婚約破棄?お黙りなさいと言ってるの。-悪役令嬢イレーナ・マルティネスのおとぎ話について-
イレーナ・マルティネス辺境伯令嬢。
この国では珍しい、女性が代々当主を務めるマルティネス家の一人娘で次期当主だ。
マルティネス家は古い時代より、女性が血を分けた子供を国へ広げていくことを目的に婿を迎え、家系を紡いできた。女子が生まれれば次代の当主に、男子が生まれれば婿入りした家へ養子に。マルティネス家の血がそうして広がることを初代当主が望み、マルティネス家の歴史は積み上げられてきた。脈々と続く、強い権力を持った女性当主マルティネスの血はイレーナにもしっかりと受け継がれ――人々は彼女にあらゆる賞賛と畏怖の言葉を向ける。女傑、女番長、怪女、烈婦―――。女性当主という風変わりな家風・女性が権力を持ち生きることへある者は恐怖、ある者は尊敬のまなざしを向けた。
怪女だの女傑だのと好き勝手に噂される彼女も今は「小さな帝国議会」とも称されるグロリア学園に通い、将来の国を担うであろう友人たちと日々を過ごしている。
そして、今年17歳を迎える彼女には迂闊に外では口にできない悩みがあった。それは、婚約者であるヘンリー・モーデライトが近頃、特待生として転入してきたウェンディ・レーヴ男爵令嬢と非常に親しくしている……ように見えることである。
ウェンディは元々平民の生まれで、爵位を持たない家系でこの学園には縁のない少女であったが、地元の行き詰まった経済を大幅に改革し、農業も改革。魔法の力はケタ外れ―――という、あまりに化物じみた実績を作り莫大な利益を得て、不毛な政策を続ける領主より土地を買い上げ爵位を賜ったため、この学園にも入学を決意。うわさを聞き付けた学園が特別に取り計らった入学試験を受けたところ、あまりの成績の良さに特待生として入学が認められたのだという。
ウェンディの活躍は学園に入学してからも目覚ましく、彼女の名前を聞かない日はないほどだ。
婚約者ヘンリー・モーデライトはそんな彼女と非常に仲良くしている姿が目撃されており、イレーナは内心、不安とも嫉妬ともつかぬ気持ちで日々じりじりと心を燻ぶらせていた。
「ねえ、アスール…私はヘンリー様に何か言うべきなのかしら?」
イレーナは学校帰りに自宅に招いた親友のアスール・オンダにその気持ちを正直に打ち明けていた。
アスールは深い海の色をした瞳を縁どるプラチナのまつげを、ゆっくりと伏せる。
「ううん…困ったものだね、モーデライト様にも…」
アスールはオンダ子爵家の令嬢であり、実は彼女もウェンディと同じく特待生としてこの学園へ入学している。というのも、オンダ家は特待生として学費の免除がなければ入学することのできない貧乏貴族だからだ。ウェンディとは違って1年生の頃より入学しているが。
“女傑イレーナ・マルティネス”の異名で恐れられていた彼女にアスールが躊躇せず話しかけ、尊敬でも畏怖でもないその姿勢にイレーナはすぐに打ち解けることができた。イレーナにとってアスールは特別で対等な友達だった。
アスールはイレーナに振舞われた紅茶に口を付けて、彼女の方を見る。
「イレーナは今の状況をどう思っているの?」
「今の状況…もちろん、よくはないと思ってる。でも、私になにか出来ることがあって?」
イレーナとヘンリーの婚約を決めたのはそれぞれの母親だ。学生時代の同級生でもあり、地位の向上を望むモーデライト伯爵家。王室に近しく、領地の拡大に積極的なモーデライト家との結託はマルティネス家にとってもおいしい話で、2人が生まれてすぐこの婚約は結ばれた。
学園を卒業し、18歳になれば成婚となると誰もが知っている。
つまり今、イレーナが何をしようと、ヘンリーが誰と仲睦まじくしようとこの婚約が揺らぐことはほぼあり得ない。
