見えない心
第一章 見えない心
1
八月の終わり。
暦の上では既に秋と定義されてるらしいが、照りつける太陽は真夏のそれと変わらず、また天気予報で表示される最高気温や屋外での体感温度からしても、まだ残暑という言葉すら遠い先のことだと思えるくらい夏真っ只中な時期である。
現代と比べて季節にずれがあったとは言え、大昔の人々はさぞ忍耐強かったのだろう。もしくは、エアコンがなかった分だけ気温の変化に耐性があったのかもしれない。
宮房俊樹は、そう考えると皮肉と諦観が織り混ざった笑みを漏らすしかなかった。
それにしても、昔の人という言葉でまず連想するのは、なぜいつも時代劇に登場するような着物姿にちょんまげ頭ばかりなのだろうか?
たまには北京原人とか竹の子族あたりをイメージしても悪くはないはずだ、と彼は急な思いつきを冗談半分で処理してみる。
「5……、10……、15の、最後に三つでたしかに十八個ですね。では、こちらにサインをお願いします」
時間にして十数秒ほどぼんやりと自分の世界に浸っていた俊樹は、正面から聞こえた大きな声によって強制的に現実に引き戻される。
まず視覚に映ったのは荷台に乗った段ボール箱の山だった。そして、次にその脇に立つ紺を基調とした作業服姿の男が一枚の紙を差し出しているのを捉える。
「あっ……、あぁ、分かりました」
俊樹はワンテンポ遅れて書類を受け取ると、自分の背丈より高く積み上げられた荷物たちをもう一度確認してから署名をする。普通にサインしたつもりだったが、そこには予想以上に汚く筆記された文字列ができあがっていたので彼は思わず顔をしかめた。
ソフトウェア開発業をしている俊樹の職場では、公に出される書類のほとんどがパソコンで作成された文書データを印字して提出するのが日常になっている。それでも仕事中にメモを取ることはあったが、ある程度はテキストファイル上で行っているので学生の頃に比べると実際にペンを持つ機会は確実に減ってきている。また、手書きが必要になるときの大半は自分が読めればよいレベルの字体であれば問題ないことが多く、つまり他人が読み易い綺麗な文字を配慮するケースはごく稀なことだったので、以前よりも悪筆になっているような気がしていた。
今のところまだ経験はないが、例えば友人の結婚式などでこの文字を人前にお披露目するのかと思うとさぞ恥かしいだろう。彼は自分で書いた字を見てそう判断した。
「ではたしかにお預かりしましたので」
「よろしくお願いします」
俊樹が書類を返すと、いかにも体育会系といった色黒の中年男性は自社のロゴが入った帽子を軽く触れてから彼に会釈を返した。すると、そのリーダ格の男性の指示で同じユニフォームを着た他の二人が荷物の移動を開始する。
三人組の宅配業者は、手際の良く荷台をビルの裏手に横付けされたトラックに搬入させると、最後にもう一度俊樹に挨拶をしたあとで車を発進させた。彼はトラックが走り去っていったのを見届けると、大きく溜息をついていからビルの中へ引き返すことにした。
エレベータホールに続く狭い通路をのろのろと歩いていると、俊樹はその先に同僚の村瀬千寿留の姿を認める。彼女は直立不動のままじっとエレベータの表示板を見つめていたが、途中で俊樹に気づくと軽く手を上げて彼に応える。
「どう? 間に合った?」
傍に行くと彼女がそう尋ねてくる。
今日の千寿留は紺色のブラウスに若干丈の短い白いチノパン、そして短い栗色の髪の左右には水滴の形をしたシルバのイヤリングをしていた。
「うん、なんとかね」俊樹はぐったりした顔を見せる。「そういえば、今日って何曜だっけ?」
「火曜日」
「あぁ、そうだった。火曜搬出の木曜着で現地に設置するのが金曜日、それで来週から一回目のテストか……」彼は指を一本ずつ折りながらスケジュールを思い出した。
発端は、先週の金曜日に行われたミーティングだった。
俊樹の所属するチームは、所属メンバがそれぞれ担当しているプロジェクトの進捗報告と今後の案件などを確認するための毎週定期的に会議を開いている。そして先週の会議の際に、未対応案件の中の一つの納期が間近に迫っていることを出席していたメンバの一人が気づいたのであった。
