終われない狂気
第六章 終われない狂気
1
「この間は大変だったらしいわね」
俊樹が座席につくと、梶薫は開口一番にそう切り出した。
「へっ?」
「ほら、貴方のお友達よ。さっき、妙子ちゃんからちらっと聞いたわ」
「あぁ……、ええまぁ」
間の抜けた顔をした俊樹は、そこでようやく話が飲み込めたので相槌を打つ。
千寿留が襲われた日の夜。
あのあと病院まで同伴した彼は、彼女の身体に異常がないという診断結果を受けてひとまず胸を撫で下ろした。そして検査を終えたあとで雅史が病院に姿を見せると、念のために彼女を一晩だけ匿うと告げた。千寿留はその提案を一度は断ったものの、そのあとで俊樹も加わって彼女を説得したこともあって最終的に首を縦にふった。
千寿留とは病院の前で別れた。
パトカーに乗って去ってゆく彼女を見送った俊樹が自宅に戻った頃には、既に日付が変わっていた。そして彼は、翌朝になると睡眠不足を耐えながらも会社へ出かけ、いつものように積み上げられた作業の消化をしていた。
表面上は何事もなかったように振る舞いながら、パターン化された日常生活のルーチンこなしていた彼であったが、その合間には警察に呼ばれて事情聴取を受けるなどしており、実際には慌ただしくしているうちに一週間が経っていた。
一方の千寿留はといえば、事件の翌日はさすがに会社を休んでいたが、その次の日からはちゃんと出勤して以前と変わらない元気な姿を周囲に見せていた。襲われた直後には薄らと残っていた首を絞められた痕も今では完全に消え去っている。
「でも、どうしてその人がそんな目に遭わなくちゃならなかったのかしら?」
「彼女は例の居酒屋の事件に興味を持っていました。それであの日も事件の話を聞くために下村さんの同僚の人と会っていて、その帰り道で襲われてしまったんです」
「なら要するに犯人はこの前と同じ奴で、そのお友達は事件のことを詮索していたから狙われたということ?」
「たぶんそうではないかと警察も言っていました」俊樹が頷く。
すると、それを眺めていた梶がぽつりと呟く。
「……参ったわね。だとしたら、場合によっては私たちも標的にされる可能性があるってことじゃない」
「どうしてですか?」
「だって、私たちは事件現場に居合わせていたんだもの」梶が答えた。「例えばの話だけど、実はあのとき、私たちは無意識のうちに事件を解く重要な手がかりを目撃していたかもしれない。自分たちはまだそのことに気づいてないけど、犯人だけがそれを把握しているってケースもあるでしょ? もしそうなら、犯人はきっと私たちにも危害を加えようと思うはずだわ」
「絶対にないとは言えませんけど、でもそれはたぶん先生の考え過ぎだと思いますよ」
俊樹は、不安そうに言う梶の気を紛らわせようとする。
「そのお友達はもちろんだけど、こんな短い間に二回も事件に遭った宮房さんもお気の毒だったわね」
「僕は本当に居合わせただけなので大丈夫です。それに前回のことを言えば、僕らの中では武井さんが一番災難だったと思います」
「ええ、たしかにそうね。まさか光ちゃんがあんなところにいるとは思わなかったから、私、あれを見たときは本当にぞっとしたわ」 そう言いながら、梶は徐々に険しい表情に変わってゆく。
おそらくあのときの惨状を思い出したのだろう。
俊樹は顔を歪ませる彼の様子を見て思とうと、ふと思いついて質問を投げかける。
「ところで、先生は犯人がどんな性格の持ち主だと考えていますか?」
すると、それに反応して梶が目を大きくする。
「なぁに? いきなりそんなこと聞いて」
「いや、先生なら人の心理とかに詳しいんじゃないかなと思って」
彼が答えると、梶が冗談めいた口調で小さく笑った。
「私は別に警察でも犯罪心理学者でもないのよ。専門外だわ」
「でもこういう仕事をしてると、いろんな人と接する機会があると思うんです。だから、先生なら犯人像みたいなものを想像できるんじゃないかなって」
「そうねぇ……」
俊樹の説明のあとで、梶はそう呟いてから腕を組む。そして、机の奥にある窓の方に視線を移すとそのまま動かなくなった。
「じゃあ逆に質問するけど、宮房さんはどんな人間ならこんな酷い真似ができると思う?」
しばらく沈黙があったのち、梶はゆっくりと顔を戻して俊樹に問いかける。
「えっとですね、どういう言えば適切なのかは分かりませんけど、その、普通じゃないと言うか、ちょっと感覚が他とは違う人なのかなって思います」俊樹はしどろもどろしながら答える。
「いわゆる異常者とか変質者の類のことかしら?」
「はい。最初の事件だけを考えれば、被害者を恨んでいた人間がやったものに思えたんですが、直接関係のない村瀬さんまで殺そうとするなんて、僕には正気とは思えません」彼は顔をしかめる。
「それだけ自分を見失っているんでしょうね。犯行がばれて警察に捕まれば、自分にとって大きな損失になる。それは人生の終わりを意味すると考えているのかもしれない。みんながみんなとは言わないけど、それくらい追い込まれた状態だと、こういった口封じみたいなことをする人は多いのではないかと思う」
「僕も想像はできます。けど頭で考えるだけでじゃなくて、そのまま行動に移せてしまう時点で明らかに普通ではないと思うんです」 俊樹が言った。
「それは非常にもっともな意見だわね」梶がそれに頷く。「ただ、私が考えている犯人像は貴方と同じものではないわ」
「異常者ではないということですか?」
「うーん、それとも少し違うのだけれど」
梶は首を斜めに傾けたあとで話す。
「きっと犯人は、どこにでもいそうなごく一般的な人物なんじゃないかしら? それも普通すぎて他の人に紛れてしまうくらい周囲に溶け込んでいるか、でなければあまり目立たないような人ね。簡単に言えば、影の薄いってことになるけど」
そこで一旦言葉を区切ると、彼が俊樹に尋ねる。
「宮房さんは、バーサーカって聞いたことある?」
「はい。狂戦士とも言ったりしますね」
「そう。いつもは大人しいのに、戦いになると突然何かに憑りつかれたように人が変わってしまうバーサーカ。その我を忘れた戦い方は普段の姿からは考えられないもので、敵味方の区別もなく暴れ回ったことから、仲間でさえ彼らを恐れていたと言われている登場人物よ。二つの事件が同一人物の仕業かもって貴方が言ったときから、私はなんとなくそれを連想しているの」
「何かに憑りつかれたように人が変わる……、ということは、もしかして先生は犯人が二重人格だと思われたりしてるんですか?」
俊樹は、以前凪森と話していたときのことを思い出した。
「そこまでは考えてないわ。でも貴方が言うようにの軽い気持ちだけで実際に人を殺すという行為にまでは至らないだろうと私も思う」梶が話す。「この世の中で生きてゆくにはある程度の協調性が不可欠なのはみんな知っているけど、それを意識しすぎるあまり自分の意見を表に出せなかったり、そもそも人前で自己主張できない内向的なタイプの人は、ほんの微細ではあるけど日々抑圧されてながら生活している傾向にあるわ。そしてその中には、溜ってゆくストレスをこまめに消化できずに、限界まで膨れ上がったところで一気にそれを解放するような人もいるの。まるで蛇口から注がれた水の負荷に耐えられなくなった風船が破裂するみたいにね。そういう人たちは、普段は何も問題がなかったとしても、それが起こると途端にこれまでとは違った振る舞いを見せたりするのよ」
「犯人もそういう性格の持ち主だと?」
「貴方が初めてここに来たときにも話したけど、ストレスを抱えないためには細かい頻度でガス抜きをしておく必要があるわ。でも、人によってはそれができずに耐え続けてしまうだろうし、自分自身でさえその限界をはっきりと自覚しないまま、破裂したあとでようやく気づいたってケースも今までに見てきている。そういったものの許容量なんて個人で大きなばらつきがあるから、決して定量化はできるものではないと私は考えているの。ただストレスっていうのは、他人に打ち明けたりするとある程度なら解消できたりすることがあって、私たちの仕事は患者さんからその本音を聞きだすことから始まると言ってもいいわ。たとえ身近な人には決して言えないような悩みを持っている患者さんでも、まずは話す相手がそれとはなんの関わりもないただの他人で、さらにその内容は誰にも明かさないことが約束されていると理解して安心してもらう。そうすれば、あとは病院側が話しやすい雰囲気を提供することで、大体の人は自然と自分から口を開いてくれるようになるわ。そして、そこまで来てようやくこちらもカウンセリングができるものなの」
梶はそこで一度間を空けるとさらに続ける。
「ちょっと話が脱線しちゃったけど、そこまで考慮に入れて推測してみると、犯人はストレスを発散するのが苦手な人間なのかもしれいない。きっと小さい頃から一人ぼっちでいることが多くて、何でも自分の力で解決してきた人物。それはそれで強い人だと思うわ。けどその反面他人に頼ることに慣れていないから、自分一人で対処しきれない事態が起こると混乱してしまうタイプだわ。その上、そういう人はどうしてこんなことが解決できないのだろうと自分を責めてしまうことが多くて、それでよりいっそう自分の首を絞めてしまう。そんな悪循環に加えてガス抜きもできない状態に陥るから、ストレスはどんどん大きくなっていく一方で、結果的にパンクした挙句こんなことをしでかしたんだろうと想像しているわ。あと付け加えるとしたら、視野が狭くなりやすい性格なのかもしれない。思い込みが激しいと、それだけ行動に移そうとする心の勢いが生まれ易くなるでしょうから」
そう語る彼は、知りもしない犯人を憐れんでいるように俊樹には見えた。
「少し考えただけでそこまで分析できるなんてやっぱり凄いですね。僕なんか、この一週間どれだけ想像しても凶悪な殺人鬼ってイメージしか思い浮かびませんでしたよ」
「それは私の方が貴方より事件との関わりが薄くて、物事を客観的に捉えれるからというだけよ。もし逆の立場で大切な人を傷つけられたりしたら、私も冷静な考えができる自信ないもの。それに、今の話をあまり真剣に受け取らないようにお願いするわ。ただの戯言程度だと思ってね」梶は感心する俊樹にそう言いながら、ようやく机の上に置かれていたカルテに手を伸ばす。
最初のときはじっくりと時間をかけていたが、それ以降の診察は主に現状を確認するだけの簡潔なやり取りになっていた。下手をすれば、この日のようにその合間にする世間話の方に時間を長く費やすこともあった。
俊樹の場合は治療というよりも、この先悪い方向へ行かないための事前予防に近いニュアンスで通院していたので、病院を訪れる患者の中では症状が一番軽い方だということはおそらく間違いない。だからさほど時間を取るような内容でもないのだろう。
