凡薨
嗚呼。
全くもって餓鬼というものは鬱陶しくてならない。
四六時中喧しく喚くし何かとすぐに怒りすぐに泣く。
斯くも純粋かとばかり思えば平然と大人顔負けの邪悪さを見せる。
身の程知らずの怖いもの知らず。
岩があれば上り川があれば飛び越え、
平然と儂の木にも登ってくる。
どうも人というのは我らがそう易易と見えぬらしい。
例え岩の上に魔の者が居ようが川に神の使いが居ようが一向に構わぬ。
故に奴ら…特に餓鬼は平然と儂や他の妖の領域に踏み込んでくる。
これはぷらいばしいの侵害とやらではないのだろうか。
「なぁ、今度はあの木にのぼろうぜ!」
全く、嗚呼全くこれだから餓鬼は!
掠れども寂れどもこの立派な紙垂縄と社が見えぬのか!
…嗚呼、そういえば社は40年ほど前に地震で崩れたのだった。
紙垂縄など遠い昔に鎌鼬に悪戯で刻まれて以来久しい。
とはいえどもなにもこんな辺鄙な場所で木登りなどせずとも他にもっと良い場所があろうに。
第一こんなところで怪我でもすれば誰が助けるというのだ。___否、儂の知ったことではないが。
やれやれ仕方無い。適当に怪我をしない程度の高さで振り落としてやるか。
「だめだよ」
おや。この歳にも物わかりの良い餓鬼は居るものだ。
感心感心。きっと良い親を持ったのだろうな。ほら帰れそら帰れ。
いやはや餓鬼というのもまだまだ捨てたものではなく__
「あの人に怒られちゃうよ」
そう、あの人に怒られてしま…
『待て餓鬼、今なんと?』
慌てて木を降り物わかりの良い餓鬼__眼鏡を掛けた餓鬼へ近付く。
この餓鬼、今確かに「この人」と言った。
しかし最早斯様な忘れられた小さな社へは参拝者は疎か、神主や管理者すら居らん。
見たところこの猛暑で辺り一面の田畑にも人影は見当たらない。
何より此奴は確かにあの瞬間儂を見ていた。
もしやこの餓鬼…見えているのではあるまいな。
ともすれば厄介だ。
風の__鎌鼬の噂によると”見える”餓鬼は、血肉に臓腑、骨の髄に至るまで絶品なのだそうだ。
つまり此奴は異形の者にとって至極のご馳走。
このままでは遅かれ早かれ喰われてしまう__ではない、儂の獲物が横取りされてしまう。
『おい餓鬼、お前だ。見えておるのだな?』
餓鬼と眼が合う。否、儂に人の様な眼は無いのだが。
「なんでだめなんだよ」
「あぁいやだってほら、アブナイし…」
「えー?!」
ええい糞餓鬼め!邪魔立てするで無いわ!
「いいからほら、もう行こ。もうちょっと低い木にしようよ」
眼鏡の餓鬼の視線が儂から短髪の糞餓鬼へと移る。
嗚呼待て。未だ行くでない。
餓鬼どもがぶつくさ言いながら境内を後にする。
畜生め。これだから餓鬼は嫌いなのだ。何だって言うことを聞かない。見えず聞こえずというのは不便だ。
ふと眼鏡の餓鬼が振り返る。
ええい何なのだ一体!最早見えようが見えまいが知ったことか!
さっさと去ね!喰われるならそこらで喰われるが良い!
「おせーぞキョーイチ!」
「ごめん、今行く!」
眼鏡の餓鬼は走って短髪の餓鬼のところへ行き、
再び此方を振り返った。
「…またね」
小さく言うと今度こそ鳥居をくぐり駆けて行った。
一体何なのだ、あの餓鬼は。
一度ならず二度までも儂に話しかけるような真似を。
明らかに儂の存在を認識しているようだった。
しかし眼前に立ったときは、儂ではなく、その向こう側の景色を見ているようだった。
二度目に此方を見たときも、焦点が此方に合っていないようだったし、見えていないようにも思える。
しかし確かにあの時、「またね」等と抜かしおった。
つまり儂のことは見えておるが見えておらん…
『ええい忌々しい!』
何故儂が斯くも頭を悩ませねばならん!
