嫉妬
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F県M村。日曜日、夕方の散歩。
木下 麻里とその旦那である木下 一生はいつもの散歩コースを歩きながら夕飯について話をしていた。
犬の散歩をしている中年に二人は会釈する。
日は傾き、目を焼くオレンジが物や人の輪郭を奪う。
話題は夕飯から職場の後輩、そして今後の生活に移っていく。
ふと、草陰から物音がした。犬や猫でもいる。
その間にもガサガサと草が揺れ、葉は擦れ合う。すぐ後ろは林があるため、犬猫の他にも狸や鳥の可能性もある。
しかし、重なりあう草陰から見えたのは、赤く変色した人間の目だった。人にしては小さい。だが、子供にしてはその目はとても大きい。
ソレは麻里と目があうと、草陰から手を伸ばした。黒い、シワだらけで指の長い――……。
一生が麻里の腕を引いて走り出した。
「なんだったの?」
家に入り麻里はヘナヘナと座り込む。同じようにあの”何か”を見たのだろう。顔を青くする一生は、慌てて玄関の鍵をかけている。
「病気の猿かも。この辺に猿の目撃情報は無いけど……」
麻里が尋ね、一生は息を荒げ、答える。彼は額の汗を乱暴に拭い、ドア向こうの気配に神経を集中させていた。
少し経っても”何か”がやって来る気配はない。
一生は、ようやく安堵して麻里を見た。
「大丈夫」
そうして彼女の頭を優しく撫でた。
1
【状況報告】
家に何者かが襲撃。
一階の窓に向けて猫の死体が三つ発見される。どれも頭部と尻尾、胴体を引きちぎられており、野良であると推測。
最近で猫の虐待報告はない。
家に住む木下一生と木下麻里は非常に精神的に弱っていたが、それでも会話は可能であった。
大きく被害を受けたのは木下麻里であり、彼女の証言が重要となる。
【証言記録】 証言者 木下 麻里
あの日、あの猿のような何かを見つけた時の夜、夢を見たんです。私は夢の中で”何か”に片足を引っ張られていることに気がつきました。
足は掛け布団から出ていたせいなのか、足先がやけに冷えたのを覚えています。
”何か”は私の左足首をしっかりと片手で掴んで話そうとはしませんでした。
一生の……夫の悪戯かと思いましたが、横を見ると夫が寝ているのに気がつきました。その間も、ぐいぐいと麻里の足は”何か”に引っ張られ続けていたんです。
ズズ、と、身体が引っ張られ始めました。
すごく怖かったです。片手で易々と……成人女性を動かせる訳が無いんです。
今更金縛りに襲われ、私の足を引っ張る”何か”すら蹴り飛ばせませんでした。
「うーうー」
その”何かは”言っていました。
獣のような声とも思いましたし、不満を持った子供があげる声にも似ていると思いました。話をしたいのに話ができない、そんな不満の声です。
夫に助けを求めたくても声が出ませんし、夫は寝返りをうってしまったのでその顔すら見ることはできませんでした。
「も――……、――……し――……」
と、”何か”が足首を引っ張りながら唸ったんです。
本当に不思議なことが起きたんです。私は掛け布団をかけて寝ているので自分の足なんて見られないのに、咄嗟に足を見たんです。なのに、まるで布団が存在しないかのように自分の両足が見えました。
そしてその”何か”も見えたんです。
緑色の斑点を持つ何かです。猿にも見えました、老人にも見えました。でも、それが私の限界でした。
目を覚ますと、足首にはしっかり握られた痕跡がついていました。
夫に相談しようにも彼はすぐに出かけて行ってしまいましたし、私はこれから病院に行かなくちゃいけないんです。
私は近くの総合病院に行きました。