ならば妙子や光はどうなのだろうか、と彼は思いつく。
これまでの記憶では、二人の診察時間はどちらも自分のときのように早くはなかった。だがそれ以外の患者たちを把握していないので比較するデータは持ち合わせていないし、彼女たちが重い症状を患っているようにも見えなかった。
二人はそれぞれどんな原因で梶の治療を受けるのか。
それは以前から彼が気になっていたことだったが、とてもデリケートな話題なので気軽に尋ねるのには抵抗があった。
「宮房さん、ちょっといいですか?」
会計を済ませたところで俊樹は待合室にいた妙子に呼び止められる。
先に診察を終えたはずの彼女が光の隣に座っていたのは、彼も診察室から出たときに確認している。二人は仲が良さそうなので、光の番までおしゃべりをしていたのか、もしくは診察のあとでどこかに出かけるのだろうと彼は解釈していた。
「もしよければ、このあとで光ちゃんも入れてお茶に行きませんか?」妙子が言った。
「いいですけど、どうかしたんですか?」俊樹がきき返す。
光は既に診察室に入ったあとだった。カウンタの奥にいる看護婦を除けば、待合室には自分たちしかいない。
シチュエーションだけを考えれば、唐突な緊張と少しばかりの期待が入り交っておかしくなかったが、残念ながら彼はそういう気分にはなれない。
なぜなら、目の前にいる妙子はずっと沈んだ表情でこちらを見つめていたからだった。
「先週のことで少しお話がしたいなと思って……」
彼女は落ち着かない様子で髪をいじりながら小さな声でそう呟いた。
2
「村瀬さんの具合はいかがですか?」
店員がいなくなったところで、待っていたとばかりに妙子が話しかけてくる。
「もう大丈夫みたいです。仕事は一日休みましたけど、今はピンピンしてますよ」
「そうですか……。あぁ、それは良かった」
俊樹が笑顔で答えると彼女は大きく息を吐く。それと同時に、さきほどまでの思い詰めた表情が少し和らぐ。
「村瀬さんが大変な目に遭ったという話は私も聞いていました。けどそれから彼女がどうなったのかまでは教えてもらえなかったので、先週からずっと気になっていたんです」
妙子は安堵した様子で続けて言った。
光の診察が終わったあとで、俊樹たち三人は病院の近くにある喫茶店に場所を移した。
店内の客は、今、彼らだけしかいない。
「その話は誰から?」
「それが起きた次の日に警察から事務所に連絡があったらしいんです。どうも、栗原君に事情をききたいという内容だったみたいで」
俊樹をここに誘うときから彼女はそわそわしていた。
きっと千寿留の容態が気になりながら今日まで機会を待っていたに違いない。
彼は妙子の気持ちを察してみる。
次にその隣の様子を窺うが、今のやりとりを聞いても光には動じた様子がない。おそらくある程度のことは妙子が話していたのだろう。
「栗原さんは、火曜日の夜のことで何か言っていましたか?」俊樹が尋ねる。
「村瀬さんがいなくなったあとに、一杯だけお酒を飲んでから自分も帰ったと本人は話していました。彼、警察に呼び出されていろいろと問い詰められたのが気に入らなかったみたいで、事務所に戻ってきてからも、お店を出てからは彼女には会っていないし、ましてや殺人未遂なんかするわけがないってみんなに愚痴っていました。事務所としてもひとまず彼の言い分を信じることにはしたのですけれど、そのせいで社内の雰囲気も悪くなってしまって……」彼女は再び顔を曇らせながら答えた。
「下村さんは、栗原さんの話を聞いてどう思いましたか?」
「本人の前ではとても口にできませんが、本音を言えば彼を疑っている部分もあります。栗原君は自分の都合の悪いことを誤魔化したりするのが上手い子ですし、それに以前、角南さんと仕事のことで揉めていたりしてましたから」
「居酒屋の事件で殺された方ですね?」
妙子が頷く。
「栗原君がまだ事務所に入りたての頃、彼はエフエムマスカットから番組のメインパーソナリティとしての出演依頼を受けたことがあって、その番組のプロデューサというのが角南さんだったんです。そのとき二人は面識がなかったので、顔合わせも兼ねて番組の打ち合わせをしたらしいのですが、角南さんは彼と軽く面談をしたあとで、パーソナリティではなくてアシスタントとしてなら起用すると他のスタッフたちの前で本人に告げるということがあったそうです。あとから聞いた話だと、そのオファーはラジオ局の上層部とうちの事務所側だけの決めたことだったらしく、角南さんの耳には入ってなかった話だったとか。それで話が拗れてしまって、結局栗原君はその仕事を降りることになったんです」
「じゃあ、栗原さんはその件を根に持っていたってことですか?」
「表向きではそんな素振りはみせませんけど、いきなり大きな仕事をもらって喜んだ矢先にそれが流れてしまったせいでかなりショックを受けていたのを私は今でも覚えています。だから、亡くなったのが角南さんだと知ったときからもしかしたら栗原君なのかもしれないと思っていました。でもその反面、後輩の言葉を信用してやれないのはどうかしているんじゃないかという思いもあって、特にこの一週間くらいは疑心暗鬼と自己嫌悪をずっと繰り返してしまっているんです。もし本当に栗原君の仕業だとしたら、事務所の人間として村瀬さんにも合わせる顔がありませんし……」
そこまで喋り終えると、彼女は視線を下を向けて肩を落とした。
俊樹は気の利いた言葉がすぐには思い当たらない。そして光も、横にいる彼女を眺めているだけだった。
三人が黙り込んでしまったところで飲み物が運ばれてくる。
店主と思われる中年の女性は、一瞬俊樹たちをちらりと見てから必要最低限のセリフだけを口にすると、極力目を合わさないようにしてそそくさと戻ってゆく。
もしかしたら、三角関係のもつれで修羅場を迎えているとでも思われたのかもしれない。
俊樹たちの間にはそれだけ気まずい空気が流れていた。
「そんなことは考えるだけ無意味です」
すると、今までひと言も口を開いていなかった光が唐突にその重苦しい沈黙を破る。
「妙子さんは栗原さんじゃありません。だから、他人のことでそこまで悩む必要はないと思います」
「光ちゃん、でもね……」
「でもじゃありません」光は妙子の言葉をぴしゃりとを制して続ける。「もし栗原さんが犯人だとしても、妙子さんには何も関係ないじゃないですか。それにあの女の人のことだって、妙子さんが襲ったわけじゃないんですから、そんな風に落ち込むのはただの時間の無駄ですよ」
なんの抑制もしていない声が貸し切り状態の店内に響いた。
カウンタの中にいた店主は、その言葉に出てきた幾つかの単語に反応したらしく、驚いた様子でこちらを覗き込んでいる。
光が言ったことはたしかに間違っていなかったが、些か思いやりに欠けた冷淡な考え方だと俊樹には思えた。誰に対しても情の薄い あの凪森が得意げに言いそうな内容である。
だが、彼も妙子もそれに異論を唱えるようなことは決してしなかった。
なぜなら光の表情はしだいに感極まり、話し終える頃には涙を堪えていたからだった。
「他人のことなんかで苦しむ妙子さんは優しすぎますよ」
光は数十センチもなかった妙子との間をさらに詰めると、彼女の左腕にしがみついた。
俊樹はいつもとは正反対に感情を露わにするその姿を見て驚くと同時に、光がどれだけ妙子を慕っているのかが分かった気がした。
ただ純粋に妙子のことだけを考えたからこそ、あんな発言が出てきたのだろう。
「ありがとう、光ちゃん。こんなに心配してもらえて、私、嬉しい」
まとわりつかれた妙子は一瞬目を大きく見開いたが、そのあとで光の頭を優しく撫でながら言った。
彼女も、自分に向けられた好意を理解しているようだった。
「あーあ、栗原君のせいでまた嫌な気分になっちゃった」
そこで妙子は天井を見上げてぼんやりと呟く。
「また?」
「妙子さんは、前から栗原さんに言い寄られていて迷惑しているんです」
光が妙子の腕を掴んだまま俊樹に言う。その顔には、露骨な不快感が見てとれた。
「今まで何度も断っているのですが、彼、なかなか諦めてくれなくて。この前宮房さんたちと会ったときも、最初は光ちゃんと二人で出かけるつもりだったのに、たまたまその話をしたら一緒に行くと言い出して、結局強引についてきていたんです」妙子が自由の効く右手で肩にかかる髪を払いながら説明する。
「妙子さんは誰にでも甘くしすぎなんですよ」
「でも彼はすぐ下の後輩だし、それ以外のときは周りに気を利かせたりできる良い子だから邪険にはできないわ」
「あの人のせいで、通院しないといけないくらい傷ついているのにですか?」
「え?」
俊樹は強い口調で言い返す光の言葉を聞いて声を上げる。
そしてはっとした表情で正面に座る妙子を見ると、彼女はばつの悪そうな顔でこちらから目を逸らしていた。
「……薫ちゃんに診てもらっているのは、それだけの理由だけではないのですけれど」
唇を横一文字にして口を閉ざしていた妙子は、しばらくしたあとで観念したように苦笑いを浮かべてから話しはじめる。
「うちの事務所は私の父が社長をしているものですから、人によっては私を良く思っていない方もいたりして、親の七光りだと言われたり、自分の役割をこなしていても厳しくされたることが以前から多くありました。それに加えて、プライベートでは栗原君から頻繁にアプローチされたり、母を亡くしたあとの父の交際相手のことでも悩みがあったものですから、仕事で疲れていた分余計にそれが堪えてしまって、一時は精神的にかなり参った時期があったんです」
「だから梶先生に?」
「はい。烏城クリニックは、私が病院を探していたときに知人の方から教えてもらいました。テレビやラジオのお仕事はほとんど休みないこともあるので、中にはああいう病院で薬をもらいながら働いている人もいるんです。だから前から変わっているけど腕のいい精神科医の先生がいるって噂だけは耳にしていました。まさか自分がそれに頼ることになるとは思ってもいませんでしたけど。今でもまだ動悸が起こったり、自分でもよく分からないうちに気持ちが落ち込んでしまうときもありますけど、薫ちゃんに診てもらっているおかげで、以前に比べたら随分良くなってるんですよ」
「そうだったんですか」
話し終えたあとで小さく微笑む妙子に俊樹は相槌を打つ。
「苦しかった時期を乗り越えてきたんですね。それに比べると下村さんみたいな辛い状況でもなく、ただ会社に言われて診察に来て、念のためという理由で仕事を軽くしてもらっている僕は甘えてるのかもしれないなぁ」
