忘れはしない顔
第四章 忘れはしない顔
1
「それは災難だったねぇ」
俊樹が昨晩の出来事を話すと、斜め前の席にいた柏木が簡潔に感想を述べる。
「いや、それだけで済むような話ではないと思うけどな……」
間延びした声で言う柏木に、俊樹は眠そうな顔で呟く。
昨夜の一件のせいで彼は少し寝不足だった。
ただ、それは就業時間の制限を受けた以降で考えればという意味であって、以前に比べると充分に健康的な睡眠時間を維持している。それでも朝からずっと眠気が離れないのは、身体が徐々に正常な生活リズムに戻ろうとしている証拠なのかもしれない。
会社の同僚たちと昼食を共にしながら、俊樹は回復の兆しを感じていた。
「宮房の言う通りだな」
そこで俊樹の隣でラーメンをすすっていた汐見が口を開く。
「だって人が死んでるんだぜ? ごく真面目に生活してたらまず遭遇しない出来事だ。それに当たるんだから、宮房は凄い奴だよ」彼は周りを気にするように声のトーンを抑えて話した。
「そんな宝くじみたいに言うのもやめてくれよ。こっちは見たくないものを見た挙句に、帰りたくても帰れなかったんだからさ」俊樹が言う。
「でも、そのくらいで済んだけまだマシだったんじゃないか? もしトイレを出るのがもう少しでも遅かったら、被害に遭ってたのはそのおっさんじゃなくてお前だったのかもしれなかったんだからな」
「うん。たしかにそうなんだよな」
汐見にそう指摘されて俊樹は眉をひそめる。
目撃した状況からして、あの男性が自殺をしたとは思えなかった。だとすれば、男性を殺した者が当然いるわけで、その人物は俊樹がトイレから出たあとで犯行に及んだということになる。犯人がどんな目的があって男性を殺したのかが分からないので必ずしも俊樹が襲われるとは限らなかったが、どうあれ非常に危険なタイミングだったことに違いはなかった。
「ねぇ、それってもう二ュースになっていたりするのかしら?」
向かいに座る村瀬千寿留が炒飯を食べていた手を止めてきく。
「今朝のテレビではやってなかったと思うよ。新聞までは見てないけど」
「二人は見たりなかった?」
千寿留に尋ねられると、柏木と汐見は二人とも首を左右にふった。
「そうかぁ……」彼女は残念そうに呟く。
「何か気になることでもあるの?」
「ううん。なんでもないの」
柏木に声をかけられた千寿留は、そこで微笑みながら軽く手を振って答えた。
昼食を終えて店を出る。
柏木と汐見はこれから少し用事があると言ったので、四人は一旦店の前で別れることにした。俊樹と千寿留は、二人がそれぞれ別の方角へ歩いてゆくのを見届ける。
「その従兄の刑事さん、昨日のことで他に何か言ってた?」
会社へ戻る途中で、隣を歩く千寿留が話しかけてくる。
「なんにも」俊樹が答える。「というか、昨夜は家に帰ってこなかったから話をする機会もなかったし、たぶんきいても守秘義務だからって教えてなかっただろうね」
「宮房君は事件がどうなってるのか気にならない?」
「犯人がまだこの辺をうろつき回っていると思うとちょっと気味が悪いけど、そこまで気にはならないかな」彼は興味なさそうに言う。
「うそぉ」すると、その回答に千寿留が目を大きくする。「だって、犯人はわざわざ人目につきやすいお店の中で襲ったのよ? 普通なら、なんでそんな場所で事件を起こさないといけないのかって思うものじゃない?」彼女は頬を膨らませて不満げに俊樹を見つめて声をあげた。
千寿留とはほんの数ヶ月前に知り合ったばかりで、俊樹も彼女のことをまだよく把握していないが、この様子からして、どうやらこの手の事件性の高い事柄には興味があるようだ。
俊樹は、彼女が昼休みの余った時間を利用してよく読書をしている姿を見かけていた。以前そのことが話題になったとき、彼女はミステリィ小説が好きだと話していたので、もしかしたらそれが影響しているのかもしれない。もしくは、俊樹が下村妙子のラジオ番組を聞いているのと同じで、自分には害が及ばない他人の事情を知ることを楽しんでいるということもありえる。
「あたしね、今の話を聞いて事件のことが気になってしょうがないの。だから、従兄さんにどうなったのかきいてもらえないかしら? それで何か分かったことがあれば、あたしに教えてくれると嬉しいな」千寿留が言う。
「うん。なら今度それとなくきいてみるよ。あんまり望みはないと思うけど」
その返答に彼女は満足したように微笑む。
「それにしても、思ってたよりも宮房君が元気そうで良かったわ」彼女が続ける。
「毎日顔を合わせるのに、その言い方だと、なんだか久しぶりに会ったみたいだね」俊樹が苦笑する。
「だって、ここ最近は本当にそんな感じだもの。ちょっと前とは違って、今の宮房君って気づいたときにはもう会社からいなくなってることが多いし、日によっては実際に顔を見かけないときだって多いもの。こんな風にちゃんと話ができる機会もなかったし、あれから調子はどうなのかなって気にしていたのよ」彼女は俊樹を見つめて言い返した。
言われてみれば、たしかに通院を始めてからというもの、俊樹は昼休みを一人で過ごすことが多かった。こうやって同僚たちと食事をするのもよく考えれば久しぶりのことである。ただ、それでもデスクが背中合わせの汐見とは言葉を交わしていたし、柏木のいる総務には仕事上の手続きなどで比較的顔を見せいていた。だがどうしてか同じチームの千寿留とはそういう機会が減っていた気がする。
いやむしろ、同じチームメンバだからこそ異なる仕事を割り振られてしまうので、必然的に接点が少なくなっていたのかもしれない。
「病院には念のため通ってるって話は聞いていたし、またに見かけてもいつもと変わった様子が見当たらないのは分かっていたけど、やっぱり精神的なものって怪我とは違って目には見えないから、本当に大丈夫なのかなってちょっと心配だったの」千寿留が言った。
「正直な話、僕自身もまだ通院しないといけないくらい悪いのかどうか疑わしく思うときもあるからね。けど無理して働いていない分だけ健康的な生活はできていると思う。おかげで、前みたいに仕事の疲れが次の日に溜まる感じもなくなってきるし」
「そっか」それを聞いて千寿留が小さく息を漏らす。「今日は事件の話を聞けてたりして楽しかったけど、それよりも宮房君が元気そうだって分かったことの方が、あたしには一番のニュースだわ」彼女は安堵した顔を見せる。
「そう言ってもらえると僕も嬉しいよ」
こちらに微笑かける千寿留を見た俊樹は、少しはにかみながらそれに応じた。
2
火曜日に起きた騒動には巻き込まれたものの、それが俊樹に直接影響を及ぼすこともなく、彼はすぐに普段の生活に戻っていた。
例の一件にこれといった興味を持っていなかった彼だが、あるときふと千寿留との会話を思い出したので、ちょうど自宅にいた同居人に話をきいてみることにした。
リビングでテレビゲームをしていた雅史は、俊樹が事件について尋ねるとあからさまに嫌そうな顔をしたが、コントローラを持つ手を休めると面倒臭そうに話してくれた。
死亡した男性は市内にあるラジオ局に勤めていた人物だった。男の死因は窒息で、遺体には首を絞められた跡が残っていた。