単刀直入に言うと、他の作業のせいでその案件があることをチーム全員が忘れていたわけだ。しかし、受注している以上そんな理由は戯言以外の何者でもない。そこで急遽、その案件のユーザを担当している取りまとめ役とチームの中で比較的手が空いている若手二人が対応する話になり、その一人に俊樹が選ばれることになったのである。
その案件は通常なら丸一週間は作業量を見積るべきものだったが、納期から逆算すると俊樹たちはその半分の期間で終わらせる必要があった。
そこで彼らは、翌日の土曜日から会社に泊まり込むという強行手段を取った。
作業の間に睡眠が取れたのは毎日昼食後の一時間程度しかなく、俊樹たちはまさに寝る間も惜しんで身体と頭を動かさなくてはならなかった。その状態は丸三日以上も続き、ようやく今朝方になって全ての作業工程が無事に完了を遂げ、ついさきほどシステム構築を終えたばかりの機器たちが業者によってユーザのもとへと運ばれていったところだった。
俊樹は、意識が朦朧とする頭でここ数日の出来事を振り返った。
「今日はもうこれで帰れるの?」
エレベータのドアが開くと、千寿留が素早く乗り込みながらきく。
余計な体力を使わせないように気遣ってくれているのが分かった。
「午後から今やったやつの現地作業の打ち合わせがあるんだ。今回は客先には行かないけど、この作業をしたのは僕らだから参加必須なんだよ」彼女の隣に並んだ俊樹が答える。
瞼が重い。目を瞑れば眠ってしまいそうだ。
今なら馬の気持ちが理解できるかもしれない、と彼は思った。
「ならもうひと頑張りだ。休日出勤だってしてるんだし、今週のどこかで代休とかも取れるでしょ?」
「うーん、どうだろうなぁ」俊樹が腕を組んで唸る。「これに入る前にやってた作業がまだ残ってるし、早めにやらないといけない雑用もあったりするから多分すぐには休めそうにはないと思う。それに休みが取れたとしても、まずは夏休みに休日出勤した分の消化になるだろうし……」
例年に比べると、今年の夏はとても忙しかった。
そもそも、事前に予定されていた複数のユーザ対応がこの時期に集中していたことに加えて、突発的な障害もそれとは別のユーザのシステムで起きてしまっていた。それによって、開発チームが作ったシステムの導入やその後の保守作業をユーザ先に出向いて行う俊樹たちのチームは総動員フル回転でその対応に追われることになり、結果としてメンバのほぼ全員が、月の初めにから用意されていた一週間程度の夏季休暇を返上する羽目になっていた。特に俊樹に至っては、月末になった今でもその休みを一日も取得できないという有様であった。
日頃から多忙という言葉を体現している職場だとは思っていたが、ここまで酷いのは彼が入社して以来初めてのことだった。しかし、ベテラン社員の話によれば何年かに一度はこういったことがあるらしい。
「正直今すぐにでも帰りたいんだけど、なかなかそう上手くはいかないし」俊樹は溜息をついて言った。
「身体の方は大丈夫……、じゃないよね?」
その様子を見たあとで、千寿留が途中まで言いかけた言葉を変える。
「しんどいのは確かだけど、忙しいのは僕だけじゃないから。他のみんなもきつそうな顔で仕事してるよ」俊樹が苦笑いを浮かべる。
千寿留も同じチームの人間ではあったが、つい数か月前に派遣社員としてやって来たばかりだったので俊樹たちとは違ってまだ出張の経験はなかった。おそらく、当面は社内での作業が優先されるはずだろう。
「そういえば、宇田さん、昨日の服装のままだよね」
「うん、昨夜は僕らと一緒に徹夜組だった。よく知らないけど、ずっと案件の見積りをしてたみたい。プロジェクトの管理をしてる上の人たちって、最近は週の半分近く会社に泊り込んだり、一度始発で家に帰ってシャワーを浴びたらすぐ戻ってきたりしてる人多いから本当に凄いと思うよ。それに比べると僕なんかまだましな方なんだから、少しくらいは辛抱するしかないよ」
「宮房君たちを見てると、いつか誰か倒れるんじゃないかって心配になってくるわ」
「でもまぁ、これが僕らの仕事だから。給料もらってる以上は、できる限りのことはしないとね」彼はそう言うと、不安そうに話す千 寿留に微笑んでみせた。