「そんなことないですよ。兆候があるなら早めに対処するのは大事だし、薫ちゃんは意味もなく通院はさせない人のはずです。宮房さんが来る前にも何人か同じ時間帯に来ていた患者さんがいましたけど、その人たちはみんな短い期間で見かけなくなりました。私はそれが不思議だったので薫ちゃんにきいてみたら、もう大丈夫だから診察を終わらせたんだと彼は言ってました。必要以上に通院を続けると、病院へ出かけることが生活リズムに染みついてしまって、元の生活に戻りにくくなってしまうからって。だから、薫ちゃんが指示している以上、それは現時点では必要なことなんだと思います。なのであまり気にしない方がいいですよ。後ろ向きな考えをすると、よく底なし沼に嵌ってしまいますから」
ぼやく俊樹を慰めるように妙子がそう言った。
「それで結局犯人は誰なんですか? やっぱり栗原さんなんですか?」
次に光が尋ねてくる。
その手は既に妙子からは離れており、溜めていた涙も身丈より幾分サイズの大きいシャツの袖で拭き取られていた。
「僕も目撃者ってことで県警まで行ったけど、そのときの感じではまだなんとも言えないような雰囲気だった」
「警察の人は、栗原さんをちゃんと見張ってるんですか?」
「そんな話は聞いていないね」
「光ちゃんは、栗原君が犯人だと思っているの?」
「いいえ、それは私も分かりません。でももし栗原さんが犯人で、角南さんを殺したのもあの人だとしたら、たぶんまだこの次にも何かあるような気がするんです」
「それって、犯人はまだ誰かを襲うってこと?」
俊樹の質問に光が首をふる。
「どうしてそう思うの?」
「あくまでも想像です。でも次があるとしたら、今度は妙子さんが危ないと私は思います」
「えっ! 私?」
名指しされて妙子が声を上げる。
「だって、栗原さんは妙子さんにずっと振られ続けていますから、それを逆恨みすることだってあると思うんです」
「そんなまさかっ……、いや、でも……」
真剣な顔で話す光を見つめながら妙子がぶつぶつと呟く。
「まぁまぁ、それは武井さんの予想であって、まだそうと決まったわけじゃないんだから下村さんも落ち着いて」俊樹は彼女に言うと、光にも声をかける。「それに憶測だけで悪く言うのは良くないと思う。ちゃんと事実を踏まえて考えないと、あとで大きな誤解を生むことになる」
「けど、犯人はいつ襲ってくるか分からないんですよ。警察には少しでも早く妙子さんを守る方法を考えてもらわないと」光はまるで訴えるように話していた。
実を言うと、俊樹もつい先日まで栗原が千寿留を襲ったのではないかと疑っていた。そして、そう考えはじめるとより栗原が怪しく思えてきて、今の光と同じで彼に悪意を持つようになっていた。
しかし、本当は自分が怒りを向けているのは栗原個人などではなく、犯人と呼称されている何者かなのだ。
俊樹は会社で仕事をしている最中に、社内のプログラマたちが日常的に扱っているプログラム言語の変数を思い浮かべたときにそう思い直すことができた。そして、千寿留が被害を受けたことで思っていた以上に動揺していた自分にも気づいた。
おそらく以前のように仕事に追われて気持ちに余裕がない状態のままだったら、そんなことは思いつかなかっただろう。
「人殺しなんて許せません」
光が続けて言う。
「自分がいつ死ぬのかというのは、人が持っている権利の中でも一番重要なものだと思っています。だから私は、それを無理矢理奪う 人を絶対に認めることはできません」
「自分が死ぬ権利?」
光の発言に俊樹は違和感を覚える。
「武井さん、それはちょっと違うんじゃないかな」
「そうよ。死ぬことに権利なんて言葉を使うものではないわ。それじゃあまるで、誰だって自分の好きなときに死ねる自由があるみたいに聞こえちゃう」
妙子も渋い顔をして同意する。
「いえ、私はむしろ、妙子さんが今言った通りの意味だと思っているんです」
光はそう話すと続けて尋ねる。
「ならおききますけど、人間はご自分の意志でこの世に生まれてくるんですか? お二人は、お母様に産んでくださいとお願いをしたから今こうやって生きているんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」俊樹が答える。
妙子を見ると、彼女も少し困った様子でこちらに目を合わせていた。
「私、昔からずっと不思議だったんです。両親や周りの人たちは、いつも健康で長生きしたいという話をしていましたけど、いざその理由をきくと、みんな馬鹿の一つ覚えみたいに、産まれてきた以上寿命まで生を全うするのが正しい、その途中で死んでしまうのは、特に自分から命を捨ててしまうことは後ろめたくて恥じるべき行為だと言うだけで、誰も納得できる答えを教えてくれませんでした。逆になぜそんな質問をするのかと問い詰めた挙句、お前は変わっていると一方的に言い捨てて話を打ち切られることがほとんどでした。私はその度に、なんの疑問も持たずに当たり前のように生きている大人の方がよっぽど奇妙に思えました。だから私は、今でもどうして生き続ける必要があるんだろうかって考えることがあるんです」光はさらに続ける。「この前テレビを見ていたら、私より歳下の子が自殺をしたニュースが取り上げられていて、亡くなった子の家族とか友人がどうしてこんなことをしてしまったんだろうってカメラに向かって嘆いていました。私、ああいう場面を見るといつも思うんです。あの人たちは、きっと自殺した子のことを何も考えていないんだなって。だってその子は、この世から自分を消し去りたいと強く願っていたから死ぬことを選んだはずなのに、身近にいた人たちが無念だったとか、まだ生きていたかったんだみたいなことばかり言っているんですから」
「仕方ないわ。親しい人が死んでしまったら、誰だって悲しくなるものだから」
「それも分からないではないです。だけど、その子は自分で納得した上で死んでいったんですよ? なのにそんな風にしか解釈できないというのは、ただただ自分たちの気持ちを優先させてばかりで、本人の純粋な意志を踏みにじっているだけとしか思えないんです」
そうやって話す光は普段の寡黙な印象とは異なり、滑らかな調子ではっきりと言葉を紡いでいた。
「百歩譲って今生きているのは自分自身が選んだものかもしれませんが、最初に産まれてきたときは絶対に違います。たとえ自分がそれを望んでいなかったとしても、他人の身勝手な判断で無理矢理生きる権利を与えられるんです。なので、せめて死ぬときくらいは自分の意志で決めても良いじゃないかと思うんです。だからこそ、私は殺人を肯定することができません。だって本来人が持っている選択の自由を、なんの承諾もなく消し去る行為ほど野蛮で低俗なものはありませんから」
光は不愉快そうでもなく、また楽しげに笑みを見せるわけでもなく、終始無表情のまま俊樹と妙子に向かってこつこつと話を聞かせていた。
その間、光の手元にあったレモンティは一度も手をつけられず、テーブルにきたときには湯気も立っていた琥珀色の液体は既に冷たくなっているようだった。
3
「自分の死ぬ時期を決めることが人間にとって最も大事な権利、か……」
そう呟いたあとで、千寿留は両手で持っていたマグカップを口もとに運んだ。
「やっぱり、ちょと変わってるよね」
「だが間違った考え方だとも言えない」凪森が相槌を打つ俊樹に言う。「彼女の言う通り、人間は自分自身の誕生を選ぶことができない。そして一度生を受けてしまえば、あとは否応無しにじわじわと死へ向かうだけだ。だからこそ死に際だけは自分の好きに決めさせて欲しいという考えは、比較的自然と辿り着くものだと思う。少しでも長く生きていたいという願望は、本来は種の保存のためには必要不可欠だっただけで、それが正しいことだというわけでもない。それにこれだけ人間の数が増えている現代では、そういった本能が薄まるのも当然だろう」
「凪森ならそう言うと思ったよ」
予想を的中させた俊樹は、半ば呆れながら新しい煙草に火をつける友人に声をかける。
今日は千寿留を伴って凪森の自宅を訪れていた。
昨日妙子たちから聞いた話をするためである。
わざわざ出向くほどのこととは思えなかったが、きっと千寿留には話すだろうし、凪森も事件に興味を示していたので教えておくのも悪くはない。それなら二人まとめて話した方が効率が良いだろうと思い、俊樹は仕事帰りに千寿留をここに誘うことにしたのである。
俊樹たち二人は明日も仕事がある。また初めからすぐに帰る気でいたので、今夜はノンアルコールだった。
「下村さんの話はどう思った?」
「栗原は唯一、二つの事件が起きたときに現場の近くにいた人物だ。角南を殺す動機としては少し弱いような気もするが、最初に色濃く残った印象というのは時間の経過とともに単純にかつ極端に強調される傾向があるから、あながちないとも言い切れないだろう」凪森は左右に目を向けて二人を眺めながら言った。
俊樹と千寿留はリビングのソファにいたが、彼だけはキッチンから木製の椅子を持ってきてそれに座っている。
「栗原さんだとしたら、凶器のことはどう説明するの?」そこで千寿留が声を上げる。「あたしのときはまだしも、最初の事件ではしっかり手荷物検査がされていたのよ」
「普段から身に付けているもの、例えば、ベルトとかを使ったってことはないかな?」
「井沢さんの話では、被害者の角南さんの首には丸いロープ状の痕が残っていたということだった。もし凶器がベルトなら首には長方形の痕がつくはずだから、あえて丸いという表現はしないと思うの。それにあたしのときは、少なくともベルトみたいに平らで硬いものじゃなかった」
千寿留は俊樹の意見に異を唱えると、考え込むように顔をしかめる。
「あれはそうね……、触った感じはつるつるしていて、皮とか布みたいな生地とは違っていた。もっと柔らかい素材だったような気がする」
「ビニールとか化学繊維みたいなもの?」
「うーん、どうだろう……。あのときは首から外すのに必死で細かいことを考える余裕なんてなかったから」彼女は悩ましい表情のまま答える。
俊樹と雅史が発見するのが少しでも遅ければ、おそらく彼女はあそこで殺されていたに違いない。それだけ危険な状態だったのだから、断片的な記憶しかなくても仕方ないだろうと俊樹は思う。
「栗原以外の容疑者が村瀬さんを襲ったという可能性はどうだ?」
「そのことなら、井沢さんから少し話を聞いてるよ」
俊樹は凪森に話しはじめる。
事情聴取のために県警へ足を運んだ彼と千寿留は、その席で角南の事件の関係者たちの当日の行動についても説明を受けていた。
