知りもしない身体
第二章 知りもしない身体
1
「鬱病!」村瀬千寿留は大きな瞳をさらに見開いて叫んだ。
「ちーちゃん、声、声」
「あ、ごめん」
総務課の柏木に指摘されると、千寿留はそこで自分の声量に気づいて咄嗟に空いていた手で口を押さえる。
「でも、だって本当にびっくりしたから」
彼女は恥ずかしそうに周りをきょろきょろと窺いながら今度は小声でそう付け加える。
会社の近所にある小さなお好み焼き屋はまずまずの盛況だった。他の客は一瞬だけ千寿留に目をやったが、すぐに関心を失ったらしく既に自分たちの会話に戻っている。
会社には食堂がないので、昼食は居室に食事を持ち込むか、でなければ外で食べるかの二択しかない。宮房俊樹は、千寿留たちに誘われて今日は外食にしていた。
鉄板の置かれたテーブル席には、俊樹と千寿留、そして汐見と柏木が向い合せになって座っている。
「僕だって言われたときは驚いたよ。今もそんなの何かの間違いだろうって思ってるくらいだし」俊樹が言う。
このメンバは社内でも年齢が近いこともあって、いろいろとプライベートな話をする程度には仲も良い。彼は、食事をしながら昨日の出来事を三人に話したところだった。
「あの産業医の先生は優秀だって佐久間さんが言ってた。以前も社内で鬱になりかけてた人を何人も見つけてるんだって」柏木は手元の皿に乗ったモダン焼きを割り箸でつつきながら言った。
「この業種って、そういう心の病気にかかる人って結構多いのかしら?」
「どうだろうな……、たしかに納期だ障害だ何だって感じでやるべきことは多いし、それプラス品質維持ってのもあるから、自然と作業工程が膨らんで激務にはなりやすい環境だとは思う。で、プロジェクトによってはそれが長々と続くわけで、そうなると徐々に疲れが溜まって、そのまま精神的な負担に繋がるってケースはあるかも」汐見が答えた。
「俺のどこが鬱なんだろ?」俊樹が言う。「そりゃあ疲労困憊なのは自覚してるけど、情緒不安定だと思ったことは一度もないんだけどなぁ」
「だけど、宮房君って仕事のときはいつも一杯一杯な顔をしてるよ」
「そうそう。それが鬱病なのかは分からんけど、仕事をやりはじめると、そのことで頭の中が一杯になるだろ? だからこの前みたいにオーバーワークでぶっ倒れたりするんだよ」
柏木に続いて汐見が言った。
「この前って?」
「こいつ、前の土曜日に調子悪いのにわざわざ仕事しに来た挙句に気絶してるんだよ。俺たちがいたからまだ良かったけど、あれが一人きりだったら、もしかすると大変なことになってたかもしれない」汐見は千寿留に説明する。
「お前、佐久間さん何か言ったんじゃないだろうな?」
「そんなわけあるかよ。もしそうなら総務なんかじゃなくてまず部長にどやされてるだろ」
「あぁ、それもそうか」汐見に言い返された俊樹は彼を睨むのをやめる。
「あの場にいた誰かがうっかり話してたのが耳に入ったのしれんが、どちらにしろあんな働き方してたら遅かれ早かれこうなってたんじゃないか?」汐見はそう言って鉄板に手を伸ばす。「因果応報ってやつだな」
他の三人とは違い、彼だけは焼きそばを注文していた。
「それで、これからどうなるの?」
「うん、産業医の人が紹介状を書いてくれるらしいから、それ持って病院に行ってこいって佐久間さんに言われたよ」俊樹は千寿留に 答えてから次に柏木を見る。
「そういえば病院はどこか決まってたりするの?」
「かかりつけの病院があるのならそこへ行けばいいんだけど、なければ自力で探すか、お願いすれば先生が斡旋してくれることもあるみたい」
「ならちょっと頼んでみるか。どこの病院が良いとかって全然分からないし」
俊樹はそもそも病院との縁が薄い。
これまでの人生で彼が入院するほどの怪我や病気になったことは一回もなく、通院した記憶も小学生の頃に虫歯を治療したとき以来思い当らなかった。だが特別身体が丈夫かと言えば決してそうではなく、要するに昔から無茶なことはしてこなかっただけだろうと自分では解釈していた。
「そういうお医者様なら、少し心当たりがあるわ」そこで千寿留が言う。「といっても、あたしが通っていたわけじゃないから実際にどんなところなのかまでは説明できないんだけど、病院の評判はなかなか良いらしいわ」
