82話「グレイシア王国への愛情」
「グレイシア王国の世継ぎに、サルガル王家の血を混ぜる方法は二つあったわ。
一つは王弟であるラファエルと、サルガル王国の第一王女であるイリナを結婚させること……」
王妃殿下は、王弟殿下をまっすぐに見据えました。
視線を向けられた王弟殿下は、厳しい表情をしていました。
「八年前、僕は国王に名前も知らない遠い国への留学を迫られた。
その時、王妃殿下が国王を説得し、サルガル王国の研究所への留学を勧めてくれた。
あなたは、サルガル国王に話を付け推薦状を書いてくださった。
遠い異国の地に送られずに済み、僕はあなたに感謝していました」
王弟殿下は、抑揚のない声で話していました。
彼の表情や態度から、彼の感情を読み取ることはできません。
「ですがそれは間違いでした。
あなたの目的は、僕とイリナ王女を結婚させることだったのですね」
王弟殿下は、険しい眼差しで王妃殿下を見ました。
彼の表情には怒りはなく、どちらかといえば信じていた人に裏切られた落胆の色が混じっていました。
「そうよ、今頃気づいたの?
でも、あなたとイリナが結婚する可能性は低いと思っていたわ」
王妃殿下はそこで言葉を区切り、肩をすくめました。
「兄上からの手紙で、イリナの性格は知っていました。
イリナは、わがままで傲慢で勉強が嫌い。
彼女の口から出てくるのは、ファッションや食べ物の話題ばかり。
兄上にとってイリナは可愛い末の娘。
着飾って笑っているだけで良かった。
だからイリナの教育をおろそかにしたのね。
だけど笑顔が可憐なだけで、知識もマナーもない少女など、王女としては失格だわ。
よって、イリナがあなたのタイプではないことは、始めから分かっていたわ」
王妃殿下は厳しい表情でそうおっしゃいました。
「ですから、私はもう一つ案を用意していたのよ」
王妃殿下が、私のことを見ました。
「べナットを廃嫡し、アリーゼを私と陛下の養子にし、ゆくゆくは女王にする。
王配には、サルガル王国の第二王子のダリウスを据える。
そういう策もあったのよ」
王妃殿下はそう言って目を細めました。
イリナ王女が、第二王子のダリウスと私の結婚を勧めてきたことがあります。
それはイリナ王女の案ではなく、王妃殿下からの提案だったのかもしれません。
「ですが、その案には無理があります。
王弟であるラファエル様がいるのに、私が国王夫妻の養女になり、女王になるのは現実的ではありません」
いくら私が王家の血を引いていると言っても、私は公爵家の令嬢に過ぎません。
王弟であるラファエル様が健在なのに、私が女王になるなど……。
「まさか、その場合はラファエルのことを……!」
王弟殿下もその可能性にたどり着いていたのか、厳しい表情をしていました。
「そうよ、アリーゼを女王にする場合、ラファエルには儚くなってもらう必要があったわ。
聡明なラファエルを次の国王にするより、ラファエルを殺して、流されやすい性格のアリーゼを女王にし、王配にダリウスを据える方がサルガル王国の利益に繋がるもの」
王妃殿下は口角を上げました。
なんて恐ろしい計画なのでしょう……!
怒りで、体が震えました。
「ラファエルを殺す機会は二回あった。
一度目は、ラファエルがサルガル王国に留学する時。
二度目は、サルガル王国から帰国する時」
確かに国境沿いは警備が手薄になります。
サルガル王国で刺客に襲われたのでは、防ぎようがありません。
事件の捜査も、サルガル王国主導で行われるでしょう。
証拠は隠滅され、真相は闇の中に……。
「でもそうはしなかった。
やらなかった……いいえできなかったのよ」
王妃殿下は目を伏せ、大きく息を吐きました。
彼女の表情は、心なしか悲しげに見えました。
「それはなぜですか?」
王弟殿下が尋ねました。
王妃殿下は物悲しげな表情で、王弟殿下を見ました。
「ラファエルが十歳のとき、二歳のベナットを殺せなかったのと同じ理由よ」
王妃殿下は足元を見つめ、物憂げな表情で答えました。
「子供のいない私にとって、ラファエルは息子のような存在だった……。
王太后殿下が逝去されてからは、特にその思いが強くなったわ」
彼女の言葉は重く、どこか苦しげでした。
彼女の言葉に、嘘はないように感じました。
サルガル王国とグレイシア王国の血を引く子供を、グレイシア王国の跡継ぎにする。
それが王妃殿下の当初の目的でした。
王妃殿下が上げた方法は三つ。
国王陛下と王妃殿下の間に子を作る。
王弟殿下を即位させ、イリナ王女との間に子を作る。
私を女王にし、ダリウス王子との間に子を作る。
ですが、もう一つ方法があります。
王弟殿下と王妃殿下の間に子を作ることです。
倫理観に反していますが、王妃殿下にはそれを行うだけの実力もチャンスもありました。
でも、彼女はそれをしなかった。
王妃殿下がおっしゃった通り、彼女にとって王弟殿下が、息子のような存在だったからなのですね。
これは、私の推測でしかありませんが……。
王妃殿下はグレイシア王国で長年過ごすうちに、この国が第二の故郷になっていた。
彼女は、サルガル王国よりグレイシア王国を愛してしまった。
グレイシア王国にとって、王弟であるラファエル様を失うことは損失。
だから王妃殿下は、王弟殿下を殺せなかった……。
イリナ王女付きの侍女が猫になる薬を盗み出し、私に飲ませたことは、王妃殿下の想定の範囲外のことだったのかもしれません。
王妃殿下の望みは、王弟殿下とイリナ王女が、双方の合意のもと結婚することだったのかもしれません。
それはサルガル王国にとっても、王妃殿下にとっても、最も良い結果に繋がるから……。