けれども、ヘンリーの心が今、イレーナに向いていないことは明らかだった。平民の出身という特異な出自、屈託のない明るい笑顔と隠すことのできない一線を画した才能。この笑顔にヘンリーだけでなく、学園の男子生徒の何人もが恋に落ちている。生まれたときから貴族の世界で生きることが普通だった彼らにとって、平民の出身の彼女は物珍しく映っただろう。それにあの美貌と賢さは放っておくほうがもったいないという話だ。
それは誰より、イレーナ自身が理解していることを親友のアスールもまた理解していた。
そして、イレーナはそれから目をそらしていることも自身で理解していた。いつか、彼は私と婚約するのだから焦る必要はないと。
それゆえに、イレーナからウェンディに牽制をするのは余計な行動だ、と。
「イレーナ、クッキーはどう?流行のお店のものを買ってきたんだ」
「あら!これ、最近話題の…おいしそう…いただくわ」
この健気な親友を、アスールはこうして慰めることしかできない。
「は~~~~~~~~~あ」
クッキーを頬張って大きなため息を吐く。子供のころから意識せざるを得なかった相手が自分以外に気を向けているのは当然良い気がしない。
「あ~あ、ブラウ様のような素敵な殿方が白馬に乗ってやってきてくだされば…」
「あはは、またそれ?」
ブラウ様――ブラウ・クロイゼルング。この国の第2王子で、今はどこかで極秘裏に修行中の身だという。ブラウは美しいプラチナブロンドに青い瞳が特徴的な甘いマスクで、人々からは青薔薇の貴公子と呼ばれている。文武共に優れており、王子の肖像画なんかが販売されると乙女たちは貴族も平民も関係なく、こぞってそれらを買い集めに走った。
婚約者はいても青薔薇の貴公子に恋して夢を見る、そんな乙女はこの国では少なくない。
イレーナもその乙女のうちの一人であり、彼女の部屋にはブラウが王家の礼装に身を包み、庭園で白馬と共に日の光を浴びる肖像画が飾ってある。これはブラウの肖像画シリーズでも最も人気の作品だ。
イレーナは部屋に飾られた肖像画を見て乙女のため息を吐いた。
「すっかり恋する乙女…って感じ?」
「たしかにブラウ様に恋してるけど…それは恋っていうか、なんていうの? おとぎ話を読むようなものよ。美しい絵画を見ると思わずため息が出ちゃうでしょう? ヘンリー様もそのくらいに留めてくれれば私だってこんな風に悩まず済んだのに」
「肖像画の向こうの君…ね」
アスールは自分の背後に飾られたブラウの肖像画を一瞥した。ブラウの青い瞳が肖像画越しにイレーナとアスールを見つめている。
「さ、て…私はそろそろお暇するよ。お茶、ご馳走様。また明日、イレーナ」
「いつもありがとう、アスール…こんな悩みを話せるのは貴方だけよ」
アスールは立ち上がって、制服の上にコートを羽織る。彼女は背が高く、女性の中でも身長が高いほうのイレーナよりも頭半分ほどは背が高い。すらっとしていて気高く美しく、どこか掴みがたい印象の笑顔を見せる彼女の所作にイレーナはほれぼれしてしまう瞬間があった。
「玄関まで送るわ」
「いいよ、冷えたら悪いからね。それより明日元気な顔を見せてくれたほうが私は嬉しいよ」
そう言ってアスールはイレーナの自室の扉を開けた。マルティネス家のメイドが引継ぎ、彼女を玄関まで送る。
大親友の馬車が遠くに消えるのを見届けると、イレーナはまた深くため息を吐いた。
季節は秋。もうすぐ冬になって、感謝祭の足音が近づきつつあった。
*
「イレーナ・マルティネス! 僕は貴方との婚約を破棄する!」
ヘンリーのホール中にまっすぐに通る声、それから大きなどよめき、そして静寂。
その渦中のイレーナは、突然のことにただ呆然とするほかなかった。
今日は感謝祭の祝日。食物と季節が無事に1年巡ったことに感謝するその日は、1年で最もめでたいとされている。感謝祭の祝日には、学園主催のパーティーが開かれる。1年の総決算とも言っていいその日に、イレーナは突然谷に突き落とされた気分を味わっていた。
