った。


                   8


 病院に運ばれた俊樹は、そのまま入院することになった。

 搬送されたあとの検査では異常はなかったが、翌日にもう一度詳しい検査をするらしい。

 本心では面倒だと思ったが、一日に二度も気を失っているのだから致し方ないだろう。

 彼は素直にそれに従うことにして、その晩は用意された部屋で眠りについた。

 そして明くる日。午前中から行われた精密検査を終えて病室に戻ったときには、外の太陽は既に夕日に変わっていた。

 彼は夕食まで昼寝でもしようかと思いついたが、今寝てしまうと夜に眠れなくなると予想して一度入ったベッドから抜け出すと、なんとなく部屋の中を眺めてみる。

 俊樹がいるのは個室だった。

 綺麗に整っていると言えば聞こえはいいが、そこにはベッドや洗面台、医療機器といった必要最低限ものがあるだけで他は何も置かれていない。昨夜駆け込み同然でここにやって来た俊樹は着替えすら持ってなかったので、今身に付けているのは病院から借りた物か、検査の合間に売店で買ってきたものだった。

 娯楽の二文字が排除された部屋の中で、彼は暇を持て余していた。

 このままぼんやりしていても眠くなるだけだったので、彼は退屈しのぎに雑誌でも買いに出かけようと思って立ち上がる。

 すると、ちょうどそのとき外からノックをする音が聞こえてきた。

「はぁい」

 俊樹が返事をすると、スライド式のドアが開いて千寿留と凪森が現われる。

 千寿留は肩掛けのバッグと小さな紙箱を持っていた。凪森は手ぶらである。

「あぁ、お疲れ様」

「検査はどうだった?」

 手を挙げて応じる彼に向かって千寿留がきく。

「ついさっき終わったところ。なんともないはずだけど、結果が出るまでは安静にって言われたから、たぶん退院は明日以降に持ち越しだと思う」

「身体の調子は?」

「朝からずっと検査の順番待ちとかしてたからそれで疲れたくらいかな。あとは全然平気」

「そっか。ならひとまず安心してもいいわね」彼女が言う。

「村瀬さんって今日休みだったっけ?」俊樹は時計を見上げて尋ねる。

 終業するにはまだ早い時間だった。

「もちろん仕事よ。だけど、今日は早退させてもらったの」

「早退って……」

 にっこりと微笑む彼女を見て俊樹が少し驚く。

「お見舞いに来てくれるのは嬉しいけど、わざわざそこまでしなくてもいいのに」

 それだけ彼女が心配していたのかと思うと彼は恐縮する。

「けど面会時間はこれでもぎりぎりだったし、それに向こうも今くらいが一番都合が良いみたいだったから」

「向こう?」

「もうすぐ宗像さんたちもここに来るのよ。事件のことでいろいろ話をききたいんですって」千寿留が答える。

「ああ、だから凪森も一緒なのか」

 俊樹が凪森を見て言うと、友人は無言でそれに頷いた。

 宗像たちを待つ間、俊樹は千寿留の差し入れをもらうことにした。

 彼女が持っていた箱の中にはドーナツが八つ入っていた。

 ここにいる三人に県警のメンバを三人と見積もってもまだ余裕がある数だ。

 部屋には飲食するための道具がなかったので、俊樹たちはまず売店まで買い出しに行くことにする。

 そうこうしているうちに再び部屋がノックされて宗像が顔を見せる。

「お待ちしていました。どうぞ中へ」

 千寿留に勧められて彼が中に入る。

 その後ろには、予想通り井沢と雅史の姿もあった。

「身体はいかがですか?」

「大丈夫です。特におかしなところもありません」

「そうですか。それはなによりです」

 俊樹が質問に答えると、宗像は微笑みながら小さく頷く。

