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覚えていない場面

第三章 覚えていない場面



                   1


 九月二十五日の火曜日。

 宮房俊樹は、梶医師の指示で毎週この日の午後に診察を受けることになっていた。

 平日の日中に早退するのは気が引けたが、休日で唯一病院が診療している土曜日は既に予約で一杯らしく、どちらにしろ平日しか空いていなかった。また、梶の言葉を借りるのなら、たかが通院で休日の何割かを消費するのは単なる無駄遣いだから勿体ないでしょ、ということらしい。

つくづく変わった医者だと彼は思う。

 幸いなことに今は夏休みの未消化分があり、さらに今年度使える有給休暇も手つかずの状態で残っていたので、手続き上休みを取ることについては何も問題はなかった。

 俊樹は烏城クリニックを目指して坂道をのぼっていた。

 病院の傍には大きな美術館があり、その壁にはイベントをPRする垂れ幕が飾られている。今開催している古代のエジプト展が終わると、次は日本の刀剣などが展示されるようだ。

 病院に到着する。待合室には既に順番を待つ人の姿があった。

 初めて来たときに見かけたあの髪の長い女性である。

 俊樹はこの日で三回目の通院だったが、前回も彼の前にこの女性が診察を受けていた。

 入口から見て一番奥のソファに座って雑誌を読んでいた彼女は、俊樹に気づいて一瞬だけ顔を上げたがすぐにその視線を下に戻した。

 受付には誰もいない。俊樹は診察カードをカウンタに置かれたボックスの中に入れてから女性から少し離れた場所に腰掛ける。時計を見ると、もう彼女の診察が始まっていてもおかしくない時間だった。

 今日は少しずれこんでいるらしい。

 そう思った俊樹は、持参していた文庫本を読んで自分の番まで待つことにする。

 読書は数少ない趣味の一つだった。ここ数年は仕事関連の分厚い技術教本を読む機会が多く、プライベートで本を読む時間は激減していたが、今の生活になってからまた読書量が増えてきている。

 一般の感覚では、読書という行為には知的なものが含まれていると考える人が多いらしい。遊んでばかりでろくに勉強もしない我が子に向かって、たまには本でも読みなさいと親がぼやく構図は、普遍的なものとして誰もがイメージできるはずだ。

 俊樹も、見聞きした物語や実生活の中でそういった場面を何度も目にしてきたが、あるときからその考え方に違和感を持つようになった。

 もし本当に読書をして知識や教養を得たいのであれば、その目的が達成できるように積極的に書かれている内容を自分の中に取り込もうという姿勢が必要不可欠になる。何も考えずに、ただ本を読んでいるだけで勝手に求めるものが身につくのなら誰も苦労はしない。

 逆に言えば、読書などしなくても目的意識さえあればどんなことからでも知識と教養は吸収できるだろう。それこそ、テレビゲームをしたり漫画を読んでいても学べることは沢山ある。

 明確な根拠も示さずに、とにかく本を読むのが良いことだと提唱するのは、良い学校に進学して良い会社に就職すれば良い人生を歩めるのだと諭すことと同じで、単なる先入観、つまりただの幻想でしかないのだ、と俊樹は常々思っている。

 そんな彼の中では、読書とは簡単に暇潰しができる手頃な娯楽という位置づけだった。なのでこれまでにビジネス本や自己啓発関連の書籍などは一冊も読んだことがない。今手にしているのも、そのポリシーに漏れずファンタジィ小説である。

 俊樹は静かに読書をはじめる。

 しばらくの間、待合室は彼と女性の二人だけだったが、二十分ほど経った頃に入口から誰かがやって来る。気配に感じて彼がそちらを見上げると、そこには若い学生風の子が現れていた。その子は俊樹を一瞥すると、カードを受付に出したあとで入口に一番近い椅子に落ち着いてバッグから本を取り出す。

 初めて見る顔だったが、俊樹は最初の診察のときに居眠りをしていた子だと思った。二回目の診察のときはその子を見かけていなかったが、背格好や雰囲気からおそらく間違いだろう。その顔はどことなく中性的なイメージがある。

 今日は長袖のパーカにゆったりとしたロングスカートを穿いている。

こんな季節に暑くないのだろうかと彼は思ったが、同僚の柏木は、昨年、社内の若手たちが集まってフットサルをした際に、真夏だというのに長袖のウィンドブレーカを着て参加していたことを思い出す。彼女の曰く、そこまでしないと汗をかけない体質らしく、実際にそれが終わったあともほんのりとしか汗をかいていなかった。

 この子もそれと同じで代謝が低いのかもしれない、と彼は勝手に解釈してみる。

 そこからさらに時間が経過したところで、受付奥のドアから看護婦が現われて俊樹たちに声をかけてくる。前の診察が長引いているので、申し訳ないがそのまま待っていて欲しいという話だった。

 三人がそれに頷くと、看護婦は一礼してまた奥に消えていった。

 俊樹が読んでいる本はその時点でまだ半分近くページを残していた。彼はこの待ち時間では消化できないだろうと思ってそのまま読み進めていたが、物語が終盤にさしかかっても診察室のドアが開く気配はなかった。

