新月に・移動式遊園地で・ほんの僅かな寛ぎを・さかさまにしたら何かが落ちました。
農夫が今日の夜に顔を上げる。彼の日課である。種を蒔いて水をやって雑草を刈り取って実を選別し、ようやく実ったものを最後まで害獣や害虫に狙われぬようにと気を払い、赤くなった実をようやくもぎ取った。みずみずしい果実は自然の恵だというが、この果実の糖度を高めているのは、間違いなく先人から紡がれた英知の結晶だ。ようやく口に合うものが出来たので、これで食い扶持が確保されると安堵しながら、どうだこの作物はこの私が作り出したんだ、脅威から守り抜いた私の大事な子供たちだと、雨後の筍のように矜持がにょきにょきと伸びていく。
都会では自然は守るべきもの、か弱きものだと謳っているようだが、農夫にとって自然とは、作物に降り注ぐ陽光であり、それを枯らさんとする病原体であり、その作物を食って生きようとする害獣と害虫である。ここには渡ってきた害鳥もいる。彼らへの威嚇に心血を注ぎ、時には命を奪う罠を、都会では残酷だとのたまう。そんなことを言われても、目の前で財布から金を抜かれる所見たら、誰だって咎めるし時には逮捕したりするではないか。それと同じ事なのに、何故か対象が人間ではなく”守るべき”動物になった途端に目の色を変える。正直、知ったことではない。畑という財布から、小銭を毎日抜かれたら誰だって怒る。富裕層はそんな事を考えないかも知れないが、農夫の知る富裕層とは吝なものだ。絶対にお手伝いさんとやらが財布から金を盗んだら、目くじら立てて怒るだろうに。それと何が違うのか。
すっかり日が落ちた畑は暗いが、電気代を支払って電気柵をで囲って防犯カメラで監視している。都会のマンションで車両が盗まれる決定的瞬間の映像をテレビ見たことがあるが、それと似ている。猪が作物を荒らす様はいかに手早く効率よく、卑怯に稼ごうと考える盗人の顔だ。その動画を見て、安全な家から何度も暗闇に向かって駆け出した。道中にいつもなら無い物にけつまづいた事もある。それは近所の誰かが置いたコンクリートブロックだったり、子供の猪と衝突しそうになった事もある。狭い近所付き合いなので、当然翌日に誰が犯人かは分かり、そのお咎めは済んだ。痴呆症のじじを抱えた家だった。元農夫のじじは体が丈夫であり、年齢以上の体力がある。ブロックを何かに使おうとして抱え、だがすぐに忘れて置き去りにしたとのことだ。農夫の力は神の与えた病気にも、こうも逆らえるのだと感心したものだ。いずれ自分もそうなるかもしれないと、そう妻に漏らした時に妻は済まして、その時は施設に入るだけですよとだけ彼女は言った。もし痴呆症が進んで乱暴者になってしまった時、私の代わりに謝るのはこの妻なのだろうかと思った。
「ねえじーじ!」
まだ若いと思っていたが、いつの間にか子供は成人して生家を出て行き、農家としての職業を捨てている。跡継ぎが欲しいなど言うつもりはない。もう私にとっても体力や睡眠を取られるこの職業を、強制的に子供に背負わせるほどの力を、世帯主が持っている時代じゃない。そうなると誰が昔はあった強制力を持っているのか、国家か、それとも自治体か、警察か、それとも自衛隊?どの機関にもない強制力を今なお持ち続けるのは、医者や弁護士のような気がした。その医者先生にビールは控えるよう言われているが、私はビール缶をあおっている。昔よりも確実に味が美味しくなったのに、いつだろうか、いつの間にか健康志向でまた昔のように味が薄くなった。それでもアルコールを流し込む。なんだっていい。孫の笑顔を見ながらビールを飲むのは、最高の贅沢だ。
「あなた、あんまり飲まないでよ」
もう五本は飲んでいるのに、今更もそんな進言は遅い。妻は呆れたようにしながらも、しなびた柿ピーの残りを摘む。私がつまみを食べなくなると、いつもしけった物が残るので、それを片付けるために妻は好きでもない物を食べる。妻らしい行動だ。家庭のコスパの最大値を求めて、いかに節約と得を追求する。そんな妻があさましいとも思えるが、家計と合わせて農家の経営も彼女が計算して回っているので、頭があがらない。
こんな田舎でも、孫が喜ぶ催しがある。市役所が集客のために、簡易な遊園地を不定期に開催しているのだ。移動式のため簡素な造りでちゃっちい、私が子供の頃に連れて行ってもらった遊園地とは違うが、それでも孫が喜んでいるから良い。それを口実に息子夫婦がこちらに顔を見せてくれるのは有り難い機会だ。だから何もかもに感謝をしている。酒が回ると、今までの張りつめている気がすべて解けて、こころがあたたかい。いつもより月明かりが暗い日なのに、ぴかぴかと電飾が輝いてここだけ地獄に取り囲まれた天国のようだ。ビール缶を逆さまにした。一滴だけ、私の膝にこぼれた。妻があからさまに嫌な顔をした。私は意味もなく笑った。
原典:一行作家