【荒れてるね、爺さん】
『喧しいわい』
見下ろすと眼や口が幾つもへばりついた影の塊のような異形がニタニタと此方を覗いていた。
『低級風情が何のようじゃ』
【酷いなぁ、折角良いこと教えてあげよーってのにその言い草は無いんじゃあないの?】
『何じゃと?』
ニタニタ顔(?)を更に歪めて影が一歩分此方へ寄る。
【あの子は見えてないよ。ただ蜃気楼のようにうっすらと僕らを感じている。】
…成程、言いえて妙な。
確かに思い返せばその様に見えていたと考えれば合点がいく。
『しかし果たしてそれが信じれるのか?』
なはは、と間抜けに影が笑った。
【わかるよ。だってあの子、すっごい美味しそうなんだもん】
とことん低級め。
『…人など喰わずとも支障あるまいに』
【別に喰ったところで支障ないじゃない。それとも何?】
【__様ともあろう方が人の子に肩入れしちゃって。情でも湧いた?】
口を今まで以上に引き攣らせて影が笑む。___忌々しい。
『黙れ。あれは__そう、儂の獲物なのだ。掠め取るような真似は許さん』
【ハイハイ】
ニタァ、と納得したのかしてないのかわからない笑みを浮かべ、影は夜に溶けて消えた。
『___つくづく忌々しい』
雲の隙間からさす月明かりが、憎たらしげに儂の手の甲を照らした。
「じゃあ、この問題分かる人ー」
餓鬼どもが我先にと、喧しく手を挙げる。
嗚呼鬱陶しい。此奴らは己の声が煩いとは思わないのか?
先程からこうして部屋の隅にて餓鬼どもを観察することはや半刻。
既に目眩がしてきた。
なんだってキョウイチはこんなところでじっと座っているのだ?
ここ数日キョウイチはこうして同じ様に灰色の寺子屋に通い続け、同じ様に座って本をぼうっと眺めている。
そんなに楽しいものなのだろうか。理解に苦しむ。
ふとキョウイチが此方の方に視線をやる。
これで大体60回。儂がどこへ居ても気配を感じたときに儂の方を見る。
少なくとも存在を感知しているのは本当のようだ。
こうしているうちにわかったことが幾つかある。
まず、キョウイチは儂以外の存在も感知している。
時折道端に突っ立っている、”在るだけの存在”を避けて通ったり、
寄ってくる小さき者に小声で何やら話しかけてみたり、
窓の外の大きな者を見て、小さく声を上げたり。
次に、此奴はそれらに慣れている。
多少驚こうとも、瞬きのうちに何事もなかったかのように振る舞う。
幼い頃からこうなのだろうということが伺い知れた。
そして何よりも、此奴を狙う不埒な輩が多いということ。
表立って手は出さないものの、虎視眈々と機会を伺っている。
しかし見たところいるのは低級ばかりだ。
高位の者ならいざ知らず、低級では人には触れられない。
どうやら儂が木に引きこもっているうちに随分と妖は力を失ったと見える。
どこを見ても今や兵の成れ果てしかおらぬ。
成程ここまで生きていられたわけだ。これではいくらご馳走が積み重ねられたところで誰も食えぬ。
どうやら儂の心配事は杞憂であったようだ。
嗚呼否、人の子など心配しておらんが。