下村久雄は前日から仕事の打ち合わせで東京へ出かけており、千寿留が襲われた頃にはこちらに戻っていて帰宅する途中だったらしい。彼は他の者を連れて出張してたのだが、その同行者というのが奥野笑美子であった。一方、蒔田真輔は担当する番組の放送があったのであの日は深夜までラジオ局で働いていた。しかし、犯行があった時間帯は一人で食事に出かけていたと証言しているため、彼が職場に戻るまでの細かい足取りを知る者は誰もいなかった。
「その蒔田っていう人は、一時間くらい帰ってこなかったらしい。しかも車で外に出てたらしいから、犯行をする時間は充分にあっただろうって警察は言ってた」
「あの夜栗原さんから聞いたところだと、下村久雄さんと奥野笑美子さんは愛人みたいな関係らしいわ。だからその二人の発言も信憑性があるとは言えないでしょうね」
「やろうと思えば誰でも犯行は可能だったということだな」
凪森が二人の話をまとめて言う。
「あたしを襲ったのは、やっぱり角南さんの事件のことを調べていたからなのかな?」
「それが妥当だろう。犯人の立場を考えれば、自分にとってリスクになりそうな要素は少しでも摘んでおきたいと思うはずだ」
「二つの事件が同一犯だとしたら、一番怪しいのは俺がトイレから出るときに個室の中にいた奴ってことだな」俊樹が腕を組んで呟く。
「ちなみに、最初の事件が起きたときの彼らの様子はどうだったんだ?」
「角南さんが席を立っている間は、全員テーブルから離れずに食事をしていたそうよ」
千寿留はそう答えたかと思うと、急に声のトーンを落として続ける。
「でもそうね……、栗原さんの話が本当なら、角南さんがいなくなって欲しいという点では、みんな意見が一致してたってことよね」
「そうだけど、それがどうかした?」
俊樹は、片手で頬を触れながら首を傾げて呟く彼女の様子が気になっていた。
「もしかしたら、あの人たち全員が犯人だってこともあるんじゃないかと思って」
千寿留は難しい顔をしたままソファに座り直して姿勢を正す。
「宮房君が下村さんから聞いた話も考慮すると、彼らは四人とも動機があるわけだし、同じ場所で働いているのだからお互いにその事情を知ることもできるはずだわ。それであるとき、そのうちの誰かが他のメンバに角南さんを襲う計画を持ちかけたことで今回の事件が起こった。考えられない話ではないでしょ?」
「四人の共謀説か」
「といっても、凶器がどんなもので、どうやって警察の目をすり抜けたのかまではまだ考えれていないから、まだ思い付き程度でしかないけど」千寿留が肩を竦める。
「仮にそうだとしたら、どうしてあんな場所を選んだんだろう? その人たちはみんなラジオ局に関係があるんだから、人目が着く場所ならそっちの方が何かと都合が良いような気がするけれど」
「ラジオ局だと犯行ができる人間は限定されるし、他の職員でもあの人たちと角南さんとの関係を知ってる可能性は充分あるから逆に危険だと思うわ。それに比べたらああいった不特定多数の人が集まる場所の方がまだ目立たないでしょうね」
「そして目撃者の証言に確固とした信憑性がなければ、万が一有力な情報があったとしても、被害者と関係の深い彼らが口裏を合わせておけば多少の不都合は上手く隠し通せるはずだ」
「物的証拠が出てきていない以上、警察も現場にいた人たちの話から推測するしかないものね。やろうと思えば嘘の情報を流して捜査を攪乱させることもできるでしょうし」
「だったらさ、村瀬さんが栗原さんから聞いた話も嘘の可能性もあるってことだよね?」
そのとき俊樹が思いつく。
「栗原さんが共犯関係から離反したとは決まっていなんだから、それこそ村瀬さん経由でデマを流して混乱させようとしているのかもしれないよ」彼は千寿留に言った。
「巧い嘘というのは、部分的に真実を織り交ぜるものだと聞いたことがある。そうすることで真偽の判別は難しくなるらしいからな」
「それも充分考えられるけど、あのときの栗原さんは嘘を言ってない気がした」
「何か根拠があるの?」
「ううん、あくまでも直感よ」千寿留が俊樹に首をふる。「栗原さんと別れたあと、あたしもその話が本当なのかどうか迷ったわ。役者さんなのだから、そういう演技をしていてもおかしくないって。でも彼はあたしたちが警察と知り合いなのを知らない。だから捜査を惑わすために嘘をついていたとも思えなかった。あそこで襲われたのは強いお酒を飲んでいたのと、そのことを考えていて注意力が散漫になっていたせいでもあったわ」
「可能性だけなら、彼は最初から計画に反対だったということもあり得る。でも一番若い彼では他のメンバを制止することができず、それを後悔して村瀬さんに事件の手がかりをほのめかした」
「それだったら、ずばり自分たちが犯人だって言えばいいだけじゃないか?」
「彼らから離反してしまえば自分の身が危ないと考えたんだろうな。そして敢えて村瀬さんを選んだのは、いずれは警察と情報交換をするだろうと見越してのことだったのかもしれない」
「それは考え過ぎだよ。第一さ、それなら村瀬さんを襲ったのは誰になるわけ?」
「もちろん栗原さん以外のメンバの誰かよね。以前から彼が裏切ることを薄々と勘づいていて、ずっと動向を監視していたとか」
「けど、村瀬さんの件からもう一週間以上経ってるんだよ? そういうのって、一度失敗したらそれで諦めるものなのかな? それに、少なくとも裏切った栗原さんは真っ先に報復されそうだと僕は思う」
「なら、宮房君は誰が犯人だと思っているわけ?」
俊樹の否定的な意見のあとで千寿留が質問する。表情からは読み取れないが、その声は若干鋭く感じた。
人のことは言えないが、彼女も少しむきになっている。
「……うん、全然目星がつかないよね」俊樹が正直に答える。
その発言が無責任と思われたのか、そのあとで千寿留が少しむっとした表情になるのを彼は見逃さなかった。
「あぁそういえば昨日ね、僕も村瀬さんが今した質問を梶先生にしてみたんだよ」
「梶先生って、烏城クリニックで宮房君が診てもらっている、その、ちょっと変わった医者様のこと?」
慌てて俊樹が話題を変えると、彼女は真顔に戻って言葉を選びながらその話に食いついてきた。
梶の風貌と言葉遣いとのギャップは話のネタにもってこいだったので、彼のことはすぐに千寿留にも話していた。俊樹はそれから何度も彼と接しているので、既に初対面のときとは違った印象を抱いていたが、彼女はまだ彼と面識がない。
オブラートな表現を使っていたところから想像すると、おそらくイメージだけが先行して、かなり脚色のついた人物像が千寿留の中で形成されているのだろう。
彼はそう思うと少し複雑な心境だった。
しかし彼女の気は逸らせたようなので、ひとまずほっとしていた。
「先生は、他人に頼ることができない性格の持ち主の犯行じゃないかって言ってた。だから僕も犯人は複数じゃなくて、たぶん一人なんだろうなってくらいにしか考えていないよ」
「精神科医はカウンセリングのプロと言っていい。日々患者の心理状態を察しながら診察するのだがら、他人を分析することに関しては長けているだろうな」
「犯人はどこにでもいる普通の人で、えっと、あとなんて言ってたかな……、そうそう、それにバーサーカみたいだって」
「なるほど。面白いたとえだな」
煙草の火を灰皿で揉み消していた凪森が興味深そうに言った。
「ねぇ、バーサーカって何?」
「どこかの神話に出てくるキャラクタだよ。戦いになると気が狂ったように強くなる人」
「ああ、それってベルセルクのこと?」
「そういう呼び方もするね。ゲームの雑魚キャラとかで出てくることが多かったと思う」
「あたし、テレビゲームしないからよく分からないけど、ファンタジィ小説とかにもたまに登場したりするわ」
「宮房には、前にジキルとハイドの話をしただろう?」
「二重人格の話だったよな。俺もそうじゃないかと思ってきいてみたけど、梶先生はやんわり否定したよ」俊樹は凪森に言う。
「人間は言葉で表現できる数よりも多くの感情を持っている。基本的にその感情のほとんどは意識の奥深くに仕舞い込まれているが、何かのはずみでそのうちのどれかが呼び起こされると、それは表面的な部分にも影響を及ぼすようになり、時間の大小はあれ一時的に人格を支配してしまう」凪森が話す。「例えば、いつもは温厚な人物が急に怒って罵倒をあげたりすると、その人を知る者の中には、彼が豹変してしまったと感じて驚いてしまう人もいるだろう。本人からしてみればただ感情を露わにしただけのことでしかないのに、それが普段の姿から著しくギャップがある場合だと、他の人々はその人が別人になったかのように錯覚してしまうときがある。学術的な定義としては違うのだろうが、少なくとも世間一般の認識では、それも多重人格と同じように捉えているケースがあるのではないかと思う」
「本当は一つの人格しかないのに、あまりにもイメージがかけ離れてしまたことをしてしまうことで二重人格だと疑われるってわけね」
千寿留が納得するように頷く。
「ところで、多重人格の症状は多岐に渡るが、人格同士の繋がりという点から考えると大きく分けて二つに分類できるらしい。便宜上、俺はその二つを統合された精神と隔絶された精神と解釈している。前者は、複数存在する人格たちが互いの記憶を共有するというもので、言動を包括させることで人格の違いによって生じる矛盾を解消させようとしている状態。後者は逆に、それぞれの人格以外の記憶などを持たない、もしくはごく一部だけを共有するケースだ。これはお互いの意識を干渉させないことで、他の人格が受けたストレスなどに影響されないというものだ」
「へぇ、それって、なんか論理演算っぽいな」
凪森の説明を聞いていた俊樹が呟く。
「論理学の授業だったかな?」
「講義中にさ、情報系の企業に進みたいなら最悪ここだけは忘れるなって先生が言ってたのをまだ覚えてる。それで授業の終わりの小テストで嫌ってほど丸とか三角とかの記号を書かされ続けてたもんだから、俺たちはおでん職人になるために大学に来たわけじゃないぞってクラスの誰かが愚痴ってたが今でも印象に残ってるな」俊樹は懐かしい記憶を甦らせて思い出し笑いをする。
すると、それを眺めていた千寿留が声をあげる。
「ちょっとぉ、二人だけで盛り上がってないであたしにも分かるように説明してよ」
「そっか、村瀬さんはプログラミングしたことないんだったっけ?」
彼女が無言で首をふる。仲間外れにされていたせいか少し不満そうな表情である。
「論理演算っていうのは、論理式で使われる計算方法のことで、ある命題に対してそれが正しいのか正しくないのを求める方法なんだ。論理式には答えが0と1の二つしかない。だから電流が流れているかどうかを電気信号のオンとオフで表現する電気回路、そしてそれをハードウェアとする情報処理の分野では重要な理論の一つになってるだ。村瀬さんも、会社でアンドとかオアとかって言葉を聞いたことがあるんじゃない?」
