オオカミの皮をかぶったヒツジ ─最後の優しい嘘─
めずらしく童話を書きました。
深く、どこまでも広がる古い森。そこには、絶対の掟がありました。
「強い者だけが生き残る」
牙も爪もない一匹のヒツジは、そう信じていました。弱い僕は、誰にも見つからないよう隠れて生きるしかないのだ、と。
ある日、ヒツジは森の奥で「本物のオオカミの毛皮」を見つけました。
それをすっぽりと被り、低い声で唸ってみせると、誰もが恐ろしい捕食者だと勘違いして逃げてゆきます。
「食べられてしまうくらいなら、誰とも関わらなくていい。この毛皮の中だけが、僕の安全な世界なんだ」
ヒツジは分厚いオオカミの皮の中でぬくぬくと、自分の身を守ることだけを考えて生きていました。
◆
厳しい冬の始まり。
ヒツジの足元に、群れからはぐれたオオカミの赤ちゃんが転がり込んできました。
ヒツジが慌てて追い払おうとすると、毛皮の匂いを嗅いだ赤ちゃんは「パパ!」と、ヒツジのお腹に無邪気にしがみついてきたのです。
一人ぼっちだったヒツジは、その小さな温もりをどうしても突き放すことができず、少しの間だけ「オオカミのパパ」のふりをすることにしました。
二人の生活は、ヒツジにとって夢のように温かいものでした。
「パパみたいに、かっこよく遠吠えしたいな! アウー!」
子オオカミが背伸びをして叫びます。
「お、おれは喉が弱いからな。ゴホン」
ヒツジがしどろもどろに嘘をつくと、子オオカミはへにゃっと笑いました。
「そっかぁ。じゃあ、ぼくも喉が弱いオオカミになる! パパと一緒だね!」
ヒツジは、自分にべったりと懐くその子が可愛くてたまらなくなりました。雪を掘って甘いベリーの実を食べさせ、夜は身を寄せ合って眠りました。
◆
しかし、嘘は少しずつほころび始めます。
木の実ばかりを食べている子オオカミは、ちっとも体が大きくなりません。走ればすぐに息を切らし、自分の足にもつれてよく転ぶようになりました。
ヒツジは気づいていました。
この子に必要なのは甘いベリーではなく、本物の肉であり、本物のオオカミの群れなのだと。自分の嘘が、この子を弱らせているのだと。
「でも、もう少しだけ。この雪が溶けて、春が来るまで一緒にいよう」
「明日。明日こそ、本当の群れを探しに行こう」
ヒツジは自分に言い訳をし、決断から逃げ続けました。
その結果、真冬の最も寒い夜に、子オオカミはついに高熱を出し、ぐったりと動けなくなってしまったのです。
◆
ヒツジは、ぐったりとした子供を背負い、猛吹雪の雪山を登り始めました。
山の頂には、本物のオオカミの群れが住んでいると知っていたからです。
しかし、吹き荒れる吹雪は容赦なくヒツジの体力を奪います。ズボッ、ズボッと雪に蹄が取られ、何度も何度も前のめりに転びました。そのたびにヒツジは這い上がり、背中の子供をかばいます。
背中の小さな体温が、どんどん冷たくなっていくのが分かりました。このままでは、頂上に着く前に凍え死んでしまいます。
ヒツジは、雪の中で立ち止まりました。
そして、震える蹄で、自分が被っている「オオカミの毛皮」を掴みました。
それは、何年も自分を守ってくれた鎧でした。
一人で生き延びるための、完璧な鎧でした。
これを脱げば、自分は一瞬で凍え死ぬか、オオカミに食べられてしまう。
ヒツジの蹄は、ガタガタと激しく震えていました。
何度も、何度も、毛皮を握り直しました。
怖かったのです。
けれど――
ヒツジは、その鎧をバサリと脱ぎ捨てました。
ヒツジは、自分の体から外した分厚い毛皮で、冷え切った子供の体をぐるぐると温かく包み込みました。
毛皮を失ったヒツジの体はむき出しです。凍えるような雪の冷たさが、容赦なくその体を刺しました。
その時、毛皮の温もりの中で、子オオカミが薄く目を覚ましました。
「パパ……どこいくの……? さむいよ……」
「大丈夫だよ。もうすぐ、うんと暖かくなる」
ヒツジは、ガタガタと激しく震える歯を食いしばりながら、優しく微笑みました。
「……パパも、いっしょ?」
子オオカミの小さな手が、毛皮を失ったヒツジの体をきゅっと握りました。
ヒツジは、すぐには答えられませんでした。
喉の奥がぎゅっと詰まって、声が出なかったのです。
「……もちろんだ。ずっと一緒だよ」
ヒツジは、最後の嘘をつきました。
子オオカミは安心して微笑むと、再び静かな眠りにつきました。
ヒツジの目から熱い涙がこぼれ、雪の上に落ちて凍りました。ヒツジは身ひとつのまま子供を抱きかかえ、一歩、また一歩と、雪山を登り続けました。
◆
ついに、山の頂にあるオオカミの巣にたどり着きました。
そこには、巨大で恐ろしい本物のオオカミたちがずらりと並び、牙を剥いていました。
オオカミたちは驚きました。
自分たちの巣に、もっとも弱く美味しい獲物である「毛皮を持たないヒツジ」が、たった一匹で立っていたからです。
恐怖で足がすくみ、今にも逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。
けれど、ヒツジは逃げませんでした。ゆっくりと前に進み出ると、毛皮に包まれた子供を、雪の上にそっと置きました。
「めぇ……」
どうか、この子を。
ただ一声だけ鳴いて、ヒツジは子供に背を向けると、雪の斜面をゆっくりと降りていきました。
ボスオオカミが毛皮の包みを開けると、そこには、かつて行方不明になっていた自分の子供が、暖かそうな顔で眠っていました。
ボスオオカミは、斜面を降りていく、ヒツジの背中を見つめました。
自分を守るための毛皮を子供に与え、身ひとつで、捕食者の群れにたった一匹で飛び込んできた、あの弱い生き物。
「追うな」
ボスオオカミは、群れの仲間に低く命じました。
「あれはただのヒツジではない。この山で一番気高く、強い生き物だ」
オオカミたちは、遠ざかるヒツジの背中に向かって、深く頭を下げました。
◆
それから、何年もの月日が流れました。
毛皮を持たない年老いたヒツジは、今も森の端っこでひとり静かに暮らしています。
不思議なことに、あの身ひとつのヒツジを襲うオオカミは、この森には一匹も現れませんでした。
雪の降る、一番寒い冬の朝。
ヒツジが家のドアを開けると、真っ白な雪の上に、ヒツジが大好きな「甘いベリーの実」が、どっさりと置かれていました。
雪の上には、巨大で立派な足跡が、森の奥へ向かって真っ直ぐに続いています。
ひゅうと、冷たい風が吹き抜けました。
その風に混じって、小さな頃によく聞いた、あの声が聞こえた気がしました。
「パパ」
ヒツジは静かに目を閉じました。
雪の向こうで、大きく立派な遠吠えが聞こえた気がしました。
ヒツジはそっと、優しく笑いました。
読んで頂きありがとうございました。