「顔色が良くありませんね」と、お医者さんが言ってくださって私はもう限界でした。何かに足を掴まれたとみせると、看護師さんは驚いていたようでした。きっと家庭内暴力を疑ったのでしょう。
「私……きっと、寝ぼけていたのかもしれません」
「夜中、寝ている女性に跡がつく程、強く握る人はそうそういません」
先生はそう言って、何かあったらすぐ病院に連絡するよう教えてくれたんです。
家に帰ってうたた寝をしました。
どん。
どん。
そんな音が窓から聞こえて飛び起きたんです。
どん。
どん。
よせばいいのに、私は音の発生源に近寄ろうとしました。何もないと見て安心したかったんです。
……ばん。
……ばん。
震える足で窓に寄り、カーテンを少しだけめくりました。
小さな、小さな何かがぶつかってきたんです。
小石ほどの何かが窓ガラスにぶつかっては下に落ちていったので、恐る恐る下を見ると、小さな赤黒い塊がありました。(嗚咽が混じる)
……考えたくもありません、私はそこで気を失いました。
夢の中にいると直感したんです。
先程まで家に居たのに、今いるのは山の中でした。裸足のまま山道を歩いていたんです。立ち止まってはいけないと思ったんですけど、怖くて足が動きませんでした。
「もう――……、も――……し……」
掠れた声が後ろから聞こえました。
生ゴミよりもっとキツい臭いがしたんです。
「も――……し……、……す……――」
振り返ってはいけない。しかし、恐怖で麻里の足がもつれ、呼吸が乱れる。
「あぁああああああ」
自身が挙げている鳴き声は、しだいに絶叫に変わる。
今にも捕まりそうで、今にも殺されそうで……。
泣きながら、転げそうになりながらも山道を駆け降りる。
それでも声は臭いは彼女を追いかけて離れない。
そんな夢でした。
2
【木下一生の証言】
お恥ずかしい話、あの夜のことは見えていました。
怖くて寝返りを打ったふりをしたんです。
嫁が……麻里が、散歩中にフラフラと道を外れて行ったので、あの時は慌てて追いかけたんです。
理由ですか? 聞いていません。
家に帰ると麻里はソファで寝ていました。俺が声をかけると泣きながら起き上がって「怖い、怖い」と言うんです。
もう――……し、も――……うす……――
そんな声が一枚のガラスを隔てて聞こえました。窓も、カーテンも閉めているのに生臭い匂いが部屋に広がりました。
掠れた声。
もうし、と言っている訳では無いと思ったんです。
もうすこし。
それを知って、悲鳴をあげそうになる麻里の口を、一生が抑えた。
ガラスの向こうにいる鬼は、窓からでは意味がないと知ったのか、今度は壁を叩いてくる。
――……ああああああああああああぎゃがやぎゃあああ
そんな怒号にも、笑い声にも思える声が上がると、先程までのことがウソのように周囲は静まり返った。
時間にして三十分でしょうか。俺にはずっと、ずっと長く感じました。
俺は怖かったんですが、警察に電話して、そして証拠になるようにカメラを回しました。
ドンドンと音がしましたし、何かがぶつかる音もしました。
本当に怖かった。
昔、怖い話に興味があった時、山の幽霊、妖怪の話を知りました。
猿に似た何かが小動物や人間を食べると言うアレです。対処法なんか知りません。
でも、俺は奥の部屋に嫁を入れて包丁を取り出しました。
迎え打てるつもりなんてなかったんです。
警察はすぐ来るって言っていましたし……。でも、何かしないと本当に気が狂いそうでした。
窓が開いて、アレがきた時、電気が消えたんです。
包丁を構えつつ、近くにあった嫁のバッグを相手に投げつけました。
すると、また絶叫が聞こえて、それきり……。
警察は強盗と言っていました。
でも、俺にはそう思えません。だって、窓には……、窓には猫の死骸があったし、大量の毛がリビングに落ちてたんです。
本当に怖かった。
3
【映像記録】
