《短編》嫌がらせ王子と眠れる公女
『ちょいたし令嬢のおいしい牢屋生活』(短編)
→『ビジュエルディアの嫌がらせ王子』(短編)
→本作(短編)
それぞれ短いので、この順番でお読みいただくのをおすすめします。
上のシリーズからどうぞ。
「キース様、ごめんなさい。なんだか調子が悪くて……」
妻のツェリシアは、夜着のまま、寝台の上で身体を起こして言った。ここのところ、ずっと顔色が悪い。
彼女がそう言い出したのは、もう一週間も前のことだ。
日に日に起きている時間が短くなり、僕はひどく不安を覚えるようになった。
何人もの医師に見せても、彼らはみな一様に首を振る。
特に変わったことはないという。
「いってらっしゃいませ」
「──ああ」
僕は名残惜しい気持ちで彼女を見た。目が合うと、ツェリシアはにっこり笑って「お慕いしています」と言う。
僕は顔に熱が集まるのを感じながら「ああ」と答えた。ツェリシアがほほ笑む。彼女にはたぶん、僕の心の声が聞こえてしまったのだ。
夫婦の部屋には大きな窓があり、そこから差し込む朝の光が、彼女を後ろから照らしていた。銀髪は日に透けてきらきらと輝いているのだが、顔には影が落ちてさらに具合が悪そうに見える。
ふと彼女が消えてしまいそうな不安に駆られた。
そして、それは現実になった。その朝を最後に、彼女は目覚めなくなったのだ──。
妻はもう何日もこんこんと眠り続けていた。身体はひどく冷たい。
僕や、妻の侍女・ドロシーは、不安になって、日に何度も彼女の呼吸を、鼓動を確認していた。
何度医師を呼んでも、異常はないという。
「──異常はありません。ですが、このままの状態が続きますと、その、体力のほうが……」
医師は口を濁した。
僕は苛立ち、思わず机を叩いた。医師がぎゅっと目をつぶる。ドロシーがこちらを睨み、怯える医師を外へ連れ出していった。
「兄貴」
軽い調子の声に振り返る。
見上げるほど大きく、立派な体躯をした美丈夫が立っている。
異母弟のグレイソンである。
「チェリーさん、まだ目覚めないの?」
声の調子とはうらはらに、グレイソンはまじめな顔で訊いた。
僕はぐっと息が詰まるような苦しさを覚えたが、頷いた。
「あのさ、俺気になってたことがあって」
「なんだ?」
「チェリーさんのギフトって、対価とかなかったのかなって」
「対価?」
「そう。兄貴がチェリーさんを閉じ込めてたときさ、あの人自分で料理してたでしょ? 異界の道具だとか、技術だとか、食べものだとか。そういったものを呼び出してたわけで」
「何が言いたいんだ」
「んー……。俺、簡潔に話すの苦手なんだよね。えーっと、俺は結構他国で過ごした期間が長くて。魔導大国のハルカンシェルでは結構魔術もかじったんだ。
そのときにわかったことがあって。過ぎた力には、なんらかの代償がいるんだよ」
「代償……」
ふと、偶然覗き見ることになったツェリシアの記憶を思い出した。あのとき、具現化したギフトが、能力の使いすぎを心配しているような場面があった。
そのとき彼女はなんと言っていたのか。
「そういえば、ツェリシア様って、とてもおとなしくなったよね」
そう言ったのは、妻の侍女であり乳姉妹でもあるドロシーだ。
にんじん色の髪の毛を二つにわけてざっくりと編み込み、初夏の木々に茂る葉のような瞳をぱちぱちと瞬かせている。
「んー? もともとおとなしくね?」
異母弟が答えると、ドロシーはにやけた目をして、ちっちっと声に出しながら、立てた人差し指を左右に振った。
「もちろん、ツェリシア様は優雅で上品な方ですとも! でも、なんというのか……以前と比べて、感情の起伏が少ないような気がして気になってたんだよね」
「起伏……」
「だって、そうでしょ? バカ殿下が……あっ」
ドロシーが口元を手で抑える。そうして、恐る恐る僕に視線を向けた。
「良い。……事実だ」
「不敬罪で処罰しないでください不敬罪で処罰しないでください不敬罪で処罰しないでください」