先にエレベータから降りたのは俊樹だった。千寿留はこれから会議に出るらしく、さらに上の階にある多目的スペースに行くのだと話していた。
彼女に声をかけてから外へ出た彼は、会社の居室へ向かいながら頭を振って意識をはっきりさせようとする。
最初の二日間は思ったよりも平気な状態で働けていたが、昨夜の深夜あたりから肉体的な負担を感じるようになっていた。きっと作業に目処がついたので、それまでは時間との勝負だと思って緊張感を保っていた気持ちが緩んだせいだろうと彼は分析していた。そして、それを境に体調は急降下をはじめ、今では気を張っていないと身体が言うことを聞いてくれないのではないかというくらいまで悪化している。
俊樹は数時間前から感じている鈍い頭痛と時折喉元まで込み上げてくる嗚咽感を耐えるために険しい表情を作ると、幾分早足になって自分のデスクへ向かった。
2
「それはまた、大変な目に遭ったな」
俊樹がひと通り話すと、凪森健は手に持ったグラスを傾けて感想を言った。
「大変なんてもんじゃないさ。結局、あの日会社を出たのは夜中の九時過ぎだったんだぞ。よく倒れないで家まで帰れたもんだと自分でも感心するよ」俊樹は向かいに座る凪森にそう言うと、先日の一件を思い出して大きく息を漏らした。
凪森は、俊樹の大学時代からの友人である。
長身でスマートな体型、そして浅黒い肌と彫りの深い顔立ちは女性受けしてもおかしくない外見である。しかし無造作に長く伸ばした黒髪と顎に生やした無精髭のせいで、本来の魅力的な要素は半減しているどころか、逆に胡散臭い雰囲気を漂わせいる。さらに特筆すべき点として、彼の瞳は典型的な日本人が持つ黒い双眸とは違って、片目だけが黄色がかった薄い色素をしていた。以前は普通だったが、いつの間にかこんな色になってしまったと以前本人が言っていた。ただ理由はどうあれ、それがなんとも言えない怪しさを醸し出しているのは明白である。
彼は大学を卒業した直後に突如行方をくらましていたのだが、今年の初めになって再び俊樹の前に姿を現した。
本人曰く、今は長い休暇中だそうで、特に仕事をするでもなく、単身者には贅沢すぎるマンションの一室でのんびりと暮らしているという話だった。
俊樹は、姿を消していた間、凪森が何をしていたのかはほとんど知らされていない。気にならなかったわけではないが、無理に追及して余計なお節介だと思われたくなかったし、おそらくこの友人もそれを望んではいないだろう。話したくなったらいずれ自分から語りはじめるはずだろう。彼はそう考えることにしていた。
徹夜作業から解放されて三日が経過した金曜日の夜である。
約二週間ぶりに週末の休みが取れることになった俊樹は、会社をあとにしたその足で凪森の部屋を訪ねると、二人と酒を交わしながら今回の苦労話を聞かせたところだった。
だがソファに身体を沈めている凪森は、話が終わったあとも特に彼を労わる様子もなく優雅にアルコールを口にしている。
友人の反応が思いのほか淡白だったので、俊樹は少し不満だった。
「これで夏休みまでぽしゃったら流石に泣けてくる」
「休みを取れる予定はないのか?」
「取れたとしても、まだ少し先になりそうだな」俊樹が仏頂面で答える。「ったく、体力がもたないと仕事の精度も悪くなるに決まってるっていうのに……」彼は吐き捨てるように愚痴をこぼした。
「不機嫌になると余計に疲れる」そこで凪森が忠告すると、口もとを緩めて続ける。「とりあえずこの土日は休みなんだろ? だったら、今夜は朝まで憂さ晴らしに付き合おってやるよ」
「あんがと。でも二日酔いになったら貴重な休みが一日潰れちゃうんだよなぁ。別に用事はないけど、そう思うとなんか損した気分にならないでもない」
「もし帰りたいのなら、今出れば終電には間に合う」凪森が時計を見て言った。
「別に帰りたいって言ってるわけじゃないさ。ただなんとなくそう思っただけの話。まぁいざとなればタクシーを拾えば帰ればいいかな。ここは少し歩けば駅もあるわけだし」
俊樹はそう言うと、テーブルに置かれたビールを引き寄せて喉を潤す。
「そうしたいのなら無理に止めはしないが、この時間帯に酔っ払いが一人で外をうろつくのはあまりおすすめできないな」凪森が話す。これまでと違い、その口調はやけに真剣なものだった。