それにより他殺と断定した警察は、殺人事件として現在捜査を進めているらしい。
雅史は簡潔にそれだけ述べると中断していたゲームを再開する。
休日に仕事の話をさせられたせいか、これ以上無理に追及をすると機嫌を損ねそうな雰囲気があったので、俊樹はひとまずそこで素直に引き下がった。しかし説明する彼の口調から想像して、どうやら捜査は思うように捗っていないように思われた。
(ラジオ局の人間か……)
そういえば、あの夜は妙子の仕事仲間もあの店にいたらしい。
ということは、もしかしたら被害者は彼女の知り合いだったのかもしれない。
俊自室に戻ってぼんやりとパソコンのディスプレィを眺めながら、俊樹はそんなことを考えていた。
そして翌週の通院日。
俊樹が病院にやって来ると、待合室には既に光が来ていた。
薄手のカーディアガンを羽織っている光は、いつものようにソファで静かに読書をしている。
妙子の姿は見当たらない。きっと診察を受けているところなのだろう。
「こんにちは」
俊樹が光に話しかけると次に隣の席に目をやる。
「ここ、いいかな?」
下を向いていた光がその声に反応して俊樹を見上げる。そして小さく頷いてから、またすぐに視線を落とした。
許可を得たあとで俊樹が腰を下ろす。
顔見知りになったのでなんとなく近くに来てしまったが、考えてみればまだ一度もまともな会話をしていないことに今更ながら気づく。
光は、俊樹など眼中にないといった様子で手元の本に意識を集中させていた。
「妙子さん、今日はまだ来てないみたいです」
声をかけるタイミングを失った俊樹が周りをきょろきょろ見渡していると、光が急にぼそりと口を開いた。
「え、そうなの?」
俊樹が隣を向いてきくと、光は本を閉じてからこちらを見る。
「さっき看護婦さんが教えてくれました」光がはっきりとそう答えた。
「どうしたんだろうね? もしかして先週のあれに関係してるのかな?」
「さぁ、理由まではなんとも」光は無表情のまま首を捻った。
「それにしても、この前はびっくりしたね。あんなのに巻き込まれたの、こっちは初めてだったからさ」俊樹が話題を振る。光が会話をしてくれそうだったので内心ほっとしていた。
「普通は誰だってそうだと思いますけど」
「うん、まぁそうだよね……」
無愛想に答えられて俊樹は少し言葉を詰まらせるが、気を取り直して話を続ける。
「もう大丈夫? あのときはかなり参ってたみたいだけど」
「はい。実はあの日、朝からあまり調子が良くなかったんです。けど少しくらいなら大丈夫だろうと思ってついて行ったんですが、やっぱり途中から具合が悪くなって……。それで少しトイレで休んでたら、いきなり悲鳴が聞こえてきたんです。その頃には身体の方も多少は良くなっていたので、外の様子が気になって見に行ったら、ドアの前で男の人が座り込んだまま男子トイレの方を見ていて、何だろうと思って私もそっちの方を見たら、別の男の人が倒れていたんです」光がぽつりぽつりと話す。「あの男の人が死んでいるのは見た瞬間に分かりました。そうしたら急に怖くなって、気づいたときには大声を出していたんです」
「あれは叫ばない方がおかしいよ。女の子だったら尚更だし、僕なんかそれを通り越して声にもならなかったんだから」俊樹が言った。
光は低い声で終始淡々としていた。
まさかこんなに饒舌に喋る子だとは思ってもいなかったので、俊樹は話を聞きながら少し驚いていた。
「あのときはショックのせいでそれどころではなかったんですけど、次の日にニュースを見ていて思い出したことがあるんです」光が続けて言う。「私、殺された男の人と一緒にお仕事をしたことがありました」
「あ、それって下村さんが勤めているラジオ局の?」
「間違いありません。あと、妙子さんは局の方ではなくて、仕事の依頼を受けて番組の司会をされている人なんです。なので、正確には別の会社の人になります」
「タレント事務所みたいなもの?」
「はい」
「へぇ、そういうのって東京にしかないと思ってたけど、こんな地方にもあるんだ」俊樹が呟く。
「亡くなったのは角南さんという方で、私が働いていたときは番組のプロデューサをされていました」光が話す。
「なるほど。じゃあラジオ局は今もごたごたしてるのかもしれないね。たぶん下村さんが来てないのはそのせいなのかもしれない」
「私もそう思います」光が相槌を打った。
それからほどなくして、親子連れらしい二人組が診察室から出くると次に俊樹の名前が呼ばれた。
「あの、もしできるのなら、先に彼女の順番でもいいですか?」そこで俊樹が光に手を向けて言う。「僕はそのあとでも大丈夫なので」
「え、でも……」
「僕よりも早く来ているんだから、武井さんが先に診てもらえばいいよ」俊樹は戸惑う光に言った。
それは、その場の思いつきで口から出た言葉だった。
俊樹はこの診察が終わると、あとは帰宅してからぼんやりと時間を潰すだけの相変わらずのスケジュールだったので、別に光の次になってもなんの不都合もない。だから、わざわざ光がさらに順番を待つことはないのである。
といっても、それで光が得をするのはせいぜい十分か二十分程度のものではあったが、それでも時間に余裕があるのは悪いことではないはずだ、と彼は考えていた。
「ですが、予約の時間は決まっているので、その通り受診していただかないと……」
診察室のドアの前に立つ恰幅の良い看護婦は、困惑した様子で俊樹たちを眺める。
「どちらでもいいわよ」
すると、診察室の奥から声が聞こえてくる。
「他の患者さんもいないことだし、宮房さんがそれで良いって言うのなら、光ちゃんからでも私は構わないわ」梶がこちらに近づくと 二人を見ながら言った。
「だったらお願いします。それとも、元々も順番の方が武井さんの都合に合っているのなら、僕が先に診てもらいますけど」俊樹は光の様子を窺いながら話した。
「……わかりました。ありがとうございます」
少しの沈黙のあと、注目を浴びていた光がそう言う。そしてすぐに座席から立ち上がると、俊樹に頭を下げてから梶のもとへと向かう。その顔には薄らと笑顔が見えた。
俊樹は満足げにそれを見送りながら、光の印象を改める必要があると考えていた。
お世辞にも愛想が良いとは言えない態度や生来の低い声などもあって、彼は光に対して今まで無口で暗いという印象を強く持っていたが、話をしてみると想像していたよりも随分良いように思えた。先日、梶が光のコミュニケ―ション能力について話していたが、俊樹には彼が言っていたように周囲との隔たりができるほど酷くもみえなかった。
おそらく他の人に比べると少しだけ人見知りが強く、また人前に感情を出すのが苦手なだけなのだろう。
それと同じ部類の性格という自覚がある彼は、以前より光に親近感を持つことができた。
しばらくして待ったあとで診察を終えた光が戻ってくると、真っ先に俊樹にお辞儀をした。そして素早く受付で会計を済ませてから 小走りで出口へ行ってしまった。
「順番があとになっちゃって悪かったわね」
診察室の席につくと梶がまずそう言った。