 その形式的な挨拶のあとで、今度は雅史が俊樹の前までやって来る。

「これ」雅史は肩にかけたスポーツバッグを俊樹に手渡す。

 中を開けてみると、そこには着替えなどが入れられていた。

「適当に部屋を漁って必要そうな物だけは持ってきた」

「ありがとう。助かる」俊樹は確認したあとで礼を言った。

「ドーナツを買ってきたんですが、皆さんもお一ついかがですか?」

 パイプ椅子を用意しながら千寿留が話しかける。

 ドーナツは既に人数分に分けて準備してあった。

「いえ、私たちは職務中ですので、お気持ちだけ受け取っておきます」

「まぁいいじゃないか。せっかく用意していただいているのだから、ご厚意に甘えさせてもらうことにしよう」

 井沢が断ろうとしたところで宗像がそう言った。

「……主任がそういうのなら、ええ、ではお言葉に甘えて」

 そこで井沢は頷くと、千寿留から紙皿と缶コーヒーを受け取る。

 続いて彼女は、宗像たちにもそれを手渡した。

「武井さんの様子は、あれからいかがですか?」

 県警の三人が席に着いたあとで千寿留が質問する。

 彼女は、ベッドの端に座る俊樹の隣に腰を下ろした。

「抵抗もなく大人しくしています。と言いますか、逮捕してからずっと放心状態のままだんまりを続けています」井沢が答える。

「目的を達成できなくてショックを受けているかもしれませんね。おそらく、昨日の今日でまだ気持ちの整理がついていないのでしょう」

 壁際に設置されたシンクに寄りかかっていた凪森が話した。

 この中で座っていないのは彼だけだった。

「それにしても、なぜ奴が犯人だと分かったのですか? 捜査線上には彼女、いや彼の名前は一度も浮かんでこなかったのに」

「私もそれが気になっていました。特に武井光が男性だと聞かされたときは本当に驚きました」

 雅史と井沢が凪森に向かって言った。

「そうですね。ではその話をする前に、一連の事件を最初から順番に話してもいいでしょうか? その方がきっと皆さんも分かり易いでしょうから」

 その提案に全員が賛成する。

「でしたら、まず角南さんが殺された第一の事件について話していこうと思います」

 凪森はそこでまず俊樹に話しかける。

「あの事件の犯人が、殺された下村妙子だったというのは聞いているか?」

「あぁ、昨夜武井さんが言ってた」俊樹が答える。

「皆さんはもちろんご存じですね?」

 その声に他の人々が頷く。

「この前までは、あくまでも状況から推測して彼女の犯行ではないかと疑っていました。ですが、昨日村瀬さんから助言をいただいたことで事件に使われた凶器が特定でき、それによって角南を殺害したのが彼女だとほぼ断定することができました」

「凶器が分かったんですか」

 井沢の説明を聞いて俊樹が声を上げる。

「お通夜の最中に閃いたの。だからあのとき、あたしはすぐにその確認を取りたくて宗像さんたちを探しに行っていたのよ」千寿留が言う。

「それで? 凶器はなんだったの?」

「下村さんは、髪の毛を使って角南さんを殺したの」

 彼女は俊樹を見つめるとそう告げた。

「髪の毛?」

「正確に言うと、彼女はウィッグっていう付け髪を使っていたの」

 首を傾げる俊樹に向かって千寿留が話す。

「式で飾られていた下村さんの遺影を見たとき、あたし、なんとなく違和感を覚えたの。あの写真はたぶん、エフエムマスカットにあったポスターと同じ時期に撮られたものだと思う。そしてあのポスターは、去年の初め頃に作ったんだって本人が言っていた。そう考えると、彼女はこの一年半の間に今のあたしくらいのショートから、背中までかかるあのロングヘアまで伸ばしたことになるわ」