「どうしてだ?」その様子が気になって俊樹が尋ねる。
「最近この周辺も物騒になってるらしい。野田の辺りにラジオ局があるのは知ってるだろう?」凪森がきいてくる。
「ラジオ? あぁ、そういえばあの辺にローカル局があるって聞いたことあったな。えっと、なんて名前だったかな……」
思い出そうとして首を傾げていると凪森が答える。
「エフエムマスカットという局名らしい」
「そうそう、たしかそんな名前だった」そこで俊樹は軽く手を叩いて頷いた。
彼は昔からラジオを聴くという習慣がない。なので以前どこかで聞いた記憶だけはあったが、自分の興味から外れた事柄だったのではっきりとは覚えていなかった。
「それにしても、いかにもローカルですって感じのネーミングだな。それで?」
「どうも、先週くらいからそこの敷地に動物の変死体が投げ込まれているのが頻繁に発見されているらしい。地方版のニュースで何回か流れていた」
苦笑いを浮かべて続きを催促すると凪森がそう答えた。
どうやら、そのラジオ局は俊樹の勤める会社にほど近い大通り沿いにあるらしい。若干距離はあったが、さほど離れているという印象もない。
「犠牲になったのは野良の犬や猫で、どれも扼殺か絞殺の痕跡があったらしい」
「扼殺って、手で首を絞めるやつだっけ?」
その問いに凪森が頷く。
「発見されるはいつも決まって朝の早い時間帯だ。たぶん、人通りが少なくなった深夜のうちに誰かがそれをやっているんだろう」
「気色悪いな」俊樹は眉をひそめる。「悪質な嫌がらせか、それともただ悪戯なのか。どちらにしろ正気とは思えないな」
「テレビでも、不審者には十分気をつけるように呼びかけていた」凪森が言った。
先日の泊まり込みを除いたとしても、最近はいつも以上に仕事に追われる日々が続いていたためテレビなどを見る余裕などなかった。また社内でもそういった話題を耳にする機会はなかったので、身近な場所でそんなことが起きているとは微塵も思っていなかった。
そのとき、俊樹はあることを思い出すと、反射的にグラスを持っていない方の手で口もとを覆う。そして親指と中指を唇の両端に、人差し指を鼻の頭に置いた。
それは、彼が何かを考えようとするときについしてしまうポーズだった。
「どうかしたのか?」
急に俯き加減になって黙り込む俊樹に気づいて凪森が声をかける。
「あっ、いやなんでもない。仕事のことでちょっと思い出したことがあって」俊樹は凪森に顔から離した手のひらを見せて応じる。「少し作業で躓いている箇所があってな。たぶん機器の設定部分だろうとは予想していたるんだけど、それがどこなのか分からなかったから今日ところは諦めて引き上げてきたんだ。そうしたら今、いきなりアイデアが浮かんできて。うん……、ああすれば上手くいってくれるかもしない」そう話しながらも、彼の頭の中ではまだ考えを巡らせていた。
「忠告しておくが、やめておいた方が良い」
「どういう意味だ?」
「今にも会社に戻って試したいって顔をしてる」凪森は怪訝な顔する俊樹に向かってそう指摘する。「あまり根を詰めすぎない方が身のためだ」
「それくらいは分かってる。だけど、思いついたことはそのときにしておかないと、あとでやろうと思って忘れたりしてたら、そのときの後悔が大きいだろ?」
「だからといって、プライベートでも仕事のことを考えるのは良い傾向ではないと思う。休めるときには休んでおかないとパフォーマンスの低下に繋がる。働き詰めになっているなら尚更だ」
「そんなこと言われても、こっちはもう常に手一杯なんだ。これで進捗が遅れたら後ろに控えてる作業にも影響して、最終的に休みが削られるんだぞ」俊樹が言い返す。説教を受けているような気がして少し苛立っていた。
「まぁとにかく、酒が入って冷静さを欠いてるときに浮かんできた案なんてそこまで信用すべきものではないだろう」凪森が言う。声を荒げている俊樹に対して、彼はずっと落ち着いている。「それに、もう会社も閉まってるんじゃないのか?」
そう言われて、俊樹は思わずはっとする。
「どうだろう。まだ誰か居そうな気はするけど、もうすぐ終電の時間だがら微妙なところかも。会社の鍵も持ってないから、戻って誰もいなかったら無駄足だし……」