「いえ、僕から言い出したことですから」
「でも、貴方が親切にしてくれたおかげで、今日の光ちゃんはいつもより明るかったわ」
「そうでしたか? 僕にはいつもと変わってないように見えましたけど」
「いいえ、あれは絶対上機嫌だった」梶は自信を持って首を縦にふる。
「武井さん、なんだか急いで病院を出ていったので、やっぱりこれから何か予定があったんでしょうね。機嫌が良かったのは、たぶん 早く帰れたからだと思います」俊樹が納得したように話す。
すると、それを見ていた梶がいきなり可笑しそうに笑った。
「それはちょっと違うわね。あの子、きっと恥ずかしかったのよ」
「は?」
「だって、嬉しいときって、たまにそんな気持ちになったりするもんじゃない?」梶は笑いを抑えて言う。「ホント、不器用な子よねぇ」
「……あの、何を言っているのか、僕にはちょっと」
「要するによ、私の目に狂いがなければ、たぶん貴方、光ちゃんに気に入られたんじゃないかなって。ただそれだけのことよ」
怪訝な顔で首を傾げる俊樹に向かって、梶は実に愉快そうな調子で言った。
3
「すみません。私、こういう者なのですが、奥野笑美子さんはいらっしゃいますか?」
岡山県警の捜査一課に籍を置く棚部雅史巡査部長は、エレベータを出た先にあるカウンタまで行くと警察手帳を取り出す。
「奥野さんとは本日お約束をしていまして、予定よりも少し早く着いてしまったのですが」
雅史が続けてそう言うと、カウンタの中で座っていた女性がはっとした表情に変わった。
「はい、こちらも話は聞いております。すぐ奥野に連絡しますので、少々お待ちいただいてよろしいでしょうか?」
「よろしくお願いします」雅史が頭を下げる。
すると、受付嬢は手元の受話器を取ってボタンを数回プッシュする。
雅史はその場で待ちながら、ふと女性の後ろの壁にある緑色の葡萄を模った大きなロゴマークに目を向ける。
この地域一帯でラジオ配信しているエフエムマスカット。
彼は今、そのラジオ局を訪れていた。
数十秒後に返答をもらった雅史は、営業スマイルで微笑む若い受付嬢に礼を言ってから急いで来た道を引き返す。
若いと言っても、受付にいた女性はせいぜい自分と同じか若干年下くらい。つまり同世代だ。
ここ数年のうちに、それくらいの歳の人間を見たら、自分との年齢差に関係なく即座に若いと思うようになった。少なくとも学生の頃は絶対にそんなことは思わなかったのにこれはどういった心境の変化だろうか、と雅史は考える。
「俺も徐々にオヤジになりつつあるってことなのかなぁ」彼がぼんやりと呟く。
あと数年で三十の大台に乗る。
歳のことなど普段は気にならなかったが、たまにふとそんなことを思う。
はっきり言ってあまり良いものではない。
エレベータホールの隅にある自動販売機まで行くと、雅史は余計なことを考えるのをやめて先輩刑事に声をかける。
「井沢さん、すぐに来るらしいですよ」
「そうか。少しは待たされるもんだと思ったんだがな。一本損した」
コーナに設置されている灰皿の傍に立っていた井沢警部補は、小さく顔をしかめながら口を開く。そのあとでまだ吸いはじめだった煙草を灰皿に捨て、もう片方の手で持っていた鍵の形をしたライタを背広のポケットに仕舞う。
「あちらも僕らが来るのを待ってたんじゃないですかね?」
「だとしたら、警戒されているんだろうな」
井沢は雅史を素通りして受付に進んでゆく。
「何か後ろめたいことでもあるんでしょうか?」
「さあな。これ以上余計な騒ぎになるのが御免なだけか、こういった事情聴取に緊張している可能性もないとはいえん。ただ彼らは被害者側なのだし、この業界の人間が後者ってこともないと思うけどな」井沢は隣に並ぶ雅史に言った。
二人は一週間前に市内の飲食店で起きた殺人事件の捜査をしていた。
殺されたのはこのラジオ局に勤めていた角南倫利という男性で、当日は仕事の関係者たちと共に店を訪れ、そこで何者かに殺害された。
その後の調べによって、角南はロープ状のもので絞殺されたということが判明しているのだが、現場に凶器は残されておらず、また犯人へと繋がる手がかりなども現状ではほとんど発見されてなかった。
雅史と井沢が受付の前で待っていると、奥の通路から彼らの方に向かってやって来る一人の女性の姿があった。
「先日はお世話になりました」その女性は二人の前で足を止める。
「それはこちらの方です。奥野さんたちもお忙しいはずなのに、今日はわざわざありがとうございます」
「お気になさらないでください。警察の方々に協力するのは当然の務めですから」
井沢が頭を下げると、奥野笑美子はにっこりと笑顔を見せた。
彼女は殺された角南の同僚であり、事件が起きたときに彼と同席していた人物の一人でもある。
紫を基調とした服を着ている彼女は、粒の大きな真珠のネックレスとイヤリングを付けているのが目立った。また全体的に化粧が濃く、黒みがかった赤い口紅がなんとも怪しげである。彼女がどういった感覚の持ち主なのかは知らないが、少なくとも一般的には派手だと言わざるを得ない、というのが雅史の感想だった。
笑美子はたしか四十代のはずだ。
しかし目の前にいる女性から与えられる印象の中には、そういった年齢というカテゴリを感じることができなかった。今彼女がしている笑みも、彼には能面にデザインされた表情の一つのようにしか思えない。
「本当ならもっと早い時期から警察にご協力すべきだったのですが、私たちもいろいろと片付けなければならない問題が山積みでしたので、今日まで遅れてしまったことを大変申し訳なく思っています」笑美子が二人を別室に案内している最中にそう話した。
「いろいろというのは、例えば角南さんのご葬儀だとかそういったことですか?」雅史が尋ねてみる。
笑美子のどこか含みのある言い方が気になって反射的に探りを入れようとしたのだが、それにしてもなんとも当たり前すぎる質問なのだと思い彼はすぐに後悔する。
「当然それもありますし、社内の業務に関係することもたくさん。角南を失った影響は既に少なからず出ています。とりあえずは、彼がいなくなった穴をどう埋めればいいのかというのが最優先の課題ですね」笑美子が答える。「私もその関係で、この度彼が担当していた番組を引き継ぐことになりまして、今はそのことで頭が一杯なんです」
二人が案内されたのは、会議室のような場所だった。
部屋の真ん中には四台の机が合わさって大きな長方形テーブルが作られており、その周りを囲うようにして椅子も並べられている。
そして今、そのうちの入口に近い側の長い列は一つの席を除いて全て埋まっていた。
三人が部屋に現われると、椅子に座っていた者たちは一斉に視線をこちらに集中させた。
「警察の方を連れてきました」笑美子は姿勢を正そうとする面々に声をかけてから二人に振り返る。「どうぞあちら側の席へお掛け下さい」
そこで雅史たちは、彼女に勧められて誰もいない列の中央に移動する。。
「今日は貴重なお時間を割いていただいてありがとうございます。県警捜査一課の井沢と宮房と言います」椅子の前に移動したところで井沢が口を開く。「さて、皆さまはご存じだとは思いますが、今回わざわざお集まりいただいたのは、先日お亡くなりになった角南さんの件について少しばかりお話をきかせていただきたいと思ったからです」