画面いっぱいに一生の顔が映る。
録画媒体はテーブルに置かれたのだろう、窓が見える方向に設置されているため、二人の顔は確認できない。
「大丈夫だ。警察がすぐ来てくれる」
一生の声。泣きながら頷いているであろう麻里の声があがる。
一分三十秒から連続して窓を叩く音。麻里と思われる引き攣った声が上がっている。
二分四秒。女児と思われる声一。「ねぇねよ」
二分四秒。子供のものと思われる足音が続く。
二分五秒。叩きつける音が断続的に起きている。
二分五秒。女児と思われる声二。「おかあさん」
二分五秒。女児と思われる声三。「うまれたいの」
二分六秒。女児と思われる声四。「おなか いたいの」
「奥の部屋にいろ。大丈夫だから」
三分三十二秒。扉が開く音。
四分三十三秒。麻里と思われる声。「ひとりにしないで」
四分三十三秒。女児と思われる声一。「ねぇね」「いるよ」
四分三十四秒。窓を叩きつける物音。
五分十三秒。一生と思われる呼吸音。その間にも子供の足音。
五分十三秒。女児と思われる声四。「いじめる」
六分五秒。窓が開く音。映像音声ともに激しいノイズ。
六分十六秒。映像に子供と思われる目が映る。
六分二十秒。一生が鞄を投げたと思われる音。
六分二十秒。悲鳴。子供の罵声(ノイズが激しく解析不能)
以下、警察到着まで砂嵐。
十四分三十四秒。警察到着。
【映像分析】
窓から侵入してきたモノは百六十センチ程の身長で二足歩行をしている。
細身で衣服は着用していない。かわりに体毛が伸びており、胸部の垂れている脂肪を見る限り性別は雌と判断。
顔の詳細は確認出来ず。目と鼻と口は存在。確認した者はその後、嘔吐し精神の不調を訴える。
よって詳細を調べることは禁ずる。
その他にも、一生が投擲したと思われる鞄から割れた合成樹脂によって作られた合計六個からなる破片が発見された。
それらを繋ぎ合わせるとダイヤ型をしたピアスであることが判明。木下夫妻や、その他友人の物では無いと証言される。
病院に行く際、誰かが入れた。もしくは盗んだ物と判断される。持ち主は依然不明のまま。
一生が録画したものから、さらに音声分析をかける。
七分四秒。女児と思われる声一。「うんでね」
七分十五秒。女児と思われる声二。「うんでね」
八分四秒。女児と思われる声四。「あいたい」
十分三十一秒。女児と思われる声一。「こんどは」
十一分四十五秒。女児と思われる歌う声三。「はりせんぼん」
動画の分析を試みた大野は幻聴を訴え、診療の結果三日間の有休を取った。
大野は「子供に責められる」「赤ん坊に泣かれる」と幻聴に苛まれた。何度かカウンセリングを行ったが、動画分析を試みてから五日後、心的ストレスにより件の動画視聴の短期記憶障害を発症させた。
他、動画を確認した人物合計五名も不調を訴えた。共通事項として「子供」「赤ん坊」の存在から責められる幻聴に襲われる。しかし、襲われるという記憶だけでどのような発言、どのような声色かは覚えていないという。
五名の内、三名が短期記憶障害を発症。そのうち一人は自傷行為をし緊急入院。一人が「妊娠しなければならない」と強迫観念に襲われた。
短期記憶障害を発症させた三名は、カウンセリングを続け、残る二人は短期入院とする。
再び動画を視聴したところ、機材が突然停止する事件が起きた。その衝撃でデーターが破損し、以降機能しなくなる。
「これ以上、触れない方が身のためだ」
現状を重く見た、監査の時野谷が藤原たちに告げた。
「なにが、身のためだ? 調査はこれからだろう?」
不満を呈する大野と藤原に対し、時野谷は首を縦には振らなかった。
「木下夫妻にはそれ以降、大きな問題は無いようだ。それに、夫妻は警察では信用にならないから個人で解決すると判断したそうじゃないか。動画はもう再生出来ないし、そこまでして見たいと言うなら、既に魅入られてる」