「要するに、それくらいの期間ではあそこまで長くならないってこと?」

「そのまま伸ばし続ければ不可能ではないはずよ。だけど下村さんの髪は手入れがかなり行き届いていた。あれくらいにするには、少しずつ髪を切り揃えたりして細目にメンテナンスをしながら伸ばしていかないと到底無理だと思う。それを続けながらあの長さにするには、たぶん普通だと二年とか三年くらいはかかるものだわ。だから下村さんは付け髪を使っていたのかもしれないって考えるようになったの。仮にもしそうだとすると、彼女は角南さんを絞殺しても凶器を堂々とお店から持ち去ることができたことになるわ」

「昨日村瀬さんからその話を聞いて、私たちはすぐに確認をとりました。そしてその結果、彼女の推理が正しかったことが分かりました」

 宗像の補足のあとで千寿留がさらに続ける。

「付け髪にもいろんな種類があって、ものによって付け外しの難しさが異なったりするのだけど、ウィッグは比較的簡単なタイプなのよ。外すのは楽だし、取り付けもたぶん十分くらいあれば問題ないはずだわ。角南さんの事件のときは宮房君たちもアルコールが入っていたことだし、お手洗いに行くと言っておけば多少遅くなっても充分誤魔化すことができたと思う」

「じゃあ下村さんは、僕が出たのと入れ違いでトイレに行って偽の髪を使って角南さんを殺した。それで犯行を終えると、また髪を付け直してから席に戻ったってこと?」

「彼女は下村久雄と一緒に住んでいるのだから、おそらくあの日父親がラジオ局に出かけることを知っていたのだろう。そして彼が局に来るときには角南たちが飲み会するのは恒例になっていたそうだから、彼らがあのお店に行と予想するのは難しくない。あとは宮房たちをそれとなく誘導しながら偶然店に入ったふりをして、角南を襲うチャンスを狙っていたのだろう」凪森が言った。

「ラジオ局の皆さんは、下村さんのウィッグのことを知っていたのですか?」

「さきほどまでエフエムマスカットと彼女の事務所で話を聞いていましたが、彼らはずっと地毛だと思い込んでいたそうです」雅史が答える。「付け髪のことを話すとみんな驚いていましたね。同居していた久雄さえその事実を把握していませんでした。ちなみに、彼女の本来の髪は肩口近くまでだったという報告も受けています」

「つまり、下村さんは以前から誰にも気づかれないように慎重にウィッグを着用していたんですね。きっと初めは地毛のまま伸ばして、そのあとで周りが不審に思わない程度に短いウィッグから徐々に長いものに切り替えたのです」

「ってことはですよ。下村妙子は、そんなにも前から角南に殺意を抱いていたのですか?」

「角南の彼女に対する仕打ちは何年も前から続いていたという話です。事件の状況などから想像すると、彼女の犯行はその日の為に用意周到に準備されたというよりも、唐突に思いついたという印象の方が強い。おそらく彼女は、ずっと以前から角南を殺す機会をうかがってはいましたが、具体的な計画までは持っていなかったのでしょう」凪森が答える。

「角南さんを殺したのが下村さんではないかと考えたとき、私の中ではさらに新しい疑問が湧いてきました」

 そこで千寿留が話す。

「というのも、それまでは仮に彼女が犯人であるなら他の誰かに犯行を指示されていた可能性を疑っていたからです」

「奥野笑美子との共犯説ですね?」井沢が言う。

「その前までは、下村さんは奥野さんに殺人を強要され、それが引き金で仲間割れが起きたために殺害されたのだと考えていました。しかし凶器が彼女のウィッグであると閃いたとき、私は自分の推理が間違っていることに気づきました」