「前口上はいらんよ。そういう形式的なことはお互いに時間の無駄だ」
井沢が話している途中で、向かいの列の中央に座っていた白髪混じりの男性が声をあげてそれを遮る。
「我々の中には本来の予定を蹴ってまでここに出ている者もいるのだから、早いところ始めてもらいたい」男は雅史たちを見据えながら言った。
「ええ、たしかに下村さんの仰る通りですね」
井沢が口もとに笑みを作りながら頷いてみせると、次に出口に一番近い席にいる女性に顔を向ける。
「そういえば妹尾さんでしたね。ご用事があったところをわざわざキャンセルしてご出席していただいてありがとうございました」
「いえ、大した用件ではありませんでしたから」
妹尾絵梨果は、少し緊張した様子で井沢を見て話した。
「ご協力感謝いたします。では早速はじめさせていただきましょう」
彼女に一礼すると、井沢は一度その場にいる全員を見渡してから椅子に腰掛けた。
エフエムマスカット側で出席者しているのは全部で五人。
いずれも角南と関わりのあるメンバだった。
「まず繰り返しになるかとは思いますが、先週の火曜日に角南さんがどういった経緯で例の店に行くことになったのかを伺ってもいいでしょうか?」
「名目上は打ち合わせということにしてますが、要するにただの食事会ですよ。あの日は下村社長がこちらにいらっしゃったので、みんなで飲みに行こうという話になったんです」
井沢の質問に答えたのは、一番右端の席に座っていた男性だった。
チェック柄のシャツを着た三十代半ばくらいの小太りの男で、眼鏡をかけた顔には薄らと顎鬚を蓄えている。
「あの店は私が選びました。でもまさか、角南さんがあんなことになるなんて……」男が表情を曇らせて言った。
「あれが起きたのは偶然だったのなのだから、なにも蒔田君が責任を感じることはないだろう。それに、あの店は私がリクエストした場所じゃないか。そういう意味なら、私にも非はある」下村と呼ばれた男は、蒔田を慰めるように言った。
「リクエストというと?」下村の発言に反応して雅史がきく。
「彼らとは以前から食事に出かけていてね。そこで今回は、若者たちが集まる場所に身を置いて気持ちだけでも若くしないなどと私が 我儘を言ったものだから、蒔田君が頑張って探してくれたんだよ」
「あそこは、局の飲み会でよく使っている店なんです。普段は当日に予約しても無理なんですが、先週は珍しく席が空いていたんです」蒔田が言った。
「なるほど。では、偶然行くことになった場所にたまたま娘さんもいらしたということですね?」
「うむ。偶然というのは意外と立て続けに重なるものらしい」
井沢の問いかけに頷いて答えた下村は、そのあとで絵梨果に顔を向ける。
「私は友人たちとあそこに来ていました。皆さんがいるのが分かったのはお店に入った少しあとで、見つけたときは驚きました」続いて絵梨果が話した。
「そのときは、お互いに声をかけたりはしましたか?」
「いいえ。皆さんは気づいてないようでしたし、私もプライベートだったので、わざわざ挨拶をすることもないだろうと思いました」
「僕らが絵梨果さんも一緒の店にいたのを知ったのはあの騒動があったあとですよ。なんというか、本当に奇遇ですよね」
そこで彼女の隣にいた若い男が口を開いた。
「あの日は栗原さんも同席されていたんですよね?」雅史がその男に尋ねる。
「僕は別の番組の打ち合わせでこっちに来ていて、そのときに蒔田さんが誘ってくれたんです」その男は雅史の質問に答える。
「皆さんにおききしますが、事件が起こる前の角南さんの様子はどうでしたか? なにか気になった点などはありませんでしたか?」 井沢が間をおかずにきく。
「あの日の角南さんは、初めから飲むペースが早かったと思います。トイレに行く頃には結構酔っぱらっていたのを覚えています」
「いや、あの人は毎回あんな感じだよ」栗原の言葉に蒔田が口を挟む。「そこまで酒に強いわけじゃないのにいつも飲み過ぎて、店を出る頃には一人で歩けないくらいにまで潰れるんです。その度に私が面倒を見ないといけなくなるので、もう少し自重して欲しいもんだと前々から思っていました。特に最近は忙しくて飲みに出かける暇なんてありませんでしたからね。先週は完全に箍が外れてましたよ、ええ」彼はうんざりとした顔で言った。
「彼はその、どんな風に殺されたのですか?」そこで笑美子が質問する。「首を絞められたらしいというのは聞いているのですが」
「角南さんの首には紐で絞められたような痕がありました。おそらく洗面台に立っているところを後ろから襲われたのでしょう。今の話から考えても当時の角南さんは泥酔しており、おそらく事態を全く理解できないまま亡くなったのだと推測できます」井沢が答える。
「犯人の目星はついていないのですか? 人が大勢がいた場所なんですから、不審な人物を目撃したとか、そんな情報があってもおかしくないと思うのですが」
「それが、角南さんが襲われたと思われる時間帯の証言がどうも曖昧でして、まだ確かなことは何も分かっていないのが現状です」
そう説明すると、テーブルの向かいに座る五人の表情が厳しいものになった。
店員の証言から割り出した犯行推定時刻と、警察に第一報が届いた時刻の間には大きなタイムラグがなかった。また、当時店内には多くの客がおり、店側も通報したあとですぐに誰も外へ出さないような対応をしていたため、警察はすぐに犯人が特定できるのではないかと予想していた。
しかし、居酒屋というロケーションがその希望的観測を見事に打ち砕いた。
犯行があった思われる時間に現場付近の通路や席にいた客は何人もいたが、アルコールを摂取していたせいもあって、その者たちの話す内容は非常にあやふやなものばかりだった。他にもアルバイトの学生たちが近くを通りがかっていたが、忙しい店内を駆け回っていた彼らの中にも正確な記憶を持ち合わせていた者はいなかった。
それゆえに警察は角南と同席していたたちに早急な情報提供を求めていたのだが、ここのラジオ局は何かと理由をつけて今までそれを先延ばししていたのであった。
「角南さんが席を立たれたとき、皆さんは全員その場にいらっしゃいましたか?」
「ええ。あのときは角南さんだけが抜けてましたね」
井沢の質問に蒔田が答える。
「それまでにもちらほら中座してる人はいましたけど、だいたい入れ違いだったはずです。大勢いるならまだしも、あの人数で同時に二人も三人もいなくなったら場が白けますからね。その辺は、なんとなくみんなも気を配っていたと思います」
「でしたら、角南さんが生前何かのトラブルに巻き込まれていたり、もしくは彼に対して悪意を抱いている人物がいたなどの心当たりはありませんか?」
「彼とは長い間一緒に仕事をしてますけど、特に悩んでいたという様子はありませんでしたね」今度は笑美子が言う。「でもどうでしょうか。角南は社内でもやり手のプロデューサでしたから、陰で彼を妬んでいた人間くらいならいるかもしれません。でもそれはただの僻みですから、さすがにそこまですることはない思いますけれど」