「今…なんと?」
急激な感情の昂ぶりにイレーナの手が小刻みに震える。
「貴方との婚約を破棄することをここに宣言する。イレーナ・マルティネス」
「…何故?」
イレーナの絞り出した声が静寂に包まれるホールに落とされる。
「僕は貴方との婚約を幼少の頃から決められていました。しかし、僕は真実の愛を選ぶことに決めたのです。愛する人を守り、そして権力にも屈さぬ強い男になろうとここに決めた」
「愛する、人…?」
愛する人。口に出すのも気が遠くなりそうなその響き。ヘンリーの傍には、ウェンディが立っていた。くるみ色の髪の“小さな革命の乙女”、いつしかそう呼ばれるようになった彼女が。
「貴方は平民の出身であるウェンディ・レーヴに対する数々の侮辱行為や脅迫の容疑が上がっている。自覚はあるだろう!」
「自覚も何も……!」
ヘンリーが指を鳴らすと、文字が空中に浮かび上がる。
罪状
ウェンディ・レーヴへの脅迫行為
ウェンディ・レーヴへの風説の流布
ウェンディ・レーヴへの肉体への加害
この場にいる誰もがその文字列を見てざわめいた。
特に、ウェンディの“風説”についてはこの場のほとんどが知るところであった。
「1つ1つ詳細に説明したほうがよさそうだ」
ヘンリーが指を鳴らすと“罪状”と書かれたその文字列は、イレーナを苛むかのように彼女の眼前に大きく拡大され突き付けられた。
ヘンリーが説明した事の顛末はどれもこれもでたらめばかりだ。
1つ目の脅迫行為はウェンディへ“身の振り方を考えないと痛い目に遭う”“ヘンリーの婚約者は誰だかよく考えろ”といったことを、イレーナのことを密かに信奉する女生徒たちがウェンディへ告げたのだという。
(……別に信奉していなくとも誰もが思うのでは?)
2つ目の風説の流布。ウェンディが王族の誰それと寝ているだとか、どこかの領主に身体を売っただとか……こんなものは貴族社会でつきものの噂だ。特に女性貴族は少しでも目立てばこの噂が立つことは免れない。そしてそんな経験はイレーナ自身がよく経験しているからそんなものは流す理由がないと反論した。
「言う筈ありません。そんな証拠がないうわさを流しても何も得しません」
「どうだろうか。僕とウェンディが親しくしているのを見て疎ましく思ったのではないか?」
ならばその行動を少しでも慎んだら…と口に出しかけて飲み込んだ。ここで何を言っても不利になるだけだとイレーナは判断した。余計な口出しは藪の中の蛇をつつきかねない。
「3つ目は…これを見ろ。ウェンディ」
ヘンリーがウェンディの肩を優しく抱き、声をかける。
ウェンディは小さくうなずくと、ドレスの右袖をまくって見せた。
「…!!」
ウェンディの細い腕にぐるぐると巻かれた包帯。彼女に“何か”があったことを示すしるしを、はらりと取り去った。右腕には痛々しい青紫の内出血が白い腕に広がっていた。
「これは彼女が学園の階段から落ちたときのものだ。彼女はとっさに重力魔法を使い頭からの落下こそ避けたものの、腕への衝撃は免れなかった。その時のものだ」
「わ……私が階段から落ちたとき。確かにマルティネス様の取り巻きの方の姿が見えました」
「……はぁ?」
イレーナの眉間に深いしわが刻まれる。間髪入れずにヘンリーが指を鳴らすと、深緑色のドレスを身に纏った一人の女生徒が「離してよ!」などと叫びながらヘンリーの取り巻きに連れられホール中央へと引きずり出された。
「彼女はマルティネス家の理念に強く共感しているらしい。これもイレーナ・マルティネスのためにやったと…そうだな?」
「この国の未来のためよ!! どこの出身とも知れぬ小汚いネズミめに翻弄される男子たちが見ていられなかったの!!」