「あぁ、それなら、プログラムを書いてる人が独り言でぶつぶつ呟いているのをたまに聞くわ」千寿留が思い出したように返事をする。
「プログラミングだと、if文の条件分岐とかで使うからね。論理式の命題の真偽を判定するには、ある二つの条件の状態とそれらの組み合わせを見ればいい。その組み合わせ方の基本となるのがOR演算子とAND演算子と呼ばれているんだ」
「OR演算子は論理和といい、二つの条件のうち、一つの条件を満たせばもう片方の状態に関係なくその命題は真とみなされる。つまりこの演算子で命題が偽になるのは、二つとも条件が満たされていないときだけだ。そして、もう一つのAND演算子は論理積といい、これは逆に、二つとも条件を満たした場合のみ命題が真になるというものだ」
「論理式で有名なのは、ド・モルガンの法則かな。あれはその二つの他に否定のNOT演算子も使われてるけど」
「ふーん、言っていることは何となく分かったわ。それで、その論理式が今の話とどう繋がるというの?」
二人の説明を受けたあとで千寿留が質問する。
「論理演算は演算子を使った式だけじゃなくて、ベン図っていう図形で表すこともできるんだよ。それはそれぞれの条件を円を使って書くことができて、よくあるのがオリンピックの輪みたいに重なってる二つの円とそれを四角で囲った形だね。そして線で区切られたそれぞれの領域の中で、真になる部分だけに色をつけてゆく。そうすることで、論理演算を視覚的に分かり易く表現できる。例えば、論理和だと二つの円の中の全てに色が塗られていて、論理積の場合は円が重なり合った部分だけに色がついた形になるんだ。それって、凪森の言ってる話と似てるとは思わない?」
「なるほど。全てが繋がっているのが論理和で、共通部分だけしか繋がっていないのは論理積ってことね」彼女は納得したように頷く。
「多重人格の症状は、精神のバランスが不安定になることで起こるものだ。身体の中に複数の人格を抱えた者は、宮房の言うところの和と積を用いることで、自分の外側と内面の均衡を保ちながらどうにかして自我を破たんさせないようにしている」
「でも、そのバランスが少しでも崩れてしまうと取り返しがつかないことになる。だからどちらのパターンにしろ、危ない綱渡りをしていることには変わらないんだろうな」俊樹がそう呟く。
「少し話が脱線してしまったが、さっき話したように、人々はしばしば感情と人格を区別できず、他人が、いやもしかしたら自分自身さえ多重人格なのかどうか簡単に判別できない。ということはつまり、感情と人格の二つは非常に酷似したものであるとも考えられる。せいぜい意識の表面に現われる時間の違いがある程度で、根本的な部分では同じだと言っていいのかもしれない」凪森が言った。
「それじゃあ私たちは、みんな多重人格者ってこと?」
「人間の中にいる人格は必ず一つでなければならないという決まりはない」彼はパッケージから取り出した煙草を手の中で回しながら、批判的な声を出す千寿留に言う。
「それはそうだけど。でも、ねぇ……」
彼女は軽く腕組みをしながら浮かない顔で俊樹を見つめる。
同意を求められているようだったので、彼も難しい顔になって首をふってみせた。
「二人が快く思えないのは、自分は一人でしかないのに、その中に知らない誰かがいるのではないかという不安があるからだと思う。要するに何を以て人間を一人としているのか、その認識の違いだろう」
「何を以て、というと?」
「肉体が一つあればそれで一人なのか、それとも人格が一つある状態が一人なのか。その定義だ」
「さっきのジキル博士とハイド氏の話で言うと、多重人格の彼を一人だと思うのか二人だと考えるのか、つまりその解釈の違いってこと?」
「そういうことだ」
煙草に火をつけたあとで凪森が千寿留にそう答える。
そのとき俊樹は、一服する友人を眺めながら梶が話していたバーサーカについて考える。
あのあとで簡単に調べてみたところ、神話に出てくるバーサーカは、戦いの神から力を授かることで野獣のような別の意識を自分に憑依させて戦ったと言われている。それだけは暗に二重人格の暗喩のようにも受け取れるが、これを凪森の話に当てはめてみると、その意識とは人格などではなく、自分の中に潜んでいた感情の一つではなかったのだろうかと彼には思えてきた。また、バーサーカという単語は荒くれ者や野蛮というニュアンスで使われることがあったらしい。そこから推測しても、やはり人格というよりは感情の昂りに近いものとして昔から認識されていたのだろう。
つまりバーサーカとは、自分を上手く制御できないがためにその感情に振り回された情緒不安定な者のことを指していたのかもしれないと解釈することもできる。
凪森が言っている一人の条件は、あくまでも個々の捉え方なのだからひとまず無視しておくとして、そう考えれば、梶が犯人を敢えて伝説上のキャラクタにたとえたことも俊樹にはなんとなく納得ができた。
「ところで、容疑者はたしかもう一人いたはずだが」
煙草を灰皿に置いたあとで凪森が話を変える。
「下村さんはそんなんじゃない。居酒屋のときは運悪く現場にいたってだけだよ」
「なら今回、彼女にはちゃんとアリバイがあったんだな?」
俊樹がそれに応じると、彼はすぐに切り返してくる。
「いや、まあ、それがな……」
すると、そこで俊樹が歯切れを悪くする。
あの日の妙子は、診察が終わったあとですぐに自宅に帰ったらしい。ただ、千寿留が襲われたときはまだ一緒に暮らしている久雄は戻っておらず、彼女の話を証明できる第三者は誰もいないという状態だった。
「角南が殺されたとき、彼女はどうしていた?」
「……たしかに、俺と入れ違いくらいのタイミングで席を外していたけど」
「ということは、現状の容疑者の中では彼女である可能性が一番高いわけだな」
「ちょっと待てよ。下村さんが犯人だと決めるつけるのはまだ早いだろ」
「別に決めつけてはいない。でも宮房は犯人が単独犯と考えてるんだろう? それに彼女は角南と面識があって、しかもどちらのアリバイもないときている。それだけ条件が揃っているのだから、彼女に目が向くのは当然だろう」
「だけど最初の事件で俺がトイレから戻ってきたとき、下村さんの席にはちゃんと荷物があった。つまり彼女は手ぶらだったわけで、もちろん席に戻ってきたときも凶器どころか手ぶらだったんだぞ」俊樹は凪森に反論する。
余裕のある落ち着いた口調で、しかも再び煙草を吸いながら優雅に話す友人の態度が余計に神経を逆撫でした。
「ちょっと落ち着いてよ。喧嘩したってどうにもならないでしょう?」
それを見兼ねて千寿留が仲裁に入る。
「俺はただ思ったことを言ったまでだ。それに気が立ってるのは宮房の方だけだ」凪森が澄ました顔で言う。
俊樹は下唇を噛んだまま恨めしそうに彼を睨むと、浅く腰掛けていたソファの背に行儀悪くもたれかかったあとで鼻から大きく息を漏らした。
凪森の意見が的を射ているのは俊樹も充分理解していた。
県警に出向いた際に千寿留から妙子にも角南を殺す動機があると聞かされたとき、彼はすぐに妙子が疑われると思った。そして現に警察も同じ考えを示して、見る限りでは彼女に焦点を絞ろうという様子だった。
だが、それでも俊樹は妙子が犯人ではないと考えてる。
雅史たちは、泥酔状態の角南ならば無抵抗で殺害は可能だという見解だったが、仮にそれができたとしたも、毎週妙子と顔を合わせている彼にしてみれば、そんなことが平気でできると人物だは到底思えなかった。
たしかに私情が入っているかもしれない、と彼は少し冷静になってみる。
もし万が一、妙子がバーサーカだったとしたら……
俊樹はそれを思い浮かべると深く溜息をついた。
「ねぇ、例のラジオ局って一般人は自由に入れないのかな?」
そのとき千寿留が俊樹に尋ねる。
「さぁ……、それがどうかしたの?」
「あそこにいる人たちから話をきけば、何か分かるかもしれないと思って」彼女は笑みを漏らす。
「警察も事情聴取はしたって言ってたじゃん」
「でも栗原さんのときは警察とは別の情報を教えてもらえたわ。だから、今回も同じようなことがあるかもしれない」
千寿留は前傾姿勢になると、真剣な顔で俊樹と凪森を交互に見つめて告げる。
「あたし、一度あそこに行ってみたいわ」
その言葉にはただの願望ではなく、決定事項に近いニュアンスが含まれていた。
4
千寿留の宣言のあと、俊樹は彼女の指示ですぐさま妙子と連絡を取ることになった。
彼女の連絡先は教えてもらっていたが、これが初めのコールだったので俊樹は若干の気おくれをしていた。また夜中に突然連絡するのは迷惑になるのではないかと思い、彼はとても不安だった。
しかしその心配も杞憂だったようで、いざ電話が繋がると、妙子は顔を合わせているときと変わらぬ調子で受け答えをしてくれた。この日は夜に仕事がなかったらしく、彼女は今、食事を終えて自室で寛いでいるところだと話した。
そこで俊樹は、妙子に自分たちをエフエムマスカットに連れて行ってもらえないかと打診を試みる。
妙子はラジオ局の職員ではないが、俊樹たちの伝手だけでは彼女と栗原の二人しか連絡できる人物がいなかったので致し方なかった。警察を経由する手も考えたが、それでは警戒されてしまうというのが千寿留の判断だった。
俊樹の頼みを聞いた妙子は、ラジオ局に掛け合ってみると二つ返事で快諾をしてくれた。そしてその翌日には彼女から折り返しがあり、ラジオ局の中に入る許可に加えて事件の関係者たちと面会できる機会も確保できたという連絡があった。ラジオ局側が部外者相手にそこまでしてくれる意図は不明だったが、おそらく先日の事件で直接被害を受けた千寿留の名前を出したのが大きかったのではないだろうか、というのが俊樹たちの推測だった。
そしてその週の土曜日。
俊樹たちは、案内役の妙子との約束でJR岡山駅の東口に集合することになった。
バスターミナルの脇にある広場の中央には、この地域が発祥と言われている有名な昔話の銅像やウニか毬栗を連想させる大きな球形の噴水が設置されており、市民の間では有数の待ち合わせスポットとして知られていた。
一番乗りは俊樹だった。
人を待たせるよりは自分が待った方が良いというポリシィを持つ彼は、待ち合わせをするといつも早めに到着することが多い。
今回もその例に漏れず、約束の時間にはまだ十分近く余裕があった。
彼が円形の噴水の周りにあるオブジェ兼ベンチのような石に座って待っていると、しばらくして千寿留と凪森が順に現れる。二人とも時間内に到着していた。
