気づかない足音
第五章 気づかない足音
1
「思っていたよりも随分と若いな」
それが、社長室に姿を現わせた彼にかけられた下村久雄の第一声だった。
「お初にお目にかかります。今回はお会いする機会をくださって本当にありがとうございます」
彼はソファに腰掛ける初老の男に深々と礼をする。
「そこに座りなさい」久雄が向かいの席に手を向ける。
それに従ってそちらへ進む。
「私、フリーランスで記事を書いている三崎と申します」
「三崎準さん、ですか」
彼が手渡した名刺に書かれた文字を久雄が読みあげる。
「今日はどうかよろしくお願いいたします」
三崎はもう一度頭を下げるとソファに腰掛ける。
「それで、フリーライタが私に何の用があるというのかね?」
久雄は前置きもなく早速本題を始める。単にせっかちなのか、それとも胡散臭い若造相手に無駄話をする時間が惜しいのか、その本意は読み取れない。
だが少なくともそこに敵意は感じられない、というのが三崎の所感であった。
「大まかな内容は、事前に連絡させていただいたときにお話したのですが」
彼は久雄の許可を取ると、上着から小型のレコーダを取り出してテーブルに置いた。
「雑誌に角南君の事件のことを載せるための取材だというのは聞いている。だが予め言っておくが、それについて私が話せることは何もない」
「ですが、下村社長は事件があったときにあの場所にいらっしゃったのではないですか?」
「私が言いたいのはだ、もしあれを記事にしたいのなら、まずは事実確認を取るべきではないのか、ということなのだよ」久雄が低い声で言う。「こちらが想像するに、おそらく君は事件関係者の話とやらを聴かせてほしいのだろうが、読者が今求めているのはそんなものではなくて、確証のある情報と真相究明のために残っている疑問点の列挙だと個人的には思うがね」
久雄はさきほどから抑揚のない淡々とした話し方をしているが、三崎にすればそれが逆に見えないプレッシャになっていた。
「ご指摘はありがたく承っておきます。ただ、社長は少し勘違いをされています」
だが、彼はそこではっきりと言う。
「どういうことかね?」
「はい。私は現時点における事件の内容だけを記事にするつもりはなく、犯人が捕まって事件に一応の決着がつくまでの過程を様々な視点からドキュメントタッチで書いていこうと考えているのです。ですので本日私がここをお尋ねしたのは、亡くなった角南さんと公私共に親交の深かった下村社長が、この件をどう捉えているのかを聞かせて頂きたかったからです」
彼が説明している間、久雄はその目をじっと見据えたまま聞き入り、話を終えてからも言葉を口にしようとはしなかった。
「社長はこの事件のこと、そして角南さんが殺された事実を、今どのように受け止めていらっしゃいるのですか?」反論がないことを確認してから彼が質問する。
「角南君があんなことになってしまったのは、同じビジネスに関わってきた人間として非常に残念なことだ。また、友人としても悲しい出来事だったとも思っている」久雄はしばらく無言を通したあとで口を開く。「だが本音を言えば、私はあんな事件なんぞに一切興味がないし、犯人に対して特にこれといった恨みがあるわけでもない」
「しかし、角南さんはその犯人に殺されているのですよ」
「ああそうだな。だが、奪われたのは私の命ではない」
三崎の言葉に久雄が即座に言い返してくる。
「角南君はたしかに有能な人間だった。だが十年に一人現れるかどうかの逸材かと言われればそれは違う。つまり、言ってしまえば彼の代わりはいくらでもいるということだ」
そこまで話すと、久雄は軽く息を吐いてわずかに口もとを緩める。
「こんな言い方をする人間を、君は冷たいと思うかね?」
「いえ、そんなことは……」三崎は首を左右にふってみせる。
「企業とは本来、働く人間の能力などに左右されず、従業者がどんな低能であっても利益を生み続けるシステムを作り上げてこそ成り立つものなのだよ。そして企業の下で働く者たちは、利益があるからこそその恩恵を受けて生活を維持することできる。そういったものに属していない君にはあまりピンとこない話かもしれんがね」
「仰ることは理解できます」
「人が他人の生きる権利を奪うことは決して許されるものではない、ということは言われなくても分かっているつもりだ。ただ角南君を殺したのが何者で、その行為にどんな価値を見出そうとしたのかは私の知るところではないし、彼が死んだことで生じた感情的な部分を殺人犯にぶつけたとしても現状は全く変化しない。むしろ、憂さ晴らしをする分だけ時間を無駄遣いするだけのことだろう。いくら地方の零細企業とはいえ、私も一応経営者の端くれなのだから、それくらいの割り切った考え方はできなければ務まらんよ」
「なるほど。ということは、やはり犯人にお心当たりはないのですね?」
「そんなものがあったらさっさと警察へ連絡しているよ」久雄が鼻を鳴らす。
その答えに相槌を打つと、三崎は冷静な声で話しはじめる。
「実はある筋から聞いた話なのですが、角南さんと社長の間には金銭的なトラブルがあったそうですね。どうやら角南さんは、貴方にかなりの額の借金をしていたとか」
「もしかして君は、私が保険金目当てで角南君を殺したとでも言いたいのかね? だとしたら私もお粗末なことをしたものだな。もう既に君に知られてしまったぞ」そこで久雄が可笑しそうに笑った。「彼とは長い付き合いだから、揉めごとの一つや二つくらいはあってもおかしくないだろう? その話は事実だが、少し多めの香典だと思って納得させるしかない」
話を聞いても、久雄は全く動じた様子を見せなかった。
「あと、エフエムマスカットの奥野笑美子さんとは、その……、いわゆる内縁に近い関係だという話もお聞きました。また今回彼女が角南さんのポストを務めることになったのも、貴方がラジオ局に圧力をかけたという噂も一部では流れているようです」
「それは全くのデマだな」久雄が失笑する。「もちろん笑美子が後任になったことで、私も角南君の頃よりやりやすくなる部分は少なからず出てくるだろうとは思う。しかしそれで一番得をしたのは地位を獲得した笑美子であって、決して私個人の利益にはならない。高々そんなもののために、友人を殺してしまうようなちっぽけな損得勘定は生憎持ち合わせてはいない」
そう話すと、彼は恰幅の良い身体を座席からゆっくりと立ち上がる。
「さてもう時間だ。これから外出しなければならない用があるので、今日のところはこれくらいでお開きにしてもらおうか」久雄は余裕の表情を浮かべながら言った。
左手を確認する。
久雄の言う通り、たしかに腕時計は約束の制限時間ジャストを指していた。