「あ、もしかして、玄関に死んだ動物があったのって、今回のことと関係があるんじゃないですか?」
そのとき、栗原が閃いたように口走った。
「我々もその可能性を考えているところです」雅史は彼に頷きながら言った。
エフエムマスカットでは、ここ一ヶ月ほど前から敷地内に動物の変死体が投げ込まれるという事件が何度も起きている。現在ではその頻度も少なくなっていたが、まだ完全に無くなったわけでもない。それが発生して以来、ラジオ局も警備員の数を増やして対応しているという話だが、こちらの犯人もまだ判明できていない。
「警察は、どちらも同じ人間の仕業だと考えているのですか?」絵梨果が眉をひそめる。
「断言はできません。ただ例の悪質な嫌がらせはこのラジオ局に対する何らかの警告だったのかもしれません。そして角南さんはその犠牲になってしまった。そういった可能性も今の時点では否定できないでしょう」
「ちょっ、ちょっと待ってください」そこで蒔田が慌てた声を出す。「だとしたら、万が一嫌がらせをした奴と角南さんを殺した奴が同じで、その目的が角南さん個人じゃなくてうちの局にあったとしたら、まだこれからも何かあるかもしれないってことじゃないですか」
その言葉に一同がびくりと反応する。
「ですから我々も、これ以上皆さんに危険が及ぶ前に犯人を見つけ出したいのです」井沢が真剣な口調で話す。「そのためにはどんな些細なことでもいいので教えて下さい。もし人前で話せないというのなら、個別に連絡をしていただいても結構ですので、どうかよろしくお願いします」彼はそう話したあとで深々と頭を下げた。
自分たちにも角南のようになる恐れがある。
それをはっきりと認識した面々は、驚きのあまり左右に顔を動かして、戦慄した自分の表情をお互いに見せ合っていた。
「落ち着きなさい。刑事さんは、あくまで可能性の話をしているだけなのだから」
多少のざわめきが起きはじめたところで、下村がたしなめるように言った。
五人の中では、彼だけが唯一冷静さを保っていた。
「とにかくだ。どうあれ我々は惜しい人間を失くしてしまったのだ。角南君が優秀な人物だったということは、ここにいる者ならば充分に理解しているはずだろう」
下村は他の四人に鋭い目を向けて言うと、次に正面の雅史たちに続ける。
「今私ができることは、少しでも早く犯人が捕えられることを切に願うだけだ。そのためにならどんな協力も惜しみはしない」
緊迫した雰囲気に包まれていた会議室に、貫録のある彼の重く低い声が響き渡った。
4
それから間もなくして、井沢と雅史はラジオ局をあとにした。
「井沢さんはあの人たちをどう思いましたか?」
県警に戻る車の中で、雅史は助手席に座る井沢に尋ねる。
「どう、というと?」
「今日の感じでは心当たりはなさそうでしたけど、本当にそうなんでしょうか?」彼は運転しながら横目で先輩刑事を見て言った。
彼ら五人については、訪問する前に予め簡単な調査を済ませていた。
奥野笑美子と蒔田真輔は殺された角南の同僚である。奥野は先日まで別の部署だったようだが、蒔田の方は長年彼の直属の部下として働いていた。
そしてあの中央の席で堂々としていたのが下村久雄で、彼はこの地域で活躍する芸能人たちの管理事務所を切り盛りしている人物で、このあたりの業界筋では有名人らしい。エフエムマスカットにも自分のところの人間を多く出演させており、角南とは以前から親交があったという話だった。また、それと同時に彼と笑美子は数年前から交際しており、一緒に暮らしてはいないものの周囲からは事実上の夫婦として認識されてるということだった。
そしてあの席にいた若い男女が妹尾絵梨果と栗原洋平である。
彼らは二人とも下村久雄が擁しているタレントで、特に絵梨果は本名を下村妙子と言い、久雄とは血の繋がった実の親子でもあった。
絵梨果は父が経営する事務所に身を置いてラジオパーソナリティの仕事をしている。彼女の母親は既に他界しており、今は父子二人で暮らしているということだ。
一方の栗原は俳優としての活動を主としており、舞台演劇などと並行してラジオ番組にも出演している今売り出し中の若手なのだという。
「まだ何とも言えないな。下村久雄は協力的なことを言っていたが、自分たちの不利益になるようなことは簡単には話さないだろう」井沢が言った。
「もしかして、あの中の誰かが犯人ということも?」
「そんなことは俺も分からんさ」井沢が鼻で笑う。「だが、幸運にも彼らには今日までたっぷり時間があったんだ。もしそんなことがあったら、その誰かは既にそれなりの対処をしていたと考えた方が良い。少なくとも、ボロを出すのをじっと待っていても無駄だってことだ」
「個人的には、今日の聴取には少し期待してたんですけどね」雅史が嘆息する。
「どちらにしろ、この事件で出てくる証言は全て参考程度に思え。酔っぱらった人間の記憶力なんて、三歩歩いただけで覚えてたことを忘れてちまう鳩みたいなもんだ。俺たちが欲しいのは、そんなものじゃなくて確固たる物証なんだからな」
「ええ。肝に銘じておきます」彼は前を向いたまま井沢に頷いてみせた。
5
同じ週の土曜日、俊樹は朝から外出していた。
最近は休日でも自室の中で過ごすことが多かったので、どこかに出かけるというのは実に久しぶりだった。
以前は少し無理をしてでも外に出て気分転換をしなければならないと考えていたが、そういった思い込みはこの数週間でだいぶ薄れてきている。今日の外出も、自分に強要させている気持ちは微塵も持っていなかった。
「ところで、今更言うのもなんだけどさ……」
そこで俊樹はふと話を切り出す。
「なんで映画を見に行くだけでわざわざ車を使う必要があるの? 映画館なら駅前にもあるし、少し行けば商店街のところにも幾つかあると思うんだけど」
「宮房君知らないの? あっちにはもっと大きな映画館があるのよ」
その疑問に、隣に座る千寿留が答える。
「いや、それは僕でも知ってるけど」
「こっち映画館よりも広くて綺麗だし、それに他のお店だってたくさん入っているんだから、あそこなら一日楽しめるでしょ」千寿留は俊樹を一瞥して話すと、またすぐに前を向いた。
その口調に棘があるのを感じた俊樹は、彼女に何も言葉を返すことができなかった。
俊樹たちは今、数年前に隣の市にできた大型のショッピングモールに向かっているところだった。
この計画を立てたのは千寿留である。それなのに言い出した本人は、車に乗り込むときから俊樹に対してずっと素っ気ない態度を見せていた。
(当然と言えば当然か……)
ぶっきらぼうな表情をする彼女に気づかれないように溜息すると、俊樹はそのあとで進行方向に視線を送る。前方の運転席には、長髪を一つに束ねた凪森の後頭部が見えた。
そもそも最初に千寿留から誘われたとき、彼女は俊樹と二人だけで出かける気だったようだ。しかしその思いに反して、俊樹は彼の友人も一緒に連れて行きたいと話した。それを聞いた途端、千寿留は見るからに顔色を変えたのだが、最終的には不本意といった様子ながらも渋々彼の提案を受け入れてくれていたのである。