「──っ。ドロシー! 話を進めてくれ」
「は、はい。……あの、殿下に閉じ込められていたときも、なにかショックを受けているという感じではありませんでした」
「そ、それは……」
顔に熱が集まる。
ツェリシアは、僕の心の声を拾うギフトを使っていた。だから、僕の内心や、これから起こることなどを知っていたからでは? と考えていた。──愚かにも、このときも、まだ。
「あたしは、ごくごく幼いころにツェリシア様と過ごしました。母がツェリシア様の乳母だったからです。でも、ツェリシア様のお母さまが亡くなり、後妻を迎えたあとは放り出され……。母の実家に身を寄せていました」
僕は思わず顔をしかめる。すべての元凶はその後妻だったからだ。思い出すだけで腸が煮えくり返る気分だった。
「ずっと母の実家にいましたが、ツェリシア様と殿下の婚約が決まり、身の回りのお世話をする人間が必要になり、……それで王城付きの侍女としてふたたび呼び出されたのです」
「都合良すぎてむかつきますよね!」とドロシーが言う。
「だから、私たちとツェリシア様には、長い空白期間があります。再会したときは驚きました。幼いころのツェリシア様は、どちらかというと癇癪持ちで、寂しがりやで、甘えん坊で……。私の母のことが大好きで、実の娘である私が甘えているのをいつも羨ましそうにしていました」
「癇癪持ち……?」
「そうですよ? 愛情深くて寂しがりやの方なんです。今の慈愛に満ちたツェリシア様も素敵だけれど、あたしは、子どものときみたいにわがままを言ってほしいです……」
そうして思い出した。
覗き見たあの記憶の中で、彼女が言っていたこと。それは……。
『わたしの心にちょいたしするの。はじめてのときは偶然だったけれど、いいアイディアでしょう? 感情が削られる? いいのよ。わたし、あの子を守りたいの。ううん、一緒にいたいのよ』
ツェリシアが眠っている今、彼女のギフトを呼び出すことはできない。もし来てもらえたとしても、あの鳥のような、板のようななにかの発する言葉を、僕たちが理解できるとも思えない。
だから、推測に過ぎないのだが、感情が削られるというのは、生命力、生きる気力のようなものが奪われるということだったのではないか……。
料理長に頼み、消化に良いものを作ってもらった。たくさんの野菜をとろとろに煮込んで、撹拌したスープだ。
手ずから彼女の口元に運ぶが、口の中に入れても飲み込むことができなかった。
隣国から癒やしの聖女を派遣してもらったり、医師とともに彼女の状態をずっと見守り続けた。しかし、目を覚ますことはなく、どんどんやせ細っていくばかり。
いつでもからりと明るかったドロシーは、もう何日も笑っていない。なにを考えているのかわかりにくい義弟が、いたわるような視線を僕たちに向けているのもわかった。
僕は途方に暮れて、城の中を歩き回っていた。
いつ外に出てしまったのか。気がつくと護衛を撒いて、城下町のはずれまで来ていたらしい。そこにはやや規模の小さな森があった。
小さな鳥が、森の中に進んでいく。
引き寄せられるようにぼんやりと歩みを進めた。森の中央に、少しだけ開けた場所があった。
夕方の光が降り注ぐそこには、株立ち状になった、僕の肩ほどまでの高さの木。
「これは……」
かつて、刺客に追われ、ツェリシアに助けられて過ごしたあの日々で見たことがある。
彼女の瞳の色をした小さな木の実がなる木だ。
僕は「失敬する」と誰にともなく言って、その実を無心で摘んだ。小さな赤い粒が寄り集まったその実は、宝石のように美しい。
『この実は万能なんですよ! チョイさんに教えてもらったのではなくて、私の乳母から聞いたのですが……。そのまま潰してジュースにしても、シロップ漬けにしても。肉料理のソースにしても良いんですって』
そんな彼女の言葉を思い出し、少しでも気休めになればと思った。