「へぇ」
「宮房君がいいなら、一度きいといてみようか?」
その千寿留の提案を聞いた俊樹は少し考える。
「うーん。なら、お願いしてもいいかな? 一応自分でも探してみようとは思っているけど、行ってみるならそういう口コミがある所の方が良いかもしれないし」
「了解。任せといて」千寿留はそれに笑顔で快諾してくれた。
昨日の今日ということもあるだろうが、俊樹はまだ自分の精神状態に問題があるとは思えなかった。正直な話、医者に指摘されたからとりあえず言われるがままに従っておけばいいだろう、というくらいの感覚でしかなく、千寿留にも軽い気持ちで返答をしてしまっていた。
だが後日、千寿留の回答を受けてから病院の予約を取り、産業医からの紹介状が手元に届いたことでそれに現実味が帯びると、彼は自分の身に起こっている事態をしばしば考えるようになった。
もし本当に鬱病だと診断されたとしたら、自分はこの先どうなっていくのだろうか?
例えば、会社の人たちは精神を患った自分に対してこれまで通りに接してくれるのか、いやそれ以前に、今までと同じように働くことができるのだろうか?
思い浮かぶのはいつもネガティブなことばかりだった。
また、一度それを想像してしまうと不安は雪だるま式に増えてゆき、もしかしたらこれを境に自分は会社や世間から見放されるのではないかと気が滅入ることもあった。そしてその状態が続くと、やはり自分は精神的に病んでいるのだと思い込んでしまい、また悪い方向へと考えを巡らせてゆくのだった。
思考の悪循環によって危機感を持った俊樹は、いつの間にか診察の日をやたらと気にするようになった。そしてそれが着実に近づいているのを確認するたびに、まるで条件付けがされた犬のように緊張し、憂鬱な気分を呼び起こしていた。
2
初めて通院する日、俊樹は午前中だけ仕事をして午後からは休みを取った。
千寿留に薦められた病院は、市内の中心地であるJRの駅前から路面電車を使ってすぐのところにあり、会社からも比較的通いやすい場所だった。
千寿留の話では、以前そこに彼女の友人が通っていたのだという。
俊樹としては自宅から近い方が何かと都合が良かったのだが、彼の住む地域には適当な病院がなかった。また、千寿留の友人はそこへ行ったおかげで病状が改善したということがそこを選んだ大きな理由でもあった。
電車を降りた俊樹は、横断歩道を渡りながらプリントアウトしておいた地図を取り出す。この周辺には県内でも有数の観光施設があり、彼が歩いている大通りの東端をさらに東に進めば、ビルや店が立ち並ぶ風景から一変して趣のある情景を感じることができる。
俊樹は大通りの突き当たりを左折すると、道路を挟んだ反対側の坂道の中腹にある白いビルへ足を向けた。その建物は一階部分が薬局になっており、ガラス扉の向こうには市販の薬品や栄養ドリンクが陳列され、奥のレジには白衣を着た女性の姿があった。彼は店内を一瞥してからそのままビルを素通りし、その隣にあるクリーム色の小さなビルに入ってゆく。
狭いエレベータホールの壁にはビルのテナントが書かれた看板があった。俊樹は、その中にある烏城クリニックという名前がある階を確認してからエレベータに乗り込む。
それが予約を入れていた病院だった。
烏城クリニックは、エレベータを出た先に伸びる細い通路の一番奥にあった。入口の擦りガラスには白い文字で病院名と診察時間を示した表が書かれている。
俊樹は緊張した面持ちでその扉を押し開けると、すぐ右に折れた道の先にある受付に向かう。そしてカウンタの中の人に声をかけると、そこにいたピンクの看護衣を着た女性は、俊樹を見て穏やかに微笑みながら挨拶をしてから、彼から紹介状を受け取る代わりに問診票を渡して順番が来るまで背後の待合スペースで待つように告げた。
五つある一人がけのソファには先客が一人いたので、俊樹はそこから離れた席に座って問診票を書きはじめる。そして記入を終えて 受付に提出すると、彼は同じ座席に戻って院内を眺めることにする。