「たぶん、まだかかると思いますよ」

 読書を中断して不安そうに診察室を見ている俊樹に、髪の長い女性が話しかけてくる。

 彼女は身を乗り出し、隣の席に片手を突いた姿勢で二つ先に座る彼を見つめていた。

「何かあったんですか?」俊樹がそちらに向いて尋ねる。

「急患だと思います。私が来るちょっと前に来てたみたいですね。ここで待っていても診察室から大きな悲鳴が聞こえたりして、看護婦さんも大慌てでした」

「そんなことがあったんですか」

「普段はこんなことないんですけどね。それに今日は先生が一人しかいませんから、私たちの番はかなり遅くなると思います」

 女性はそう言ってから正面に顔を向ける。

 この病院には院長と梶の二人しか医師はいない。そして彼女の視線の先、受付カウンタの壁には、たしかに院長不在の旨が書かれた張り紙が掲示されていた。

「そうでしたか……、参りましたね」

「何かご予定があるなら、日にちを変えてもらった方がいいかもしれせん。もし良ければ、あとで私がここの人に託けておきますけど」

「いや、大丈夫です。別にこれといった用事があるわけじゃありませんから」俊樹は女性の申し出に対して愛想良く答える。「お気遣いありがとうございます」

「あの、話は変わるんですが、最近通院しはじめた方ですよね?」

 すると、そこで彼女が別の質問をしてくる。

「ええ、そうですけど」

「初めて(かおる)ちゃん……、じゃなくて梶先生を見たときどう思いました? ビックリしませんでしたか?」彼女は続けて尋ねてくる。

興味津々といった女性の笑顔を見ると、俊樹は自然と顔が緩んだ。

「パッと見た感じは普通の先生かなと思いましたけど、あの声を聞いたときは驚きましたね。しかも僕の場合、最初からオネェ言葉でしたから」

「あぁ、なるほど。それは絶対にびっくりしますよね」

 女性はくすくすと笑うと、そのあとで自己紹介を始める。

「私、下村(しもむら)と言います。いつも火曜日に通っているんです。たぶんそちらも同じですよね? えっと……」

「宮房です。よろしくお願いします」俊樹が軽く頭を下げる。

「こちらこそ……、あっ、でも何だか変ですね。病院でこれからお見知りおきをって言うのも」彼女はそう言うとまた可笑しそうに笑った。

 それにつられて俊樹も笑顔を見せる。

「ちょっとおききしたいんですが、火曜日は診察に来る人が少ないんですか? この前もこれくらいの人数しかいなかったと思うんですが」そこで俊樹がきいた。

「前までは沢山いましたよ。そのときは待合の席が全部埋まることもよくあったんですが、少しずつ曜日を変えたり来なくなった人が出てきて、いつの間にか火曜の午後は空いてることが多くなったんです」

「なるほど。本当は僕も仕事が休みの日にしたかったんですけど、もう予約が詰まってて無理だって言われたんです」

「土日がお休みの人はやっぱりそうなっちゃいますものね」下村が言う。「火曜日は隔週で来てる人が何人かいますけど、毎週だと最近は私と向こうにいる子だけです」

 彼女はそのあとで俊樹の後方に向けて声をかける。

(ひかる)ちゃん、こちらの方も私たちと同じ時間帯の受診なんですって」

 すると、一番遠くの席で本を読んでいた若者がほんの少しだけ顔を上げる。そして無言のまま縦に小さく頭を動かしてみせるとまた手元に視線を落とした。

「彼女、ちょっと人見知りがあるんです。けど打ち解けてたらとっても可愛いんですよ」

 下村は、すぐに本の世界へ戻ってしまった若者を見ながら俊樹に説明した。

 そこでようやく診察室が開かれ、中からさきほどの看護婦が再び姿を見せる。

「下村さん、大変お待たせしました。どうぞ中へ」

「はい」下村が返事をして立ち上る。「じゃあ、お先に失礼します」

 彼女は俊樹に軽く頭を下げてから診察室へと入っていった。

 それを見届けた彼は、そこでふと隣の部屋の奥にある窓を眺める。

 外はまだ真昼の明るさを保ってはいたが、夕刻まではもう間近という時間だった。きっと帰宅する途中で日も沈みはじめるだろう。

彼は嘆息する。

 そのあとで、今度は左を向いて光と呼ばれた子に目をやる。

 下村が呼ばれたときも、この子はこれといった反応を見せなかった。

 光はきちんとメイクをしていたが、着ているパーカは丈がゆったりしているというよりもサイズがあっていない。おそらく男物だろう。

 女性にしては珍しく、衣類にはずぼらなタイプなのだろうか、と俊樹は淡々と読書を続けている若者を観察しながら思った。

十五分ほどして下村が待合室に戻って来る。

 診察室から出てきた彼女は見るからに上機嫌といった顔をしており、俊樹と光に向かってにこにことした笑みを浮かべていた。

 何か嬉しいことでもあったのだろうとは思ったが、彼はすぐに看護婦から呼ばれ、彼女もそのまま受付で手続きをはじめたのでその理由を聞くことはできなかった。


                   2


「今日は本当にごめんなさいね」

 梶薫医師は、俊樹を椅子に座らせるとまず診察が大幅に遅れたことを詫びた。

「いえ、今日はもう家に帰るだけですし、本を読んでいたので退屈だったわけでもありませんから」俊樹が手をふって言う。「急患の人だったんですか?」

「そうなの。普通なら今日は予約だけ取ってもらって受診は後日にしてもらうのだけど、今回は患者さんの症状がちょっと重かったの。だからすぐに応急処置をする必要があったから、貴方たちのことが後回しになってしまったわ」

「その人は今どこにいるんですか?」

「隣の部屋で安静にしてもらってるわ。少し錯乱していたけど、とりあえず今日のところは落ち着いたから、そろそろ帰っているんじゃないかしら」梶が息を吐く。今日の彼はどこか疲れているように見えた。

「……心の病気って、やっぱり怖いですね」

「病は気から、という言葉もあるくらいだもの。ただ、考え方を変えれば要は気の持ちようってことよ。怖いのは病気そのものではなくて、そこに至ってしまうプロセスなのよ」

「それはつまり、一番怖いのは人の心ということですか?」

「なんだか、漫画とかに出てきそうな台詞ね」梶は短く鼻息を漏らして笑う。「でもそうね。その表現は間違ってはいないと思う」

 そう答えると、梶は身体を横に向けてカルテの上にペンを走らせながら言う。

「今日は調子が良さそうね」

「え? そうですか?」

「そうよぉ」そこで梶がオーバリアクションをする。「まず見た目が全然違うわ。先週はなんとなく無理をしているような感じだったもの。何か良いことでもあったの?」

 彼は首だけを動かしてこちらを見る。

「そういうわけではないですけど、この前は仕事をしていないときにどうやって過ごせばいいのか分からないで戸惑っていた部分がありました。それであれこれ考えてしまって、ついつい余計なことまで思い出したりもして……。でも友人に言われたんです。何も考えない時間を作ってみたらどうだって」

 そこで俊樹は凪森が言っていたことを話す。

「うんうん。それは良いアドバイスだわね」梶は俊樹が説明したあとで何度か頷いた。「休まないといけない、何かをして気分転換をしないといけないって考えはじめた時点で、それは自分がすべき労働、つまり仕事の一部になってしまうわ。仕事のことを忘れるための休息なのに、そうなったら本末転倒よね。今貴方に必要なのは、しなければならない、ではなくて、しなくてもいい、だと私も思う」

「しなくてもいい、ですか?」

「そうよ。外出したくなければしなくてもいいし、何もしたくなければ一日中ぼうっとしてればいい。無理に何かをしようと思う必要はなくて、何かをしたいなって思えるようになるまでやるまで時間をかけて待つってことね。これまで忙しく働いていた貴方からすれば、なんだか時間を無駄に使っているように思えるかもしれないけど、その方法はストレスを溜めないためには結構大事だったりするのよ」

「そして、やる気が出てきたときにまた何かを始めればすればいい。そういうことですか?」

「仕事中でも息抜きが必要なのと同じだわ。あれは仕事をさぼっているのではなくて、少しの間だけ何もしない状態を作ることで勤労意欲を持続させる手段の一つだわ。もちろん、中にはそれにかこつけて本当に働いていないだけの人もいたりするけど」梶は冗談っぽい笑みを浮かべる。