「というと?」

「男性の方には想像しにくいかもしれませんが、髪のお手入れってかなり大変なんです。髪の短い私でも毎日気を遣っているのに、それよりも長くて、しかも人工の髪をあたかも自分のものに見せかけるという、一種の変装に近いことを長い間続けてきた労力はかなりのものだったのではないかと想像します。そしてその理由が日頃からの角南さんに対する不満だけだとしたら、下村さんは彼に相当な恨みを持っていたと考えられます。そうなると彼女は誰かに指示されたわけでなく、自ら望んで犯行に及んだと考えた方が自然です。だたもしそうだとしたら、どうして彼女が殺されたのかという謎が残ってしまいます。考えられるケースとしては、共犯だった奥野さんが保身の為に最初から彼女を殺すことまで計画していた場合と、でなければ下村さんは単独犯で、彼女を殺したのは全く別の人物であるという場合でしたが、私にはそこまで断定できる情報を持っていませんでした。それにあのときはウィッグの件を伝える方が先決だと思っていたので、ひとまずそれについては考えるのを保留していました。そして今もまだ、どうして武井さんが彼女を殺害することになったのか私にはよく分かっていません」

 千寿留はそう言うと凪森を見る。

 それに釣られて俊樹たちも彼に注目する。

「彼に焦点を当てることになったのは、その次の事件について考えていたときでした」

「村瀬さんが襲われたやつか?」

「ああ。あれが本当に下村妙子の犯行だったのか俺には疑問だった」

 凪森はシンクの隣にデザートたちを置いたまま、今は腕組みをしながらポーカフェイスで全員の視線を受け止めている。

「角南の事件では、彼女はその行動にいささか危なっかしい部分があったものの、意表を突いた凶器を使うことですぐに自分が犯人であると特定できないようにしていました。それに比べると村瀬さんを襲った犯人はなんの細工もしておらず、私にはそれがあまりにも無防備に感じました。そしてそれが原因で彼女は警察に疑いを強められ、結果的に最初の事件で行った目くらましの効果が無駄になってしまいました。ですから私は、もしあれが彼女の犯行であったなら、普通はアリバイなりなんなり警察の目を欺くようなことするものではないかと思ったのです」

「だから彼女ではないと?」

「はい。おそらくあれは、彼女にとって寝耳に水だったのではないでしょうか?」

 彼は井沢に答えたあとでさらに続ける。

「では、彼女でないなら一体誰の仕業なのか? そこで私は、村瀬さんと栗原さんがあの夜に会うことを確実に知っていた人間を列挙することにしました。そして、そのとき浮上したのが武井光という人物だったのです」

「武井さんは過去にエフエムマスカットのスタッフをしていて栗原さんとも面識があった。だから、彼が女性と一対一で会うときは常連のお店を使うことも知っていたのね」

「そういえば、栗原さんから誘われたときには武井さんを同伴させていたって下村さんが話していたよ」

 千寿留のあとで俊樹も言った。

「二人が落ち合う店が予想でき、かつ現場へ向かうことができた人の中から一番犯行をし易かった人物を消去法で考えていけば、犯人が彼なのではないかと推測するのは比較的簡単な作業だった」

「あたしが襲われたときの凶器も角南さんのときと同じだったのかな?」

「おそらく彼は角南の事件現場を唯一目撃していた。だからそれに便乗することで、あわよくば彼女に罪を被せるつもりだったんだろう」

「武井さんはトイレの個室でそれを見ていて、下村さんが逃げたあとで角南さんに近くに抜け落ちていた付け毛を拾っていたらしい。それに、もし下村さんが角南さんを襲っていなかったら自分が殺すつもりだったとも言ってたよ」俊樹は暗い顔をする。

「ただその犯行は寸前のところで失敗に終わってしまった。すると彼は、標的を変えて再度殺人を試みることにした」

「下村さんの事件ね」千寿留が頷く。

「彼女には村瀬さんが襲われた事件は想定外だった。しかも運の悪いことにその夜はアリバイがなかったので、ここで捜査の目が自分に向けば角南の件についても追及されるだろうと内心穏やかではなかったはずだ。そこで彼女は、その犯行をした人物を探し出しはじめた。そしてそれが武井光だと分かると彼を呼び出すことにした」