さぁもうこんな煩い場所にいる意味など無いわけだ。
さっさと帰って眠るが吉。
耳がおかしくなる前に逃げ帰るとし__
「…帰っちゃうの?」
……まぁもう少し見守ってやるのも吝かではないか。
「君、ここんとこずっとついてきてるよね」
灰色の寺子屋からようやっと開放されてから数分。
人気のなくなった途端、キョウイチが声をかけてきた。
『なんじゃ貴様。儂の声は聞こえまいに』
「…やっぱ聞こえないや。ごめんね」
申し訳無さそうに眉を顰める。
…別に貴様に声が届かぬとて何ら謝られるような事はないわい。
「大体…何日くらい?でも少なくとも3日はついてきてるよねぇ。」
高々3日程度で何をそんな風に言うことが在る。大袈裟な。
「暇なの?」
『戯けが!』
思わず唾を散らす。
何たる言い草か。仮にも貴様を狙う化生の物から守ってやっていたというのに。
所詮は餓鬼よ、全く。
「あぁごめんごめん」
ふん。今更宥めにかかっても遅いわ。儂としたことが餓鬼なんぞに要らぬ時間を費やしてしまったわ。
「君が僕を守ってくれてたことはわかってるから」
なんと、そこまで感じていたとは。
「おかげで授業中にもあんまりジャマされずにすんだよ。ありがとね」
…いや、知らんし。儂もう帰るし。ちょーっと礼を言われた程度で絆されたりせんし。
「ねぇねぇ」
『なんじゃ!!』
「そういえば君、ずっと僕のそばに居たんだよね?だったらアレも見てたでしょ?たっちゃんが味噌汁こぼしてみっちゃんにかけちゃって二人共泣き出しちゃったやつ」
…は?
そういえば今日、餓鬼二人が味噌塗れでわんわんと泣いておった。
そんなことで泣いておったのか。餓鬼め。
『待て、何故その話を儂にする?』
「それから今日初めて跳び箱4段飛べたんだよ!」
だからどうしたというのだ。その話を儂にして何になる。
第一興味もない。鼻くそでもほじっていたほうがまだ愉快だ。
「あとね、あとね…」
此奴儂の話を…聞けぬのだったな。
全く鬱陶しい。その手の話は友人か父母にでもすれば良かろうに。
他愛もないことを長々と。
やはり人の考えることはよくわからん。
ましてや餓鬼など。
やれやれ。
何故儂が斯様なつまらん話を聞かねばならぬ。
何故斯様なつまらぬ事をその様に楽しげに話す。
何故貴様はそんなにも必死なのだ。
何故儂は___此奴の傍らから離れられん。
「アハ、アハハハ」
何故笑う。キョウイチ。
何故悲しむ。キョウイチ。
何故貴様は泣くように笑うのだ。
キョウイチ。
「…ねぇ、一緒に来てくれないの?」
心細そうにキョウイチが尋ねる。
そう言われても、人の家には表札の結界が張られていて儂とて長居はできぬ。
第一貴様の家であろうが。
何をその様に不安がることがある。
「……」
…ええいそんな目をするでない!
『…また明日も来てやるわい。万一に今更喰われても目覚めが悪いでな』
聞こえはせなんだろうが、何かを感じたのだろうか。
少し表情を和らげ、キョウイチは扉の向こうへ消えていった。
…どうしたというのだ。
明日も来てやる、だと?