小さな病院だった。受付兼待合室の他には部屋が一つしかなく、そちらには診察室と思わしきドアが二つあった。そのドアの外には、パーティション代わりに天井からクリーム色のカーテンが垂れ、中には簡易ベッドが二つ置かれている。若干手狭な印象はあったが、暖かみのある木目調の床や壁とオレンジで統一された照明、そして頭上から流れてくるオルゴール風にアレンジされた最新のヒットチャートがそれをカバーするかのようにゆったりとした空間を演出していた。空調も程良い温度に調整されている。
俊樹は少し気になって右端にいるもう一人の患者をちらりと窺う。
先ほどからずっと下を向いているのは、読書の途中にうたた寝をしているからだろう。その証拠に頭がうつらうつらとしており、膝の上に置かれた両手の中には文庫本があった。デニムにスニーカというカジュアルな服装で、まだ暑いというのに長袖のカーディガンを羽織っている。肩まで伸びている黒髪にブロックされてその横顔を見ることはできなかったが、おそらく同世代か少し若いくらいの年頃ではないかと俊樹は推測する。学生か、でなければ自分と同じように休日を利用して通院しているのだろう。
この人も何らかの精神的なトラブルを抱えているのだろうかと思った。
じろじろ見るのも良くないと感じた彼は、視線をはずすと腕を組んでぼんやりとする。最初は強張っていたが、時間が経つにつれて座り心地の良いソファと部屋の雰囲気に包まれてリラックスした気分になる。それに従って自然と呼吸も深くゆっくりとしたものになり、それと同調するように意識もだんだんと薄れはじめてゆく。
しばらくしたあとで診察室のドアの一つが開いた。
既にうとうとしていた俊樹は、その音に反応して顔を上げる。
受付に近い方の診察室から一人の女性が出てきたところだった。彼女は扉を閉めると、振り向きざまにこちらを見る。
長身で白いワンピースを着たその女性は、花弁の形をした髪留めを使って腰まで届きそうな長い黒髪を一つに束ねてサイドに垂らしている。彼女は俊樹と目が合うと、少し驚いたように眉を微かに動かしたあとで小さな顔を微笑ませて小さく会釈をしてくる。
知った顔ではなかったが、反射的に俊樹も頭を下げる。好感を持てる笑顔だった。
そこで診察室が再び開いたかと思うと、今度は中から受付とおなじ服装をした中年の女性が現れて俊樹に言う。
「では宮房さん、どうぞこちらへ」
「え、僕ですか?」
「はい、そうですよ」
俊樹が自分を指さして声を上げると、看護婦は当然だというように頷いた。
彼は咄嗟に横を向いてみるが、例の先客からはなんの反応もない。次に待合室の壁に掛けてある時計を確かめる。たしかに俊樹が予約していた診察時刻をちょうど回ったところだった。この病院は完全予約制なので、診察が長引かない限りほぼ時間通りに順番が回ってくる。ということは、座席で眠っている人物は自分のあとに受診する人で、早めに来て待っているだけということだろうか。
俊樹がそうやって状況を整理してみるうちに、ワンピースの女性は受付で会計を済ませてから出口へ歩き出していた。どうやら彼女の連れでもないらしい。
「宮房さん?」
「……あぁ、すみません」
診察室の前に立つ看護婦が首を傾げているのに気づいた俊樹は、とりあえずその指示に従うことにした。
「失礼します」
部屋の中に促されると、俊樹は一礼してから診察室へ入る。
ドアのすぐ右隣には簡易ベッドが一台置かれ、向かいの窓際には大きなL字の机と椅子が二つあった。そして、机に近い方の椅子の前には白衣を着た人物が立っていた。
「初めまして。私は医師の梶と申します。どうぞよろしくね」
梶と名乗ったその人物は、にっこりと笑顔を浮かべながら挨拶をする。
それはごく自然でシンプルな自己紹介だったが、俊樹は呆気にとられた顔で目の前の人を見つめていた。
梶医師は見たところ三十代前半くらいの風貌で、背が高くてがっちりした体格を持った誰がどう見ても男性だと認識できる人物である。しかし今彼が発した声は、その外見とは裏腹に変声期という生理現象を無視した男とは思えない甲高い響きをしていた。そしてさらにいえば、その言葉遣いは完全に女性それと同じだった。