急ぎ城に戻った僕は、驚く料理長に頼み込んで厨房に入り、幼かったツェリシアがしていたようにつぶして絞って濾して、ジュースを作った。
「ツェリシア。懐かしいものを見つけたんだ。飲んでみてくれ」
僕はそう言うと、普段より体温の低い彼女の身体を抱き起こした。ドロシーが涙をいっぱいに溜めて、ジュースを差し出す。
そのドロシーに義弟が布を渡し、ドロシーが飲めずにこぼれたときのためにツェリシアの首元に布をあてた。
「あのとき、君が居てくれてよかった」
僕はそう言い、彼女の色を失ったくちびるにグラスを当て、傾けた。
「……っ! 殿下!!!」
ドロシーが慌ててタオルを落とす。
彼女の喉がこくりこくりと上下した。相変わらず目覚めることはなかったけれど、このジュースは飲んでくれた。
「殿下、殿下も少しお休みになってください。希望が見えましたし。明日の朝は、あたしがツェリシア様に飲ませますよ」
ドロシーが言った。僕は本当はずっと彼女についていたかったけれど、たしかにもう何日もまともに寝ていなかったし、そもそも彼女自身がそばに居たいのだろうと思い、自室に戻ることにした。
ところが翌朝、ドロシーに泣きつかれた。
「どうしても飲んでくれません……」
僕、ドロシー、義弟の三人で森に入り、ふたたびベリーを摘んだ。ドロシーがやると言ったのだが、昨日と同じ要領で僕が実をつぶして濾し、手ずから飲ませた。
「あああ、飲んでますね!」
ドロシーが涙を押さえる。部屋のすみでしばらく考え込んでいたらしい義弟が、こちらにジュースを差し出した。
「兄貴、これも飲ませてみてくれません?」
「なぜだ……?」
「ちょっと試したいことがあって。まあ、飲まなくて全然いいから、試すだけ頼みます」
僕は怪訝に思いながらも、彼女がまだ飲みかけだったジュースを一旦枕元のトレイに置き、義弟に差し出されたジュースを口元へ運んだ。
「……飲まない、ですね」
ドロシーが言う。
「んじゃあ、もい1回兄貴のをよろしくっす。ちなみに今飲ませたのは料理長作」
僕は苛立ちを覚えたものの、最初に飲ませていたものを手に取る。
「……え? ツェリシア様、飲んでますよ?」
それを数回くり返してわかったのは、僕が作ったものならば飲むということだった。
「これ、ほかの料理でもそうなのか試したいっすよねえ」
それから僕たちは、急ぎ私室を改造することにした。折よく、魔導具開発担当の転生者たちが“折りたたみ厨房”なるものを開発したばかりだった。
ツェリシアから離れずにすぐに料理を提供するため、私室に厨房を出現させ、市井で腕のいい料理人を連れてきて教えを乞うた。
とにかく今できるのは、彼女に栄養を与えること。そのために僕は、執務を驚くべき速さで終わらせ、夜は料理修行に明け暮れたのだった。
すっかり痩せ細っていたツェリシアは、以前ほどとは言えぬものの、かなり健康的な見た目になってきた。
顔色も悪くはないし、頬もふっくらとしてきた。くちびるもつやつやとしている。
けれども、もうひと月以上も経つというのに、彼女が目覚めることはなかった。
ある日、父に呼び出された。
「──妃が目覚めぬままだと聞いた」
「はい……」
僕はうなだれた。父は気の毒そうな顔をしたあと、かちりとスイッチが入るように王の顔をして言った。
「覚悟を決めねばならぬぞ」
殴られたような衝撃だった。けれども、それが僕の立ち位置だった。
目の前にいる父も、憎くて仕方がない悪女を、国益のためにと妻でいさせ続けたのだ。僕もまた……。
でも、ツェリシア以外の妃を迎えるだなんて考えたこともなかった。
「期限はひと月だ。──妃が目覚めることを祈っている」
最後は父親としての声色で、王は言った。
「俺はね、王って向いてないんすよ。こんなんだし」
その夜、義弟が言った。
「なんだ、突然」
「やりたくないし、能力不足だとも思う。でも、……どうしても必要ならって、最近考えを変えました」