時野谷は彼らと目すら合わせず、手際よく証拠品を段ボールに片付け始め、早口で説明を続ける。
「魅入られて結構。俺はただ、事実を知りたいんだ」
食い下がる藤原に、時野谷はそれでも譲らない。
「これ以上の調査は危険だから未解決事件にする。と、定めるのが、君たちの仕事だろう? 危険だと分かったならば、それで良い筈だ。死人こそ出ていないが、犠牲者も出ているし、これは上からのお達しだ。文句があるなら俺ではなく、上に言うんだ」
時野谷はそう言い捨て、最後の証拠品を段ボールに詰め込み、蓋を閉めガムテープで封をする。
「これで、誰も開けられない。上が納得したなら開けてくれ」
時野谷は封をした段ボール箱を藤原たちに見せつけた後、脇に抱えて退室した。
藤原と大谷は、閉ざされた扉を恨めしそうに睨みつける。
「アイツ。顔が良いからって、なんでも許されると思うなよ」と、藤原。
「立場は、俺たちも上ですけどね」と、大谷。
「出世の代償に若白髪なんて、俺はごめんだね。新しく来た奴らはジイサンだって勘違いしてるんだぞ」
そう文句を溢しても、現状は何も変わらない。
様々な理由により、これ以上の動画・音声の視聴は禁止とされ厳重に保管されることとなった。
担当していた藤原、二三も現在の時点での書類提出のみとし、本件の調査を終了とすることとした。
数日後。
調査報告書の確認を終えた藤原は、椅子に座り直し、背伸びをする。不満は残るが、こうするしか方法はない。
時野谷の言う通り、夫妻はこれ以上警察に来て欲しくないと訴え独自に解決をすることに決めた。幸い、あれ以降夫妻に問題が起きていないため、余計に介入しづらくなったのも現状だ。
何かが起きないと介入出来ない歯痒さを、藤原は身をもって感じている。
「チッス!」
疲れている藤原とは正反対に、資料を抱えた二三が勢いよく扉を開けた。
「事件スよ?。F県M村で不審死。名前は佐々木 文義。顔に人の手で引っ掻かれた痕があるッス」
「どこが不審死なんだ? 二三」
「額から顎にかけた引っ掻き傷は泥が付着してたけど、人間のもの。綺麗に十本の爪の跡がついてるのに、自分の爪には皮膚片が無い。引っ掻き傷はどっちも左手。さらに言うなら、傷の大きさから見て手は別々だし、十歳以下の子供のもの」
抱えた資料をペラペラと捲りながら二三は続ける。
「子供にしちゃ相当力があるッスねえ。だけど、被害者に子供はいないし、村も過疎。爪についてた泥を調べたら、被害者の庭にある土に成分は近いのに、庭に被害者以外の足跡も加害者と思われる子供の目撃証言もなし。ちなみに、死因はショック死ッス。顔が恐怖で引き攣ってて、逃げた痕跡もある。現場的に言うと、見るに堪えない感じってところッス!」
「資料を見せてくれ」
藤原はもう一度伸びをし言う。興奮冷めやらぬ後輩から束ねられた資料を受け取った。
???
エコー結果を見、医師は「残念ながら」と木下夫妻に告げる。
臍の緒を自らの首に巻いて胎児は息絶えていた。
それだけではない。奇妙なことにその胎児は、短かな四肢を歪ませ真っ黒に焦げていた
その事実に妊婦は大粒の涙を零し泣き叫んだ。
「約束が果たせない」
おそらく実母か、義母と約束したのだろうか、妊婦はその言葉だけをただただ悲しげに叫んでいる。
胸が引き裂かれるような悲しい場所となった。
しかし、医師看護師はみな、母親の慟哭の中、子供が怒って地団駄を踏むような、そんな音を耳にした。
職業柄動揺を伝えてはならない。
医師も、看護師も口を横に結んだが、その恐ろしさは歯の根すら合わせない。しかし、その子供のような声は、数分も経たず消えた。
悲しみの中に堕とされた若い夫妻がどうなったかは誰も知らない。