「僕は今まで、そのときそのときで出る限りの力を使って仕事に取り組んできたと自分では思います。ただ今回のことがあって、これからはもっと力を抜いて働けた方が良いのかもしれないと考えるようになりました」俊樹が話す。「でも、それは手を抜くって意味ではなくて、今の六割とか八割とか、それくらいのある程度余裕を持てる状態でこれまで通り働くことができれば、毎日仕事ばかりに囚われないような距離感が保てるんじゃないかと思うんです。それにもし、仕事の中で何か不測の事態にあっても普段から余力を残しておいた方がいいでしょうし」

「仕事はあくまでも生きる手段であって、仕事が目的で生きているわけではない。それがはっきり自覚できただけでも大きな収穫ね」

「ええ、そう思います」

「あとはそれを実践できるかどうかでしょうね。でもとりあえず、今のところはそれで充分。自分が納得できる時間の使い方を考えているみたいだから、このまま様子を見るということでいいわね? それとも、すぐにでもバリバリに働きたい?」

 その質問に俊樹が首を左右にふる。

「働いてない分だけ仕事の進みは悪くなってますけど、やるべきことはしてますから今はまだあまり無理はしたくないです。休めるときには休んでおこうと思います」彼が言った。

「良い心がけね。じゃあ、また来週のこの時間に予約を取っておくからいらっしゃいな」

「分かりました。お願いします」俊樹は頭を下げると席から離れた。

そして退室しようとしてドアノブに手をかけたところで、彼は急に後ろから呼び止められる。

「あぁ、宮房さんちょっといい?」

「はい?」

 振り返って返事をするとこちらを向いた梶が尋ねる。

「さっき、今日はもう何も予定はないって言ってたわよね?」

「ええ」俊樹が頷く。「それがどうかしましたか?」

「だったらこのあとで食事でもどう? 私、今日はあと一人患者さんを診たらお仕事終わりなの」

「えっ……」そこで彼は言葉を失う。

 次の瞬間、頭の中でいろいろな憶測や妄想が駆け巡る。

 視線の先には梶がにんまりと笑みを浮かべており、それが余計に嫌な予感を駆り立てた。

 そうやって表情を硬直させて返答に困っていると、梶は俊樹の考えていることを察したらしく突然吹き出しはじめた。

「いやだ、別にそういうつもりで言ったわけじゃないわよ」彼は笑いを堪えながらそう言う。「今日はかなり待たせて迷惑をおかけしたから、そのお詫びの気持ちを込めて貴方たち三人に何かご馳走しようかなって思っているだけよ」

「なるほど、そういうことですか……」その説明を聞いて俊樹はほっとする。

「今のところ下村さんは行くって言ってるけど、宮房さんはどうかしら?」梶がきく。

「そうですね。なら僕も参加させてもらってもいいですか?」俊樹が答える。

 下村がこの部屋を出たときにうきうきしていた理由が分かった気がした。

「もちろん大歓迎よ」

「あぁ、でもそういうのってあんまり良くないんじゃないですか? その、医者さんと患者の関係みたいな意味で」俊樹はそこでふと思いついたことを口にする。

「大丈夫大丈夫。その程度で他の患者さんたちと差ができることなんて絶対ないわ」梶が断言する。「私は仕事とプライベートはきっちり区別する方なの。だからこのビルから出れば自分が医者だってことはすっかり忘れるようにしているの。だから変な心配はご不要よ」

 梶は自信たっぷりにそう言うと、俊樹に向かって片目を瞑ってみせた。


                   3


 俊樹が診察室から出ると、次は入れ替わりで光が部屋に入っていった。

 待合室には既に診察を終えた妙子がいたので、俊樹はその隣に座って彼女と話をしながら梶を待つことにした。

 下村妙子(しもむらたえこ)は、二十代後半か三十代前半くらいではないかと思われた。

 おそらく俊樹より若干年上だろう。少なくとも年下ではないというのが彼の推測だった。その性格は社交的で、とても澄んだ綺麗な声が印象的な女性だった。

 妙子と会話をするのは今日が初めてだったが、俊樹はその声を以前から聞いたことのあるような気がしていた。ただそれがどこだったのかまでは思い出せない。たぶんテレビに出ている歌手や芸能人の誰かに似ているのだろう、と彼は思った。

 しばらくして光が戻ってくると、妙子がこちらへ手招きをする。

 すると光は、一度こくりと頷いてからもう片方の妙子の隣に腰掛ける。しかしそのあとで光が会話に加わることはほとんどなく、時折妙子が呼びかるとそれに軽く相槌を打つくらいだった。

 そうしているうちに梶が診察室から出てくる。

「おまたせ」彼はそう言うと、早速外へ出るように三人を促した。

 俊樹は、梶が普段どんなものを着ているのか少し興味があった。しかし白衣を脱いだ梶は、意外にも半袖のシャツにジーンズというごく一般的な服装だった。敢えて挙げるであれば、ベルトに付けているフックに鍵が幾つも掛けられているのが特徴的と言えなくもないが、もっと奇抜な私服を予想していた俊樹からすれば、それは些かインパクトに欠けたファッションだった。

 アルコールが飲める店がいいという梶の提案に妙子が支持し、俊樹と光が反対しなかったので、食事はどこかの居酒屋にしようという結論になった。

そこでビルを出た四人は、ひとまず駅前に足を向ける。駅周辺にある繁華街の一角にはそういった店舗が密集していたので、彼らはその中から選ぶことにした。

 最初はどこにするかなかなか決まらなかったが、最終的に妙子の推薦した店に入ることにする。

 そこは地元の学生や若者たちが好んで訪れる居酒屋で、俊樹も以前に何度か来た記憶があった。日によっては予約を入れておく必要のある場所だったが、平日の比較的早い時間帯ということもあって無事に席を確保することができた。

 俊樹たちは店員に四人掛けのテーブル席に案内される。

 ここはカウンタ席以外は全て個室である。といっても、通路側に短い暖簾がかかって仕切られている程度なので店内の様子は簡単に窺うことができた。

 二本ある長椅子の一つに俊樹と梶が並び、テーブルを挟んだもう片方に光と妙子が入る。

「どうかしたの?」

 するとそこで、梶が妙子に向かって声をかける。

 先に光を奥に通した妙子は、店内を眺めたままなかなか席に座ろうとしていなかった。

「ううん、何でもない」妙子は梶の方を見て首をふると、何事もなかったように微笑みながら腰を下ろした。

 全員が席に着いたあとで、梶の主導でひと通り注文をはじめる。

 オーダーを受けたアルバイト風の女性店員は、そのあとでまず彼らのテーブルにドリンクを持ってきた。俊樹と梶はビールで妙子がカクテル、光だけがノンアルコールのウーロン茶だった。