「先生、初めての患者さんですよ」
俊樹が唖然としていると、それを見た看護婦が鋭い声を上げる。
「あら、そうだったわ」指摘された梶医師は、頬に片手をやって大袈裟なリアクションをする。「ごめんなさいね、突然こんな話し方をしたからびっくりだったでしょう?」
「あ、いえ、そんなことは……」俊樹は首を左右にふる。「珍しいというか、個性的だったのでつい」
彼はオブラートな表現をしようと心掛けたが、口に出したあとでそれが上手くいっていなかったことに気づいた。
「できればあまり気にしないでもらえれば私としては嬉しいです。あっ、ちなみにこれは診療の能力とかにも関係性がないのでそれだけは安心してください。ではそちらの席へどうぞ」梶は丁寧に言ってから正面にある椅子に手を向けた。
「はぁ、よろしくお願いします」俊樹はその席へと移動する。
もちろん、世の中にはそういった指向を持った人たちが数多くいるという事実はそれなりに理解している。だが実際にそれを実践している人を見るのはこれが初めてだった。
彼は椅子に腰掛けたあとも、しばらくは正面に座る梶をまじまじと観察していた。
「なるほどね」
紹介状と今しがた俊樹が記入した問診票に目を通すと、梶はそれらを机の上に置いたあとで俊樹と顔を合わせる。
「自覚症状はない、か」
「はい」
「けど産業医の方に言われたからとりあえず診察に来た」
俊樹はそれに頷いてから話し出す。
「仕事忙しいのは今に始まったことではありませんし、疲労が溜まっているのも分かっています。でも、自分がそういう病気なんじゃないかと思ったことは一度もありません。むしろ産業医の先生にそう言われてからの方が、いろいろ考えてしまって憂鬱になっていると思います」
「お仕事は何を?」梶が真面目な顔で質問してくる。
「ソフトウェアの開発をしています。大学を出て入ったところで、勤めはじめて三年半くらい経ちます」
「IT関係の会社ね」梶は納得したように呟く。「それじゃあ、プログラムを書いたりするのね?」
「前はそっちも少しやってましたけど、今はプログラミング以外の仕事を主にしています」
「なるほど。たしかにあの業界は勤務状態が結構厳しいところが多いらしいわね。私も貴方と同じ業種の方を何人も診てきているわ。鬱の症状が酷くてしばらく休職した人もいれば、診察室に入ってきた途端会社を休ませてほしいって頼み込むような人もいたわね。それで、いつもはどれくらいの時間働いているのかしら?」
「朝は一般的な時間に出勤して、仕事が終わるのは終電ぎりぎりかたまに日付が変わっても帰れないことがあります。新人の頃はそれなりの時間帯に帰れたりしたのですが、この二年くらいはずっとそんな感じです。他の会社のことはよく知りませんが、たぶんこの業界では普通だと思います」俊樹が答える。まだ梶医師の見た目と話し方とのギャップには非常に違和感を覚えていたが、話の内容自体は真っ当なものだった。
「お休みは? しっかりもらえてる?」
「忙しいときは休日出勤もあります。この前も土曜日から三日くらい会社に泊まり込んで徹夜で仕事をしていました。そうじゃないときはちゃんと休みはあるんですが、たまに会社に顔を出したりはします」
「休みなのに?」
「はい。一度仕事のことが気になるとそのことばかり考えてしまうので、だったら少しだけでも作業を進めようって感覚で」俊樹が答える。
梶は小さく頷きながらそれを聞くとさらに質問を続ける。
「なら、会社に行っていない休日はいつも何をされてるの? 例えば平日の仕事が忙しい分、その気晴らしに外出したり、趣味を楽しんだりとかあると思うけど」
「そうですね。特別な用事がないときは、何をするでもなく部屋でダラダラしたり、外に出てみたりしています。ですが、随分前から 平日の仕事の疲れが溜まっているせいか、外出する気も起こらなくなって一日中部屋でぐったりすることが多くなりました。休みのうちに少しでも体力を戻しておかないと、仕事がはじまったら身体がついていかなくなりますから、敢えて外を動き回って疲れるようなことは意識的にしなくなりました」
「なるほどね。じゃあ次の質問。毎日ちゃんと食事は摂っている?」梶が質問を変える。
