僕の母の話
初投稿です。前編となります。一応ノンフェクションです。
2025年7月12日。
この日は僕の母が亡くなって40回目の命日だった。
つまり40年前…ふと僕は、忘れている事も多いが、覚えていることを綴ってみようと思い立った。
僕の母は自分の胸を包丁で何度も突いて亡くなったそうだ。
当時僕は7歳、小学校2年生だった。この日は小学校での親子親睦会の日で、前回の親睦会の時に、母は体調を崩して来れなかった。その時にとても寂しい思いをしたので家を出る前に「絶対に来てよ!約束だよ!」と母に念を押し、母から「わかったよ〜」と笑顔で返されたのを覚えている。これが生前最後の会話になった。そうして約束した後に登校し、普通に授業を受けていた。たぶん2時間目だったのだが、ちょうど体育でプールの授業中だった。いきなり先生から呼ばれ、プールから上がって着替え、帰る用意をするように言われた。『???』と戸惑いながらも、1人プールから上がり着替え、帰り準備を整えたら教頭先生が待っていた。そのまま教頭に連れられ、教頭の運転するクラウンに乗せられて移動し、大人たちが数人いるところに連れて行かれた。そこにいた数人の大人に「今朝お母さんに変わったところはなかった?」と聞かれた気がする。ここはあまり記憶が確かじゃない。その証拠にここの大人達の顔を一つも覚えてない。
教頭先生に連れられて最初に行ったところは、たぶん警察だったと思う。この時、僕は何が起きてるか全然分かってなかった。疑問しか無かった。
警察を出た後、また教頭先生の車に乗せられて、自宅のマンションに送ってもらった。
玄関の鍵は空いてて、中に入ると誰もいなかった。僕には4歳下の妹がいて、この時まだ3歳だった。当然ながら、まず1人では外に出れない。なので誰もいなくてひたすら静かな家に、強烈な違和感を抱いたのを覚えている。不安になってどこかに誰かいないかと、荷物を置いてリビング、子供部屋、和室、両親の寝室、トイレと探したが誰も居なかった。最後に風呂場に行った時、風呂場の床に青いバケツがひとつ置かれていた。僕のお気に入りの、ペンギンのカワイイイラストが書かれたバケツだった。
気になったので中をひょい、と覗いてみると、限りなく黒に近い赤色の液体の中に、これまた少しだけ明るい赤色、だけど赤黒い大きなカタマリが2つ浮いている?浸かっている?のが見えた。
僕は、これは何かとんでもない事が起こっているぞと感じ、一気に血の気が引いた。
そして途端に怖くなった僕は、逃げるように風呂場を後にしてリビングに駆け込んだ。
アレはなんなんだろう?という思いがぐるぐる思考の中を駆け巡っていると、玄関の方から人の気配と物音がした。気になったので玄関に向かうと、母方の祖母が飛び込んできて自分を吹っ飛ばす勢いで抱きついてきて、
「お母さん死んじゃったぁーーー!!!」
とその場で崩れ落ち号泣し出した。
死んだ?え?どういうこと?なんでばあちゃんいるの?なんでそんな泣いてるの?
…と、訳が分からないことだらけで限界が来た僕は、気がつくと祖母につられて大泣きしていた。祖母に連れられていたのだろう、気がつくと妹も側にいて大泣きしていた。僕も妹も状況は正確に分かっていなかった。しかし、大人が泣き叫ぶような事態が起きているということに対してこれ以上ないくらいの恐怖は感じていたので、怖くて怖くて大泣きしていた。
祖母に抱きつかれながらふたり大泣きしていたところに、妹がそばで泣いてたのに気付いた祖母が、妹も抱き寄せ、そうして暫く3人でわんわん泣いていた。
その後しばらくは記憶があやふやであんまり覚えていない。時系列とか怪しすぎるので何があったかだけ書いていくと、
家の電話がひっきりなしに鳴りっぱで、いつの間に来たのか伯父さん(母の兄)が電話をひたすら取っていたこと、
救急車(有識者の方間違ってたらすみません、子供の記憶なのでご容赦を)で母の遺体が家に帰ってきたこと、
母の布団が奥の和室に敷かれて、そこに母が寝かされたこと、
このくらいしか覚えていない。
そして、見知らぬ大人達がたくさん家に出入りしていて、バタバタと忙しそうにしていたのは覚えている。
こんな中、当然ながら小2と3歳の兄妹達にできることなんて一つもないので、子供部屋に閉じ籠もり、二段ベッドで大人しくしていた。
そうしているのにも飽きて、たまたま子供部屋から顔を出した時だったと思う。
父が帰ってきた。
ここで少し父の事について触れたい。私の父は今でも自称『クソ親父』と名乗るくらい頑固親父で、非常に厳しかった。門限が決められてたり、寝る時は必ず三つ指突いておやすみなさいの挨拶をするよう躾けられたりと、とにかく自分には当たり前だが同級生達がやってないようなことを躾けられていた。当然言いつけを守れていないとゲンコツが飛んできた。また僕が宿題が分からずつまずいて教わる時には、父は手に30cm定規を持って横に座り、間違えたらビシビシ叩かれ、泣こうが喚こうが正解して最後まで終わるまで徹底してやらされた。(今ならDVだ児童虐待だと言われそうだが、そのお陰でなんとかきちんと育ったと思っているので、自分としては感謝している)その反面、いろんな事に博識だったり(一緒にクイズ番組見ていてもほぼ正解していた)、いろんなものを自作できたり(いらなくなったカーオーディオで簡易コンポ作ったり、貰ってきたスクラップ同然の自転車を、必要部品を新調し新たに塗装して組み直したり)したので、凄い人だと幼心に心底思っていた。つまり僕にとって父は、小さい子供にありがちだとは思うのだが、完璧なスーパーマンだったのだ。
後編に続きます。