三人は次に妙子の姿を探しはじめる。
午後に入ったばかりということもあり、広場の周辺には駅を行き交う者や俊樹たちのように待ち合わせをする人々で混雑していた。
「ちょっと遅れてるみたいだね」俊樹が腕時計を見る。
待ち合わせの時間は既に過ぎていた。
「ねぇ、あれじゃない?」
さきほどから辺りを見回していた千寿留が呟く。
俊樹もその方角を向くと、駅の駐車場からこちらに歩いてくる長身の女性が確認できた。
白いブラウスの上に紺色のカーディガンを羽織り、黒のスカートにヒールのある靴を履いた髪の長い女性は間違いなく妙子だった。
「ごめんなさい。ばたばたしてて遅れてしまいました」
三人のところまでやって来た彼女がまずそう言って頭を下げる。
「いえ、これくらい誤差範囲ですよ」
そのとき俊樹は、その言葉を聞いて顔を上げた妙子が声の主を確認して一瞬ぎょっとするのをはっきりと捉えていた。
「あの、こちらの方は……」
「電話したときに話していたもう一人の連れです」彼は苦笑いしながら凪森を紹介する。
「凪森と言います。今回はお招きいただいてどうもありがとうございました」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」妙子はどこか不審そうに会釈を返している。
それもそのはずだ。
俊樹は改めて凪森見ながらそう思う。
デニムのジャケットにダメージジーンズというラフな格好の凪森は、それだけではなんの変哲もない青年に見えるのだろう。しかしその容貌と佇まいは、初対面の人間からすれば怪しいことこの上ない。しかも、今日は珍しくサングラスというオプション付きである。
おそらく最も特徴的な瞳を隠すための彼なりの考慮なのだろうと俊樹には想像できたが、それかがかえって妙子に与える印象を更にマイナスにしているのは明白だった。
「早速で申し訳ないですけど、そろそろ出発しません?」
微妙な雰囲気になりそうなところで千寿留が妙子に話しかける。
「あぁ、そうですね。局のみんなも仕事の合間を縫って皆さんと会うと言っていたので、早めに着いておいた方が話す時間がたくさん取れると思います」
その提案に賛成して妙子が微笑み返した。
俊樹たちは、三人を促しながら来た道を引き返してゆく妙子の後ろをついて行く。
彼女の車は白い軽自動車で、小さな駐車場の隅に前から突っ込む形で停められていた。
「今開けますから」
足早に運転席に向かった彼女は、バッグから鍵を取り出してドアに差し込もうとする。
俊樹はそれを待ちながらバックウィンドウ越しに中をちらりと覗く。
車内には必要な物以外はほとんど置かれておらず、狭いトランクにも荷物はない。外装もちゃんと洗車がされていてるようで、彼女が綺麗に車を扱っているのが分かった。
全員が車に乗り込むと、妙子はバックで何度か切り返したのちになんとか駐車スペースを抜け出すことに成功する。
駅からエフエムマスカットまではさほど遠くない。
せいぜい十分か十五分あれば辿り着ける距離だった。
「それにしてもちょっと意外でした」
車が駅前の大通りの流れに乗ったところで助手席についていた千寿留が呟く。
「何がですか?」
「下村さんは、お父様が社長さんなんですよね? だったら、もっと良い車をお持ちなのではないかなって」
「村瀬さん」
「いいんですよ。他の人にもよく言われますから」
咄嗟に千寿留を咎めた俊樹に妙子が声をかける。
彼女は不快な表情を一切見せず、むしろ小さく微笑んでいた。
「たしかに私は親のコネで今の仕事をはじめましたし、父とは未だに同居していますけど、一応経済的に独立はしてますから、そういうところは親子でもしっかり分けて考えることにしているんです。それに私、少し前までペーパードライバだったので、新車を買ってもすぐに傷つけたりしたら嫌ですから」
「なるほど」
それならば駐車場でのぎこちない運転にも納得がいった。
「だから、今は練習も兼ねていろんな場所に出かけて運転に慣れているところなんです」
「なら、もしかしてこの前会ったときも?」
「そうなんです。一人で運転するのには慣れてきたので、そろそろ他の人を乗せてもいいかなと思って」妙子が前を向いてまま答える。「でも、最近車の調子が良くないみたいなんです。そのせいであの日も行きがけに慌ててしまっていて、二人にはちょっと怖がられてしまいました」彼女は苦笑いを浮かべる。
「バッテリィとかエンジン関係の故障ですか?」
「ボタンを押してもたまに窓が開かないことがあるんです。この車は知り合いの知り合いの方から譲ってもらったものなのでたしかに中古ではあるんですが、まだ買って一年くらいしか経ってないからって話だったんですけど」
「パワーウィンドの部分ですね」
運転席のドアを一瞥する妙子に凪森が口を開く。
「それはもう直されたのですか?」
「自動車屋さんには相談してみたのですが、今のところ走る分には問題ないし、もうすぐ定期点検の時期が来るので、詳しいことはそのときに調べるという話になったんです。車の修理ってちょっとしたことでも結構費用がかかりますから、どうも気軽にお願いができなくて」妙子はバックミラーで凪森を映ながら肩を竦めた。
妙子の運転は、本人が言うほど同乗していて不安になるようなものではなかった。
そう感じるのは、彼女が大きな道ばかりを選んでいるからという理由もあったが、今回の場合はただ単にそれが最短のルートだった。
しばらく大通りを走っていた車は、あるところで交差点を左へ折れる。そしてそのまま減速して左手にある建物の中へと進入した。
「わぁ、立派なところですね」
ドアの外に聳えるビルを見上げながら千寿留が声を上げる。
そのベージュの建物は、周辺のビルの中では最も大きい。外壁に並んでいる窓ガラスから推測して、おそらく十階建て程度の高さはあるだろうと思われた。
「このビル全部がラジオ局ではないんですよ。エフエムマスカットはここのフロアを幾つか借りてるだけで、それ以外は普通の企業が入っているそうです」
柵に囲まれた敷地内に入ると、近くに立っていた二人の警備員がこちらに反応して近づいてくる。しかし妙子が軽く手を挙げると、無表情だった彼らは途端に顔を緩めながら頭を下げた。
「前まではそうでもなかったのですが、一、二か月前から悪戯が連続したのせいで、警備の方たちも神経質になっているんです」
「動物の死体が投げ込まれたっていうあれですね?」俊樹がきく。
「はい。日頃から出入りが多い人はそこまで言われることはありませんけど、部外者の方に対しては特にチェックが厳しいみたいです」
車は建物の隅にある地下へと伸びる下り坂へと進む。
その先にあった地下駐車場には、全体の三割ほどのスペースが埋まっていた。
「休みのわりには車が多い」
「他の会社はお休みなので、ここにあるのはみんなラジオ局関係の人のだと思います」
慎重な運転で空いた場所に車を停めた妙子が凪森に話す。
「ビルの裏にも駐車場はあるんですが、例の件があってから地下に停める車が増えた感じがします」
エンジンを止めると、妙子はシートベルトを外してドアを開ける。
俊樹たちも車から出た。
「あれで上に行きましょう」
妙子は、三人に話しながら向かって左手の壁際にあるエレベータへと歩きはじめた。
「下村さん! 車の鍵がまだですよ」
すると、そこで千寿留が呼び止める。
「あっ、そうだった!」
その声で妙子が慌てて後ろを振り返る。
「すみません。ついうっかり忘れてました。ありがとうございます」
彼女は恥ずかしそうに千寿留に頭を下げると、バッグに仕舞っていた車のキィを取り出す。そして、そこについているキィホルダのようなものを車に向けた。
「リモコンですか?」
「普段は滅多に使わないんですけど、こういうときには便利ですよね」
俊樹は、彼女がそう答えたあとで車の方から鈍い音がするのを聞いた。
妙子はそれをバッグに入れてから再びエレベータへ足を向ける。
エフエムマスカットは、この建物の九階と十階のフロアを使っているらしい。
俊樹たちは、エレベータを出た正面にある受付で入局の手続きをする。そこにも警備員が一人仁王立ちしていた。
ボートに挟まれた用紙に氏名や連絡先などを記入し終えると、受付嬢から緑のリボンを渡される。局内にいるときはそれを付けるのが決まりらしい。
胸の辺りにそのリボンを付けた三人は、リボンの代わり首からネームプレートを提げた妙子に案内されて奥へ伸びる通路を進みはじめた。
5
通されたのは応接室のような場所だった。
「お茶を用意してくるので、ここで少し待っていてください。コーヒーでいいですよね?」
妙子は荷物を置くと三人に確認してからすぐに部屋を出ていった。
残された俊樹たちは、ひとまずソファで待つことにする。
三人掛けのソファがテーブルを挟んで二組あるだけの簡素な部屋だった。周りはアイボリーの壁に覆われていて、唯一出入口の対面にある窓から外の様子を見ることができる。他にはほとんど何もないと言ってよかった。
「あれ、下村さんじゃない?」
部屋を観察していた俊樹は、隣に座っていた千寿留に腕を掴まれてそちらに目を向ける。
「ほら、そこよ」彼女が正面を指さす。
今は誰もいない向かいのソファの後方には、イベントの宣伝用と思われるポスターが五枚ほど壁に掲示されていた。そしてそのうちの一枚には、見たことある女性が載っていた。
「あ、本当だね」俊樹は少し遅れて返事をする。
ポスターの中で笑顔を見せている妙子は今とは髪型が違っていたので、一瞬それが誰なのか気づかなかった。
「あたしくらいの長さかしら。ショートカットも似合ってるわ」千寿留が呟いた。
顔写真の下には大きなフォントで日付けが書かれており、それによると、ポスターは去年の初め頃のものらしい。
そうしているうちに妙子が部屋に戻ってくる。
彼女が持っているトレイの上には、コーヒーカップが六つあった。
「すぐに蒔田さんと栗原君が来ます。奥野さんにも声をかけようとしたのですが、まだ午前中の打ち合わせが続いているみたいなので、三人一緒にというのは難しいと思います」
テーブルの上にカップを置きながら妙子が俊樹たちに伝える。
「先にお二人から話をきくことにしよう。その間にもう一人の方が来てもらえるかもしれない」
凪森の意見に俊樹と千寿留も賛成する。
「ところで、あのポスターに載っているのって下村さんですよね?」
「ええ、以前ラジオの公開イベントがあったときに作ったものなんですよ」
千寿留の質問に、空いている方のソファに座っていた妙子が答える。