「はい、三食食べています」
「睡眠は?」
「帰れるのはいつも深夜なので寝る時間は短いです。睡眠不足なのは前から感じていますけれど、最近は疲れすぎて逆になかなか寝付けないときもあります」
「ちなみに、性欲の方はどう?」
「えっ」思いがけない問いに俊樹は一瞬戸惑う。「……まぁ、人並みにはあると思います」
「いえ、そうじはなくて、以前に比べるとどんな状態かを教えてもらいたいのだけれど。旺盛になったとか減退したとか」
「あぁ、そういうことですか。ええ、それは変わっていないと思います」
改めて尋ねてくる梶を見て、俊樹は自分の勘違いに恥ずかしくなりながら言った。
「今、お付き合いしている人は?」
「いいえ、いません」彼は首をふって答える。
既に真顔に戻っていた梶は、そこで机の引き出しから一枚の紙を取り出す。
「これから簡単な心理テストをしてもらうわ。あまり考え込まないで解いていってくれればいいわ」彼はその紙と筆記用具をテーブルに置きながら言う。「私はこっちを向いているから、終わった教えてちょうだい」
説明を終えると、梶は椅子を反転させて後ろにあるパソコンの操作をはじめた。
そこで俊樹は、梶の指示に従ってテストを解くことにする。
プリントに書かれていた問題は、それぞれの質問に対して、はい、いいえ、どちらともいえないの三つの選択肢の中で答えてゆく形式のものだった。
彼は全部で四十問程度あった問題をすぐに回答すると梶に声をかける。プリントを受け取った梶は、俊樹を待たせると再び後ろを向いてそれに何かを書き込んでゆく。そしてしばらくしてから手を止めると、再度体の向きを変えて俊樹と対面する。
「どうでしたか?」
俊樹が緊張して尋ねると、梶は小さく頷いてから口を開く。
「うん、そうね……。少なくとも現時点では鬱状態と呼ぶまでの症状ではないわ」
「そうですか。良かった」俊樹はほっとする。
しかし、梶は真剣な表情を崩すことなく続ける。
「ただね、話を聞いた限りでは貴方が鬱病になる危険性は充分に考えられるし、テストの結果でも、どちらかといえばそういうものになりやすい傾向が出ているの」
「それは、どういうことですか?」俊樹が眉間に皺を寄せてきく。嫌な予感がした。
「宮房さんって、もしかして仕事をしているときはあまり疲れを感じなかったりするのかしら?」
梶が逆に質問してきたので俊樹はそれに答える。
「そんなことはありません。疲れていることはちゃんと自覚しています。ですが、いつも納期までに作業を終わらせることに必死なので、いちいち身体の調子を気にしている余裕がないときはあります。だから、その反動で仕事が終わったあとにどっと疲労感に襲われたりしますけど」
「貴方、日頃から仕事のことが頭から離れないタイプでしょ? 例えば、朝起きたらまず最初にその日やらなければいけない仕事を整理して、頭の中でスケジュールを立てたりとか、休みの日でも、何かのきっかけで仕事のこと思い出すとそれのことが気になって気になって他のことに手がつかなくなる。そうなんじゃない?」梶が言った。
その指摘は図星だった。
俊樹は無言で首を縦にふる。
「どうやら、宮房さんは責任感が強い性格みたいね。そのせいもあって、自分が任されたことは最後まで完璧にやり遂げないといけないって気持ちが他の人より少し強い」梶が話す。「別にそれは悪いことではないし、むしろそれは模範的な姿勢だと私は思うわ。だけど宮房さんの場合、こなそうとする仕事量が多すぎるのとその性格のせいで、結果として仕事への依存度が高くなってしまっているわ。だからおそらく今のままの状態で働き続けると、いずれ心も体もストレスに耐えきれなくなるはずだわ」
そう話し終えてからも、彼は俊樹から目を離そうとはしなかった。
「なら、どうすればいいんですか?」
「とりあえず就業時間を現状より減らした方が、というよりも、ごく一般的な勤務時間に戻してもらうように会社に申告するべきね。 今は明らかに働き過ぎだもの」梶が即答する。