2
下村久雄との面談を終え、三崎準は事務所のビルを出る。
既に午後を回り一日で最も暑い時間帯に差しかかろうとしていたが、外は数週間前に比べると随分過ごしやすい。ようやく夏から秋へ季節が移ろうとしているのだろう。
今回の仕事は、急に舞い込んできたものだった。
依頼主は凪森健という昔の知人、というか恩人に近い人物である。
詳しいことは教えられていないが、どうやら先日市内で起った居酒屋殺人事件の調査を独自で進めているらしい。
「そういえば、知り合いが現場にいたとか言ってたな」
そんなことを口に出してみる。
かといって、普通それだけのことで安くはない金を払ってまで事件を調べようとは思わない。
ただ凪森であれば話は別だ、と三崎は考える。
おそらく理由は特にないのだろう。強いて表現するなら、時間を持て余している状態からの一時的な脱却、要するに暇潰しとか道楽の類だと予想できる。
似たような理由で仕事を受けた実績が少し前にもあった。
今、彼はのんびりと休暇をしているそうだが、ある程度メリハリをつけておかないとその醍醐味の多くは失われてしまうという方針なのかもしれない。
もちろんそれはこちらの勝手な想像である。
とにかく、凪森から情報収集の依頼があり、こちらはそれを受けた。その事実だけは揺るぎないものである。
事件を調査するにあたって、三崎はまず手始めに事件発生時に現場にいた関係者たちと接触することにした。もちろんそんなことが容易く成功するとは彼も思っておらず、あわよくば誰か一人でも引っかかれば万々歳という程度の軽い気持ちでの行動だった。
しかし、蓋を開けてみれば一番難しいと思われた下村久雄とのアポイントメントがいとも簡単に取れてしまったのである。それがあまりにもスムーズだったため、もしかしたら何かあるのではないかと疑念を持ちつつ久雄が経営するタレント事務所を訪れたのだが、今のところ誰かに尾行されている気配はない。面会の中でも適当に話を合わせておいたので、とりあえずは怪しまれはしないだろう。
いや、そもそもお互いに警戒していたからこそ何もなかったのかもしれない。
彼はそう思い直す。
下村久雄は、月並みな表現をすればとても変わった人物だった。
この地域の放送業界関係者の中ではかなり知名度がある人間だということは知識として頭に入れていたが、実際に会ってみると本人から出てくる雰囲気が一般人とは明らかに違った。
話し方はどこか偉ぶっていて、態度も堂々としているのだがなぜか横柄とは思えない。
いわゆるカリスマ性というものだろうか、と解釈してみる。
できることなら事件についての情報を聞き出すつもりでいたが、久雄はまさに動かざること山の如しという言葉がふさわしいほどにびくともしなかった。やはり小手先の揺さぶり程度では無理ということか。
「ま、今回のところは直接本人に会えただけでも良しとするか」
また独り言を呟きながら、彼は仕事の成果に一応の満足感を得ていた。
3
それとほぼ同時刻。
宮房俊樹は、会社のデスクで軽快にキィボードを打ち込んでいた。
今、彼の周囲にはほとんどが誰もいない。
チームメンバの多くは朝から会議に出払っており、午後に入ったというのに一向に戻ってくる気配がなかった。
本当なら俊樹も主要メンバとして参加していたはずのプロジェクトなのだが、今回は予備要員扱いとなっていて資料の中にも形式上名前が載っている程度だった。
おそらく会議が完全に終了するには夜中までかかるだろう。
彼はディスプレィから目を離して空席のデスクを眺めると、会議室の様子を想像して同僚たちに同情してみる。
ただ以前より作業量が削られているとはいえ、彼にもさほど余裕があるわけではない。だから周りが静かだと集中できて仕事が捗るという良い面もあったりする。
今姿を確認できるチームの人間は、俊樹を含めても数えるほどしかいなかった。
すると、そのうちの一人である村瀬千寿留が椅子から立ちあがると、後ろを振り返って彼のもとへやってくる。
簡単なことであれば、わざわざ歩いてこなくてもデスクに座って連絡を取る手段はある。
何の用だろうか、と彼は思った。
「どうしたの?」
傍に来た千寿留が椅子の隣にしゃがみ込んだところで俊樹がきく。
「今日も定時上がりだよね?」
「まだ残業していいって言われてないからね」
「今日はあたしも定時に帰るつもりなの。だから、そのあとで一緒に飲みに行こ」千寿留が俊樹を見上げながら言った。
その思いがけない誘いに彼は一瞬言葉を詰まらせる。そして徐々に表情を弛緩させながら彼女に告げる。
「村瀬さん、今日ってまだ月曜なんだよ」彼は呆れた顔で言った。
「週の始めから飲み会したらいけないなんて誰が決めたの?」千寿留が澄まし顔でそれに対抗する。「それに別にたくさん飲もうって言ってるんじゃないわ。明日も仕事だから、夕食のついでにちょっと口にするくらいよ。だから、ね?」
わざとらしく猫なで声を出した彼女は、首を斜めに傾けてこちらに上目遣いをしてくる。
「うん。それなら別に構わないけど」
「本当? やったぁ」
返答を確認した千寿留が音量を押さえて喜ぶ。
「なら、定時なったら一階に集合ね」
「それで他の面子は? もうどこに行くか決めてたりしてるの?」
「場所は駅前の大通りを少し中に入ったところ。例の事件があったお店よ」
「えっ?」
それを聞いた途端、俊樹は眉間に皺を寄せる。
「やっぱり一度は現場を見ておく必要があると思って。それに調べるなら早い方がいいでしょう?」千寿留がにっこりと笑う。「というわけだから、悪いんだけどできれば凪森君も誘っておいてね。じゃあ、そういうことでよろしく」
千寿留は一方的に話し終えると腰上げてさっさと離れてゆく。
テンポが遅れてしまったあとで俊樹が声をかけようとした頃には、彼女は居室の出口に向かって歩いていた。
千寿留が本当に事件について調べる気があるのは、先日妙子たちと偶然会ったときの様子から薄々気づいていた。そして、おそらく自分がそれに付き合わされるのだろうということも彼の中では想定済みであった。
できれば面倒そうなことには首を突っ込みたくない。それならはっきりと断ればいいだけだということは彼も理解している。しかし、いざ千寿留を前にするとそれを口に出すことがなかなかできなかった。
俊樹は居室から外へ出てゆく彼女を眺めながら、押しに弱い自分の性格を呪った。
4
終業時間のチャイムが鳴ると、俊樹はデスクを片付けて退社した。
結局、会議に参加していたメンバたちが居室に帰ってくることはなかった。
エレベータで一階に降りる。既にロビィでは千寿留が彼の到着を待っていた。
「凪森君はどうだった?」
「大丈夫だって。場所も分かるから現地で会おうってさ」