「そんなに気になるのなら、どこかにメモでもしておけばいい。素面に戻ったときにもう一度検証してからでも遅くないだろう」凪森がぶつぶつと独りごとを呟く俊樹に向かって提案する。「今は勤務外なんだ。仕事のことで焦るのは働いてるときだけで充分だろ?」
「……それもそうだな」
少し間を置いたあとで、俊樹がそれに同意する。
そこで彼は大きく嘆息をすると、逸る気持ちを落ち着かせるためにまだグラスに半分近く残っているアルコールを一気に飲み干してみせた。
3
翌日の土曜日。
凪森の部屋のソファで朝を迎えた俊樹は、早々に二日酔いが残る気怠い身体を引きずるようにして会社へと向かった。
昨夜は凪森に説き伏せられて思い留まったが、やはり一晩明けてもそのことが頭から離れることはなく、彼はいてもたってもいられない気持ちを抑えることができずに出勤することにしたのである。
会社は繁華街の近くにある貸しビルの中に入っている。その建物は深夜と休日になると自動的にオートロックがかかる仕組みになってたが、職業柄、取引先の企業が休みの日にシステムや機器のメンテナンスを行うことが多い彼の会社では、オフィスが完全な無人になることは一年を通しても数日ほどしかなかった。
ビルの裏口まで着くと、俊樹は会社へ電話をかける。すると案の定休日出勤していた社員がいたので、内側から鍵を開けてもらうように頼む。そして中に入った彼は、デスクのある居室ではなくサーバ室と呼ばれている作業場へ向かった。
暗証番号を入力して頑丈そうな扉を開けると、今まで蒸し暑かった外気から一変して肌寒い冷気が彼を覆いつくした。
その名前の通り、この部屋には幾つものコンピュータが設置され、その多くが二十四時間体制で常時稼働を続けている。ここには新たに開発したシステムをテストするためのスペースであったが、実際にこの部屋でサービスを提供しているシステムも存在するので、それらのコンピュータのオーバーヒートによるトラブルを防ぐために室内は常に涼しくしておかなければならなかった。
部屋に入った俊樹は、まず全体を見渡して中にいるメンバを確認する。
ざっと見たところ、室内には四、五人いるようだった。
全員が別のチームの人間だと分かると彼はひとまず安心する。
「なんだ、宮房も出てきてたのか」
部屋の奥で作業していた同期入社の汐見が俊樹に気づいて椅子から立ち上がる。扉が閉まる音に反応したらしい。
普段は多くの従業員が慌ただしく出入りしているこの場所も、休日になるとひっそりと静まり返っている。
「本当は休みなんだけど、ちょっと試しておきたいことがあって」
俊樹が小声で言うと、汐見もそのトーンに合わせる。
「じゃあお忍びで?」
「そういうこと」
「部長に見つかったら怒られるぞぉ。休出申請もしてないのに会社に出てくるなってな」汐見が囁く。
「もしかして、居室にいたりする?」俊樹が天井を指さす。
「いや、今のところ俺たちのチームしか来てないっぽかったな。安心しろ、今日はうちのチームリーダも来ないから」
「そうか。とりあえず良かった」それを聞いて俊樹は安心する。「そっちは休日出勤?」
「お前とは違って、ちゃんと正規の手続きで承認をもらった正真正銘の振替出勤ですのよ」
「それはそれは、ご苦労様ですこと」俊樹は汐見に倣って芝居がかった言い方で返した。
「まったく、本当にご苦労さんだ」汐見はうんざりした口調になる。「ソフトの開発ってさ、もっとこう専門肌の職人の集まりで、仕事はきっちりする代わりに他のことには多少目を瞑ってくれるもんだろうってイメージがあったからこの業界に進路を選んだのに、いざ就職してみたらどうだ? 完全にユーザの都合に振り回されて右往左往するばっかりの毎日じゃないか。そう思わないか?」
「お説ごもっとも。きっとどこの業界でも、その部分だけは変わらないんだろうな。やっぱ、お金出してるところが立場的は優位なんだよ」
「まあな。けど技術職で入ってるんだから、少しくらいは自由に創造的な仕事をしてみたいなとは思う。俺たちが今日出て来てるのだって、開発が忙しいんじゃなくて、単にユーザが営業してるからその問い合わせに対応するためだからな。世間ではみんな休みなのに、なんで仕事してるんだって、毎回彼女に愚痴られるんだけど」