 店員がいなくなったところで梶が乾杯の音頭を取ると、俊樹たちは各々グラスやジョッキを持った手を挙げてそれに応える。その光景は、まるで自分は今一人ではないのだとお互いに強調し、確認し合っているように見えなくもない。

 喉を鳴らしてビールをひと口を飲みながら、俊樹は不意にそんなことを思い浮かべた。

「ところで、さっきのは何だったわけ?」

 料理が徐々にテーブルに届くようになり、四人が箸を動かしはじめると梶が妙子に話しかける。

「さっきの?」

「席にも座らないで一人ぼうっと突っ立ってて、なんだか様子がおかしいかったじゃない? 何でもないようには見えなかったけど」

「あぁ、あれか……」そこで妙子は真顔になる。「実は、どうもうちの職場の人たちもここに来てるみたいなの」彼女が話した。

「あら。それはまた奇遇ですこと」

「こんな時間に仕事が終わることって珍しいから、それでちょっと驚いてたの」彼女は店内を少し気にしながら言った。

「なるほど。そういえばそうよね」

「でも見かけたのは役職の人だったから、もしかしたら上の人たちだけで飲みに来てるのかもしれないけど」妙子が梶に視線を戻した。

そのとき、二人のやりとりを見ていた俊樹が会話に加わろうとして尋ねる。

「あの、下村さんはどんなお仕事をされているんですか?」

「妙子ちゃんはねぇ、凄いのよぉ」

 すると、妙子の代わりに梶がにやりと笑いながら応える。

「言われるほど大したものじゃないですよ」

「そんなことないわ。ラジオのディスクジョッキーなんて簡単になれるものじゃないもの」

 梶は否定する彼女を見たあとで首を大きく振ってみせる。

「DJをされてるんですか」俊樹が驚く。

「正確にはパーソナリティです」

「どっちも同じことじゃない」

 梶は目を三日月形にしたまま呟くと、俊樹の方を向いて話す。

「妙子ちゃんはラジオ番組で司会をしているの」

「でもローカルの放送局だし、担当してるのは深夜帯だから一般の方は全然知らないと思います」妙子が俊樹に言った。

「芸名はなんて言ったかしらね……、そうそう、妹尾絵梨果だったっけ?」

「うん」彼女が頷く。

「妹尾絵梨果!」

 その名前を聞いて俊樹がさらに大きな声をあげる。

「あら、もしかして知ってた?」

「はい。その番組、たぶん僕がつい最近から聞きはじめているやつです」俊樹が話す。「下村さんの声、どこかで聞いたことがあるなとは薄々思っていたんですよ。でも下村という名前に心当たりがなかったので、今まで思い出せていませんでした」彼はそう言ったあとで妙子に頭を下げる。「いつも楽しく聞かせてもらっています」

「そうだったんですか」妙子が小さく呟く。「でもまさか、宮房さんがリスナーの方だったとは思いませんでした」

彼女は口もとに手を当てながら目を丸くしていた。

「自分の番組を聞いてる人と会ったことはなかったの?」

「イベントのときとかなら何度かあるけど、プライベートだとこれが初めてだわ。あぁ、なんだか急に恥ずかしくなってきた」妙子は両手を頬に当てながら言う。

「ねぇねぇ、妙子ちゃんの番組ってどんな感じなの?」梶が俊樹にきく。「私、この子が絶対聞くんじゃないって言うもんだから、全然知らないのよね」彼はとても愉快そうな顔をしている。

「リクエストされた音楽を流したりしますけど、ほとんどがリスナの人から送られてくるハガキとかを紹介してその話をするんです。お悩み相談みたいな感じの番組です」

 俊樹はじわじわと身を寄せてくる梶と同じ分だけ平行移動し、一定の距離を保ちながら答えた。

「あれは若い子をターゲットにしている番組なんです。たまに社会人の方からもメッセージをもらったりしますけど、メインのリスナは中高生の層ですね」妙子が説明する。

「でも僕は大人でも楽しめると思いますよ。なんというか、他人の恋愛相談とか身の上話みたいなのを聞くのって面白くないですか?」

 俊樹がそうきくと、その意見に梶が同意する。

「たぶんそう思えるのは、自分が当事者ではないというのが大きな理由でしょうね。もし自分にまで被害が及んでしまうのであれば、そんな余裕なんてないもの。たとえ何があっても傷つくことはないだろうって確証があるからこそ楽しめる。だから人間って実在しない作り話の類が好きな人が多いし、その中でも多少リアリティがあったほうが簡単に想像できたりするから、繋がりはあるけど実害の無い少し遠い関係の人の噂とかが大好きだったりするのよ」

「自分の身の周りに存在しなければ、それは現実ではないってことですか?」

「極端に言えばそうなるわね」梶が言う。「でも当たってるでしょ? 妙子ちゃんの番組に来るお便りだって、それは送った本人にとっては切実な話であるはず。けれど、宮房さんみたいに番組を聞いている他の人たちがそれに実感を持つことは滅多にないんだから」

梶は箸を持った手を動かしながら言うと、自分が元いた場所に戻ってゆく。

「たしかにそうね。もちろん私はできるだけメッセージをくれた人の気持ちになって答えるつもりだけど、実際問題として切羽詰まるような心境にまでなったことはないかもしれない」

「ただそういうのって、誰が冷やかしで送ってくる場合もあるんだから、どの程度文面通りに受け取るのかもケースバイケースでしょうけど」

 そう話したところで、梶は何かに気づいたようにはっとする。

「そういえば、貴女たちって最初はそこで知り合ってたのよね?」彼は向かいにいる妙子と光を交互に見てきいた。

「ええそうよ。ね? 光ちゃん」妙子が返事をしながら光に触れる。

 声をかけられた光は、肩に置かれた手に目を向けたあとで梶に向かってこくりと頷いた。

 店に来てからも、光は病院のときと同様に自分から話の輪に入る気配がない。だが全く興味がないというわけでもないらしく、三人とは少し距離を置いて話を聞いているように俊樹には見えた。

 妙子の言っていたように大人しい性格だからなのだろうか。

 自分も内向的な性格だと自覚している彼は、多少はその素っ気ない振る舞いを理解できる気がした。

「光ちゃんは以前、私の番組のスタッフさんだったんです」妙子が俊樹に話す。

「じゃあ、その頃からの付き合いなんですね」

「いえ。そのときの私たちは仕事上の接点がほとんどなかったので、互いに名前と顔が一致している顔見知り程度でした。今みたいに仲良くなったのはクリニックに通い始めてからですね。宮房さんが来る前は私の次が光ちゃんだったので、診察を待っているときに話をするようになったんです」