二人は薄暗くなりつつある外へ出る。目的の場所は徒歩で十五分ほどの距離にあった。
二人がその店が入っているビルに到着すると、その前には凪森が立っていた。
「ごめん、待たせたみたいだな」
「いや、こっちが早く来てただけだ。それに謝られるほど待っていわけでもない」
凪森はあまり社交辞令を遣うようなタイプの人間ではない。なので本当に少し待っていただけなのだろう。
「ところで、現場を調べるって言ってたけど具体的にはどうするつもりなの?」建物に入る前に俊樹は千寿留にきく。「事件があった場所をちらっと見るくらいならできると思うけど、それ以上のことはお店にも他のお客さんにも迷惑がかかるから難しいんじゃない?」
「案外、探偵のふりをすれば大丈夫だったりしてね」
「いや、頼むからこの前の土曜みたいなことは勘弁してよ」
「いいじゃないか。そういうのもなかなか面白そうだ」
不敵な笑みを浮かべて話す千寿留を制止していると、そこに凪森が加わる。無表情の彼からは、それを本気で言っているのかどうかがとても判別しにくかった。
「というのは冗談で、本当はちゃんと手は打ってあるから安心して」
俊樹が困った顔をしていると、それを見ていた千寿留が笑顔で言った。
「なんだ……、だったら変なこと言わないでよ」
それを聞いて彼がほっとして呟く。
「それで、その手っていうのは?」
「えっとね……、あっ、たぶんあの人だわ」
凪森に答えようとした千寿留は、その途中で遠くに何かを見つけて声を上げる。
俊樹がそちらに目をやると、彼らがやって来た道の逆方向からスーツを着た男がこちらに向かってくるのが確認できた。
「貴女が村瀬さんですね?」
男は俊樹たちの前で足を止めてから千寿留に向かって尋ねる。
「はいそうです」
「県警で警部補をしている井沢と申します。今日はよろしくお願いします」
千寿留が返事をすると、男はスポーツ刈りの頭頂部を三人の前に見せるようにして深く礼をした。
井沢警部補は三十代前半くらいで、ラグビー選手のようながっちりした身体つきをしており、その髪型も含めて見るからに肉体派といった佇まいの男性だった。
「今日はわざわざありがとうございます。お忙しいところなのに、呼び出したりしてすみません」
「いえいえ。もうこれも仕事ですのでお気遣いなく」井沢は愛想良い調子で千寿留に言う。
「あの、よく状況が飲み込めないんだけど」
俊樹は、二人のやり取りにひと段落が着いたところを見計らってそう言う。
「警察に知り合いがいるって言ってたでしょ? だから事前に連絡して、どなたかをここに同行してもらうようにお願いしていたの。そうしたら、こちらの井沢さんが来てくださることになったの」
「村瀬さんは、うちの課の主任のご親戚の方だと聞いております」
「正確にはちょっと違いますけど」
千寿留は補足する井沢に注文をつけるが、それに構う様子もなく彼が続ける。
「ここだけの話、我々も例の事件には手こずっていまして……。そうしましたら主任の方から、村瀬さんの意見を伺ってはどうかという話があったのです。本来なら、捜査自体に一般の方からの協力をいただくのはちょっとアレなんですが、実際問題はそうも言っていられない状況でもあるので、何か事件解決の手がかりが見つかればと思いまして来させていただきました」彼は三人に説明する。
その話しぶりから俊樹は、どうやら井沢自身もあまり乗り気ではなさそうだと察することができた。当然と言えば当然のことだろう。
「ところで、宮房さんはどちらの方になりますか?」
「はぁ、僕ですけど」俊樹が答える。
「棚部から話は聞いています。彼とはよく一緒に仕事をさせてもらっているんですよ」
井沢はそう言うと、俊樹に向かってにやりと笑った。
「これで全員揃ったことですし、早速お店の方に入りましょう」
「その前に一つお願いしたいことがあります」
千寿留が提案したあとで井沢が三人に言った。
「今日、私はあなた方に事件の情報をお話ししても良いという許可をもらっていますが、その内容は絶対に他言無用でお願いします」
彼からは笑みが消え、今は真剣で凄みのある顔をしていた。
「ええ。必ず守りますので安心してください」
千寿留がそれに即答すると、次に俊樹と凪森に目を向ける。
それに促される形で二人が首を縦にふって応えた。
井沢はそれを確認してから一つ頷くと、ビルの中へと向かって歩きはじめる。
俊樹たちも千寿留を先頭にしてそのあとに続いた。
四人はひとまず一般客として店に入る。
店内には、まだまばらにしか客はいなかった。
座席に案内されたところで、井沢が店員に事情を説明して責任者を呼んでもらうように頼む。そのアルバイトの青年はあまり話を呑み込めていないようだったが、言われるままに引き返してゆくと、しばらくして店長らしき男性を連れて戻ってきた。
事件現場を確認したいという井沢の急な申し出に店長は難しい顔をしたが、最終的には他の客の迷惑にならなければという条件で許可を出してくれた。
「あとでちゃんと食事もしますから」
渋々といった様子の店長に千寿留が言った。
彼らがいなくなると、四人はすぐに現場へ向かう。
「ここだよ」
先頭を歩いていた俊樹は、後ろに声をかけて足を止める。
「ふーん」T字路の手前に掛けられた暖簾を眺めながら千寿留が呟いた。
「宮房さんは、お連れの方の悲鳴を聞いてここにやって来たのでしたね?」
「そうです。僕たちが来たときには、もう他のお客さんとか店員さんが何人かいて人だかりができてました。それでちょうどあのあたりに男の人が尻餅をついてて、その後ろ、ここからだと向かって左側に武井さんが立っていました」
俊樹は暖簾の先あるT字路の突き当りを指して答えた。
千寿留が暖簾を通って奥に進む。
「こういうお店にしては広いわ」
T字路の左から彼女の声だけが聞こえる。おそらくトイレのことを言っているのだろう。
「この店の売りの一つだそうです」井沢が言う。
「中は綺麗だし、席を外してちょっと寛ぐ場所にはいいかもしれませんね」
千寿留が暖簾から顔を出す。
そして、次にもう片方の通路の先に視線を移す。
「こっちもお願いできる?」
「え?」
「だって、私が入ったらいろいろとまずいでしょ?」
首を傾げる俊樹に、彼女は恥ずかしそうにして言った。
「ああ、そうですね。了解しました」
いち早くそれを察した井沢が男子トイレに向かう。
俊樹もT字路の中に入ってゆく。
「とりあえず今は誰も入ってはいないみたいです」
中の様子を確かめた井沢は、ドアを半開きにしたまま後ろに控える千寿留に告げる。
「居酒屋ってだいたい男女兼用で個室が一つあるだけってところが多いから、たしかにここは大きいよね」俊樹が言う。