「そういえば、このところ写真なんて全然撮ってないわ」彼女は後ろに飾られている自分の顔を見てぽつりと呟いた。
「最初にお会いしたときから思っていたんですけど、下村さんの髪って凄く綺麗ですよね」
千寿留が続けて言う。
彼女の視線は、三つ編みで一つにまとめられている妙子の黒髪に注目していた。
「そんなことないですよ。村瀬さんだって、つやつやして羨ましいわ」妙子が振り返る。
「私は短いからまだ楽ですけど、下村さんは長くて大変だと思うのにこまめに手入れをされているのがよく分かるので、実は初めてお会いしたときから凄いなって感心してたんです」千寿留が言う。「もしよかったら、あとで通われてる美容院とかいろいろ教えてもらっていいですか?」彼女は身を乗り出してきいた。
「ええ、それは構いませんけど」
その勢いに押されながら妙子が答える。
口では謙遜していたが、彼女からは機嫌良さそうな笑みがこぼれていた。
それから間もなくして部屋がノックされると、ドアを開けて二人の男性が現れる。
最初に入っていたのは顎鬚を蓄えた小太りの男で、ソファにいる俊樹たちを観察するようにして近づいてくる。そして、その後ろには硬い表情をした栗原洋介の姿があった。
それを確認して、俊樹たちは一度腰を上げて彼らを迎える。
「どうもどうも。私、この局でディレクタをしている蒔田と申します」
シャツにジーンズというラフな格好をした蒔田真輔は、妙子の隣までやって来ると愛想の良い調子で三人に挨拶する。
「ええっと、そちらが村瀬さんでしたね?」
「はいそうです。初めまして」名指しされて千寿留が丁寧に頭を下げる。
「いやぁ、話には伺っていましたけど、本当に美人さんだなぁ」蒔田は笑顔を浮かべながら千寿留をまじまじと見つめて言った。「さあ、どうぞお掛けになってください」
彼は俊樹たちを促したあとで自分も席に落ち着く。栗原も蒔田の隣に腰を下ろした。
それに合わせて俊樹たちも再び腰掛ける。
俊樹の正面が妙子、真ん中に千寿留と蒔田、そしてドアに一番近い席に凪森と栗原という配置である。
蒔田と栗原も妙子と同じ身分証明書を身につけていた。
「先日のことは彼女の方から聞いています。その、随分と危ない目に遭われたそうですね」
蒔田が真面目な顔で話す。
「お怪我の方は大丈夫ですか?」
「おかげさまでもう平気です」千寿留が答える。
「村瀬さん、今回は本当に申し訳ありませんでした。元はといえば、僕が貴女を呼び出したりしなければあんなことが起こりはしなかったんです。頭を下げて済むような軽い問題ではないのは分かっていますが、どうか謝らせてください。本当にすみませんでした」
続けて栗原が上半身を地面と平行にするほど深く曲げて謝罪する。
「私が襲われたのは、別に栗原さんのせいではありません。それにもし栗原さんとお話をする機会がなければ、そのときはきっと他のどなたかと会おうとしていたので、結果的にはどうあれ犯人の標的になっていたと思います。なので、お願いですからそういうのは止めてください」彼女は栗原に優しく微笑みかける。
「ということは、やはりあの犯人は栗原さんではないと?」
「もちろんですよ! 僕がそんなことをするわけないじゃないですか!」
凪森に問いかけられると、栗原が即座に否定する。
「村瀬さんが襲われた直前会っていたという理由だけで警察は僕を犯人だと思ってるみたいですけど、それは完全な言いがかりです。僕は村瀬さんが店を出ていったあとで一杯だけ酒を飲んでからすぐに自宅へ戻りました。もちろん帰り道で誰かに会ったわけではないのでアリバイはないかもしれませんが、僕じゃないってことは神に誓って断言できます。第一もし僕が犯人なら、真っ先に自分が疑われるような真似は絶対にしませんよ」彼は荒げた声を落ち着かせながら話した。
「意外とそれが狙いなんじゃないの?」
と、そこで蒔田がぽつりと言う。
「……何が言いたいんですか?」
「いやね、逆に裏をかいて一番最初に疑われるようにしたのかもなって思っただけだよ」
蒔田は薄らと笑ってそう言ったが、栗原の様子を窺うと慌てて続ける。
「いやいや、本気で言ってるんじゃないよ。小説とかならありそうな展開を話しただけで、ちょっとした冗談だって」
「本人の前でそういう冗談が言える神経に僕は感服しますよ」
栗原は嫌悪感を露わにした顔でそれを皮肉る。
「栗原君! それに蒔田さんも、お客さんの前なんですよ」妙子が二人に向かって言う。
しかし栗原はそれに構うこともなく蒔田をじっと睨み続けていた。
「あの……、たしか蒔田さんも、あの夜は出かけられてましたよね?」
不穏な空気を感じた俊樹が蒔田に話を振る。
「あれはもう本当に不運としか言いようがありませんでした」蒔田が苦笑する。「毎週火曜日は深夜番組をやっているので、いつもその前に腹ごしらえをしているんです。ただあの日は片付けないといけない雑用がたくさんあったので、ひと段落ついた頃には六階のフードフロアが閉まっちゃってましてね。それで仕方なく外食に出ることにしたんです」
「ちなみに、そのときはどちらまで行かれていたのですか?」
「車を使って市役所の方まで出ていました。駅に続く大通りをほんの少し行ったところにある古いラーメン屋が昔から好きでして、よく食べに行っているんです」
「ボーリング場がある通りのところですね。僕も昼になるとあの辺にはよく出かけています」俊樹が頷く。
蒔田が言っているのは、俊樹たちの会社に近い飲食店が立ち並ぶ通りのことだった。
千寿留が襲われた現場からは比較的近い場所である。
「まさか、そんなことが起きてるなんて思ってもみませんでした。他の局の奴らはみんな忙しそうだったので出かけたのは私一人でしたし、レシートなんてもらっていなかったので、警察に証明できるものがなくて本当に参りましたよ。おまけに、今日はいつもなら休みのはずなのに出社しないといけなくなって」蒔田はぶつぶつと愚痴をこぼす。
「お手数をおかけしてすみません」
「あ、いやそういうつもりで言ったわけじゃありませんよ。私としては、貴女みたいな綺麗な方とお会いできただけでもう休日を返上した甲斐がありましたから」
彼は謝る千寿留に向かってかぶりを振ると、そう言ったあとでにっこりと笑った。
そのとき部屋が再びノックされてる。
妙子がそれに応じると、開かれたドアからTシャツにジーンズ姿の青年が顔を出した。首には妙子たちと同様のネームプレートがかけられていたので、彼もラジオ局のスタッフなのだとひと目で分かった。
「失礼します。妹尾さん、今日はどこに車を置かれてますか?」
スタッフは俊樹たちに一礼したあとで妙子に話しかける。
「地下だけど、それがどうかしたの?」
「やっぱりそうですか。今受付に連絡があって、どうも妹尾さんの車のライトが点いてるみたいだって警備さんが言ってるらしくて」
「えっ? 私の?」
「はい。なので早く車を見てきてほしいとのことです」青年が頷く。
「おかしいわね、今日はライトなんて一度も点けてないはずなのに……」彼女は首を傾げて言う。
「とにかく、確認をお願いします」
それだけ言い残すと、そのスタッフはすぐにいなくなった。
「絵梨果ちゃんって、この前もルームランプがつけっ放しだったことがあったよね? そそっかしいなぁ」蒔田はスティックの砂糖をカップに入れながら笑う。
「いえ、あれはたまたま忘れてただけだったんですけど」
眉に皺を寄せたまま答えると、妙子がゆっくりと立ちあがる。
「私、ちょっと下の様子を見てきます」
「警備員さんの見間違えじゃないですか? 僕らが乗せてもらっているときも、ライトはついてませんでしたから」俊樹は彼女に言う。
横を見ると、千寿留と凪森もそれに頷いていた。
「たぶんそうだと思いますけど、他の人の車だったらどちらにしろこのまま放っておくのもいけないので、私ちょっと行ってきます」
妙子は五人にそう告げると、足早に部屋を出ていってしまった。
どうやら彼女は、ラジオ局では芸名の妹尾絵梨果として周りから呼ばれているらしい。梶や光は本名でしか呼ばないので、俊樹には今の妙子たちのやりとりが新鮮に思えた。
「車の調子が悪いって言っていたから、やっぱりどこかの故障かもしれないわね」
閉められたドアを見ながら千寿留が呟いた。
「彼女が帰ってくるまで待つのも手持無沙汰ですし、このまま続けさせてもらっていいでしょうか?」
そこで凪森が中断していた話を再開させる。
「栗原さんにお尋ねしたいのですが、村瀬さんと会うことが決まったあとで、そのことを誰かに話しませんでしたか?」
「そりゃあ女性と飲みに行くくらいのことは話しましたけど、それが村瀬さんだとは言っていないはずです」
「どこで会うのかということも?」
「もちろん。ただある程度付き合いのある人なら、みんなあの店だろうと想像するのは難しくないと思います。僕があそこの常連なのはよく言ってますから」栗原が答える。
「蒔田さんはご存知でしたか?」
「栗原君とはこの頃あまり顔を合わす機会がないですから、僕が事件のことを知ったのは翌日に出勤したあとです。でももしその話を聞いていたら、彼が言った通りどこの店なのかはすぐに見当がついたと思います」蒔田が話す。
「けどさ、仮に二人が会っていた場所が分かった人がいるとしても、時間帯まで特定するのは難しいんじゃないかな?」
「あの日は、ここの仕事が終わったあとで店に向かいましたから、僕が帰るところを見かけたり番組のスタッフに聞けば誰でも分かったと思います」
「局にいなかった人間でなくとも、知っていた人はいるでしょうね。下村社長はどうか分かりませんが、例えば奥野さんなら当日の栗原君のスケジュールは把握していたかもしれません。今、彼が出ている番組を仕切っているのは彼女ですから」
栗原と蒔田が俊樹の疑問に対して順に答える。
「ちなみに、角南さんの件で、みなさんが集まって食事をするという話は予め決まっていたことなのでしょうか?」
「下村社長が局に顔を出すかどうかは直前まで分からなかったので、細かいことは社長がいらっしゃったあとで私が手配しました。ただ、接待というほどではないのですが、社長が来たときに飲み会を開くのはほぼ恒例の行事になっていたので、ご本人も他のみんなも予想はできていたと思います。店の方は、下村社長の希望を聞いてあそこを押さえました」蒔田が凪森に言った。
すると、今度はノックもなしにドアが勢いよく開いた。
一同はびっくりしてそちらに振り向くと、そこには俊樹の知らない女性が立っていた。
おかっぱの黒髪に白いスカートのスーツという格好をした中年女性で、かなり濃い化粧との相乗効果もあって人工的な赤黒い唇が異様なコントラストを放っている。