「私も二人の仲を取り持ったりもしたのよ」

 妙子が説明したあとで梶が付け加える。

「薫ちゃんは、ただ一人でご飯を食べるのが嫌いなだけでしょ」

そこで彼女が梶を軽く睨んでから俊樹に言う。

「宮房さん、この先生には気をつけてくださいね。この人、家に帰って一人で食事をするのが寂しいからって、人の都合とか考えないで食事に連れて行こうとしますから」

「それは心外ね。私はそうした方が楽しいだろうなって、皆のことを思って声をかけてるのよ」

「どうだか」

 妙子は釈明する梶に向かってそれだけ言うと、取り皿に残ったサラダを口に入れる。

 どうやらこういった会合は初めてではないらしい。

 話の内容から俊樹は推測する。また、同時に梶たちには病院とは別の、個人としての友好関係が築かれていることも言葉の端から読み取ることができた。

 その証拠に、今のやりとりをしている間でも妙子と梶はずっと笑顔のままだった。

「ところで、どうして下村さんは梶先生を下の名前で呼んでるんですか?」

 俊樹はさきほどから気になっていたことを質問することにする。

「薫ちゃんがそう呼べって言ったんです」

「私は好きなように呼んでくれて構わないって言ったのよ。薫ちゃんっていうのは、あくまでもその例の一つとして挙げただけ」梶が妙子の言葉を訂正する。

「そうだったっけ?」妙子は首を傾げて言うと、グラスを取って中身を飲み干す。

「先生って呼ばれるのは嫌いじゃないけど、患者さんの中には医者という存在に萎縮してしまう人もいるから、機会があったら呼びやすい名前でいいって話すことにしてるの」

「でも、それだと不都合があったりしませんか? 例えば必要以上に馴れ馴れしくなってしまう患者さんがいたりとか」

「そういう一線を越えてくる人も当然いるわ。でもみんながみんなそうではないし、私個人としては呼び方とか見た目とか、そんな表面的な部分はさほど重要ではないとこの仕事をする以前から思っていたわ。現に私と一番付き合いの長い友人は、私のことをずっと梶くんって呼び続けてたし。ちなみにこの考えは、他にもいろんなものに通じるはずだというのが私の自論なの」

 梶はそう話すと、手元のインターフォンを押して俊樹たちに注文の追加を促した。

「でも、恋愛の場合は少し違うと思うな」

 店員が引っ込んだあとで妙子が話を再開する。

「だって男女の出会いでは見た目って大切でしょ? やっぱり相手に自分を印象づけさせるためには、まず他人の目にどう映るのかを考えるものじゃないかしら」

「それは単に、人にとって一番手っ取り早く情報を仕入れることができるのが視覚というだけの話よ。もちろん外見は重要な要素ではあるけれど、殊対人関係においてはあくまで初歩のステップに過ぎないわ」梶が話す。「いい? 仮に第一印象が自分の理想ぴったりの異性と出会うことができたとして、さらに幸運なことに恋人同士になれたとしましょう。もし見た目が重要なのであれば、本来ならもうそれで充分満足しているはずだと思うのだけど、実際にはそういうわけにはいかないことが多いわ。人間っていうのは第一段階で表面的な評価を下すと、次は相手の価値観とか考え方、つまり内面の部分を求めようとするの。だから自分の内面と比較しながらさらに相手を評価してゆく過程の中で、もし二人の間に食い違いが出てしまったとしたら、たとえ外見がいくらく良くても、もうその人とは一緒にはいられなくなるでしょ?」

「それはまぁ、そうだけど」

「ほらね。だとすれば、つまり本当のところは内面的な部分の方が大切なのであって、表面的な部分は、あくまでそこに至るまでのとっかかりでしかないのよ」

 梶は真面目な顔で三人に話を聞かせる。

 診察中でもしないような彼の表情を見た俊樹たちも、食事の手を止めてそれに耳を傾けていた。

「ただ、人間っていうのは他人考えていることを完璧に読み取ることは決してできない。いいえ、それどころか、そもそも自分自身のことでさえもよく理解できないまま生きているのが普通なの。だから私がしている医療行為というのは、医者だけでは成り立つことができない。心療内科の仕事は、常に患者さんの口からそのときそのときの本音を聞かせてもらうことで一緒に改善方法を探っていくことが根底にあるの。つまり患者さんの自発的な協力という前提条件があるからこそ、私はその症状を特定することができているわけ。要するに何が言いたいかって言うと、私一人が頑張って患者さんを診察すれば症状が勝手に治るわけじゃなくて、あなたたちの力があってようやくこちらも治療をはじめることができるってこと。そのことだけは、これからもみんなに覚えておいてもらいたいわ」


                   4


 俊樹たちに力説をした梶は、それを終えるとまた笑顔に戻って飲食と世間話を楽しみはじめた。

 梶は酒に強かった。四人が店に入ってから随分経っているにも関わらず、彼がアルコールを摂取するスピードはほとんど変わっていない。

よくあのペースで飲み続けられるものだ、と俊樹は半ば呆れ気味で感心していた。

 そこで彼は、次に向かいの席に座る二人の様子を窺う。

 途中からまったりとした飲み方に変わってた妙子は、少し頬を赤らめていたがそれ以外は特に変化がない。今は飲みはじめてから顔色ひとつ変わらない梶の話に付き合っている。一方、俊樹の真正面にいる光はといえば、たまに梶や妙子に話しかけられたときだけ簡単に応答する程度で、俊樹たちや時々店の様子を眺めながら黙々と食事をしていた。

そのとき、俊樹は顔を上げた光と目が合う。

 光は無表情のまま彼をほんの数秒間凝視したかと思うと、そのあとで顔を伏せるようにして席から立ち上がった。

「どうしたの?」妙子が光にきく。

「……御手洗いに行ってきます」

 抑揚のない調子で光が答える。そして妙子に道を開けてもらうと、足早にテーブルから離れていった。

「今日はやけに口数が少ないわね」梶がその後ろ姿を見て呟いた。

「えっと……、光さん? でしたっけ?」

武井(たけい)光ちゃんよ」梶が答える。元々無口な子ではあるんだけど、それでも普段はもう少しくらいは喋ってるはずなのにね」

「口数が少ないのは宮房さんがいるからだと思います」妙子が席に座り直してから話す。「彼女、私たちとはある程度気心が知れていますけど、宮房さんとは初対面みたいなものですからたぶん緊張しているんですよ」