「いつかの飲み会で誰かが言ってたよ。うちの業種は人様が休んでる間に働かないといけない。要するにサービス業なんだなって」俊樹がじみじみと言う。
「だったら、他の奴らが働いてるときに休ませてくれって……」
汐見は疲れた表情を浮かべながら言うと、そのまま持ち場へ引き返していった。
そこで俊樹も自分の作業スペースへと移動することにした。
初めは昨夜思いついたアイデアを試すだけで、それで問題が解決してもしなくてもすぐに帰るつもりだった。ただ実際に作業を始めてみると、当初の問題はクリアした代わりに別の問題が発生するという結果になった。
本当ならその時点で区切りをつければ良かった。
しかし、彼は予想してなかった事態に遭遇したことで冷静さを欠き、その新しい問題を取り除こうと躍起になって解決策を考えはじめた。その結果、当初の予定が大幅にずれ、会社から去ることを決めた頃には既に平常勤務の定時退社時間にまでなってしまっていた。
俊樹は、身体を投げ出すようにして近くにあった椅子に座り込む。
休日を棒に振ってまで作業を続けた末に判明したことは、昨夜閃いた方法では何も解決できなかったという結論だけだった。
その事実を思い起こす度に彼は深く息を漏らす。さっさと終わらせるつもりだったので、朝から食事も摂らずにずっと部屋に籠って働いていた。二日酔いの影響もあってか、気を抜いた途端どっと疲労が増したような感覚に襲われる。自分が吐いている息も、溜め息なのか息切れなのか判断できない。
「こんな時間から仮眠か?」
不意に近くから聞こえた声で俊樹が瞼を開く。
そのときになって、彼はようやく自分が目を瞑りかけようとしていることを自覚した。
首だけを動かして音源の方に向ける。視線の先には汐見が小さく微笑んでいた。
「もう帰るけど、そっちはどうする? まだ残るのなら戸締りをお願いしたいんだけど」
「うん、俺もそろそろ引き上げる。さすがにもう疲れた」俊樹は重い身体を無理矢理椅子から引きはがす。
「分かった。居室の方は俺たちでやるから、この部屋は任せる」
「了解」
「ほい、これチェック表な」
汐見は持っていたA4サイズの紙を俊樹に手渡すと部屋を出てゆく。
今度は意識的に目を閉じて深呼吸すると、俊樹は視界を戻してからそこに印字された項目を見ることもなく歩き出した。
なんとなく足元がおぼつかない。足が地についていないような奇妙な浮遊感を覚える。
もしかしたら、ここ最近働き通しだったからかもしれない。
体調不良の原因をぼんやりと考えながら窓際へ近づく。どの窓もしっかり施錠されていた。この暑い時期にわざわざ蒸し返った外気を取り入れようとする物好きもいないだろう。
戸締りのチェックを終えると、オフィスにいる汐見たちのところへ行くために出口へと足を向ける。
そのときだった。
俊樹は、突然自分の視界が狭くなるのを自覚する。
さきほどのように瞼が閉じてくるのとは明らかに違う。
目の端から白銀のノイズのようなものが大量に発生し、猛烈な勢いで視覚を浸食している。
まるで放送が終わったあとのテレビ画面みたいだ。
砂嵐に覆いつくされてゆく様を目にしながら、俊樹はそんなことを思った。
そして全身の力が抜ける感覚を持った直後、その思考は強制的にシャットダウンされた。
4
その次に感じたのは、身体の揺れと背中に当たる硬い感触だった。
また、耳元では騒音が響いており、その喧しさに耐えかねて俊樹は眉間に皺を寄せる。
「気がついた!」誰が短く叫ぶ。
どうやら、騒音の正体は人の声だったようだ。
瞼の向こうは明るい。
恐る恐る目を開いてみる。
すると、目の前にはこちらを覗き込むようにしている数名の姿があった。
全員見覚えのある顔だった。
「おい、大丈夫か?」その中にいた汐見が尋ねる。こちらの肩を掴んだ彼の手がまた軽く身体を揺さぶる。
「ん? んん……」
俊樹は返事をしたつもりだったが、それは小さな呻き声にしかなかなかった。
真剣な顔をする同僚の後ろには蛍光灯が青白い光を放っている。
会社のサーバ室の明かりだと分かった。
そこでようやく、彼は自分が床に横たわっていることを自覚した。
