夕立の邂逅
雨だ。朝は晴れていたのに、お昼頃から雲行きが怪しくなり、下校時間の今、ざあざあ降りになっている。こういうときのために、ぼくは『置き傘』をしていた。未来のミカドたるもの、常日頃から非常事態に備えておくものだ。
と、かっこつけたはいいが、これは早苗の受け売りである。ぼくは、早苗が卒業前に実践していたことを真似しているだけだ。オリジナルではない。
「うぇえ……そんな……」
上履きからスニーカーに履き替えていると、女の子の情けない声が聞こえてきた。きっと有事に備えていなかったのだろう。おそらく大多数がそうだ。
「あ。センパイ」
ぼくが悠然と傘立てから傘を引き抜くと、その情けない声の主が話しかけてきた。このぼくをわざわざセンパイと呼んでくるのは、一人しかいない。
「なんだ、きみか」
「おひさしぶり、です。あっ! 今、出します! すいません! すぐに渡しに行けばいいものの! なかなか、その! 勇気が出なくて!」
バッジの件で告白してきた後輩だ。制服のポケットの中をごそごそと漁って、ぼくのバッジを取り出そうとしている。まだ返してもらっていなかった。
「……その紙は」
「ハイッ! あ、ああ、これですか?」
例の『キャワイイドラゴン』のキーホルダーが付いたスクールバッグの端っこに、紙を筒状に丸めたものが突き刺さっている。折りたためばカバンに入りそうだが、折りたたんではいけないから筒状にしてあるのだろう。
「これは、イラストコンクールに出していた絵、です」
「見せてもらっても?」
「えっ、ああ、いいですよ」
後輩はカバンを下ろして、丸めていた紙を広げ、イラストを見せてくれた。大きな魚が、堂々とした姿で描かれている。これは、マグロかな。背景には漁船と、漁師の姿。
「躍動感があって、いいな」
「ありがとうございますっ!」
「しかし、この雨か……」
しばらくはやまなさそうだ。雲が停滞している。この雨の中を持って帰るとなると、傘は絶対に必要だろう。絵が濡れてしまうのはよくないが、後輩自身も身体を大事にしてほしい。この間は熱を出して休んでいると、後輩の友人から聞いている。
「おばあちゃんに、見せに寄るね、って言ってたんです。今週返ってくるかも、って先生から言われていて、今日返してもらえて。ちょうどおばあちゃんの誕生日だから、ラッキーと思っていたら、雨……」
「ふむ」
「明日でもいいかな。どう、思います?」
後輩はイラストをぼくに預けたまま、一歩だけ玄関の外に出た。降り止む気配のない雨に打たれて、ひゃー、と言いながら戻ってくる。
「しかし、明日は誕生日ではなかろう」
この世界では、誕生日を祝う。誕生日は、一年に一度しか来ない。生まれた日を祝う日だ。今日を逃せば、次は来年になってしまう。
「この漁師さんは、おじいちゃんがモデルなんです。だから、どうしてもおばあちゃんに見てもらいたくて」
おじいちゃん。ということは、絵を見せたいおばあちゃんの、旦那さんか。
事情を理解した。孫の大作が金賞を獲っただけでも嬉しいだろうに、そのイラストに最愛の人が描かれているとなれば、見たいだろうな。
「わかった。これも、きみに貸そう」
ぼくは自然と、傘を後輩に差し出していた。今日に関して言えば、ぼくよりもこの子が傘を使うべきだ。
「そ、そんな!」
「きみには、貸してばかりだな?」
イラストも筒状に丸めて返す。これは、大事なものだ。
「悪いですよ! センパイが濡れちゃうじゃないですか!」
「ぼくは丈夫だから、きみのようにちょっとやそっとでは風邪を引かない。またな」
後輩が慌てて返そうとするので、ぼくは雨が降りしきる中を駆け出す。わざわざ追いかけてはこなかった。こうして、ぼくはびしょ濡れの状態で家に帰ってきたわけだ。バッジはまた返してもらえていない。
「水もしたたるイケメンってことね」
神佑高校から車で移動している早苗に傘は不要だ。ぼくの頭をタオルでごしごしと拭いている。
「なんだそれ」
「んー。悟朗さんはいい子ですねー。早苗がいっぱい褒めます。よしよし」
「……なんだか、寒いな。風邪の引き始めか」
「おっ? ぎゅーっとして暖めますか? ぎゅっぎゅっ」