「あの子、知らない人には極度に警戒するのよねぇ。私も慣れてくれるまでは診察するのに苦労したわ」梶がしみじみと頷く。

「武井さんって、幾つくらいなんですか?」彼が二人に質問する。

「宮房さんより少し下ね。この中では一番若いわ」梶が答える。

「つい最近短大を出だばっかりだったと思います。たしか、学校を卒業してすぐうちの番組のスタッフをしていたって本人から聞いたことがあります。光ちゃんがその仕事を辞めてからまだ一年も経っていません」

「そのあとも職場を転々としてたみたいね。見ても分かると思うけど、周りに溶け込むのが下手な子でね。そのせいもあって、あまり長く同じ仕事が続いたことがないらしいわ」

「そうなんですか」二人の話を聞いて俊樹が呟く。

 どちらかといえば、彼も人付き合いも苦手な方だと自分では評価していた。

 仕事に関しても大勢の人間と関わりながら何かを成し遂げるより、一人きりで黙々と作業をする方が向いていると思っている。だから、学生の頃は働くための技能さえ身に付けていればなんとでもなると考えていた。

しかし就職して痛感したのは、いかに仕事をする上で他者とコミュニケーションを取ることが必要であるかということだった。もちろん、職業によってはさほど重要ではない場合もあるのかもしれないが、基本的に会社に籠って自分のデスクの上で働くことが多い彼でさえそう感じるのだから、今では社会的に重きを置かれている能力だということは理解しているつもりだ。ただ、他人と関わり合いながら働いていると、余計なことで疲れてしまうということも俊樹は知っている。

 あれでは相当苦労するだろう。

 彼は、光から受ける印象や梶と妙子の話を聞いてそんな想像をしていた。

 それから少しすると俊樹もトイレに立つ。

 立ち上がった瞬間の感覚のずれ、そして店内を歩く度に覚える浮遊感から、自分がほろ酔い以上酩酊未満であると自覚できた。

 明日も仕事があるというのにこんな状態で大丈夫なのだろうかと思う。

「ま、いいか」俊樹は一瞬脳裏にちらついた不安をそのひと言で対処してみる。

 アルコールが入っているおかげか、それは思ったよりも簡単にキャンセルされた。

 トイレは店の片隅に設置されていた。

 通路の突き当りに化粧室と書かれた看板が貼られており、その脇には暖簾がかかった通路があった。そのすぐ奥には道が左右に分かれている。

 俊樹は、T字路にを右折してその先にある紳士用のドアを開ける。

 居酒屋のトイレといえば小さな個室というイメージがあったが、それに比べるとこの店のスペースは広かった。

 個室の一つは使用中だったが、他には彼以外誰もいない。

 俊樹は個室を使わずに用を済ませてから洗面台の前に立つ。そこでふと腕時計を見下ろして既に食事を始めて二時間が経過していることを知る。そのあとで視線を上げると、正面の鏡には顔が赤くぼんやりとした表情の自分が映っていた。

 彼は軽く溜息してから顔を洗う。ひんやりと気持ちいい水を浴びると顔の火照りが静まり、少しだけ意識がしっかりした気分になれた。

 すると、そのとき背後のドアが開いて誰かが入ってくる。

 俊樹が鏡越しに目をやると、そこには中年の男性が立っていた。

背は低く、着ていたアロハシャツからは突き出た腹のラインがくっきりと浮き上がっている。男は目を開けているのか瞑っているのか判断し難いくらい眠そうな顔をしており、俊樹のことなど気にも留めずに覚束ない足取りで後ろを通過していった。見るからに泥酔しているのが分かる。

 さすがにこれよりかは自分の方がマシだろうと思うと、俊樹は男と入れ替わる形で外に出た。

 座席に戻ってみると、そこには梶の姿しかなかった。

 妙子がいた場所には彼女の荷物だけがぽつんと置かれ、光もまだ帰ってきていない。

「あれ? お一人ですか?」

「妙子ちゃんもおトイレに行っちゃったわ」梶が答える。「ほら、貴方も食べなさい。注文した物を残すなんて勿体ないことしちゃだめよ」彼は焼酎のロックを飲みながら食事を口に運ぶ。

 それを見習って俊樹も残り物の始末に加わる。

「それにしても女性って面倒よね。男ならさっと済ませるものにもいちいち時間をかけないといけないんだもの……、あぁでも、それはそれで当事者からしたら楽しいものなのかもしれない。そう考えるとちょっと羨ましい気もしなくはないわね」梶が独り言のように呟く。

「あの、先生は女性になりたいんですか?」そこで俊樹がきいた。

 自分でも思い切ったことをしたとすぐに考えたが、もう口に出してしまったものはしょうがない。酔った勢いというのは、往々にして人を大胆にさせるものなのだ。

「だとしたら面白いと思わない?」梶がにっこりと微笑む。「もし願いごとが叶うのなら、性別の変更は必ず候補の一つにはなるでしょうね。一度でいいから女性の感覚で世の中の物事を捉えて、日々の生活を送って、そしてたまに恋愛とかもしてみたいものだわ」

 俊樹は、じみじみと話す梶が目を細めてこちらをじっと見つめるのに気づいて思わず息を止める。

「もしかして貴方、私のことを何か誤解しているんじゃないの?」

その様子を見て梶が言う。

「言っておくけどね、私、今まで男なんかに興味を持ったことは一回もないんだからね」

「えっ、そうなんですか?」俊樹が少し驚く。

「そりゃそうよぅ。男がどんな生き物なのかっていうのは、この三十うん年の間で嫌ってほど体感させてもらってますからね」梶が話す。「この声は生まれつきのものだし、小さい頃から女だらけの環境で育っていたから話し方もこんな風になっただけで、それ以外はごく一般的な男性そのものよ」彼は苦笑いをする。

「はぁ……」

「まぁ、オカマと間違えられるのはいつものことだからもう何とも思ってないし、他の人とは違うんだって自覚も持っているわ。そのおかげもあって、私はずっと昔から、人間どんな変わったことでもしないよりかはした方が良いと思えるようになったの。いろんなことを体験すると、新しい立場から物事を見ることできるようになる。そうすれば、経験した数だけのハッピーエンドを選べる可能性ができるわけだからね」