「そんなことをしたら仕事が成り立たなくなります」そこで俊樹が言う。「それにうちの職場ではほぼ全員が同じような状況ですし、どちらかといえば僕なんてまだ楽な方なんです。ストレスを抱えてる人は他にも沢山いるはずですから、僕一人だけ仕事の負荷を減らしてくれと言うのは難しいと思います」
彼がそうやって反論すると、梶は呆れたような表情を浮かべながら溜め息をついた。
「いい? ストレス耐性っていうのは、貴方の今言ったような相対的な尺度で測れるものではないの。許容できる度合いは個々で違うし、たとえ強い負荷がかけられてもそれを逃がす方法を知っている人だっている。宮房さんは真面目な性格をしているから、真正面から頑張って仕事に取り組んで、それで無理をしてしまうパターンになりやすい。でも、要所で気分転換をして息抜きができるタイプでもないと私は思うの。そういう人は、受けたストレスを溜め込む傾向にあるわ。それでなくとも貴方が勤めている職場は、他から見たら非常識だと言われてもおかしくないくらい忙しいのだから、今の時点でも貴方にかかっている負担は相当なもののはずよ」
「でも、仕事をきっちりこなすのは雇ってもらっている身分からすれば当然のことなのではないでしょうか?」
「たしかにそうね。だた、自分を犠牲にしてまで尽さなければならないかというと必ずしもそうではないと思う。少なくとも、こんなところに来ないといけなくなるまで神経をすり減らすことはない」梶が言う。「心身が健全であることは生きてゆくために必要不可欠だわ。そして、その中でも精神のバランスを保つことは体調を管理することよりも難しくて替わりが効かない。だって、肉体的な疲労であれば気を張っていればある程度は我慢できるかもしれないけど、精神的な疲労はいくら体力が有り余っていてもそれで補うことは決してできないのだから」
梶は厳しい口調で俊樹に言うと、身体をデスクの方へ向ける。
「診断書には勤務時間を減らすように書いておくから、明日にでも会社に提出しなさい。とりあえず今は、少しでも心身を休ませる時間を作った方がいいわ。宮房さんからすれば、仕事をさぼってるみたいな感覚になるかもしれないけれど、これも長く働いていくための立派な仕事の一つみたいなものよ。まぁこれを機会にして、今後は要所でガス抜きしながらお仕事をする術を考えてみても良いんじゃないかしら」彼は頭だけを動かしてちらりと柔らかな表情を見せる。
俊樹はそこから有無を言わせない雰囲気を感じ取ると、口をつぐんだまま黙々とカルテに記入をする梶の横顔をじっと眺めることしかできなかった。
3
診断書の中身は、当面の間、残業や休日出勤をさせないようにという主旨のものだった。
これを会社に提出すれば、きっと上司たちは嫌な顔をして渋るだろうと考えた俊樹は、その日は一日中浮かない気分だった。しかし 翌日、彼が恐る恐る診断結果を報告してみると、上役たちはすんなりとそれを了解し、診断書も何の問題もなく受理されるとすぐに具体的な対処ついての話し合いが行われた。
その中で俊樹は、課長から今後は病院の了承があるまで定時退社を厳守するように言われ、さらに部長からは、未消化の夏休みを翌日からでも取ってみてはどうかとも打診された。だが、それは現在進行している作業の関係で無理という話になり、最終的にその休みは断続的に取得するという形で纏まっていた。
上司たちの反応は、俊樹の予想から大きく外れたものだった。小言の一つや二つは覚悟していた彼としては、その対応の素早さに拍子抜けどころか困惑すらしていた。
昼休みのときにその一部始終を千寿留たちに話してみた。彼らは彼を心配したが、誰も診断結果や会社の判断に驚くようなことはしなかった。
その日から俊樹は、社内の誰よりも早く退社することになった。
これまでは外が真っ暗になってからしかビルを出ることができなかったので、まだ日が沈み切っていない夕刻の街並みや、終電前の閑散とした光景とは違い、人混みで溢れ返る賑やかな繁華街がとても新鮮に映り、こういうのも悪くはないと感じた。
だが、そんなことを思えたのは初めだけだった。