悲痛な金切り声で叫ぶ彼女にイレーナは同情した。ウェンディが小汚いネズミかどうかは置いておいて、彼女の激情はイレーナを陥れる茶番に利用されたのだ、と食い違う証言でイレーナ自身はっきりと理解したからだ。
(……お可哀そうに)
「どれも私が指示や直接関与しているという確たる証拠がありません。それに、彼女の証言とあなたがたの言い分がそもそも食い違っている。卒業すればヘンリー様との婚約は確たるものだと確信していましたから、そんな風に小細工をする必要はないのです」
「証拠はこの傷。そして誰もが知る噂。彼女の義憤が物語っているだろう」
イレーナはまっすぐに反論した。が、信奉者が知らぬところでできている彼女への畏怖、先入観、女傑イレーナ・マルティネスの異名、皆の知るところであったウェンディの噂。すべてが彼女を不利にする材料に過ぎなかった。たとえ真実に気付いていても、ヘンリーのモーデライト家は王家の重要ポストとして重用されている一家であり、モーデライト家からの恩恵を受けたいという理由で声を上げない者も多い。ざわめきがどこからか広がり、ホールを支配する。
「やはりイレーナ・マルティネスは怪女だったのよ」
「嫉妬に狂ったマルティネスの策略だ」
「可哀そうな“小さな革命の乙女”」
「……りなさい……」
イレーナの呟きはざわめきにかき消される。
「イレーナ! これにて僕と貴方の関係は終わ―――「お黙りなさいと言っているの」
「っ!?」
その瞬間、ヘンリーとウェンディがやわらかな粘土の人形のように地面にべちゃっと突っ伏した。イレーナの足元には魔法陣―――重力の魔法を2人にかけたのだ。
ヘンリーがくずおれると同時に、罪状の文字列は地面に落ちて霧散する。
「この小さな帝国議会とも称される学び舎で、何をどう噂されていようと私は無視を決め込んでいました。私が行動を起こそうと思えば全て握りつぶせてしまい、その"握りつぶした"という事実はみなさんの公然の事実となってしまうからです」
コツ、とヒールを鳴らし二人の前に歩み出るイレーナの剣吞さに、周囲の様子は一変する。
「このようなめでたき日に、公衆の面前で婚約破棄の宣言などと…これを屈辱と言わずなんと申し上げましょう?」
「それ…は…あなたが、レーヴ男爵令嬢、へのッ…」
普段の何十倍もの重力を魔法でかけられているせいで口ごたえもままならないヘンリー。ウェンディはその傍らで恐怖に引きつった顔でイレーナを見上げるので精いっぱいだ。
「いいでしょう。嫌がらせに関してははっきり言えば水掛け論です。私が直接関与はしていなくとも、自分の信奉者とやらを野放しにしていたことも原因の一つですから深くは追及しません…ですが」
恐怖を湛えた亜麻色の瞳をこちらに向けるウェンディにイレーナは視線を向ける。
「成り上がり貴族の女鹿風情が手を出していい婚約関係でなかったことは明らかです」
この関係は国家に連なる重要なポストを巡る婚約でした、とイレーナは続ける。互いに力を強固なものにし、領地――ひいては資金の調達、そして次代までには家の格をなんとしてでも押し上げ、更に重要ポストへの昇進を望むモーデライト家にとっては、特に。
「お母様がさぞ悲しまれることですわ、ヘンリー様。男爵家の子を貰ってモーデライト家になんのメリットがあって?」
「っ……それ、でも僕は……!」
「ヘンリー、様……」
…あぁ、なんだ。そんな風に私を睨まれるのですね。
子供のころから決められた婚約は、いくら貴族社会に生きる子供たちとはいえ、その存在を意識するにはあまりに十分すぎる材料だった。もうとっくにこの人の心は私に向いてなどいなかった。あまつさえ、このような場所でこのように処刑をして見せるだなんて。