咳払いのあとでゆっくりと上半身を起こす。みんな心配そうな顔でこちらを見ていた。
「あれ、俺……」俊樹は鈍い動きで頭を掻きながら呟く。今度はちゃんと言葉になった。
「全然出てくる気配がないからおかしいと思って様子を見に来たんだ。そしたらお前、倒れてるんだもん」汐見が言う。
「あぁそうか。俺、戸締りしてあとで居室に行こうとして」
その説明で俊樹は思い出した。
どうやら、部屋を出る途中で気を失ってしまった。
腕時計を確認する。
あれからほとんど時間が経ってない気がしたが、時計の針は十分近くも先に進んでいた。
「何がどうしたんだ?」汐見がきいてくる。とりあえずもう異常がなさそうに見えたのか、その口もとは緩んでいた。
「昨夜は遅くまで酒飲んでたからあんまり調子が良くなかったんだ。すまん。もう大丈夫だ」
汐見に言ってから俊樹は立ち上がる。少しふらつく感覚があったが問題なさそうだ。
「皆さんも、お騒がせしてすみませんでした」
彼が頭を下げると、その場に集まっていた者たちは一様に安堵した顔を見せてから、俊樹と汐見にひと言ふた言声をかけたあとで部屋から出てゆく。
「ちゃんと歩けるか?」
「うん。平気平気」
「なら俺たちも帰るぞ。今日は車で来てるから特別に送ってやる」
俊樹は出口へと歩きはじめる汐見のあとをついてゆく。
倦怠感は相変わらずだったが、倒れるほど酷くもない。
「あぁ、そうだ」サーバ室を出たところで俊樹は声を出す。
「どうした?」
「そういえば機器の貸し出し申請を作ってから帰ろうとしたんだったなって思って」彼は素早く振り返ってこちらを見つめる汐見に言う。「あれ、今のうちにやっておかないときっと忘れるからなぁと……」
「馬鹿野郎! そんなこと、今まで倒れてた奴が真っ先に考えることじゃねぇだろ」
そのあとで汐見がすぐに怒鳴りつけてきた。
「分かってる分かってる。ただ思い出しただけ。今日はもう帰るから」
「ったく、お前はさっさと家に帰って寝ろよ。じゃないと気絶どころじゃ済まなくなるぞ」
汐見は吐き捨てるように言うと、俊樹をエレベータホーに残してから自分は荷物を取りに足早に居室へ戻っていった。
自宅まで送ってもらうと、俊樹は友人の忠告に従って食事とシャワーを済ませてから早々に横になった。
彼は従兄弟と共に暮らしていたが、部屋には同居人の気配はなかった。
おそらくまだ仕事をしているのだろう。あちらも年中忙しい職場だ。
ベッドの中でそんなことを考えながら、俊樹は次第に睡魔が全身を支配してゆくの感じるながら今度は正規の手順で意識を失った。
5
それから数日後の水曜日の午後。
俊樹はいつものように自分のデスクに置かれたディスプレィと対峙していた。
日曜日に休息を取ったおかげもあって、先日の不調はある程度回復している。ただ全快とまではいかず、平日になると疲れの残る身体でまた慌ただしい日々を送っていた。
彼は今焦っていた。
順調とは言えないかもしれないが、それなりに目の前の作業は着実に消化されつつある。しかし全体的なスケジュールで考えると、これまで片付けた仕事は雀の涙ほどでしかないと思えてしまうほど残作業が山積みになっていた。
時間に余裕があれるのならまだいい。でも実際には一つの作業をこなしている間にも別の作業の期限が着々と迫っているのだと考えると、俊樹は戦慄せずにはいられなかった。
一日が三十六時間あればいいのに、と社会人になってよく思うようになっていた。普段から一日平均十五、六時間は働いているのだから、それを三十六時間に拡大できれば一日二十四時間は働くことができるだろう。そうすれば、今よりも進捗を上がって余裕もできるはずだ。
そんな乱暴な妄想を抱きながら、彼はキーボードを使って文字列を打ち込んでいた。
「宮房、ちょっといいか?」
座席の後ろから声をかけられて俊樹が作業の手を止める。
振り返ってみると、そこには総務主任の佐久間が立っていた。
色白で丸顔の佐久間は、技術職ばかりで構成される職場にあって、男性では唯一の事務職として働いている。その肩書きから、知らない者は彼がただの事務員だと勘違いすることが多かったが、実は数年前まで技術部門のリーダを務めていた優秀なシステムエンジニアの一人であった。