数日すればその風景にも飽きてしまい、賑やかな街からは雑多な煩わしさしか感じなくなっていった。また、今までなら帰宅すれば急いでベッドに入らないとすぐに朝になってしまっていたのに、何度確認しても時計の針は一向に進まず、このまま日付が変わることはないのではないかと思えるほど夜の時間は長かった。
急に与えられた余暇をどう過ごせば良いのか分からなかった俊樹は、日が経つごとに生活リズムが変化したことを実感してそれに戸惑いを持ちはじめていた。
彼は少しでも手持無沙汰な時間を消費するために誰かに協力してもらおうと考えた。といっても、彼の友人たちの多くは県外で生活をしており、そうでない者も同業者ばかりで相手をしてくれないことは容易に想像できる。そうなると、頼れるのは必然的に仕事をしていない凪森だけに絞られていた。
そこで勤務制限が始まってから一週間ほどしたある日、俊樹が凪森に連絡を入れてみると、友人はいつもの愛想のない声で彼の訪問を歓迎した。
4
「要するに、俺ってこれといってのめり込んでるものがないんだよな。だから家にいても何もすることがないし、ただぼうっとしていても無駄に時間を使っている気がしていつの間にか焦ってるのが分かる。でもだからと言って用もないのに外に出かけようかと思うと、それはそれで、なんか強迫観念で仕方なくって感じがしてあまり良い気分にはならない。だから結局は何もやることがないことに気づいてふりだしに戻る。はっきり言って、一日中働いていたときの方が気分的には楽だったよ」俊樹は言い訳をするように話した。
「そこまで気を回す余裕がなかったということは、つまりそれだけ仕事に依存していたという証拠だ」
「自分ではそんなつもりじゃなかったんだけどなぁ」
俊樹は、煙草の煙を吐く凪森を眺めながらマグカップを手にして呟いた。
テーブルにアルコールはない。昼時ということで、二人は健全にコーヒーを飲んでいる。
「だけど、この頃少し考えるようになったんだ」俊樹が話す。「俺は就職してから必死で仕事をこなしてきた。それが評価される結果に繋がっていたかどうか別にして、人員が少ない中でそれなりには貢献しているつもりだった。なのに会社は、今回のことを二つ返事で快諾して、俺がメインで受け持っていた作業もさっさと他の人に任せた。それで俺もようやく理解できたよ。会社からすれば単に人出が欲しかっただけで、俺個人を必要としてたわけじゃなかったんだなって」
「企業としては、ドクターストップがかかった人間を従来通り働かせるわけにはいかない。だから仕方なかったのでは?」
「それもあるかもしれない。でも本当にそれだけの理由なのかなって。最初から俺は捨て駒でしかなかったってことも充分あるだろ? そりゃ今日みたいに平日に休めたりするのは体力的には助かるけど、暇な時間ができるとそんな余計なことまで考えちゃって、精神的には逆に今の方がきつい」
「それ以外にも気になることが?」
「あるね。例えばいつまで状態こんなが続くのかとか、これが治って普通の生活に戻ったときに周りは俺をどんな風に見るようになってるのかとか、考えれば考えるほど憂鬱になるよ」俊樹は深く溜息をついた。
「治るも何も、その変わった医者の診断だと鬱病ではなかったんだろ?」
「だけどその傾向はあると言われている。要するに予備軍みたいなもんなんだよ」彼が言い返す。「鬱病ってのはつまり精神病の一種なんだから、 実際に罹っていなくても、その気があるってだけで世間では変な目で見られるのはすぐに想像がつく」
「それはまた、偏った解釈の仕方だな」凪森が苦笑する。
俊樹は真面目な話をしているつもりだったが、この友人にはその切実がいまいち伝わってないようだった。
「ちなみに、宮房が考えている精神病には他に何があるんだ?」
「えっとな……、ほらあれだ。例えば、二重人格とかだよな。あれも同じようなものだろ?」
凪森の問いに俊樹が答えた。
「精神疾患という大きな括りで考えるとたしかにそうとも言えなくもない。だがその二つを同列に扱うのは少し違うと俺は思う」そう言って凪森が話しはじめる。「俺も専門家ではないから詳しいことは知らないが、精神分裂症、いわゆる多重人格は、極度のストレスを感じることで起こる現象だ。たしか解離性障害という分類の一つで、元々はその苦痛を受けたときの記憶などを切り離し、それは自分のものではないと認識させることで自身の生命活動を守る一種の防衛本能なのだが、その症状が重度になると、まるで一人の人間の中に複数の人格が存在しているかのような振る舞いをしてしまうものらしい」