「あたしが襲われたときに使われた凶器が最初の事件と同じものだろうという話は初めから上がっていたから、きっと下村さんは武井さんが自分の犯行を目撃していたことに気づいたんでしょうね。だから彼女は、自分の弱みを握る武井さんをどうにかする必要があった」

「おそらくそういうことだろう」

「じゃあさ、あの日下村さんが二度ラジオ局に寄っていたのは、まず最初に武井さんをあそこに連れて行っていたからなのか?」

「当初は先に彼との話を着けてからこちらの相手をするつもりだったのだろう。だが結局二人の間で折り合いがつかないまま、俺たちを迎えに行く時間になってしまった」

「ならば、下村はどうして武井を建物に残したままにしたのでしょうか?」井沢が尋ねる。

「きっと早いうちに片付けておきたかったのでしょう。あのときの私たちは、局内の事件関係者の方に話をうかがったらすぐに帰る予定でした。だから彼女は、私たちの用件が終わったあとで続きをしようと考えたのではないかと思います」

「もしくは、最初の話し合いが難航した時点で武井を始末することを考えていたのかもしれませんな」宗像が言う。

「どちらにしても二人が一緒のところを他人に見られるのは拙いのだから、もしあれが平日ならそんな真似はしなかったと思いまあす。けどあの日は土曜日で、ラジオ局以外のフロアに身を隠しておけば人に見られる可能性は比較的少なかった。だから下村さんは、武井さんをビルの中で待機させたのかもしれないわ」

 千寿留はそう言ったあとで続ける。

「あの事件でまだ分からないことがあるの。私たちがあのビルに着いたとき、下村さんはたしかに車をロックしていたわ。けど彼女の遺体を見つけたときには運転席のドアは開いていた。彼女は鍵を忘れたまま駐車場に降りていたはずなのに、どうやってそれを開けることができたのかしら? 昨日一晩ずっとそのことばかり考えていたけど、結局納得できる答えは出てこなかったわ」彼女は凪森に向かって話した。

「武井さんが下村さんの車の鍵を持っていたってことはないのかな?」

「奴の所持品にはそんなものは出てきませんでした。これからさらに詳しく調べますが、その可能性は低いでしょう」

 俊樹の問いに宗像が答える。

「そんなに難しく考える必要はない。なぜなら、あのときの彼女の車には誰でも入ることができたのだから」

 するとそこで凪森が口を開いた。

「それは、どういうことですか?」

「私たち三人は、彼女がリモコンで施錠するところをはっきりと見ています。ですが、そのロックが不完全なものだったとしたらどうなるでしょうか?」

 眉をひそめる宗像に対し、彼は表情を変えることなく言う。

「宮房の話を聞く限り、下村妙子と武井光は仲の良い友人だったようです。しかし、だからといって自分の車のキィを持たせることは普通ないでしょう。だとしたら、どうして彼女が車内にいたのかというのがあの事件での最大の問題になります。そして、それに対する一番現実的だと思われる可能性とは、実はちゃんと施錠されていなかったというものではないかと私は考えたのです」

 凪森が説明する。

「あの車は知り合いから譲り受けたものだと彼女は言っていました。まだ新しいという話でしたが、中古であることに変わりありません。なので私は、車に何らかの不具合があったのではないかと考えました。駅からエフエムマスカットまで迎えてくれたとき、彼女はリモコンではなくドアに鍵を差し込んでロックを解除していましたから、もし故障しているとしたらおそらく遠隔ロックのシステム、例えばドア内部にある電気系統に問題があるのかもしれません」

「そういえば下村さん、リモコンを使うことはあまりないって言っていたわ。それに最近車の調子も悪いみたいだって」

「彼女はペーパードライバで、最近になって車に乗りはじめていたばかりだったからその異常の深刻さに気づいていなかったのだろう。俺たちも車からロックがかかるような音は聞いていたから、てっきり施錠できているものだと思い込んで本当に鍵がかかっているかどうかまでは確認していなかった」