「被害者の人が倒れていたのはどのあたりだったんだ?」
「すぐそこだよ。ドアの正面にある洗面台の前の床で仰向けになってたんだ」彼が凪森に話す。「顔はこちらを向いていたし、ドアは 完全に開きっ放しだったから、あれを見たときは本当にビックリしたし怖かったよ」彼はあのときのことを思い出して表情を曇らせる。
四人が中に入る。
男子トイレは洗面所の脇で剥きだしになっているスペースの他に個室が三つあり、その隣には清掃道具をしまう狭いスペースも備え付けられていた。全体的に清潔に保たれており、これといっておかしな点を見つけることはできなかった。
「宮房が被害者とすれ違ったとき、他には誰もいなかったのか?」
「そういえば、俺がここに入ってから出るまで、真ん中の個室だけはずっと鍵が閉まったままだった」
「宮房君が出ていったあと、ここにいたのは被害者と個室にいた人だけだった。じゃあ、つまり犯人は……」
「おそらくそうでしょう」井沢が千寿留に賛成する。「角南の死亡推定時刻と当日聞き取った証言から総合して、犯人は宮房さんがいなくなった直後、角南と二人きりになったところで犯行に及んだと思われます。なので、その個室にいた人物が犯人なのではないかと我々は考えています」
「第一発見者は、男の人でしたよね?」
「ええ、でも彼は犯人ではありませんでした」井沢が言う。「宮房さんが角南を見た時間を覚えていらっしゃったので、事件が発覚したのはそれから十五分か二十分程度経ったあとだと推測できました。そして第一発見者の彼がトイレに来たのはその直前なので、角南を襲う余裕はないでしょうし、角南がそれまでずっと現場にいたと考えるのは難しいと思います」
「なら、ドアを開けっ放しになっていたというのはその発見者の人が?」
「いいえ。彼の話だと、このドアは最初から開いていたらしいのです」
「ということは、それは犯人がやった可能性が高いわね」
千寿留は、腕を組みながら考え込むように眉をひそめて言った。
殺人現場をひと通り観察すると、彼らは自分たちの席へと戻る。
「その角南さんという方は、首を絞められて殺されていたのですよね?」
注文をしたあとで千寿留が井沢に質問する。
「そうです。彼の首に付いていた凶器だと思われる丸いロープ状の痕は、吊り上げられるように若干上向きになっていたという結果が出ています」
「ってことは、犯人は被害者よりも背が高かったってことですか?」
「身体を屈めて被害者の背後に潜り込んだ可能性も有り得る」凪森が俊樹に言う。「お互いに背中合わせになった体勢の方が比較的力をかけ易い。そしてその場合だと、身長差に関係なく今話があったような痕がつくこともあるだろう」
「なるほど。犯人はしゃがみ込んで背後忍び寄ると角南の首にロープをかけた。そうすると犯人は、自分が身体を反る分だけ角南自身の体重も利用して一気に締め上げることができた、というわけですね」井沢が感心して頷く。
「もしくは先に気絶させておいたのかもしれません。そうじゃないと抵抗される恐れがありますから」
「それならどうやって気絶させたのかしらね? もしかしてコブラクラッチだったりして」
「コブラ……、何それ?」
俊樹が真面目な顔できき返すと、それを見て千寿留が大きく吹き出す。
「もう、ただの冗談だってば」彼女は可笑しそうに一人で笑った。
注文していた物たちがやって来たので会話はそこで一度中断する。
そして全員で乾杯をしたあとで凪森がすぐに話を再開する。
「宮房が見かけたとき、被害者はどれくらい酔っぱらっていたんだ?」
「え? あぁ……、あれはもう完全にできあがってたよ」俊樹はビールジョッキを手にしたまま答える。
「なら角南さんは、たぶん周りのことがよく分かっていなかったのね。洗面台には大きな鏡があったのだから、普通なら入口が開けばすぐに気づくはずだし、危険を察知するのも難しくないはずよ。でもそれができなかったってことは、それだけ泥酔していたって証拠よ」千寿留は梅酒の入ったグラスに口をつける。
「遺体の状況から、角南はほとんど抵抗できないまま殺されたと推測できます。ですので、私もそれが一番妥当ではないかと考えています」井沢が賛成する。
「警察は、これが計画的な犯行だとお考えですか?」
「犯人が凶器を持ち込んでいたのならその可能性は高いでしょうね。日頃からロープを持ち歩いている人間なんてそうはいません」
「それなら、どうしてこんなところで事件を起こしたんでしょうか? 犯人すれば、もっと人が少ない場所で襲った方が絶対に安全なのに」
「逆に人が多いからこそ狙ったのかもしれない。こんな大衆がいる場所でまさか殺人が起きるとは誰も考えていないだろうし、客は酔っ払いばかりだから犯行のときさえ目を盗むことができれば、たとえその前後に目撃されたとしても警察はその証言の信憑性を疑うだろうからな」
俊樹の疑問に凪森が答えた。
「宮房君は衝動的な犯行だったと思っているの?」
「トイレのドアは開いたままだったって聞いてそう思った。たぶん犯人は、その場の勢いで殺してしまったんだ。そして我に返ったあとで怖くなって逃げ出した。ドアが開きっ放しになっていたのは、閉める余裕もないくらい急いでその場を離れたからだと思うよ。それに、あれが発見されてからすぐに店の出入りは禁止されたし、帰るときにはみんな警察の手荷物検査を受けていたのに肝心の凶器は見つからなかった。そこから考えても、犯人は店が封鎖される前に逃げたことになるんじゃないかな? もしこれが事前に決められた犯行であれば、逃げるときに顔を見られてしまう危険がある。僕が犯人だったら、そんなリスクの高い計画は絶対に立てないね。そう考えると、犯人はついかっとなって殺してしまったんだろうって結論に行き着ついたんだ」
彼はそこまで話すと井沢に目を向ける。
「井沢さん、犯行があった時刻から店が人の出入りができなくなった間に、この店を出た人がどれだけいたのかを調べたりしましたか?」
「当日のレジの記録との照らし合わせをして、その時間内には二組の客が外に出ているたのですが、捜査の結果、彼らが犯人ではないことが判明しました。一組は領収証を切っていた会社員たちと、もう一組はそのとき会計をしていたアルバイトの子と同じ大学に通っていた学生でしたが、どちらも角南とは全く接点がありません」井沢が話した。
「うーん、じゃあ今回は運よく店員に目撃されなかったのかもしれませんね」
「行き当たりばったりな推理ねぇ」
「いや、意外とそういうもんだって」俊樹は呆れた顔をする千寿留に向かって言う。
「ちなみに、出入口以外で外に出られるような場所はあるのですか?」