千寿留が自分に対して何かしらの好意を持っていることは俊樹も気づいている。
彼女は笑顔の似合う可愛らしい女性である。それは仕事仲間としての贔屓目ではなく、誰が見ても美人だと評価するだろう。もちろん俊樹も千寿留には好意的な印象を持っており、普段からそういった態度をしてくれるのはまんざらでもなかったが、それと同時に大きな戸惑いも抱いていた。
昔から、彼は他人に踏み込まれるとその分だけ気持ちが引いてしまう癖があった。
具体的な例を挙げると、一人でどこかへ出かけたときに偶然友人を見かけたとしても、よほど仲が良くない限り、声をかけるどころか咄嗟に身を隠してしまうような性格なのである。それと同じで、俊樹は知り合ってまだ間もない千寿留の積極性に面食らってしまい、完全に腰が引けている状態だった。
やはり自分は根っからの人見知りなのだ。
彼はこれまでの人生で何度もやってきた評価を下したあとでまた小さく息を吐いた。
そこでふと顔を上げてみると、バックミラー越しにハンドルを握っている凪森と目が合う。その特異な瞳は俊樹を一瞬だけ捉えただけで、後部座席の会話には一切興味がないといったようにすぐに視線を逸らして前を向いた。
凪森は、車に乗ってから終始無言を貫いている。
表情には出ていないが、俊樹によって強引に連れてこられた上、愛車まで駆り出すはめになっている現状に多少なりとも不満はあるに違いない。
無表情で運転の集中している友人の心境を察して、俊樹は申し訳なく思った。
休日のショッピングモールはかなり混み合っていた。
満車寸前の駐車場からスペースを探し出すと、凪森がスムーズに車を停める。
「実は私、ここに来るの初めてなんだ」
建物に向かう途中で千寿留が言った。
「へぇ。この辺りじゃ一番大きな施設だし、いろんなお店も入ってるから女性ならすぐにチェックしてそうだと思ってたんだけど」
「なかなか来るタイミングがなくてね。それに道とか全然知らないから、車で行った挙句迷っちゃうのはやだなぁとか思ったりして」彼女が恥ずかしそうに言う。
「あれ? 村瀬さんってここの人じゃなかったっけ?」
すると、そのとき俊樹が質問する。
「え? そうだけど」千寿留がきょとんとした顔で答える。「もしかして知らなかった?」
「うん。てっきり地元の人間だと思ってた」
「こっちに来たのはわりと最近かな。だから土地勘がなくて困っちゃうのよね」
「そうなんだ。それは初耳だったなぁ」
その返答を聞いて、彼は感嘆を込めてそう呟いた。
施設の中に入った三人は、近くにあったエスカレータで上にあがる。
目的の映画館は、二階フロアの一角にあった。
「村瀬さん、本当にこれが観たいの?」
「だって、これ以外に観るものって他にないでしょ」
不安そうに尋ねる俊樹に対して、千寿留は当然だといった態度で答える。
彼らは、映画館の壁際に飾られている上映作品のポスターを眺めていた。
そして千寿留が今指をさしているのは最近話題になっているヒット作などではなく、見るからに人気が無さそうな雰囲気を醸し出している作品のものだった。
「いやぁでもさ、わざわざここまで来てこれっていうのもどうだろう……。こんなのだったら、どこに行ってもやってるんじゃない?」
「宮房君、それは大きな間違いだわ」
そのとき、渋る俊樹に向かって千寿留が大きく首をふった。
「どこでもやっているのは、むしろヒットしている作品の方よ。逆こういう作品はそもそも上映してる場所が限られてて、しかも短いスパンで終わることが多いの。特にこれは、県内だとここでしかやっていないから、今見逃しちゃうともう観れる機会がないかもしれないのよ」彼女はまくし立てるように話した。
なんとか説得しようとしていた俊樹は、真剣に語る千寿留を見て言葉を詰まらせる。
すると、二人の会話に間ができたところでふと凪森が口を開く。
「B級映画が好きなんだね?」
「うん。みんなに人気があるものよりも、あたしはこっちの方が好きなの」
その質問に、千寿留はにっこりと微笑んで答えた。
結局、俊樹たちは彼女の強い要望でその映画観ることになった。
座り心地の良い座席に腰を下ろた俊樹は、場内が暗くなるとスクリーンに映る光景とは違うことを少し考えていた。
千寿留とは職場の仲間の中でもよく会話をしている方だった。しかし、よく考えてみれば彼女との話はその場その場の世間話ばかりで、お互い身の上話や好みといったプライベートな情報交換はあまりしていないことに気づいた。
俊樹の個人的な印象では、千寿留には正統派というイメージを持っていたので、実はマイナ志向であるという彼女の告白はかなり意外であった。
人は見かけによらないというのはこういうことなのだろうか、と彼は思った。
三人が観た映画は、ある事件に巻き込まれた名高い盗賊がそこに秘められた謎を解決してゆくというアクションとミステリィを合わせたような話で、簡単に言えば過去の名作と呼ばれる映画たちをオマージュしたものだった。主人公は怪盗二十面相なさがらの変装の達人で、彼が他人に化けるシーンはこの作品の見せ場として嫌というほ沢山出てきた。
予想通り劇場は客入りが少なかった。
だが上映を終えたあとの客たちはそれなりに満足しているように俊樹には見えた。たしかに先の展開が見通せる分かり易さと勧善懲悪をベースにした痛快なストーリは、細かい疑問を抱かずに見ることができればまずまず楽しめるものであった。
「どうだった? 結構面白かったでしょ?」
劇場から出たあとで千寿留が感想を求めてくる。
「意外って言うと失礼かもしれないけど、想像してたよりかは随分良かったよ」俊樹が答える。
二人の後ろを歩いていた凪森もそれに賛成するように首を振る。
「でしょ? いろんなものをごちゃ混ぜにしただけのパロディだって思って観てしまうとすぐに飽きたり原作を馬鹿にしているみたいに感じるかもしれないけど、自分から作品を受け入れようとすれば素直に楽しいと思えるはずだわ。B級映画を観るときには、そういう包容力みたいなものが必要になるのよ」
「つまり、大人の対応ってことだね」俊樹が言った。
千寿留はその作品を気に入ったらしく、帰りにパンフレットを買っていた。
どうやら映画のおかげで彼女の機嫌も治ったらしく、俊樹はほっとひと安心していた。
映画館を出た三人は、次に同じ施設内にある和風レストランで昼食をとることにした。
「そういえば、この前、何かの事件に巻き込まれたって言ってたな」
凪森がその話を切り出したのは、テーブルの上に全員の食事が行き届いた直後だった。
「あぁそっか。凪森にはまだ話してなかったんだったな」俊樹はそこで思い出した。
例の騒動の帰り道、彼は自分が遭遇した出来事を凪森の携帯電話にメールしていた。ただ、その連絡では簡潔な内容しか伝えておらず、詳しいことはまた今度話すとしたまま今日まで至っていたのである。
「村瀬さんには話してたんだけど、そっちに言うのをすっかり忘れてた」
「居酒屋であった殺人事件のことだろ?」
「そうそう。よく分かったな」俊樹が感心する。