「では、武井光はそれを利用したというのですか?」

「それは偶然のことだったのかもしれませんし、彼は彼女の運転の練習に付き合ってあの車に乗っていたそうですから、もしかしたら以前から気づいていたのかもしれません」凪森が宗像に言った。

「それが本当なら、あの不可解なハザードランプの点滅についても説明がつきますね」井沢が言う。「奴は車に侵入すると、下村妙子をおびき寄せるためにライトを付ける。そしてまんまと様子を見にやって来た彼女を襲った」

「ええ。そして、そのとき使った凶器もウィッグでした」

 凪森が頷く。

「ただ、もし彼女が一人で地下に降りてこなければ無理に襲われることはなかったと思います。武井光は意表を突くことで少しでも犯行しやすい状況を作りたかっただけでしょうから、自分が不利だと判断したら何もせずに大人しく隠れていればよかった。その場合は彼女との打ち合わせ通りにして、また二人きりになったときに力づくで殺すつもりだったのでしょう」

「ならば、まずは本当に車が故障していたのか調べる必要がありますな」

 そこで宗像が鋭い視線を横に向ける。

「棚部、お前は今すぐ裏を取ってこい」

「はいっ、分かりました」

 その指示を受けて雅史が慌てて席を立ちあがる。

 いきなり言葉をかけられるとは思っていなかったらしく、彼はドーナツの最後のひとかけらを食べながら返事をしていた。

「では行ってきます。ドーナツありがとうございました」

 彼は手に持った缶コーヒーで口の中のものを流し込むと、そのあとで千寿留に一礼してから小走りで病室から出ていった。

「それにしても、武井光はどうして日頃から女装なんかしていたんでしょうか? 私にはまったく理解ができません」

 雅史がいなくなったあとで井沢がぽつりと言った。

 それに俊樹が答える。

「武井さんは、自分は二重人格なんだと言っていました」

「二重人格?」

「はい。武井さんの中には他に女性の人格もあって、昔から日常的に入れ替わっていたそうです」彼は周りの反応を窺いながら話した。

 県警の二人と千寿留はそれを聞いてから訝しげに眉をひそめる。

 その言葉の意味は理解しているが、いまいち話を飲み込めきれていないようである。

 その中では唯一、凪森だけが冷静な表情を崩さない。

 その顔に驚きはなく、まるで納得したと言わんばかりに小さく頷いていた。

「もしかして、それも知っていたのか?」

 その様子を見て俊樹がきいた。

「さすがにすぐには分からなかった。ただ二つ目の事件が武井光の仕業だと考えたとき、角南が殺された際に使われていたという個室にいたのが彼だったのではないかとは思っていた。でなければ、下村妙子と同じ凶器を使うという発想はできなかっただろうからな」

 凪森は次に全員に向けて言う。

「異性のトイレに入るのは、やはり少なからず抵抗があるものです。だから私は、まず武井光は男性ではないかと疑いはじめました。そして彼の服装と心療内科への通院、さらに他人に対してはごく自然に女性のように振る舞っていたという話。あくまで想像の範疇でしたが、それらの情報から彼が多重人格である可能性を考えていました。そこで私は、昨夜のうちに烏城クリニックの梶先生と連絡を取って、その推測が正しいことを確認してました」彼が話す。「梶先生の話では、彼はその症状のことで以前から病院に通っていたそうです。ただ表面上は特に問題はなく、普段は簡単なカウンセリングをする程度だったということでした。しかし、エフエムマスカットで働きはじめた頃から徐々に様子がおかしくなっていったと先生は話していました」

 そこに井沢が続く。

「角南は優秀な人間だったそうですが、機嫌を損ねると自己中心的で身勝手な振る舞いをしてスタッフたちを困らせていたという話は聞いています。その中でも下村妙子はその被害を受けていた筆頭で、それ以外にも彼の横暴な性格が原因となって仕事を去る人間は多くいたらしいですね。おそらく武井もその中の一人だったのでしょう」

