忘れ物のセーター
早苗は午後九時になると帰ってしまう。たとえ今日が土曜日で、明日の用事はなくとも、泊まりはしない。これから二時間かけて、神佑高校の近所の家に帰る。夏芽家で雇っている運転手の羽黒さんにもプライベートがあるから、ぼくはこの『午後九時』は厳守していた。早苗はたまに無視しようとする。
前に帰りがギリギリになってしまって、早苗がセーターを部屋に置き忘れたことはあったか。別に何もしてない。……何もしてない。どうせ次の日に来るから。においをかいだり、着てみたりはしたが、これは何もしてないの範囲に入れておいてほしい(洗って干してから返した)。
「また明日ね」
明日のお昼頃に、早苗はこの部屋を訪れるだろう。ぼくは早苗に負担がかかっていないか、今更ながら心配になった。あの志郎の言葉が、引っかかっている。早苗はなぜ神佑高校を選んだのか。早苗が行きたくて選んだのだから、神佑はいい学校だとは思うが、ぼくと毎日会うのなら近い学校を選んだほうがいい、というのは、志郎と(不本意ながら)同意見だった。
「早苗」
「なあに?」
「明日、ぼくが早苗の家に行くのは、どう?」
いつもは早苗がぼくの部屋に来るので、今度はぼくが早苗の家に行ってみたい。おかしな提案ではないだろう。たとえば、明日。
「あしたかあ。困っちゃうなー」
早苗が頬を赤らめた。急な提案だったか。
「困っちゃうって。神佑高校に入学したら、ぼくは早苗の家に住むんだろう?」
「おおっ! 悟朗さん、帰らないんだー?」
「……そういうつもりで言ったわけじゃ」
早苗の表情がコロコロと変わる。帰り際の寂しさから、困ったような顔になり、今は、ニヤニヤとイジワルそうな笑みを浮かべて、ぼくの腕にひしと抱きついた。
「悟朗さんがついにこの世界に住む決意を固めてくれたんじゃなーいの?」
「違う。いつもぼくの部屋に来てもらっているから、早苗の部屋に興味があってだな」
「なーんだ」
腕から離れて、がっくりと肩を落とす。早苗は本当に、帰ってほしくないのだろう。
子どもは三人欲しいとねだられたが、子どもを作ったらなおさら帰りにくくなる。ぼくには、妻と子をこの世界に置き去りにしてまで、クライデ大陸に帰ろうとは思えない。自分の行為に責任が持てないのなら、ミカドになる資格はない。ミカドの言葉一つで、民の生活が左右される。愛する人の将来を考えられない者が、どうして民の未来を考えられようか。
「わかった。こうしよう。あした、早苗の部屋に行く前に、お洋服を買いに行こ?」
早苗の提案は魅力的だった。季節の移ろいに合わせて、装いも変えていかねばならない。
「ちょうどいい。防寒具が欲しいと思っていたところだ」
この世界の冬は寒すぎた。ぼくが慣れていないのもある。今のうちから、次の冬に備えておきたい。クライデ大陸のぼくの住んでいる地域は、一年中暖かかった。
「悟朗さん、コートを持ってないよね。買うとしたら、制服の上から羽織れるような、大きめのにしないとだ」
「早苗に選んでもらえるなら、嬉しいよ」
「早苗も、悟朗さんに選んでもらいたいなー。悟朗さんが早苗をより『かわいい』って思えるようなお洋服。たくさん買っちゃお」
「制服でもかわいいが」
学生だと、一年の中で制服を着ている日のほうが多い。平日は下校後にこちらに来るから、早苗は制服姿だ。今日は学校も休みだから、ふんわりとしたワンピースを着ている。
「そーだ。えっちな下着も探そーね?」
「中学生が入っていい店ならな」
「んー。確かに」
うふふ、と微笑む早苗は、これまで出会ったどんな女の子よりもかわいい。できるだけ近い将来に、ぼくはこの人と別れて、一人でクライデ大陸に帰らないといけないのに、……たまに『なぜ別れなければならないのか』と、真剣に悩んでしまう。よくない考えだ。ぼくはミカドにならなければならないのに。
「いっぱいのお洋服、悟朗さんに運んでもらおっと」
「ぼくは荷物持ちか」
「まあまあ。悟朗さんのぶんも買ってあげるから、拗ねないのー」