「グレイソン……」
僕とドロシーの声が重なった。義弟の目はいつになく真剣で、思わず目が潤む。
「ちなみに、その場合王妃はドロシーに頼むっす」
「はあ?」
突然自分の名が出てきて、ドロシーが素っ頓狂な声を上げた。
「もし俺が王になったら結婚してください」
跪いて言う。ドロシーは顔を真っ赤にして「むだに、顔が、いい!!!!!」と叫んだ。
「やめてくださいグレイ。あなたはむだに顔がいいんですよ? むだに。本気になったら困るからそういう冗談はマジでやめてください!」
ドロシーは真っ赤な顔でぷりぷり怒りながら走り去っていった。
「うーん。本気なんだけどなあ」
グレイソンはぽりぽり頭をかいている。
僕は驚いて持っていたカップを取り落とした。がちゃりと嫌な音を立てて、赤いカップが粉々に壊れた。
「本気……? ドロシーに?」
「? そうっすよー」
「今ので伝わるわけがないだろう!」
僕は思わず声を荒らげた。
「見ていた僕だって冗談にしか思えなかったぞ。大体、おまえは彼女に気持ちを伝えたのか?」
「あー言葉にし忘れたかも?」
グレイソンは間延びした感じで言う。けれども、次の瞬間、こちらをまっすぐに見て言った。
「兄貴は、ツェリシアさんに気持ちを伝えたんすか?」
僕の表情が抜け落ちたのに気づいたのだろうか。グレイソンはひらひらと手を振りながら出て行った。
僕は、ずっと彼女だけを信じ、恋い焦がれてきた。
彼女にひどい態度を取るのは辛かったし、離れなければいけないのは心が千切れそうなくらい痛かった。
幸い、僕が口にしていない、できなかった本心を彼女が読んでくれていて。
でも、だからこそ、伝えたことがなかったのではないか。
その夜、夢を見た。
そこは、あの木の実を採取した森だった。木の枝に白い小鳥が止まっている。
『感情は、感情で埋める』
顔のない小鳥はそれだけ言うと、空高く飛び立っていった。
夜明けよりも早く、寝台を降りる。離れがたくて、消えてしまいそうで怖くて、自室に戻らずに夫婦の寝室でずっと抱きしめながら眠ったツェリシアは、僕の体温で身体の左側だけが温かい。
込み上げてくるなにかを押し戻し、僕は厨房に立った。
彼女の身体に負担をかけないように、スープをつくる。
塩漬けにしておいた骨付鳥に切り込みを入れ、古代聖女の黒海藻(昆布)、ネギの青い部分をぶつぎりにしたもの、ネギの白い部分を薄切りにしたもの、生姜、水を加えて煮込んでいく。
とろとろになるまで煮込んで、鶏肉をほぐし、味をみて塩を足した。
「ツェリシア、今日も僕が作ったんだ。き、君のことが心配だ……」
慣れない言葉を口にするのは、なかなか難しかった。
けれども意外と、一度口に出してしまうと、何年も胸の底に沈めていたものが爆発するように溢れてきた。
「僕も多少は料理を覚えたから、君だけに作ってもらうのではなく、一緒に厨房に立とう」
柔らかな夜着に包まれた脚が、いつもよりかさついていないような気がする。
「君のその、柘榴石みたいな目がまた見たい」
ツェリシアのまぶたが、ぴくりと動いた。
「僕は、子どものころからずっと、君のことが好きだ。──たのむ、目を覚ましてくれ、ツェリシア」
ほんのわずかに動いた指ごと、彼女の華奢な手を握り込む。
みっともなく涙があとから後からこぼれた。僕はぎゅっと目をつむって、彼女に触れたまま寝台に顔を突っ伏した。
「君以外、考えられない。好きなんだ」
『正解』
そんな声が聞こえた気がした。
『超読心、解除。超速習、解除』
誰かが僕の頭を撫でた。
驚いて顔を上げると、柘榴石のような瞳とかちりと視線がぶつかった。
「ツェリシア?」
「はい」
「ツェリシア!」
「……キース様」
彼女はまだ少し具合が悪そうだったけれど、目尻に涙をこぼしながら笑い、言った。
「お慕いしています」
「ああ! ……僕も、僕も君をずっと、好いている」
僕は、ツェリシアを抱きしめた。