「何ですか?」
「今から十五分くらい時間もらっていいか?」
「ええ、大丈夫ですけど」俊樹は首を傾げる。
このところ総務に顔を出す機会はほとんどなかったので、わざわざ呼び出しを受ける理由が一つも思い浮かばなかった。
「実は今、産業医の先生がいらっしゃっててな。この前連絡してただろう?」
「そういえば飛んでましたね、そんなメール」俊樹が応える。
彼の会社では、毎月一回産業医が職場へ訪問して社員の健康状態をチェックを行っていた。産業医の滞在時間は限られているので、一度の訪問で大体三、四人が面談をし、それを受ける者は希望者かもしくは事前に総務が選んだ人間が対象になっていた。
俊樹もこれまでに数回受診していたが、これといって特徴のないごく普通の問診という印象だった。
「それでな、今日予定してた人が障害対応で急に出張に行ったらしくて一人分空きができちゃってな。だから急で悪いんだが、宮房に面談を受けてもらいたい」佐久間が説明する。
「僕がですか?」
「お前ところのチーム、このところずっと忙しいだろ? 総務としては、そういう状況で働いてる社員が気になるからな。ま、チームを代表してってことで一つ頼む」
「はぁ」
本音を言えばあまり余計なことで時間を取られたくはなかったが、若手の平社員が上役の頼みを突っぱねるのも何かと拙い。
「助かる」佐久間は俊樹の生返事を肯定として受け取ったらしく微笑する。「じゃあさっそくお願いできるか? 先生は応接室でお待ちになってるから」
佐久間に促されて席を立つと、俊樹は言われた場所へ向かうことにする。彼の座席の後方、ロッカーで仕切られた奥にある総務室の隣が会議室兼応接室となっていた。
部屋の前まで来た俊樹がドアをノックすると、すぐ中から応答があった。
彼はちらりと左を見る。
通路の先には佐久間が彼に手を振りながら自分の持ち場へ戻っていくところだった。
「失礼します」俊樹はひと声かけて部屋に入る。
応接室には大きな長方形のテーブルがあり、窓側の中央の席に白衣を着た一人の中年男性がこちらを見つめていた。
「宮房さんですね。こちらへどうぞ」男は挨拶のあとで正面の席に手を差し出した。
白衣の男は四十代くらいの黒縁の眼鏡をかけた中肉中背で、その顔には見覚えがあった。
彼は産業医の仕組みがよく分かっていない。
数人の医者が持ち回りで企業を巡回するものだと思い込んでいたが、もしかしたら企業ごとの専任なのだろうか。いや、ただ単にたまたま自分が同じ人と当たっているだけという可能性もあり得るはず。
彼はそんな疑問が思い浮かべながら指定された座席へ向かう。
「よろしくお願いします」
「お久しぶりですね。どうそかけてください」
産業医は頭を下げる俊樹にそう言ってから自分も席に着くと、すぐに問診をはじめた。
質問の内容は以前と大きく変わってはいないように思えた。男の物腰柔らかい対応には好感が持てたので、俊樹はきかれたことに対して素直に受け答えをする。
こうやって自然と相手が話し易い雰囲気を作るのも、医者が持つべき技術の一つなのだろうと彼は感じていた。
「これで今回の面談は終了です」産業医は俊樹がひと通り話したあとでそう告げる。
質疑応答は二十分ほど続いていたが、体感ではあっという間の出来事だった。
「そうですか。どうも、ありがとうござました」俊樹は笑顔で礼を言った。
しかし産業医はそれに応じず、唇を横一文字にしたまま少し難しい顔をする。
「あの、どうかしましたか?」
「実は、誠に申しあげにくいのですが……」産業医が話を切り出そうとする。
俊樹はその態度の変化を不思議に思った。
伏し目がちになった産業医は、その口調も軽快なものから低く重苦しい調子になっており、まるで睨みつけるようにじろりと俊樹を見据えている。
明らかに悪い予感を察して、彼も緊張した面持ちになった。
「宮房さん。貴方、近いうちに一度専門の先生に診てもらった方が良いかもしれません」産業医は厳しい表情を崩さずに一気に話す。「話を聞いた限りだと、今の貴方には鬱病の兆候があります。ですから私は、貴方に精神科か、もしくは心療内科への受診をお勧めします……」
次話は4/22(火)20:00に投稿予定です。