我ながら愚か者め。もう絆されおったか。
人の子なぞに、顔も見えぬ、声も聞こえぬ餓鬼に。
あの目。あの目だ。
今更人など腐る程見てきた。産まれたての餓鬼が老いて朽ちるまでを、何度も。
儂の木が葉をつけ、それが枯れて落ちるように。
儂の社が、日を重ねるにつれて朽ちていくように。
儂の目の前で、儂の介せぬ場所で、何度も何度も。
けれど、けれど、目を見たのは初めてなのだ。
あの様に儂を見ようと、此方を覗く目は。
あれ程正面から餓鬼の目など覗いた事があっただろうか。
あれ程正面から儂を見た人がいただろうか。
なんだそんな些細なこと。
ああ理解っている。
くだらない。さっさと忘れれば良いものを。
ああ理解っているとも。
第一そこまで肩入れするほどの付き合いもないではないか。
ああ。全て理解っている。
けれど。
あの射抜くような真っ直ぐな目。
愉快そうに細められた無邪気な目。
不安そうに此方を伺う潤んだ目。
どれも、初めて見る。
当然だろう。今まで人が儂を見ることは疎か、感じる者さえ終ぞ無かったというのに。
それが当然であったというのに。
儂を見て。
笑った。
何と愚かで、何て単純な。
あの影が聞いたら何と言うだろう。
きっとニタリと忌々しく嗤うだろう。
儂自身、可笑しいと、馬鹿馬鹿しいと、理解っている。
けれど、最早遅い。
傍らで、暫し見守ってやろう。
暫し話を聞いてやろう。
そうしなければ崩れて消えてしまいそうな儚さを、扉の隙間に見た。
あれは儂の獲物なのだ。
依然変わりなく。
だから、傍らに居よう。
傍らにて、守ろう。
崩れぬように。夢のように、消えてしまわぬように。
季節が巡ろうと、人が巡ろうと。
あれが儂の傍らから消えるまで。
「ねぇ、聞いて。今日は海に行ってきたんだ。」
『見ていたよ、キョウイチ。海坊主の群れに近づいたときは肝を冷やしたわい』
「ねぇ、今日は今年始めて雪がふったんだ。キラキラとキレイだったなぁ」
『ああ、見ていたとも、キョウイチ。あの中にいくつか、妖が混じっていたことにお前は気づいただろうか』
「ねぇ、…今日もお母さん、帰ってこないんだ。」
『ならば暫し傍らにて居よう。大丈夫だ。じきに帰る』
「ねぇ、今日はお花を見に行ってきたよ。桜はやっぱりキレイだ」
『見ていたぞ、キョウイチ。貴様がはしゃいで転んで儂の酒瓶を粉々にしたとこまで、はっきりとな』
「ねぇ、君にも名前がほしいな。いつまでも君じゃあさみしいよ」
『儂の名などとうに忘れられてしまった。好きに呼ぶが良い』
「ねぇ、コノハ。アジサイだよ。僕初めて見たや」
『…あぁ、その名で呼ばれるのは慣れんな。そうか紫陽花か。綺麗だろう。儂の木の木陰にも咲いておる。そのうち見に来ると良い』
「ねぇ、コノハ。お母さんとお父さんが喧嘩するんだ。毎日毎日、遅くまで」
『そうか。大丈夫だ、キョウイチ。儂は傍らにいる』
「ねぇ、コノハ。君のためにキレイで大粒などんぐりを拾って来たんだ。ここ置いとくね」
『そうか、あれは儂にだったのか。ありがとうな、キョウイチ。大切にしよう』
「ねぇ、コノハ。初日の出だ。キレイだね。今年もよろしくね」
『日の出などいつ見ても変わらんだろうに、人とは度し難い。…儂こそまたよろしく頼む』
「ねぇコノハ。友達が僕を可怪しいと言うんだ。なにもないとこに向かって喋るのは異常だって」
『ああ、見ていたともキョウイチ。お前の前でなければねじ切って影の餌にでもしてやるところだ。大丈夫、大丈夫だ』