「ビルの非常階段に通じる扉が一つあります。ですが事件のとき、その非常口の前は荷物で塞がれていて通れない状態になっていました。完全に消防法に引っかかってますね」
凪森の質問に井沢が答えた。
「ということは、すぐに逃げたりしないで他の人たちに紛れていたのかも。その方が案外安全だったのかもしれないわ」千寿留がポテトサラダに手を伸ばしながらそう言う。
「けど、犯人は凶器を持ってたんだよ? もしそうだとしたら、どうやって手荷物検査を誤魔化すことができたのさ」
「それはまぁ、何かトリックがあるんだと思うわ。今ふと思いついただけでだから、深く考えてたわけじゃないの」
「……行き当たりばったり」
軽い調子で言う彼女に、俊樹は小さくぼやいた。
「仮に凶器を常備していたのであれば、犯人は前々から彼を殺す機会を窺っていたと考えられる。だとすれば、今回の事件が計画的か否かは別にして、少なくとも被害者にかなりの恨みがあった人物だと推測できる」
「その場合だと、犯人は角南さんと付き合いがあったということになるわね」
凪森の意見に納得するように頷いてから千寿留がサラダを口に中に入れる。
「やっぱり犯人は男なんですかね?」
「今のところ性別が特定できるような証拠は出ていません。ですが、もしあれが女性の犯行であるならかなり大胆な行動だったのではないかと個人的には思います」
焼き鳥を食べながら井沢が俊樹に答える。
続いて千寿留が質問する。
「あの日、角南さんと一緒に来ていた人たちのことは何か分かりましたか?」
「もちろん調査済みです。角南はあの日、他に四人と来店していました。そのうちの二人が彼の勤めるラジオ局と付き合いのあるタレント事務所の人間で、社長の下村久雄と所属タレントの栗原洋介。あとは彼の同僚の奥野笑美子と蒔田真輔という人々です。あと、彼ら同席はしていませんでしたが、下村の事務所にいる妹尾絵梨果というディスクジョッキーも居合わせていました。それは宮房さんの方がよく知っていると思います」
「はい。下村さんは僕たちと一緒に居ました」
俊樹はそこでふと首を傾げる。
「あれ? 今、事務所の社長の名前も下村って言いませんでしたか?」
「ひょっとしてご存じありませんでしたか? 下村久雄と妹尾絵梨果はれっきとした血の繋がった親子なんですよ」
「えっ、そうなんですか?」彼が驚く。
「ええ。ですので我々は、下村の娘も含めた五人についても調べを進めているんですよ」
「容疑者というわけですね」千寿留が頷く。「それで何か分かりましたか?」
「そちらはまだなんとも。ただ生前の角南はラジオ局の内部でも肩書きの以上の発言力があり、自分の仕切る番組では独裁的な振る舞いをしていたそうですから、周囲には彼のやり方に不満を持っていた人物も少なからずいたみたいですね」
「その中に犯人がいると?」
「今の時点では断言できませんけどね」井沢が言う。「あと、あのラジオ局は以前から悪質な嫌がらせを受けていますので、今回のことはその延長線上ではないかとも我々は考えています。なのでいわゆる無差別的な犯行ではなく、角南かもしくはエフエムマスカットと何らかの関係のある者が起こした事件ではないかと推測しています」
彼はビールのせいで顔を赤らめていたが、表情は真剣そのものであった。
「そうですか」
千寿留はそこで箸を置くと、三人に顔を向けて話す。
「実は私、明日の夜に栗原さんと二人で会う約束をしているのです」
「栗原って、この前下村さんたちと一緒にいた?」
「昨日連絡があったの。事件のことで少し話をしないかって」彼女が言う。
「だが、それは危険なのでは?」
「そうだよ。もしかしたらあの人が犯人なのかもしれないんだよ」
「私もお二方と同じ意見です。身の安全を考えるなら止めておいた方がいい」
「でも、まだ彼だと決まったわけではないわ。それに、上手くいけば犯人に繋がる手がかりが聞き出せるかもしれないのよ」
俊樹たちの説得に対して千寿留がそう言い返す。
「ではせめて、他に誰かを連れて行ってください。もし良ければ、こちらから人間を用意できるかも検討します」
「それは駄目です。栗原さんは警察ではなく敢えて私に接触してきたのですから、その話というのはあまり公にしたくないことのはずです。だから警察が近くにいるのが分かれば、きっと警戒してしまいます」彼女が強い口調で井沢の申し出を断る。
「でもそれで村瀬さんに何かあったら……」
「大丈夫よ。自分で言うのもなんだけど、これでも運動神経は悪くなの。だから、少しでも危ないと思ったら一目散に逃げてやるんだから」
彼女は心配そうな顔を浮かべる俊樹に向かってそう言うと、片目を瞑ってにっこりと微笑んでみせた。
5
翌日の火曜日。
俊樹は午前中で仕事を切り上げると、昼食のあとで病院へ向かう。
この生活リズムにも随分慣れた。初めの頃は早退することに後ろめたさがあったが、今ではそれが当たり前になっている。会社の人たちもそんな彼を疎ましく思っているような様子も見られないので、決して悪い傾向ではないだろうというのが彼の感想だった。
この日の俊樹は、朝からずっと千寿留のことが気になっていた。
昨夜、彼女は最後まで栗原と会う詳しい時間や場所について俊樹たちに話さなかった。
もちろん彼女は今日も会社に来ていたが、結局その話をする機会は作れなかった。
俊樹は、烏城クリニックの待合室に下村妙子と武井光がいるのを確認してから彼女たちの傍に向かう。
「この間はどうも」彼は二人に挨拶してから妙子の隣に腰を下ろす。
「本当に偶然でしたね」妙子が言う。「向こうから歩いてくる人がなんとなく宮房さんっぽいなとは思っていたんです。でもまさか本人だとは思わなかったので、私、あんな大きな声を出しちゃいました」
「僕の方もびっくりしましたよ」照れ笑いを浮かべる彼女に俊樹が言う。
「こういう言い方は失礼かもしれませんけど、あんな可愛らしいお相手がいたなんて全然思いませんでした。宮房さんって、恋愛とか そういうものにあまり興味なさそうなイメージがあったので」
「村瀬さんとは別にそういう関係じゃないんですけどね」
「あんなに仲良く腕を組んでいたんですから、今更隠しても無駄だと思います」
そのとき、否定する彼に光が言う。
俊樹が咄嗟にそちらを見ると、光はいつもの無表情のままでこちらを見つめていた。
「それにしても、少し変わった人ですよね」
少し微妙な間ができたあとで、妙子が再び話しかけてくる。
「いきなりあんな話をしてしまってすみませんでした」
「いえ、私たちは全然気にしてませんから。ただあのときは、急にあの話題が出てきたので少し面食らっただけです」彼女は前髪を掻き分けながら謝る俊樹に微笑む。「もしかして彼女、私立探偵か何かなのですか?」