「こっちは暇を持て余しているからな。少し調べてみたらすぐに目星がついた」凪森は小さく笑いながら言った。
そこで俊樹は、先日千寿留に話した内容に加えて、光と雅史から教わったことについても二人に話した。食事をしながらの説明ではあったが、情報量が少なかったので所要時間はそれほどかからなかった。
「つまりその通院仲間の女性たちは、殺された男のことを知ってたわけだな」
「でも武井さんはもうそこで働いてはいないし、下村さんがその人とどの程度面識があったのかまでは知らないけど」俊樹が凪森に言った。
「亡くなった角南さんは、その下村さんという人が司会をしている番組のプロデューサをしていたという話よ」
すると千寿留が話しはじめる。
「放送が始まってからずっと受け持っていたそうだから、彼女とは長い付き合いだったらしいわ」
「村瀬さん、どうしてそんなこと知っているの? テレビでもそんなことまでは報道してなかったと思うけど……」俊樹が首を傾げる。
「宮房君から話を聞くのを待っていたんだけど、結局我慢できなくなっちゃって、あたしもちょっと調べてみたの」千寿留が平然と答える。「実はこっちにも知り合いに警察関係の人がいてね、その人に頼んだら、ここだけの話ってことで教えてくれたの。警察はまだ犯人を特定できてないみたいで、どんな情報でも欲しいって感じだったわ」彼女は笑みを漏らしながら説明する。
「えっ、警察の知り合いって……、えっ?」
それを聞いた俊樹は、しばらく唖然とした表情で彼女を見つめていた。
「刑事さんは他に何か言っていませんでしたか?」
そのあとで凪森が俊樹の驚きを無視して尋ねる。
この友人は至って冷静な様子だった。
「あとは宮房君の話と同じで、被害者の首にはロープのようなもので絞められた跡が残っていたってことくらいかな。本当はもっと詳しい事情を知りたかったのだけど、警察も忙しいらしくてね。だから、できれば近いうちにまた話をきいてみたいとは思っているんだけど」彼女は、この地域では有名なちらし寿司を口もとに運びながら二人にそう話した。
普通に考えて、警察の人間が事件の情報を話すことはない。
現場の第一線で働く刑事と同居している俊樹でさえ、雅史から仕事の話を聞かされることは滅多になく、仮にあったとしても守秘義務を理由にしてほんの少ししか教えてもらえなかった。
それなのに千寿留は、他言無用という前置きがあるにせよ、警察から事件の詳細を聞こうとしている。
実は、彼女は只者ではないのではないか?
俊樹はそんな想像をしてみる。
そのあたりは本人に聞いてみるのが一番早いのだろうが、千寿留は既に話題を切り替えて正面の自分たちに向かって世間話をはじめている。それはまるで、そのことについて質問される隙を与えないかのような雰囲気すら彼には感じた。
事件に対する興味の持ち方も含めて、千寿留はどこか普通とは違うのかもしれない。
俊樹は湧き上がった疑問を口にするのを諦めると、楽しげに話す彼女の顔を眺めながらそう思った。
6
メインイベントの映画鑑賞を消化した三人は、そのあとどうするかを決めていなかった。
「悪いが、俺はここで一旦別行動をさせてもらう」
凪森が突然二人にそう宣言したのは、レストランから出た直後のことだった。
「えっ、別行動って、どういうことだよ」そこで俊樹が咄嗟に尋ねる。
「実は、こっちに住んでる知り合いと会う約束をしているんだ」凪森が言った。「忙しい奴だから長くはかからないと思うが、もし戻って来ないようなら俺のことは放っておいてくれ。ただ、そのときは車は使えないから、二人には他の方法で帰ってもらうことなるけれど」
「もしかして彼女?」
「それはご想像にお任せ、ということで」
凪森はにやりと笑う千寿留に向かって淡々とした顔で答えると、軽く手を挙げてから二人に背を向けてさっさと歩き出してしまった。
「行っちゃったね」
「うん……」
「凪森君って、なんだか変わってるわよね」
「うん」
千寿留の控えめな表現に俊樹はもう一度頷いた。
「それじゃあ、あたしたちの方はどうしよっか?」
「そうだね。どうしようかな……」
俊樹は、気を取り直して尋ねてくる彼女に上の空で応える。
凪森が去った方向を目で追ってみるが、既に人混みの中に埋もれてしまいその姿を見ることができなった。
「特に行きたい場所がないなら、あたし、この中を見て回りたいんだけど、それでもいい?」
「……うん、ならそうしようか?」
少しの間名残惜しそうに遠くを眺めていた俊樹は、ようやく千寿留に視線を移すと彼女に向かって首をふってみせる。
「じゃあ早速行こっ」
すると、千寿留はにっこりと微笑み返してから凪森とは逆方向に進みはじめる。
彼女に置いていかれないように俊樹がその横に並ぶ。
凪森の予期せぬ離脱で彼は少し動揺していた。
できることなら友人を引き留めたかったが、千寿留の前でそんな姿を晒すのも気が引けたので結局何もできないまま見送ってしまっていた。もともとの予定では、凪森には自分の緊張を和らげるクッション役になってもらいたかったのだが、今となってはもう諦めるしかない。
「さっきから思ってたけど、やっぱりカップルが多いよね」
周囲を観察しながらゆっくりと歩く千寿留が声をかける。
休日のショッピングモールは多くの人たちで込み合っていてたが、たしかにその中でも比較的年齢の若い男女のペアの比率が高い気がした。
「買い物をするにはもってこいだし、そもそもこの辺りってデートスポットらしい場所がないから、みんな必然的にここに集まっちゃうんだろうね」俊樹が応える。
もしかしたら、凪森は気を利かせていなくなったのかもしれない。
ふとそんなことを思いついた途端、彼は余計に隣を歩く千寿留を意識するようになってしまった。
ちょうどそのとき、俊樹の左手に突然負荷がかかる。
そこで彼が反射的に顔を向けると、そこには千寿留の腕が組まれていた。
「む、村瀬さん?」俊樹が思わず声を上ずらせる。
「なに?」
「何って、その……」彼は左腕に絡みつく彼女の両手を見つめて呟く。
「だって、周りはこうしている人たちばっかりなのに、あたしたちだけがそうじゃないとなんだか恥ずかしいじゃない」千寿留は愚痴っぽく言うとさらに身体を寄せてくる。
「いや、そう言われても……」
この方が何倍も恥ずかしいと思いながら俊樹が声を漏らす。
見る限り千寿留の機嫌は悪そうではない。むしろ困惑している俊樹の反応を楽しむかのように悪戯っぽい笑みを浮かべながらこちらを窺っていた。
(完全に遊ばれている)
千寿留の表情を見て俊樹はそれを悟る。
しかし凪森を同行させた件で彼女の気分を害していたので、無理に振り解くこともできない。無論、この状況はまんざらでもないと思っている部分も少なからずあった。
おそらく自分は、同世代の中ではこういった類の経験はない方だろう。
こうやって異性の歩調に合わせながら歩くのは、中学校の運動会で行っていたフォークダンスのときまで記憶を遡らないと思い当らなかったし、片腕だけ自分の自由が利かない状況は非常に違和感があった。
他の人たちは、なぜこんな動きづらい状態をさも当然といった風にできるのだろうか?