「ねぇコノハ、僕いつの間にか中学生だよ」
『何だそれは?少し大きい寺子屋に移っただけであろう。何も変わるまい』
「ねぇコノハ、僕試合に出れることになったよ!」
『死合?餓鬼の曲に物騒な。あの白黒の球を蹴りつけて殺すのか?ヒョロヒョロのくせに。…おや貴様、いつの間に大きくなったか?』
「惜しかったねコノハ。負けちゃたよ。また来年だね。応援してくれたのにごめん」
『何を謝る、キョウイチ。一人も殺せなんだがよくやった。次こそはちゃんと殺せるように呪いでもかけておいてやろう』
「どうしようコノハ、お母さんが知らない男の人と歩いてたんだ。どうしよう、どうしよう、どうしよう…」
『嗚呼、落ち着けキョウイチ。大丈夫だ、大丈夫、大丈夫…』
「ねぇコノハ、受験受かってると思う?不安でたまらないよ」
『呪剣?たまにお前は物騒な奴だな。不安なら心配ない、儂が気持ちに安らぐ香を焚いてやろう。ここのところ寝ていないようだったし、今日は安心して眠るが良い』
「ねぇコノハ!受かってた!受かってたよ!これで僕も高校生だ!」
『受かっていたとは何だ?コウコウセイはよくわからんが貴様また物騒なものに手を出したのではあるまいな。嗚呼、そんなにはしゃぐでないキョウイチ。また転んでしまうぞ』
「ここのところどうしたの?コノハ。最近、君が時々傍にいない気がするんだ」
『嗚呼、すまない、キョウイチ。近頃社のそばを離れすぎたせいか、時折社に戻らねば弱ってしまって動けないのだ。すまない、すまない』
「ねぇ、コノハ。まだ傍にいてよ」
『どうしたのだキョウイチ。嗚呼、居てやるとも。動けずとも、なんとか動いてみせよう。お前の傍らに居続けようとも』
嗚呼。忌々しい。忌々しいほどに楽しいな。
キョウイチ。お前との日々は楽しいよ。
近頃はめっきり動けなくなってしまったが。それでもお前は何かを察してここまで来て、話をしてくれる。
嗚呼、明日が待ち遠しいよ。
こんなにも夜が長く思ったことはない。
明日、お前は何をするだろう。
何を見てくるのだろう。
何を感じてくるのだろう。
それを、どの様に聞かせてくれるのだろう___
【ゴキゲンだね、爺さん】
『…あぁ、つい今しがたまでな』
見下ろすと何時かのようにニタニタと嗤う影が此方を見上げていた。
『何のようじゃ』
【いやぁ、人の子に絆されちゃった__様のお顔を拝見したく、ネ?】
チィッ、やはり嗤いに来たのか。
『冷やかしに来ただけなら帰れ。喰うぞ』
【イヒヒッ】
…様子が可怪しい。奴はあんなにでかかっただろうか。
何時かの数倍に膨れ上がっているような。
姿も、力も。
【今のアンタにそんな力あるの?】
…とことん忌々しい。
【力を失いつつある今のアンタに俺が喰えるの?】
イヒヒッと再び嗤う。
『低級の曲に粋がるなよ』
【アンタこそイキってんじゃないよ】
【_俺に力を喰われても気付かないくらいモーロクしちゃってんだからさ】
…何だと
【餓鬼にウツツを抜かしてデレデレしちゃってさぁ。そんな隙だらけだから俺みたいな低級にも喰われうちゃうんじゃないの?】
まさか、貴様ごときがそんなこと
【できちゃうんだな、これが。あ、今ビビった?心読まれてビビっちゃった?】
『…愚か者めが。貴様なぞ今の儂でも十分祓えるわい。喰う価値すら無い』
【あれ?あれあれあれあれあれ?そんな口聞いちゃって知らないよ?】
言いながら影がチラリと目をやる。
何を…
「ねぇ!コノハ!コノハ!」
…あの大馬鹿者!