「同じ職場の子ですよ。彼女、気になることがあると猪突猛進になる癖があるみたいで、たまああいう風に周りが見えなくなってしまうんです」俊樹が苦笑いをする。
「同僚の方でしたか。うちで言う栗原君みたいなものなんだろうけど、それにしても仲が良さそうに見えました」
「あ、そういえば、栗原さんは今日どうされてますか?」
妙子がまたその話題を口にしたところで、俊樹は意識的に別の質問する。
「どう、というと?」
「今夜どこかに出かける話とかをしていませんでしたか?」
「さぁ……。朝は事務所で見かけましたけど、他の人のスケジュールまでは知りませんから」彼女がきょとんとした顔で言う。「彼がどうかしましたか?」
「村瀬さん、どうやら今夜栗原さんと会うらしいんです。だけどどこで会うかまでは教えてもらえなかったので、もしかしたら下村さんなら知っているんじゃないかなと思って」俊樹が言う。
すると、それを聞いた妙子が目を細めてにやりと笑う。
「なるほどぉ……、たしかに、恋人が他の異性と出かけるとなると気が気じゃないですもんねぇ」
「いや、だからそういう意味じゃなくて……」
「恥ずかしがらなくてもいいじゃないですか。人間、素直が一番ですよ」妙子は必至に弁明しようとする俊樹の言葉を遮って話した。
「妙子さん、もしかしたらあそこじゃないですか?」
そのあとで光が言う。
「あそこって?」
「昔、私たちも連れて行かれたことがある」
「あぁ、あそこね」
「どこのことですか?」
納得したように頷く妙子に俊樹が尋ねる。
「駅前から少し行った場所に、栗原君の行きつけのお店があるんですよ。彼がそこに出かけるときは、だいたい女性と一緒のことが多いって聞いたことがあります」
「要するに、口説くときに使う場所だってことです」続いて光が言う。
「私も何度か誘われましたけど、その噂は以前から知っていたので、どうしても断れないときは光ちゃんについてきてもらったりしてました」
妙子はそう話すと、そのあとで口もとに手を寄せてぼんやりと呟く。
「もしかしたら栗原君、あの人に興味があるのかもしれないわ」
6
約束の場所は小さなバーだった。
雨の降りしきる中、村瀬千寿留はその入口で立ち止まるとまずその全景を見上げる。
日本語で真夜中の恋人という名の店はどこか寂れた感じの外見をしていた。しかしいざ中に入ってみると、意外にも席はそれなりに埋まっておりまずまずの盛況ぶりである。
店内の照明は絞られ、全体的に落ち着いた雰囲気がある。客も一人で飲んでいるか比較的の少数のグループばかりで、いずれも自分たちだけに聞こえる程度の声で静かに酒宴を楽しんでるようだった。
千寿留は、その中からカウンタの隅に一人でいる男を見つけるとそちらへ歩き出す。
「お洒落なお店ですね」
「良いところでしょ? 僕はどちらかというと大勢が周りでがやがや騒いでるのがあまり好きではないので、こういう場所が一番落ち着くんです」
栗原洋介は、手に持っていたグラスを傾けながら応える。
「それで、お話というのはどんなことなのでしょうか?」
「その前に貴女の分を頼むことにしましょう」
隣の席に腰掛けて本題に入ろうとすると、彼がそれを制して言う。
「それとも、アルコールが駄目な方ですか?」
「いいえ」千寿留が首をふる。
「でしたら何か飲んだ方が良いですね。こんなところに来て素面というのは、店に対して失礼にあたります」彼が微笑んでからバーテンダを呼び寄せる。
千寿留は、栗原から事件の情報をできる限り引き出すつもりでこの場に臨んでいた。
だから本当は意識のはっきりした状態でいたかったのだが、出端で栗原の機嫌を損ねてしまうとその後の展開に影響する。
そう考えた彼女は、その薦めに従ってアルコールを頼んだ。
「今日はお仕事の帰りですか?」栗原が尋ねる。
「ええ」
「ちなみに何を?」
「コンピュータシステムの開発に携わった仕事をしています」
「へぇ、ならきっと男性が多い職場だ」
「そうですね。女性は全体の一割くらいだと思います」
「いやぁ、一緒に働いている方が羨ましいなぁ。毎日こんな美人な方を見ることができるのなら、僕も転職してその会社に入りたいくらいだ」
「栗原さん、お世辞でも他の女性にそんなことを言っていると、いつかパートナの方に嫌われますよ」千寿留がオーバなリアクションをする栗原に忠告してみる。
「パートナというと?」
「先日初めてお会いときにいらしたあの髪の長い綺麗な女性です」彼女が言った。
「ああなんだ、妙子さんのことですか」
そこで栗原が小さく笑う。
「あれ? もしかして違うのですか?」
「実は以前から何度もアプローチしているんですけどね。でも彼女、なかなかこっちに振り向いてくれないので、正直困っているところなんです」彼は苦笑いしてそう答えた。
黒髪をオールバックに固めたバーテンダが二人の近くにやって来る。彼は二人の話の邪魔にならないようにそっと千寿留の前にグラスを置くとすぐに離れていった。
「じゃあ、そろそろ本題に移ってもいいでしょうか?」
千寿留はグラスを手元に引き寄せながらきく。
「本当は事件のことなんて何も知らない。僕はただ、貴女と一緒の時間を過ごしたいがために嘘をついた。もしそう言ったら、どうされますか?」
栗原が真面目な顔で言うと、カクテルで喉を潤していた千寿留はグラスから口を離してからゆっくりと彼に向く。
「いやいや、今のは単なる冗談ですよ冗談」
彼女の表情の変化に気づいた栗原はすぐに発言を撤回したかと思うとさらに続ける。
「ただ本音を言えば、半分くらいはそんな気持ちもありましたけれど」
「そんな悪趣味なことをしているから、彼女から相手にされないのでは?」
「怒らせてしまったようで本当にすみませんでした」彼が謝る。「でも、貴女の怖い顔も素敵だ」
栗原は鋭く睨みつける千寿留の視線をしっかりと正面から受け止めてみせると、小さく笑いみながらまたひと言付け加えた。
からかわれている気がして彼女は少し苛ついたが、その美形の微笑みを見ているとしだいにその怒りが薄まっていくのを感じる。
油断してはいけない、と彼女は気を引き締める。
昨夜の話にもあった通り、栗原は角南殺害の容疑者の一人だ。
それだけではない。さらに彼は、名が通っていないとはいえ立派な役者なのである。
もっと冷静にならなければ。
千寿留は相手のペースに呑まれないように自分に言い聞かせる。
「先日、角南さんの件で警察からいろいろと質問を受けたんです。そのときには角南さんに恨みを持った人間に心当たりはないと話したのですが、実際のところはそういうわけでもないということをお話しようと思ったのが今夜貴女を呼んだ理由です」