すれ違う恋人たちに目を向けながら彼はそんな疑問を抱いた。
「あっ、宮房さん!」
千寿留に寄り添われてぎこちなく足を運んでいた俊樹は、不意に自分の名前を呼ばれて顔を上げる。
彼を見ながら話をしていた千寿留も声のした方角に視線を動かす。
彼らの数メートル前方には三人の男女が立ち止まっていた。そして、そのうちの一人が半ば口を開けた状態でこちらを凝視している。
「下村さん」その髪の長い女性を見て俊樹が呟く。
「誰?」
「同じ病院に通っている人だよ」彼は千寿留に言った。
そこには下村妙子と武井光、そして面識のない青年の姿があった。
「こんにちは。こんなところで会うなんて奇遇ですね」妙子が俊樹たちに近づいて挨拶をする。
「下村さんたちも買い物ですか?」
「ええ、まぁそんなところです」妙子は肩を竦めて答える。
「武井さんもこんにちは」俊樹は彼女の後ろにいた光に声をかける。
すると光は、いつものように無愛想な顔で小さく会釈を返した。
「宮房さんはデートですか? お綺麗な方ですね」妙子が千寿留を見て言う。
「あ、いや、これは」
俊樹はその言葉で腕を組んでいたことを思い出すと、咄嗟にそれを解こうとする。
しかし千寿留の手にロックされて、その拘束からは逃れられなかった。
「別に照れなくてもいいじゃないですかぁ」その様子を見て妙子が笑う。
「初めまして。村瀬千寿留と言います」
そこで千寿留がようやく俊樹から離れると彼女にお辞儀をする。
「私は下村と申します。宮房さんと一緒の病院に通っている者です」
「お話は彼から少し伺っています」千寿留が上品に微笑む。
いろいろと誤解を招く言い方だと俊樹は思った。
「この子はお友達の武井さん、それでこちらが同僚の栗原さんです」
妙子は一つにまとめた髪を揺らしながら後ろを振り返ると、連れの二人を紹介した。
「いやぁお二人ともラブラブで羨ましい。僕もたまにはそういうことをしてみたいですね」
栗原と呼ばれた青年がにやにやしながら口を開く。
「それにしても、同僚のひと言だけってのはあんまりじゃないですか? せめて可愛い後輩ですくらいは言ってほしかったなぁ」彼は 妙子にぼやいた。
「後輩ということは、タレント事務所の?」
「はい。これでも一応俳優をやっています。といっても、まだまだ駆け出しですけど」
栗原が俊樹の質問に笑顔で答える。
たしかに目の前の青年は長身でかつスマートな体格をしており、その顔立ちも甘いマスクと表現しても差し支えないくらいの二枚目である。
「栗原さんというと、もしかして先週起きた事件のときにあのお店に一緒にいた方では?」続いて千寿留が尋ねる。
「ええそうですけど……。でも、自分の名前は新聞にもテレビにも出てないはずなのに、よく御存じですね」彼は少し首を傾げる。
「実は私、あの事件ことを調べているのです」
「調べてるって、貴女がですか?」
「はい」
不思議そうに呟く妙子に向かって千寿留は笑顔で頷いてみせる。
「……あの、もしかして婦警さんか何かなのですか?」
「いいえ、私は警察の人間ではありません。ただ個人的に少しあの事件に興味を持っているんです」千寿留がそれにはっきりと答えた。
「ふーん、じゃあ、ずばり探偵だったりして」次に栗原が言う。「美人探偵って、なんだか良い響きがしますしね」彼は軽い調子で笑った。
すると千寿留は、それについて何も言わない代わりに肩に掛けていたバッグから何かを取り出す。
「もし事件のことで何か気づいたことがあったら、ここに連絡していただけると非常に助かります」彼女は三人に向かって名刺を一枚 差し出してそう言った。
栗原がそれを受け取る。
冗談のつもりで話していた彼も、真面目な顔の千寿留を見て少しだけ眉をひそめていた。
「是非ともよろしくお願いします」
千寿留は微笑みながら丁寧に頭を下げたかと思うと、そのあとで再び俊樹の腕を取ってから三人の脇をすり抜けてゆく。
「あっ、ちょっと……」
強引に引っ張られが俊樹が声を上げるが、千寿留は足を止めようとしない。
「ごめん、じゃあ、また今度」彼は慌てて妙子たちに手を挙げて挨拶すると彼らから遠ざかってゆく。その光景を妙子と栗原は呆気にとられた様子で、そしてずっと無言だった光は無表情で眺めていた。
「……村瀬さん」俊樹は後ろを振り返るのを止めて隣を睨む。
「ラッキーだったね。これで関係者の人たちに会いに行く手間が省けたわ」
非難する彼に対して、千寿留は逆に上機嫌といった口ぶりで話した。
千寿留の突飛な行動を目の当たりにした俊樹は、何事もなかったのようにけろりとする彼女を怒る気にもなれず、ただただ深く嘆息するしかなかった。
次話は5/13(火) 20:00頃の投稿予定です