ウェンディのか細い声と、苦痛に耐えながら“愛”をもって悪女イレーナへと立ち向かう姿は、その場にいる人々の判断をより狂わせる。祝日のめでたき日に公開処刑も婚約破棄も、なにもかもがふさわしくないこの場所の空気をより澱ませていく。
「ヘンリー・モーデライト。私は貴方との婚約を破棄いたします」
イレーナはそう告げると、指を鳴らし重力魔法を解いた。重力から解放された2人が、糸の切れた操り人形のように脱力して動けずにいるのに少しだけ視線をやった後、イレーナは踵を返した。
ホール出口に向かってイレーナがヒールを鳴らしながら歩みを進めると、人々は“悪役令嬢”の凱旋に、誰もが重たく口を閉ざしたままイレーナの道を作る。
イレーナが人ごみの向こうに消えようとした、その時だった。
「お待ちください」
聞き覚えのある声に、イレーナは思わず足を止め、そちらを振り返った。
人々の注目の先にいたのは、瞳の色と同じ深い海の色のドレスを身に纏った大親友のアスールだった。
「イレーナ・マルティネス辺境伯令嬢」
「……?」
場違いなほど通るその声に、イレーナは扉にかけた手を思わず離した。
「アスール…子爵、令嬢…?」
ぱちん。
アスールが一つ、指を鳴らす。
すると、アスールの体がまばゆい光に包まれた。
思わず目をつむってしまうようなまばゆい光。
そのまばゆい光の粒子は指先、つま先からゆっくりとアスール・オンダの身体を離れていき―――
「う、そ……」
そこには、その場の誰もが知る人物がそこにいた。
「ブラウ…クロイゼルング、第二王子…!!」
青薔薇の貴公子、ブラウ・クロイゼルング第二王子。
国中の女性は一度は見たことがある、青い瞳にプラチナブロンドの髪。身に纏っているのは肖像画と同じ、王家の正式な礼装。
ブラウは周囲の生徒に一礼すると、突然の出来事に呆然とする人々が自然と作り出す花道を通り、呆気にとられるイレーナの元へと歩み寄る。
「私の名はブラウ・クロイゼルング。この国の第二王子であり、そして、私はこの学園では女子生徒“アスール・オンダ子爵令嬢”でもあった」
「え…えええええ~~~~~~~~~~~~~~!?」
その場の誰もが叫び、ホールが揺れる。
しかし、その絶叫をブラウの甘く響くような声が制止した。
「私は第二王子として修行をするべき立場にあった。この学園で身分を伏せずに過ごしてもよかったが、それでは己への修行にならない。身分も立場もまるっきり隠した状態で過ごすことが一番の修行であると考えた。何より、私は“知られ過ぎていた”。そこで私は、この国に古くから宮仕えをする一族の縁戚であるオンダ子爵の協力を仰ぎ、アスールの偽名で女性として入学試験を受け、この学園に入学するに至った」
「で、でも、貴方は…アスールは…ずっと、あ、アスールでしたわ……?」
目を白黒させながらアスール…もとい、ブラウを見るイレーナにブラウは思わず微笑んだ。
「頭にはかつらを、制服とドレスなら体型はどうとでもカバーできた。ほかの女生徒より背が高い分、少し目立ったような気もするが…私の事を男性だと見抜いた人はいない。まあ…私自身3年間隠し通せたことに少し驚いている」
「こ、声は……」
「ああ、そこだけはちょっと魔法で工夫させてもらったけどね。でも、それ以外は殆ど異性装をしていたにすぎない」
肖像画で何度も見た甘いマスクが、肖像画以上の輝きで笑顔を見せる。女子生徒たちは興奮で互いに抱きしめあったり、肖像画の中で動くことのなかった貴公子が色鮮やかに動き、声を出していることに熱い涙の雫をこぼす者さえいた。
このような異常な状況を説明してもなお、ブラウ王子の輝きが翳ることはない。
その輝きのまま、ブラウは渦中のイレーナの手を優しく取った。