「というと?」
「あの店にいたメンバには、角南さんを殺すだけの動機があると僕は考えています」栗原が話しはじめる。「角南さんが勤めていた局は、昔からうちの事務所頼みなところがあるので、基本的にあそこの職員はうちの下村社長には頭が上がらないんです。でも、角南さんだけは社長が仕事上の融通を利かせるように要求しても一度も首を振らなかったそうで、そのことで何度も激しい口論をしているのを僕も見たことがあります。そして角南さんの後任になった奥野さんは、数年前から社長と交際をはじめた途端局内の発言力が強くなって、最近では社長の代わりによく角南さんのやることに口出するようになりました。そもそも角南さんと奥野は昔からそりが合っていなかったらしく、二人の仲はさらに悪化していたみたいです」
「つまり、その二人からすれば角南さんは何かと邪魔な存在だったと?」
「はい。社長と奥野さんは、角南さんさえいなければエフエムマスカットの大部分を自分たちの思い通りにできると考えている節があります」
「なるほど。では、他のメンバにも動機があるのですか?」
「蒔田さんと妙子さんは、社長たちみたいに目に見える形でいざこざがあったわけではありません。ですが、角南さんは仕事に厳しい人間だったということもあって、二人とも日頃からかなりきつい扱いを受けていました。それは彼らに限らず他のスタッフに対していもそうだったのですが、あの二人に対しては、どちらかというと社長や奥野さんの件で溜まっていった鬱憤を晴らしていたような印象があります。蒔田さんは直属の部下ですし、妙子さんは社長の娘さんでかつ彼の番組のメンバでしたから、八つ当たりをするには格好の相手でした」
話をしている間、栗原はずっとテーブルの上で手を組んだまま自分のグラスには手をつけなかった。
「それがお話ですか?」
「こんなこと、さすがに本人たちの前では言えませんでしからね。それにあの人たちがいないところで話をしたとしても、いずれは僕から漏れたのだと知られてしまうのがオチです。そしてもしそんなことになったら、僕みたいな小物はこの業界から簡単に消されてしまうでしょう」
「だから警察には言えなかった?」
「そういうことです。僕は、貴女が警察の人間ではないと判断してこの話をしました。ですが、もし仮にこのことを誰かに話すというのであればそれは貴女の自由です。ただし、できることなら僕からの情報だということは伏せておいてほしいですね」彼は真剣な眼差しでそう言う。
「では栗原さんは、彼らの中に犯人がいるとお考えなのですか?」
「どんなトリックを使ったのかはを知りませんけど、単なるゆきずりの犯行だと考えるよりもその方が現実的だと思います」
「たとえ犯人が下村妙子さんだったとしても、ですか?」
「言っておきますけど、僕は彼女に限らず、あの人たちを完全に疑っているわけじゃありませんよ。あくまでも可能性の話をしているだけです」栗原が言った。
これ以上同じことをきいても無駄だと判断すると、千寿留が質問を変える。
「それにしても、どうしてこの話をしようと決めたのですか? 私なんかに話したところで、栗原さんにはなんのメリットもないと思いますけど」
「はっきり言って僕も少々疲れ気味なのです。このことは角南さんが殺されてからずっと考えていたのですが、周りにはなかなかそれを話せる相手がいなくて、日を増すごとにもやもやが溜まるばかりで精神衛生的にも良くない状態が続いていました。僕はそういうのには耐えられない人間なので、一刻も早く誰かに話してすっきりしたかった」
「だから私に?」
「そろそろストレスも限界にきていたので、貴女が現われてくれたのはグッドタイミングでした。名刺を渡されたとき、この話をするにはぴったな人物だと直感しましたよ」
「どういう意味ですか?」
「だって、僕たちは怪しい者同士ですからね」
不思議そうにきく千寿留に、彼が表情を緩めながら答える。
「僕は貴女の素性をほとんど知らないし、そもそも初対面で殺人事件のことを知りたいと言って名刺を渡してくるなんてとっても胡散臭いじゃないですか? そして僕自身も、おそらく今は容疑者の一人として見られているに違いない。ですが、むしろこれだけお互いに懐疑的な間柄だからこそ、こういったきな臭い話も気軽にできるはずだと僕は思ったんです」
「それは、裏を返せば今の話自体も信用できるものではないかもしれないと受け取ることができますが?」千寿留が指摘する。
「僕は正直に話したつもりです。なので、それをどこまで信頼するのかは貴女次第ということになります。でもそうですね……、一番安全な受け取り方としては、貴女は今夜は一人でここに飲みに来ていて、そこでたまたま隣の席にいた見知らぬ男が酔った勢いで喋り出した身の上話を耳にした。それくらいの気持ちでいた方が良いのかもしれません」
栗原はそう言うと、グラスに残ったウィスキィを一気に飲み干した。
千寿留は、そのおちゃらけた彼の態度に少々不愉快になる。
だがそこはなんとか堪えて湧き上がる感情を抑え込むと、そのあとで冷静さを保った声で口を開く。
「ちなみに貴方は、あそこにいたメンバには角南さんを襲う理由があると言っていましたが、それはつまりご自分にも動機あるという意味でよろしいですか?」
「僕にはそんなものありませんよ」
その問いに栗原が即答する。
「それにもしあったとしても、自分が不利になることを言うとお思いですか?」
彼は愉快そうに首を傾けて言うと、バーテンダに新しい酒を用意させた。
7
そのすぐあとに千寿留は一人で店を出た。
おそらく栗原は、まだカウンタに座ったままアルコールを飲んでいるはずだ。
彼はもう少し残るように言ったが、とてもそんな気分にはなれなかった。
夜になってまだ間もない時間帯だったが、外は既に真夜中と変わらなかった。
今の会社で勤めはじめてから、早朝から日没までずっと屋内で仕事をしていた。そのため、季節は移り変わるものであることを時折すっかり忘れてしまうときがある。それくらいならまだましなもので、人工的な明かりの下で窓の外を見る暇もなくディスプレィと睨めっこをしていると、ふとこの世界には朝も夜も存在しないのではないかという錯覚に陥ることも稀にあった。
時間感覚が狂うと身体は変調を起こし、さらに過酷な労働が続くとそのまま神経も蝕まれてゆく。俊樹が病院に通うことになった理由には、おそらく職場の環境もその一因としてあったのかもしれない。
千寿留は駅を目指しながらそう思った。
店は繁華街の外れに位置していた。辺りは駐車場とビルやマンションばかりで、彼女の他には誰もいない。
栗原の話していたことは、どこまで本当なのだろうか?