「…お母さんが出て行っちゃった、どうしよう、どうしよう、お父さんも僕が要らないって、どこへでもいけって、何も無いとこに話しかける僕は気味が悪いって、ああああどうしよう!」
ウププププ、と影が下卑びた笑いを漏らす。
【どうしようねぇ、すっかり弱っちゃて、可哀想に。寂しいんだね、悲しいんだね。ワカルヨ。心にふかーくふかーく影が出来てるもんねぇ】
まさか。
『よせ!』
【…るっっっっせぇんだよバアァァァアカ!!散々コケにしといて今更ザマァねぇなクソジジイ!!】
影から無数の異形の手が伸びる。
彼奴さては儂以外もたらふく喰ったな。
『__逃げろキョウイチ!』
【遅えんだよ!もうありゃあ俺のメシだ!】
…駄目だ、届かぬ。
あともう少し、もう少し__
「あ゙っ」
キョウイチの顔を影の手が鷲掴む。
【あっはははははは!!!見える餓鬼ってのはな!何よりも”心”が美味いんだ!特にこんな風に沈みきった心は最高だ!ご馳走も食えて、ついでに憎たらしく見下ろしやがるクソジジイの鼻をあかせる!!ッハハ、最高、最っっっっ高だぜ…】
__掴んだ。
ヒュンッ。
…ぐしゃり。
【…ぇあ?】
素っ頓狂な声を上げ影が己の手のあった部分を見つめる。
キョウイチの頭を掴んでいた腕は、錫杖に潰され、ビチビチとのたうち回った後に霧散して消えた。
『ちと悪ふざけが過ぎたな、低級』
影の血走った目が一斉に此方を睨む。
『神格を失った儂にも未だ答えてくれるものだな。おかげでキョウイチを救えた』
【んだよ…んだよテメェ!!!!!】
しゃん、と鈴を鳴らし少し錆びついた錫杖が手元に帰る。懐かしき、我が過去の栄光。
『よもや知らなかったわけでもあるまい?忘れられた名を呼んでいたのだから』
影の無数の口から次々と音が鳴り始める。
『どうした。今更怖くなったのか。仮にもかつての神格を相手取って、まさかこうなることを考えもしなかったわけでもあるまい。』
影が慌てて頭を垂れる。
『遅い』
しゃん、と錫杖を鳴らす。
次の瞬間、影が堕ちた。
【ああ、ああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!】
断末魔とともに影が穴の向こうへ消える。
『精々悔やむが良い。影よりも昏き神の怒りの最中で』
再び錫杖を鳴らすと、穴も、影も消えた。
同時に錫杖が錆つき、木の枝へと戻る。
先ほどとは打って変わって静寂に当たりが包まれる。
嗚呼。静かだ。何も聞こえない。誰の声も__
『…キョウイチ!!!』
『キョウイチ!しっかりしろキョウイチ!』
見たところ目立った外傷はないが、あの時僅かに影に触れられた。
どこか喰われているはずだ。
目か?耳か?鼻でもやられたか?
多少ならなんとかなる。死んではない。大丈夫だ、すぐにどうにかしてやる。
「…ぅうん」
『キョウイチ!良かった!』
身を起こし、目を擦りながらあたりを見回す。
どうやら目も、耳も取られてはないようだ。ではどこが…
「…コノハ?」
ああ、儂ならここだ。無事で良かった。
「何処にいるの?」
…何だと?
『どうしたキョウイチ。儂はここだ。お前の傍らにいるぞ。』
「何処?何処なの?何処に行っちゃったの?」
そんな、まさか
『…感じぬというのか。儂を。儂らの存在を』
【見える餓鬼ってのはな!何よりも”心”が美味いんだ!】
まさか彼奴、目でも耳でもなくキョウイチの心を喰いおったというのか。
キョウイチの心の、儂らを感じていた部分を。
「嫌だ!君まで僕を見捨てないでくれ!僕から離れないでくれ!」
嗚呼、違うんだキョウイチ。
誰が見捨てるものか。誰が離れるものか。
「君まで僕を独りにしないでくれ!!」
すまないキョウイチ。危険な目に合わせてしまってすまない。守ってやれずすまない。
独りにしてしまってすまない。
此処にいるぞキョウイチ。此処にいるんだ。
お前は独りじゃない。見えずとも、感じずとも。
儂はお前の傍らに___
一夜が明けて、涙が枯れた頃、キョウイチは神社を後にした。
涙の跡と虚ろな目が痛々しかった。