「私はこの学園に入学するにあたり、最低限の身辺警護のため生徒・教師に王族で"影"を務める者たちにもついてもらっていた。例えば、数学のトレイン先生や3年のフランツェスカはこの学園の関係者ではなく、実際は我が王家に連なる影の者の一族だ。名は伏せるが関係者は二人以外にも多くいる。私の学園生活は常に彼らによって見守られていた。……これが、なにを意味するか貴公にわかるだろうか? ヘンリー・モーデライト」
ブラウが冷静に言い放つと、ようやく立ち上がったヘンリーは顔を真っ青にしてあたりをきょろきょろと見回し始めた。ヘンリーは短慮な性格ではあるが、その場その場の短期の瞬発的な判断力には優れる人間だ。それはつまりなにを示すのか、ヘンリーにはすぐさまわかった。
(この中に……私の無実を証明できる方がいらっしゃる……ということ)
親友であるアスールにはすべてを打ち明けていた。これ以上とない心強い味方がいることを確信し、イレーナは安堵からか膝の力ががくっとぬけそうになった。
「おっと!」
ブラウはイレーナを抱きとめる。ホールの女性陣からは黄色い悲鳴が上がり、こちらを心配そうに覗く顔に気づいたイレーナも状況を理解し、血の気の引いていた顔にぽっと赤い色がさす。その様子を見て、ブラウは優しく微笑み口を開いた。
「イレーナ・マルティネス殿。今まで貴方を一番近いところで欺いていたことをお許しください。そして貴方が自由の身となったこの瞬間、このブラウ・クロイゼルング。貴方の一家へ名前を加え入れることを願わせてはいただけないだろうか」
親友だったはずの相手が、夢見た王子様となって自分を抱きとめている。それどころか、自分の一族の伝統を受け入れともに家族となることを望んでくれている。
まだ王子であるブラウの人となりは良く知らないかもしれないが、大親友だったアスールの言葉に嘘があったとはひとつも感じていなかった。アスールだからこそ気を許し、決して外にも出せないような悩みを打ち明けていたのだから。
そしてイレーナの口をついて出た言葉は、たった一言。
「喜んで!」
*
こうして無事に“女傑”イレーナ・マルティネスの婚約破棄騒動は第二王子との婚約で幕を閉じ、後世にまで語り継がれるハッピーエンドとなった。伝説の祝日の事は“悪役令嬢の華麗なる婚約譚”として伝記や小説、戯曲に絵本となり多くの人が知ることとなる。
一方、公衆の面前でイレーナを侮辱し、婚約者がいる身でありながら他者と恋仲となっていたヘンリーは元々婿入りの予定だったこともあり、行き先を失うこととなる。モーデライトの名を悪名高いものにしたとしてヘンリーは一家から追放。現在は名前を変え、異国の労働階級として暮らしているという。
男爵令嬢のウェンディもイレーナを侮辱・ヘンリーを誘惑したとして、敬虔な宗教の信徒である両親は失望し修道院へと送られることとなった。ウェンディが修道院に送られた後のレーヴ家は、ウェンディほどの功績を上げ続けることができず、領地を買い戻され没落。再び平民へと戻った。身の丈に合わないと感じていたその暮らしをあっさりと手放し、今はひっそりと娘が修道院で更生する日を願っているという。
イレーナと言えば、出会い方こそ奇妙だったとはいえ、もともと馬の合う大親友ことブラウとの結婚生活を幸せに送っている。素を見せた相手だからこそ、イレーナは結婚を受け入れることができたのかもしれない。それに―――
「まだ手放してないのかい? それ」
「う……だ、だって……」
婚約前に買っていたブラウ・クロイゼルングの肖像画シリーズを見るブラウ本人を前に、イレーナは気まずそうに視線を泳がせる。
物言わぬ肖像画の隣を通り抜け、ブラウはイレーナの目の前へと迫った。
「本人が目の前にいるのに?」
キラキラとプラチナブロンドが絵画よりも美しく輝き、青の双眸はイレーナの心をいともたやすく射貫く。
「だって…刺激が強すぎるんですもの…!!」
おとぎ話の向こうから訪れた王子様に、イレーナが翻弄される日々は続きそうである。