去年の春、養父との出会い
ぼくの髪の毛のような銀色に変わったススキの穂が、風に揺れている。白い綿毛はふわふわと旅立って、舞い散る粉雪のように見えた。掴んでも、体温では溶けない。
ここに来ると、ソーイチローと出会った日を思い出す。季節は春。朧月がススキをぼんやりと照らしていた。このときのススキは、まだ、青々としていたな。
*
虫の鳴き声に囲まれている。リンリン、ジジジジ。この世界に来たばかりのぼくは、耳を塞いでうずくまっていた。すぐにこの場を離れなければならないのはわかっているのに、移動魔法は使えない。最初は立ち上がり、移動を試みたのだが、無理だ。どれほど進んでも、虫たちからは逃れられない。何十匹と潜んでいるのだろう。ぼくの命を狙って、大合唱している。
「うぅ……」
虫たちに襲われて、ぼくは死んでしまうのではないか。志半ばにして、終わる。家族に対する謝罪の言葉が、頭の中をぐるぐると駆け回って、めまいがした。父上、母上、お姉様たち。それぞれの顔が浮かんでは消える。修行に出る前の、儀式の光景。あたたかい腕に抱きしめられるようにして宙に放り出され、気が付けばここにいる。
ぼくはいずれミカドとなるために修行に出たのだから、出発点で死ぬわけにはいかない。なのに、絶体絶命のピンチだった。どうしようもない。
(おなか……おなかがすいた……)
この危機にあって、ぼくの腹の音は鳴った。虫たちに居場所を知らせてしまうようなものだ。ぼくはぐちゃぐちゃとした地面に伏せ、泥だらけになってでも、四つ足になって進む。
水辺が近い。ぽちゃんと、生き物が水面を跳ねる音がした。あるいは、何らかの物体が水に飛び込む音。鼻の曲がるような腐ったニオイもする。
いずれにせよ、ぼくは泥水でもいいから啜らなければならない。極度の緊張からか、ぼくの口はカラカラに渇いていた。唾液が引っ込んで、喉はヒリつくように痛い。腹を壊してもいい。多少の体調不良は治癒魔法で治せばいい(のちに治癒魔法がないと知り、ぼくは呆然となる)。
クライデ大陸に薬はある。が、薬を作り、飲んで、肉体が回復するまで療養するよりは、専門の学校を出て治癒魔法を学んだ医者に診てもらったほうが手っ取り早い。ぼくも何度か診てもらっている。いずれぼくも学びたいものだ。
虫たちに見つからないように、息を殺して水辺に寄っていく。すると、緑色の生き物が見えた。喉をポコポコと膨らませたりへこませたりしつつ、ぎょろりとした目をぼくに向けてくる。
ぼくはこの生き物を掴んだ。ぬるりとした感触と「グェエ」というわずかな抵抗が手のひらに広がる。命をつなぐためには、命を奪わなければならない。この生き物を、この世界での最初の食事としよう。
ぼくは右手に掴んだ生き物を口の中に放り込もうとして、
「待たれい!」
男の声で止められた。グレーのスプリングコートに身を包んだこの男こそが、ソーイチローだ。ソーイチローはススキをかきわけながら、大股でずかずかとぼくに近付いてきた。まずはぼくの掴んでいた生き物をはたき落とす。生き物は、死んではいなかったらしい。ああ助かった助かったと、慌てて池へと逃げていった。
「ぁ」
ソーイチローは茶色い瞳で、ぼくの赤い目をまっすぐに見つめてくる。ぼくは、……怖かった。言葉の通じる人間のほうが、無差別に襲いかかってくる虫よりもまだマシなはずだ。なのに、ぼくは得体の知れないモンスターに睨みつけられてしまったかように、一歩たりとも動けない。
「きみは、……迷子か?」
先ほどの「待たれい!」といい、ぼくはこの世界の言葉の意味を理解できた。のちほど気付くのだが、この世界で使われている日本語とクライデ大陸で使用されている言語が同じだ。おかげでぼくはコミュニケーションには特に苦労していない。文化や環境は異なっても、言葉が同じならば、あとはぼくがこの世界に適応していくだけだ。いずれクライデ大陸には帰るので、染まりきるつもりはないが。
「……」
答えようにも声が出ない。首を横に振って意思疎通を試みる。口をあーと大きく開いて、今の状況を伝えようとした。わかってもらえるだろうか。
「アマガエルを食べようとするぐらいだから、お腹が空いているんだろう。わしにはわかったぞ。すぐに戻る」
ソーイチローはそう言っていったんこの場を離れる。すぐに戻るの言葉通り、水筒とパンを持って急いで戻ってきた。このままぼくをおいて、どこかに行ってしまう――なんてことはなく、ぼくのために、自らの食料を差し出してきたのだ。
驚いた。初対面の、このぼくに。王族である証明も見せていない、薄汚れた一人の少年に対して。
「お食べ」
「!」
「ほら」
水筒のコップにお茶を注いで、コップを渡してくれる。ぼくは受け取る前に、ソーイチローの目を見た。ぼくは王族の子として、謀殺の可能性を一ミリでも疑ってしまう。……この世界の王族ではないのだし、ここでソーイチローの親切を疑うのは失礼だったな。
「いらぬか」
ソーイチローは毒が入っていないことを証明するように、注いだお茶をぐびりと飲みきった。それから、ぼくに微笑みかけてくる。この表情が、儀式の場でぼくの一挙一動を見届けてくれた伯父に、似ていた。……冷静になって比べると、伯父とソーイチローは似ても似つかないのだが、ともかく、このときはそう感じたんだ。
この人ならば信じられる。そんな気がした。この人を信じなければ、ぼくはここで飢え死にしてしまうとも思った。
「おっと!」
ぼくはソーイチローの左手から水筒をひったくり、注ぎ口から直接お茶を飲んだ。渇ききった身体にしみわたる。
「ぷはぁっ! ……はぁ……はぁっ」
「ふむ。迷子でないとすれば、うーむ。事情を、聞こうか」
「ぼくは……ぼくは、ここではない、別の世界から来た。名前は、アザゼルだ」
春の風が、ソーイチローの帽子を浮き上がらせた。