あの夜以降、キョウイチは妖を見ることは無くなった。
大きい者達からそれを察し、キョウイチから離れていき、
数週間もすれば小さい者たちも飽きたのかキョウイチの側に寄ることはなくなった。
儂を除いて。
キョウイチの親は離縁したらしい。
母親は黄色い歯の男と出ていき、キョウイチは父親と二人で住むことにしたようだ。
当初、父親とは気不味そうにしておったが、じきに慣れたらしく今ではそれなりに上手くやっているようだ。
あれからキョウイチは偶に後ろを振り返る。
誰か探しているような、淋しげな目。
その目がほんのすぐ後ろにいる儂を再び捉える日は来るのであろうか。
もとより見えていたわけでも、聞こえていただけでもない。
ただ互いに其処に居ただけ。
ただそれだけのこと。
なのに、今や不思議と離れがたい。
ほんの数年傍に居ただけだというのに。
最早その目は儂を捉えぬというのに。
もう一度。
ただの一度だけ。
語りかけてほしい。
儂を見てほしい。
あの声で呼んでほしい。
ただそれだけのために。
儂は今日もキョウイチの傍らを歩く。
消毒液とよくわからない薬品の匂いがツンと鼻を刺す。
自動ドアが開き切る前に体をねじ込んで走り出す。
後ろから何か注意する声が聞こえた気がしたが構っていられない。
「お祖父さまの容態が急変しました」
淡々と事実だけを告げる無機質な電話に呼び出されたのがほんの十数分前。
会社を早退し、郊外の病院まで急いで車を走らせたが、どうやら間に合ったらしい。
顔を上げると、病院のベッドを囲んだ弟家族と姉夫婦が出迎えてくれた。
祖父ちゃんはと言うと、心電図を鳴らすばかりで、死んでいるのか寝ているだけなのか、
パッと見で判断がつかないほど穏やかに眠っていた。
「痛みで苦しそうだったから薬で眠らせたんだって」
姉が静かに続ける。
「もうどうしようもなくて、このままでも意識も戻らないまま苦しむだけだから、せめて穏やかに逝かせてやろうって」
何人か涙の跡が見えるものの、どうやら皆覚悟はできているらしい。
ガキの頃はよくわかんない人だと思ってた祖父ちゃん。
優しくて、穏やかで、どこか不思議な雰囲気をまとった人だった。
ガンがわかって、助かりそうもないと聞いたときも、
「そうですか」
と言っただけだった。
先進医療を拒み、地元の小さな病院で死にたいと、
それっきり何も言わずここに入院し、ロクに連絡もよこさなかった。
何のワガママも言わず、
ただ一つ、
「この部屋がいい」
とだけ言った。
山と、田んぼと、大きなブナの木が植わった神社が見えるだけの病室。
何故ここが良かったのかは、結局墓場まで持って行くつもりらしい。
きっとあの人にしかわからない何かがあったのだろう。
聞いてもきっとにこりと笑うだけで決して教えてはくれない。
そういう人だったから。
その時は突然に訪れた。
一瞬心電図の波が揺らぎ、断続的に鳴ったと思ったら、もう死んでいた。
人というのはこうもあっけないものであろうか。
姉が涙を流し、姉の旦那がそっと肩を支える。
弟が静かに顔を伏せた。
俺の目にも熱いものが込み上げてきたと思ったその時、
おもむろに祖父ちゃんが目を開けて、顔を横向けて、
「___ありがとう」
掠れた声でそう言い遺し、笑顔のなり損ないのような顔をして、今度こそ死んだ。
皆が一瞬鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をして、次第に笑い出した。
死んだと思ったら、誰もいない場所を見て礼を言って事切れる。
最後まで不思議な人だった。ありがとう、なんて、優しい祖父ちゃんらしい。
皆が口々にそう言う。
皆泣きながら笑っていた。
ふと一陣の風が吹き、カーテンを揺らした。
窓なんていつ空けただろうか。
窓を閉めようとして、祖父ちゃんの枕元に何かが置いてあることに気づいた。
誰が置いたか、大粒のどんぐりが二つ。
片方を手にとって転がしてみると、
ふわりと優しい木の香りがして、
なぜだか涙が出てきた。