街灯によって照らされた道路の端を歩きながら千寿留は考える。
角南の関係者たちについて話しているときの彼は嘘をついているようには見えなかったが、そのあとの含みのある話し方が気になっていた。単にそういう素振りを見せていたのか、それとも本当にあの話の全部もしくは一部に偽りがあるのか。
もし栗原が役者でなければきっとここまで悩むこともなかっただろう。
千寿留は彼の真意が分からず、また、そのことを考えれば考えるほど上手く思考が働いていないようにも思い得た。
そういえば、雨上がりだというのに不思議と肌寒さも感じない。むしろ身体は若干汗ばむくらい熱を持っていた。
そのときになって、彼女はようやく自分が予想以上にアルコールの影響を受けていることに気づく。
店で口にしたアルコールは、栗原が注文したカクテル一杯だけである。
あのときは彼の話に集中して気に留めていなかったが、あれは思っていたよりも強い酒だったに違いない。
ぼんやりとした頭で彼女は推測すると、その次に自分の状態をチェックする。
飲んだのは少量だったので意識自体ははっきりしている。顔のあたりが火照っているのが気になったがそれ以外は問題ない。足取りも普段通りだ。
千寿留は異常がないことを確認してほっと息を漏らす。
ところがそのとき。
背後から何かを感じた彼女は、振り返る間もなく突然呼吸ができなくなる。
そのショックで片手に持っていた傘が地面に落ちる音が聞こえたが、それを掴んでいた手はもう片方と同じく、反射的に肘を曲げて自分の顔の方へと動いていた。
首を絞められている。
千寿留はようやくそれを認識する。
その力は斜め後方に向けてかけられているらしく、上半身がしだいに後ろに反りかえる。
バランスを崩してしまいような彼女の身体を支えるように背中に何かが接触する。たぶん何者かの肩口から背中。今自分を襲っている犯人のものだ。
彼女は必死に両手で首にかけられた何かを引き剥がそうとするが、それは既にしっかりと中に食い込んでいて上手く掴むことができない。
身体を左右に揺らして振り解こうとしてもびくともない。
強い圧迫感のせいで、自分が酷く顔を歪めているのが分かる。
いつの間にか涙が滲んでいる。目はもうほとんど開けていられない状態だった。
どれくらい時間が経っただろうか。
その間もできる限りの抵抗をしていたが力が弱まる様子はない。
しだいに何も考えれなくなる。
耳元からは何者かの息遣いだけが聞こえる。
すると、真っ暗だった瞼の裏が白い輝きに覆われはじめる。
少しずつ自分の身体が曖昧なものになり、それとともに苦痛も和らいでゆく。
この感覚はどこかで知っている。
そう。
これは眠るときに訪れる心地良いものと同じだ。
このまま流されていく。
もう抵抗できない。
否。
もう、したくない……。
しかし次の瞬間、不意に覚えた落下感とそのあとで全身を襲った衝撃で千寿留は鈍く意識を取り戻した。
急速に呼吸が回復し、無意識の中で空気を吸い込み過ぎたせいで彼女は大きく咳き込む。
身体の傍に硬いものを感じる。
何かと思ったらそれは地面であった。
そこで彼女は、自分がうつ伏せ気味に倒れていることに気づいた。
「村瀬さん!」
深呼吸をしながらゆっくりと上半身を起こしていると、彼女を呼ぶ声のあとに背中を支える感触が出現する。
「大丈夫?」
涙で曇った視界のせいでよく見えなかったが、彼女は自分の肩を優しく抱きかかえるようにしてこちらの顔を窺っているのが誰なのかはっきりと分かっていた。
「宮房君……」
「そうだよ。無理に喋らなくても良いから」
「うん、ちょっと待って……」千寿留が言う。しかし声が掠れて彼には届かない。
「雅兄、頼んだ!」俊樹が前を向いて叫ぶ。
普段では聞けないような大きな声。
誰に言っているのだろう。
彼女は疑問に思ったが、その前にひとまず呼吸を整えることにする。
首には、圧迫された余韻がまだはっきりとあった。
「どうして、ここに?」
しばらくしたあとで、千寿留は手で涙を軽く拭ってから再び彼を見上げる。
まだ完全ではなかったが、さきほどよりもまともな声が出た。
「やっぱり昨夜の話が気になったから、今日病院で下村さんに会ったときに心当たりを教えてもらったんだよ」俊樹が話す。「けど下村さんも正確な場所はよく覚えてなくて、結構前からこの辺りをうろうろしてたんだ。そうしたら人が揉み合っているのを見つけて、それで急いで来てみたら村瀬さんだった」
「そうだったの」
「どうしよう、救急車、呼んだ方が良いのかな……」
こちらを見下ろして顔をしかめながら彼は不安そうに呟く。
もしかしたら絞められた痕が残っているのかもしれない。
「そこまでしなくても大丈夫。でも、もう少しだけこうしていて」
そう言うと、千寿留は力を抜いて彼の身体に寄りかかった。
「何があったのか覚えてる?」
「駅に向かって歩いていたら、いきなり後ろから首を絞められたの」
耳元で囁く声に彼女が答える。
そこで後ろから二人に近づいてくる誰かの足音が聞こえる。
「棚部さん」
千寿留は、顔だけをそちらに向けてその人物の名を口にする。
「どうだったんだ?」
「すばしっこい奴でな。完全に撒かれた」棚部雅史は固い表情で答える。
「何やってるんだよ。それじゃ、わざわざ張り込んでた意味がないじゃないか」
「井沢さんにはもう連絡してある。だから、今のところは奴が網に引っかかってくれるのを待つしかない」
雅史は突っかかってくる俊樹に対して冷静に話すと、膝をついて千寿留に声をかける。
「気分はどうですか?」
「だいぶ落ち着きました。もう大丈夫です」
「無理はしない方が良いです。救急車も呼んでありますから、今は楽にしていてください」
「井沢さんのご指示で?」
「はい。といっても、こっちは貴女がどこにいるのか把握できてなかったので、おそらくこの辺りじゃないかと山を張っていただけだったんです。でもそうしていたら、こいつとばったり会いましてね」雅史が俊樹を一瞥する。「それで、相手の顔は見られましたか?」
「そんな余裕はありませんでした。少し酔っ払っていたせいで、襲われる直前まで気づきませんでした。ただ力は強かったです。私が抵抗しても全然歯が立ちませんでした」千寿留は悔しそうに首をふる。
「なら犯人は男ってことだな」俊樹が頷く。
「二人は、あたしが襲われているところを見ていたのよね?」
「けど最初に見つけたときは結構距離があったし、さすがに人相までは分からなかったよ」
「それに犯人は屈んでいて、我々に気づくとすぐに逃げてしまいましたから、見た目の体格などもはっきりとは……」
俊樹と雅史が苦々しい顔で言う。
「私、ロープのようなもので首を絞められました」千寿留が雅史に話す。「もしかしたら、角南さんを殺した犯人の仕業かもしれません」
「だとすれば、村瀬さんが事件について調べているのを知っていた可能性がありますね」
「あっ、そういえば栗原さんは今どこにいるんだ?」
そこで俊樹が思い出したように口を開いた。
「この道の角の一つ手前を左に曲がったところに小さなバーがあるの。たぶんそこにいるはずだわ」千寿留は後ろを見て言う。
すると、そのあとで雅史が話す。
「その店なら、村瀬さんを探しているときに確認しています。私も犯人を見失ったあとでもしやと思ってそこに行ったのですが、もう 栗原の姿はありませんでした。店の人間の話では、どうやら貴女が店を出たすぐあとに彼も引き上げたみたいですね」彼は二人にそう説明した。
それから間もなくして、遠くから救急車のサイレン音が聞こえてくる。
「念のため病院で検査を受けてください。立てますか?」
「はい、ありがとうございます」千寿留は雅史に頷いてみせると一人で立ちあがる。
いつの間にか酔いも醒めていた。
「お前は彼女に付き添うんだ」
「言われなくても分かってるよ」俊樹が雅史に言った。
救急車の後部扉が開けられると、俊樹が肩に手を回して寄り添ってくれる。
「あ、しまった!」
車が発進したあとで千寿留は大声を上げる。
「なに? 何か思い出した?」
「ううん、そうじゃないの」彼女は同じ長椅子に座っている俊樹に言う。「道路に傘を落としたままだったの。棚部さん、ちゃんと拾ってくれてるかなぁ」
「傘って……、今はそんなこと気にしてる場合じゃないでしょ」
「でも、だってあれ、お気に入りなんだもの」
拍子抜けて嘆息する俊樹に向かって千寿留が深刻な顔をする。
「これでなくなったりしたら、それこそ一大事だわ」
次話は5/20 20:00頃の投稿予定です。