「武井光はもともとストレスに弱い人間だったのだと思います。そしてその厳しい当たりに耐え切れずにラジオ局を辞めたあとも、角南から受けた精神的な傷が完全に治ることはなかった。その当時、彼はよく梶先生にもう死んでしまいたいと口にしていたそうです。おそらく彼からすれば、毎日を生きているだけでも苦痛だったのでしょう」

「でも、そんな理由で人を殺していいわけがないわ」

「もちろん許されるべき行為ではない。ただ今話しているのは、彼がそういった行動を起こしてしまうほどの状態だったのだということだ」

 千寿留の反論に凪森が淡々とした口調で言う。

「第三者の中には、その経緯を知っても単なる彼の甘えだと一蹴する人もいるかもしれない。だがストレスの度合いとはごく主観的なもので、どこまでが精神疲労の限界だとするのかは他人の基準で決められるものではない。今回の場合だと、彼は自分一人では処理しきれない苦しみから逃れるための手段を探し当てた。それが一連の事件をここまで大きくさせた」

「武井さんも似たようなことを話していたよ」

 それを聞いて俊樹が呟く。

「あの子は死ぬのこと望んでいた。だけど何度試してもそれができなかったから、その代わりに別の生き物を殺すことでストレスを解消させていたんだって」

「では、やはり例の動物虐殺の件も?」

「ええ」俊樹は井沢に答えた。

「目の前で起きる死を自分に投影することで、それを疑似的体験したつもりになっていたのでしょう。ただ殺害を繰り返していくうちにそこから快感を覚えていき、いつの間にかストレス解消からその行為を楽しむことが目的になっていきました。そしてその対象が人間に移ると、彼は思わぬ事態に直面することになりました」

「思わぬ事態?」

「本来はストレスを取り除くためにしていたはずだったのに、それが達成できないことで逆に新たなストレスを抱えるようになってしまったのです。そのせいで彼は殺人を犯さなければならないと思い込み、一種の強迫観念にかられていったのだと想像します。要するに、典型的な悪循環に嵌ってしまったということですね」凪森が言った。

「ではお二人が襲われたのは、武井が少なからず我を見失った状態だったからなのでしょうか?」

 そのとき、宗像が俊樹と千寿留を見つめながら口を挟んだ。

「いえね、私は奴が村瀬さんと宮房さんを襲った動機が今もよく分からないのです。多少は面識があったにしても、あなたたちは角南や下村妙子ほど関係が深くない。なのにどうして狙われないといけなかったのか、それがど不思議でならないのです」

 彼はそこで解答を待つように凪森を見つめた。

 しかし凪森は、短く息を吐いたあとできっぱりと首を横にふる。

「そればっかりは私にも分かりません。そもそも人間の考えることなんて、他人が予想できるほど正確な筋道が立っていることの方が珍しいものだと思います。思い込みとご都合主義ばかりで、なおかつ自分では自覚していない矛盾を孕んでいることにも気づかず、いつその理論が崩れ去ってもおかしくないというのが日常的な状態なのではないかと私は考えます。そんな不安定この上ない、綱渡りよりも危険なギリギリのバランスの中でなんとか整合性を取り繕うとしている。それが人間の思考なのではないでしょうか?」

彼はそこまで語ると口を閉ざす。

 期待を裏切られた宗像は、しばらく釈然としないといった表情を浮かべたまま、無言になった凪森に視線を向けていた。

 俊樹もその姿を見ていると、急に凪森がこちらに顔を合わせた。

 彼は無表情を貫き通していたが、今の俊樹にはその目からある感情を読み取れた気がした。その色彩の異なる二つの瞳は、光が話していたことを最後まで宗像たちに伝えようない自分を見透かしているように思えた。

 俊樹は友人の視線をしっかりと受け止める。

 しかし、そのとき二人がそれについて言葉を交わすことはなかった。

次話は6/3 20:00に投稿予定です。

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