「外国の小説か何かでそんな話があったよな。ジキルとハイドだっけ?」
「あそこに登場する多重人格は性格どころか容姿すらも違って見えて、主人公のジキル博士は自分自身であるハイド氏を全くの別人だと認識していた。現実にあの物語と同じ症状の人物がいるかどうかは知らないが、もし存在するのなら、その人が受けただろうストレスは鬱病のそれとは比較にならないだろう」
彼はそこまで言うと、短くなった煙草を灰皿の中で揉み消す。
「つまり、度合いが全然違うってこと?」
「ストレスに起因する点から言えばそうだが、それだけで片付けられるものではない。鬱病は心の風邪とも言われていて、実はごくありふれた傷病の一つという見方もあるくらいだからな」
「俺の周りにはそんな人全然いないけど」
「誰もそれに気づかず、本人でさえ自覚がない場合もある」
「それ、俺を皮肉ってるだろ?」
俊樹が澄ました顔で言う凪森を睨みつけるが、彼はそれを無視して続ける。
「宮房が言いたいことも分からないではない。世間一般的な認識では、メンタル面での病は、なぜかフィジカル的な怪我よりも陰湿なイメージが根付いている。だからそういう病気の人間を見るとき、人々はそれを異常者とみなして社会不適合者というレッテルを無意識のうちに貼ってしまうことが多い」
「そうだろう? だから本当にもう、これからどうなるのか不安で仕方がないんだよ」
「あまり気にしすぎないことだな」
「それができればもうやってるよ」
簡単に言ってみせる凪森に向かって、俊樹はうんざりした声を出した。
「だがそうやって物事を悪い方に考えてしまうのは、宮房の中で現状に負い目があるからだろう? 俺からすれば、決められた就業時間仕事を切り上げるのも、多忙のせいで取れなかった休みをあとで取ることも当然だと思う。わざわざ医者に指示されないとそれができなかったのは、宮房じゃなくて雇う側の落ち度だ。そしてどんな事情があったとしても、それを行使できる権利は持っているのだと宮房自身も自覚すべきだな。あと、休みを持て余しているからといって、無理に何かしようと思うのも精神衛生上は良くない。何もしない、何も考えないという時間もときには必要なはずだ」凪森はテーブルに置いていた煙草のパッケージをを引き寄せながらそう言う。
「何も考えない時間、か。うん、なるほど……」
友人の言葉を繰り返すと、俊樹は自分に言い聞かせるように何度も頷いた。
凪森の部屋からは暗くなる前に退散した。
その帰り道、彼はふと思い立って繁華街の電器屋で安物の小さなラジオを買った。
就職してからというもの、あまりテレビを見る習慣がなくなっていた。初めは単純にそんな時間の余裕がなかったからだったが、最近では自室のパソコン周りの整備も進み、テレビが無くても知りたいことは調べれば簡単に手に入れる環境が構築できていた。なので凪森の話していた通り、余っている時間にいろいろと考え込んで気分を害するよりも、インターネットサイトをぼんやり眺めながらラジオでも聴いていた方が少しは気が紛れるかもしれないと思った。そして帰宅してから早速試してみると、それは期待していた以上に効果があった。何も考えずにただディスプレイに映る文字や画像に目をやり、イヤフォンから流れてくる音を聴き、時折目と耳から飛び込んでくる情報に反応するだけで長いと感じていた時間はあっという間に消費され、また退屈に思うこともなかった。
おそらく、自分にはこういったスタイルの方が性に合っているのだろう。
そのうちに、俊樹はある深夜のラジオ番組の司会者のことが気になりはじめた。それは妹尾絵梨果という名の女性で、彼女の口から発する柔らかで落ち着いた声を聞くと、俊樹は気持ちが安らいでゆく気になれた。そして、そのうちに彼はベッドの中で彼女の声を思い浮かべながら心地良い眠りに落ちるようになっていた。
次話は4/29(火) 20:00頃投稿予定です。