その女性は、半分以上開けたドアノブを手に持った状態で、何かを見定めるように室内の俊樹たちに視線を送っていた。
「ようやく会議が終ったんですか?」
そこで蒔田が女性に声をかける。
ということは、彼女が角南の後任のプロデューサで、さらに下村久雄の交際相手でもある奥野笑美子なのだろう。
「絵梨果ちゃんはどこ?」
奥野は蒔田の質問を無視してハスキィな声を出す。
「ここにいるんじゃなかったの?」
「妙子さんなら、ちょっと席を外してますよ。すぐに戻ってくると思いますけど」
それに栗原が応じる。
俊樹は、彼女の高圧的な態度に少し緊張していた。
プロデューサという立場なのだから、自分よりも下の人間にはそういう話し方になってしまうのかもしないが、彼にはそれがただの高飛車な物言いにしか聞こえなかった。
笑美子は俊樹たちに背を向けると、通路の方を見て首を左右にふっている。
他にも誰かいるらしい。
「絵梨果ちゃんがどうかしたんですか?」
「ええ、あの子に用があるっていうお客さんが来てるのよ」
笑美子は蒔田にそう言うと、廊下に待機していた者たちを部屋に招き入れる。
「宗像さん!」
俊樹たちの前にスーツ姿の男性が現れると、千寿留が大きな声を出して立ちあがる。
「誰?」
「県警の人よ。この前言ってたあたしの知り合い」彼女は呆然としながら俊樹に言う。
「おや、貴女もいらしていたのですか。どうもお久しぶりです」
千寿留が宗像と呼んだ男は、器用に眉毛を片方だけ上げて彼女に会釈をする。
「あら、お知り合いですか?」
「ええ、そんなところです」彼が笑美子に答える。
宗像刑事は、白髪の混じった短髪が似合う小柄な男性だった。
見た目は五十代そこらで、その引き締まった凛々しい顔立ちから、若い頃は美形で通っていたのだろろうと想像できる。
さらに彼の後ろから井沢と棚部雅史も姿を見せる。二人は俊樹たちを見て少し驚いたようだったが、お互いに顔を合わせただけでそれを口に出すことはなかった。
「警察のみなさんがどうしてここに?」千寿留が落ち着きを取り戻した声で尋ねる。
「角南さんが殺害された事件で、もう一度妹尾絵梨果さんから詳しくお話をききたいと思いまして、一緒にご同行をお願いするために伺ったのです」
「任意同行ってことですか? それじゃあ、まさか……」
宗像の回答を聞いて、栗原が声を漏らす。
「彼女にも角南さんを襲うだけの動機があると言っていたのは、栗原さん、貴方じゃないのですか?」次に井沢が言う。「それに皆さんが証言した事件発生時の状況から考えても、彼女だけが席を離れて事件現場に行っていたと聞いています。さらに村瀬さんが襲われた件でもアリバイもありません」彼は話の途中で千寿留に顔を向けながらその場にいる全員に説明した。
「では、下村さんの犯行だと断定できる証拠が見つかったのですか?」
「それは現在も捜索を続けているところですが、総合的に判断して改めて事件について話をきく必要性は充分にあると考えます」井沢が千寿留に言う。
「これまでは決定的な証拠がなかったこともあって、我々も慎重にならざるを得ませんでしたが、懸念していた第二の事件が実際に発生したことにより状況は変わりました。また同じような事態が起きてしまわないように、県警としてはこれまでよりもさらに一歩踏み込んだ捜査をする方針に切り替えることにしました。妹尾さんご本人や関係者の方にはお迷惑をかけるかもしれませんが、これがきっかけで事件が解決に向かうのであれば、それも辞さないというのが我々が下した判断なのです」
その宗像の言葉は、県警が容疑者を妙子に絞ったという明白な宣言に等しかった。
俊樹が周りを窺う。ポーカフェイスの凪森を除く他の四人も彼と同じく一様に唖然とした表情を浮かべていた。
「でも、そんなことが妙子さんにできるとは、僕には思えません」
「人は見かけによらないとも言います」
首をふって否定する栗原に向かって井沢が冷徹な言葉を投げかける。
「私たちは何も手荒なことをするつもりはありません。ただ一時的に場所を移して妹尾さんから詳しく事情をきかせて頂こうと思っているだけです。その結果彼女に何も問題がなければ当然すぐにお帰りいただきます」さらに雅史も話した。
「とにかくよ、まずは絵梨果ちゃんが帰ってこないことには何も始まらないわ」
笑美子が話をまとめるように言う。
「それで、彼女は今どちらに行っているのですか?」
「地下の駐車場に下りてますけど」
そこで、宗像に応じていた蒔田がふと何かに気づいたように言う。
「もしかして絵梨果ちゃん、刑事さんが来るのが分かって逃げたんじゃ……」彼は目を大きくして部屋にいる人々を見渡した。
「そんなわけないでしょ!」栗原が即座に否定する。
「そうね。私も会議のあとで警察の方がいらっしゃるって連絡を受けたから、あの子が事前に知ったってことはないと思うわ」笑美子も頷く。
「私たちは建物の裏に車を停めて、出迎えに来ていただいた奥野さんと一緒に一階からここまで上がってきましたが、その間で彼女とは会いませんでした」宗像が話す。「どうして彼女は駐車場に?」
「車のライトが点いていたらしくてそれを確認しに……」
事情を説明していた千寿留がその途中で言葉を止める。
「あれ? ちょっと待って」
彼女は眉をひそめると、唐突に部屋のある一点をじっと見つめはじめた。
「村瀬さん?」
その様子を不思議に思って俊樹が声をかける。
「鍵」
「え?」
「彼女、鍵を持っていっていないわ」
千寿留の視線はさきほどまで妙子が座っていたソファに向けられており、その地面には妙子が持ち歩いていた茶色のバッグがあった。
「下村さん、車から出たあとであの中に鍵を入れていたわ」
「そういえばそうだ」
彼女にそう言われてから俊樹が頷く。
彼は、リモコンを使って車をロックした妙子がそのあとで鍵をバッグに仕舞ったのを思い出した。
千寿留はテーブルを回り込むと、バッグのファスナを開いて中を確認する。
「やっぱり」
彼女は独り言を呟くと、中腰の姿勢のままで全員に見せるように右手を高く上げる。
その手の中には車の鍵とリモコンキィ、そして二つをまとめている可愛らしい熊のキィホルダがあった。
「じゃあ、絵梨果ちゃんは鍵を忘れたまま下に行ったってことですか?」
「そういうことになりますね」千寿留が蒔田に答えると続けて言う。「私、下村さんが車を停めた場所が分かるので、これを渡すついでに彼女を呼んできます」
「お前たちも一緒に様子を見て来い。何かあればすぐに俺に連絡しろ」
宗像の指示に井沢と棚部が頷く。
「なら行きましょう」千寿留は刑事たちに声をかけたあと俊樹を見つめる。
一緒に来いということだろう。
そこで俊樹は凪森と目配せをすると、既に出口へ向かっている彼女の背中を追うことにした。
6
俊樹たち三人と県警の二人は、エレベータまで続く廊下を足早に進む。
「本当に下村さんが犯人だと思ってるのか?」
千寿留たちに追いついた俊樹は、雅史の隣に並んできく。
「宗像さんが話した通りだ。肝心の凶器はまだ出てきていないけど、あれだけの状況証拠があるんだ。あとは本人が口を割るのを待てばどうにかなる」
「持久戦に持ち込めばこちらのものですから」井沢が付け加える。「それにしても、逃げたと言われたときは正直ひやりとしましたよ」彼は余裕のある笑みを浮かべていた。
エレベータの前まで来ると井沢がボタンを押す。
二機あるエレベータのうちの一つは、俊樹たちのいる階を通過して最上階へと上がっていき、それと入れ違う形で下に降りてきたもう片方の扉が開く。
「彼女はどれくらい前にあの部屋を出たのですか?」
五人が乗り込んだあとに井沢がボタンを操作しながら尋ねる。
「皆さんが来るちょっと前ですから、だいたい十分か十五分くらいだと思います。様子を見に行くだけならこんなに時間はかからないと思うのですけど」
「階段を使ったってことはないよね?」
「九階から地下まで降りるのよ。普通に考えたらあり得ないわ」千寿留が断言する。
地下に到着してエレベータの扉が開く。
「こっちです」千寿留は井沢たちを案内しながら先頭を歩いてゆく。
駐車場には俊樹たち五人の他には誰の姿も見当たらない。薄暗くて広い地下のスペースは、今までいた応接室とは対照的だった。
「あそこ、何か光ってない?」
千寿留の隣にいた俊樹は、妙子の車に向かう途中で異変を察知して声を出す。
進行方向の左側、間隔を空けて停められている車の奥から、オレンジ色の微かな光が周期的に点滅しているように見えた。
「下村さんの車がある辺りだわ」千寿留が言う。
手前にあるワゴン車がブラインドになっていて正確な位置は分からないが、妙子の車もその付近に置かれているはずだった。
「皆さんは、ここで待っていてください」
二人の会話を聞いていた井沢がそう言うと、三人を制してから雅史を伴って先を進む。そして明かりの前まで辿り着くと、彼らは足を止めてその方向を見つめる。
すると次の瞬間、井沢と雅史が駆け足で光源に近づいていった。
「どうしたんですか?」
二人の様子の変化を見て、千寿留が声を上げてそちらに向かう。
俊樹と凪森もそれに続いて刑事たちのもとへ急いだ。
あの先に何を見つけたのだろか、と俊樹は思う。
嫌な胸騒ぎがした。
ワゴン車に隠れていたのは、見覚えのある白い軽自動車だった。
車のフロントライトは今、両方のウィンカーが点滅している。
俊樹はそれを確認しながらひと足先に到着していた千寿留の傍に並ぶ。
しかし彼女はこちらには向かず、不安そうな顔で正面にあるその車を捉え続けていた。
「村瀬さん?」
声をかけてから俊樹もそちらに視線を移すと、彼はそこに広がる光景に言葉を失った。
ハザードランプを灯した車の運転席には人がいたが顔までは判別できない。だがそれは周囲の暗さのせいではなく、その誰かがハンドルの横でうつ伏せになっているからであった。
彼は前を見つめながら、千寿留がそっとこちらに触れてくるのを感じた。
「くそっ! 開かない」
助手席側のドアを引く雅史が焦りの色を浮かべて悪態をついている。
一方、既に運転席を開けていた井沢は、車の中にいる人物を外へ引きずり出そうとしていた。
「下村さん……」
その声と共に、俊樹の腕を握る千寿留の力が強まる。
井沢に抱えられたその青白い顔は、決して室内灯がついていない車内のせいだけではないだろう。黒い長髪が地面に着くのも気にかけることなく、さきほどからずっと目を瞑ったままぐったりしているは紛れもなく下村妙子だった。
それを確信しても、身体が硬直して何もできない。
俊樹は口の中に溜まった唾を反射的に飲み込みながら、フロントガラス越しに映る凄惨な光景を凝視するしかなかった。
次話は5/27(火)20:00頃の投稿予定です。