「ハッピーエンド?」

 そのとき、ちょうど今戻ってきたばかりの妙子が話に割り込んでくる。

「おかえりなさい」梶が声をかける。

「ねぇ、そのハッピーエンド選ぶっていうのは何なの?」彼女は暖簾をかき分けながらもう一度同じことをきいた。

「ハッピーエンドといえばハッピーエンドよ」

 当たり前のように繰り返す梶に、席に着いた妙子が首を傾げる。

「……言ってることが全然分からない。宮房さんもそうでしょう?」

「ええ、まあ」

 俊樹も彼女に同意すると、二人で梶に注目する。

「つまり、どういう終わり方ができるのかってことよ。簡単に言い換えると……、そうね、満足できる死に様ってところかしら」

「死に様?」

 梶の台詞を繰り返したあとで妙子は表情を険しくする。

「どうしたの? 何もそんな顔をするほどのことじゃないと思うけど」

 一方の梶はいたって平然とした顔で言った。

 そこで彼女が再び俊樹の方を見る。

 俊樹は彼女と目を合わせてから、同じように眉を寄せてみせた。

「ならきくけど、人間って一体なんのために生きてるわけ?」

 二人が渋い顔するのを見て梶が問いかける。

「なんのためって言われても……、ねぇ?」

「それは人によって違うと僕は思いますけど」

 妙子に促されて俊樹が答える。

「うーん、宮房さんが言っているのは、いわゆる個々が生きてゆく上で目指そうとしている目標のことで、私がききたかったのはもっと大きな視野での話。例えば、自分が決めた目標が達成できたからと言ってそれで人生が終ってしまうわけではないでしょ?」

「それはたしかに」俊樹が頷く。

「人は何かを成し遂げるために生きているんじゃない。そういう記憶や記録に残るものは、ほんの些細なことでしかない。人生っていうのは、最期のときに自分がどんな生き方をしてこれたのかを評価するための資料なのよ。よく言うじゃない、人は死ぬ直前に生まれてからの記憶が走馬灯のように流れるって話。あれって意外と間違ってないと私は思っているわ。自分の生き方が満足できるものだったのかどうかを判断するには、そうやって過去を振り返れる機会があって然るべきだものね」梶が話す。「だから、全ての人間は死という大きな目的が前提としてあって、それが訪れる瞬間をより良いものにしてゆくために必死になって生きているんじゃないかなって思うの」

「要するに、人は死ぬために生きているってこと?」

「そうよ。自分が死ぬときになって、あぁ良い人生だったなって思えればそれ以上のハッピーエンドはないはずだわ」彼が妙子に答える。

「死ぬために生きている、ですか。深い話ですね」

「そうかしら? 私にはなんだか矛盾に感じるけど」

 俊樹は梶の説に感心したが、妙子の方はどうも納得できないらしく首を左右に捻っていた。

「そうねぇ、もっと前向きな言い方をするのなら、生きている間は自分が設定したチェックポイントだらけで本当のゴールなんて一つもないんだから、細かいことなんかいちいち気にしないで自分の思うように突っ走りなさいってところかしら」

 梶はそう言ったあとで部屋の外を眺める。

「それにしても、光ちゃん遅いわね」

「あ、そういえばそうですね」

 梶の話に聞き入っていた俊樹は、光のことをすっかり忘れていた。

「私が戻ってくるときにはまだ個室に誰かいたみたいだったから、きっとそれが光ちゃんなんだと思ってたんだけど」妙子が言う。

「もしかして最初から体調が良くなかったのでは? この店に来てから大人しかったのもそのせいだったとか」

「どうなんだろう? 私には普段と変わらないように見えましたけど」

「今日はいつもより料理を頼んでるから、食べ過ぎとかで調子がおかしくなっちゃったのかもしれないわね」梶が心配そうな顔をする。

「ちょっと様子を見てこようか?」

「うん。お願いできるかしら?」

 妙子が梶に頷いてから席を立とうとする。

 そのとき、突然甲高い叫び声が俊樹たちの耳に届いた。

 三人はそれに反応すると、身を乗り出して暖簾の外を見渡す。

店内では、店員や他の客たちも彼らと同じように声がした方向を窺っていた。

「今の、光ちゃんじゃなかった?」

 短い悲鳴が途切れたあとで妙子がぽつりと呟く。

 三人が向いている先は、まさにトイレのある方角だった。

 すると次の瞬間、まず梶が席を飛び出してゆく。

 それから少し遅れる形で俊樹と妙子がそのあとを追った。

 三人が急いでトイレに向かうと、そこには既に店員と客たちが数人いた。

 俊樹たちも急いでその人だかりに加わる。

 人々はT字路の手前で立ち止まったまま目の前を凝視しているだけだった。

 俊樹がそちらを見ると、T字路の突き当りには尻餅をついている学生風の若い男性を発見する。男は目を見開いたまま荒い呼吸をしていた。

「光ちゃん!」

 そこで梶が声を上げると、彼は野次馬たちをかき分けて前進する。

 それに続いた俊樹は、放心している男のすぐ後ろ、向かって左側のドアの前で光が呆然と立ち竦んでいるのを確認する。

寄りかかるようにしてドアに背を預けている光は、両手で口を覆ったまま表情を凍らせていた。

 そのとき俊樹は、T字路にいる二人がずっと同じ一点から目を離さないことに気づく。

「ねぇ、あれ……」隣に並んだ妙子が彼の肩に触れる。

 俊樹が横を向くと、彼女は光が居る場所とは反対側を指さしている。その顔には驚きと怯えの色が見える。

 それを不審に思って俊樹もそちらを覗き込むと、そこにあった光景を目にして思わず息を飲んだ。

 ドアが開け放たれていたせいで、トイレの中は丸見え同然だった。

そして今、俊樹の視界には白目を剥いて床に倒れている男がはっきりと映っていた。

 彼はその俯せの男に見覚えがあった。

つい先刻トイレで見かけた、あの具合の悪そうな男性だった。


                   5


 居酒屋に警察がやってくると、元々騒がしかった店内は別の意味で慌ただしくなった。

 俊樹、梶、下村の三人はトイレから少し離れた場所で動揺する光の介抱をしていたが、そこに現われた制服姿の警官からひとまず席に戻るように言われると、それに従うことにした。

 俊樹は通路脇で休んでいた光に手を貸して立ち上がらせると、その様子を窺いながら寄り添って歩く。

 光はこの数十分でたいぶ落ち着きを取り戻していたが、まだショックの尾を引いているように見えた。

 あんな場面を不意打ちで目撃したのならそれも致し方ないだろう、と彼は思う。

 結局、警察が来るまで間にトイレで倒れていた男性に近づこうした者は誰もいなかった。実際に確認しなくとも、男が既に事切れているのは一目瞭然だった。

 席に戻る途中、俊樹は店の至るところで警官の姿を目にした。正確な人数までは数えなかったが、見つけただけでも軽く十人は越えていた。

 自分たちの個室に落ち着いてから少しすると、警官の一人が大きな声を出して店内の人間たちに話しはじめる。

 トイレの近くでアクシデントが発生したため、現在その周辺は警察以外の出入りを禁止している。また警察が調査している間は、全員店内で待機し許可なく店の外へ出ることは決してないようにしてもらいたい。要約するとそのような内容だった。

 客の中にはその説明に不満の声をあげる者もいたが、大半はこの異常な状況を察して大人しくその言葉通りにしているようだった。

次の指示があるまで、俊樹たちはしばらく誰も口を開こうとしなかった。

光は目を伏せてじっとしており、梶と妙子は緊張した面持ちで暖簾の外側を気にしている。

 もう酒を飲む気分ではなくなっていた。

 次第にアルコールが抜けていくのを俊樹は感じる。

 妙子の顔色を見てみる。彼女も既に酔いから醒めているように思える。

そういったものが一切顔に出なかった梶もおそらく素面に戻っているはずだ。

「私たち、いつになったら帰れるんだろう?」

 説明があってから随分時間が経ったあとで妙子がぽつりと呟く。

「個別に事情をきいている最中なのかもしれないわ。今は待つしかないわね」梶がそれに答える。

 あれ以来、警察は何も言ってきていなかった。

「光ちゃん、まだ具合悪い?」

「さっきよりは良くなりました。もう平気です」

 心配そうに見つめる妙子に向かって光がぼそりと言った。

 そこからさらに時間が過ぎたところで、俊樹たちのもとに一人の男性がやって来た。

「警察の者です。こちらに先ほどの件を目撃された方がいらっしゃると聞きましたので、少しお話をお伺いさせてもらいたいのですが」男は警察手帳を見せながら言った。

 背が低くていかにも貧弱そうな体格をしてるその男は、どこかの気弱な営業マンにしか見えない。手帳がなければとてもじゃないが刑事だとは思われないだろう。

「お疲れ様」

 すると、俊樹が軽く手を挙げて刑事に挨拶する。

 手前に座る梶と妙子を見ていた男は、その声でようやく奥の席まで目を向けると途端に驚きの声をあげる。

「おい、お前っ……、なんでお前がこんなところにいるんだ!」

「たまたま飲みに来てたんだ。別に怒鳴るほどのことじゃないだろ?」俊樹は冷静な声で言い返す。

「えっ? なに? どういうこと?」

 それを見ていた梶が困惑した様子で言う。

「彼、僕の親戚なんです」

 そこで俊樹は恥ずかしそうに言った。

 彼らの前にいる若い刑事は、その名を棚部(たなべ)雅史(まさふみ)と言い、俊樹の従兄であると同時に一つ屋根の下に暮らす同居人でもあった。

 警察が現れた時点で、俊樹はこの従兄がここにやって来る可能性を考えていた。

「へぇ、身内の方に刑事さんがいるのって、なんだかかっこいいですね」

「そんなことはないですよ」俊樹は羨ましげに話す妙子に苦笑いをすると雅史に視線を戻す。「それで、どんな状況なわけ?」

「細かいことはまだ分からん」雅史が答える。「とりあえず今は、目撃者の方にあちらで少しお話を聞かせてほしいのです。店の人からは女性だと言われたのですが」

「この子です」妙子が光に目をやる。「でも、少し具合を悪くしているのでちょっと……」

「お時間は取らせません。それとも、体調が優れないようでしたら今から救急車をお呼びしましょうか?」雅史は真面目な顔で光に尋ねる。

「大丈夫です。行きます」光がそう答えてから立ち上がった。

「お手数をおかけしますがご協力お願います」雅史が頭を下げる。そして後ろに控えていた警官に指示を出して光を別室に案内させた。

「で、俺たちはいつになったら帰れる?」

 その場に残った雅史に俊樹がきく。

「皆さんにもこれからお話を聞かせてもらいます。それが終りましたらお帰りになっても結構です。ただ、今後の状況によっては後日またお伺いさせていただくかもしれませんので、帰られる際には出入口にいるうちの者にご連絡先をお伝えください」雅史は事務的な口調で告げたあとで三人に質問をはじめた。

 しかし話と言っても、俊樹たちはただ光の悲鳴を聞いてから駆け付けただけなので、これといって有益そうな情報はほとんど持っていなかった。

「ちなみに、例の男性に面識があるという方はいらっしゃいますか?」

「さぁ……。一応顔はちらっと見ましたけれど、あんな状態の人をじっくりと観察はできませんからなんとも。たぶん知らない人なんでしょうけど」

 雅史の質問に梶が回答する。妙子もそれに頷いていた。

「あの人は俺と入れ違いでトイレに入ってきてた。結構酔っ払っている感じだった」俊樹が雅史に話す。

「それは騒ぎが起こるどれくらい前の話だ?」

「うーん、あのときは俺もほろ酔いで記憶がぼんやりしてたし……、あぁでも店に入ってから二時間ぐらい経ってたのは覚えてる。正確な時間まではよく分からないけど」彼は肩を竦める。

「お二方はそのときのことを覚えていますか?」

「宮房さんのすぐあとに私もお手洗いに行ったのですが、たぶんそれは十五分とか二十分くらい前だったような気がします。薫ちゃんはどう?」曖昧に答えてから妙子が梶にきく。

「私の方は全然駄目ね。今はだいぶまともになってきてるけど、昔からお酒を飲んでたときの記憶ってほとんどないの。見た目は変わらないんだけど、実はすぐに酔っぱらっちゃう体質なのよね」

 梶はそう言ってからけろりと笑った。

 そうしているうちに、光が俊樹たちのところへ戻ってくる。

 雅史は質問を終わらせて梶たちに礼を言うと、トイレのある方角へ去っていった。

「じゃあ、そろそろ帰りましょうか?」

 梶が言うと俊樹たちはそれに頷いた。

 四人は、店の入口で待機する警官による手荷物チェックをパスしてから外へ出る。

「今日はとんだ目に遭ったわね」

 建物から少し離れたところで梶がひと言呟く。

「終電には少し余裕がありますから、とりあえずギリギリセーフではありますけど」俊樹が時計を確認する。

もう深夜である。当初の予定よりも大幅に遅くなってしまっていた。

「ああもう……、こんなに遅くなるつもりなかったのに」妙子がぼやく。「おまけにあんなのまで見ちゃったんだから、それまで楽しかったのが台無しだわ」

「本当にそうよねぇ」梶が同情するように言う。「でもこういうことって、普通はしたくてもできるものじゃないんだから、そう考えたらこれはこれで貴重な体験ができたとは思わない? 不謹慎なのは承知で告白するけど、私、今ちょっと新鮮な気分だったりするのよね」

「……薫ちゃん、それ、ポジティブ過ぎるわ」

 そうやってにこやかに話す梶を見て、妙子はうんざりした顔で大きく息を吐いた。

次話は5/6(火)20:00ごろの投稿予定です

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