O氏の日記1
メモ帳アプリに近いそれには数十行で構成された文字が並んでいる。
以下は、その文をM氏、O氏、両者から許可を得て掲載するものである。
M先生の記事を拝見させて頂きました。とても興味深く、俺もそれに似た体験をしたので送らせて頂きます。
先生は明晰夢をご存知でしょうか。俺はそういった夢をよく見ます。
夢が夢だと分かるので、好きなタイミングで目覚められるのです。逆に夢の中の出来事を好きなように改竄することも出来ます。空だって飛ぼうと思えば飛べますし、海底だって難なく泳ぐことも可能です。
スーパーヒーロのような存在。と、いえば伝わるでしょうか。
二回見た夢も明晰夢でした。ですが、どれも真に迫っており、起きてもなお、それが夢なのか現実なのかあやふやで暫く行動するのを恐ろしく思えました。
一度目も、二度目の夢も舞台は同じ山手線の電車内です。
一度目の夢。
俺は上野駅でハチ公の像を見ていました。
きっと夢の設定的には、誰かと待ち合わせしていたのでしょう。
人は沢山行き交い、それは現実と似ていました。ですが、そのハチ公像近くに置かれた盛り塩を見て「これは明晰夢だ」と直感的に思いました。
何故、それが目についたのか分かりません。
ただ、山のように盛られた塩の先端がどことなく黒く汚れていて俺は夢ながらに怖いなと思ったのです。
盛り塩で結界を作る。その盛り塩が黒く汚れると”良くない存在”がそこにいる。もしくはそこから侵入しようとする。
そういった話は、ホラー映画や小説で起こる鉄板だと思っています。
俺は逃げるように駅に行き、電車に乗りました。
車内には俺を含め、数十程の人がいました。
誰もが俯いて席に座っており、陰気な嫌な夢だなと思いました。
俺はドア近くの席に座り、ぼうっとしたまま向かいの窓を見ました。
窓からはホームが見え、看板が見えました。
前の駅、今いる駅、次に向かう駅。それが書かれた看板には前の駅の表示はありませんでした。
” ← 現在 地東京 → 次 高田馬場”
そう書かれてあったのです。
その看板を見、俺はこれが夢だと確信しました。
きっと夢特有のご都合展開なのでしょう。俺が乗ったのは上野駅ですし、そうだとしても東京駅の次は神田駅のはずです。
俺は変な夢だな、と思いながら電車に揺られました。
ガタンゴトンと一定のリズムで揺れる電車は居心地が良く、俺は夢だというのに、なお睡魔に襲われてウトウトしていました。
そんな中で、悲鳴が聞こえました。
突然のことでした。
俺は(他の乗客もそうでしたが)驚いて、悲鳴が上がった方を見ました。
そこには腰を抜かしている女性と、制服姿の男が一人立っていました。
男は車掌を思わせる制服に帽子を被っていました。死人のような真っ白な顔をしており、前髪は短く切り揃えてありました。
大きなギョロ目を持ち、口や鼻はありません。あったのかもしれませんが、その鼻を思わせる突起も、唇を思わせる膨らみも、色もありませんでした。
口が無いから話も出来ないのでしょう。
車掌らしき男は脇に抱えた画用紙を取り出しました。
《切符を拝見致します》
俺は、慌てました。
普段使いは電子マネーです。俺と同じように慌てた乗客も数人見えました。ですが、それでも夢は夢なのでしょう。
胸ポケットの中にチケットはありました。
”東京駅 → 東京駅”
困惑する俺をよそに車掌と思わしき男が俺を覗き込みました
近くで見ても鼻の穴も、口もありません。車掌らしき男が近寄ると足から寒気がやってきました。
俺が怖くて動けないでいると、男が事前に持っていた何かの道具でそのチケットに小さな穴をあけました。
車掌らしき男は俺に対して会釈をしました。
人の姿をしていますが、鼻や口はありません。それでも十分恐ろしいと思うのに、それ以上に彼の”何か”がさらに俺の恐怖心を煽るのです。
乗客の一人が(五十代の男性だと思います)喚き散らしながらチケットを放り投げました。
車掌らしき男はそれを丁寧に拾い上げ、俺の時と同様に持っていた道具でチケットに小さな穴を開けました。そして、またも頭を下げ、男にチケットを押し付けるような形で返したのです。
乗客は「いらない」と喚いたようでしたが、車掌らしき男は何も反応を返さず強引にチケットを持たせると再度丁寧に頭を下げました。男は叫んでいましたが、突然気が抜けたように椅子に座ったのです。
一瞬触発。
そういった言葉は脳裏を誤りました。
俺の心臓は爆発しそうになりました。
恐ろしいのです。
分からない。何も分からないのに、これはさらに異常だと思わせるのです。
「高田馬場、高田馬場」
無機質なアナウンスが流れた気がします。
静かに扉が開きました。が、誰一人動きません。きっと俺と同じように恐ろしいのでしょう。
車掌らしき男は、貫通扉の前で立ったまま瞬きすらしません。
再度扉が閉まろうとした時、先程の――チケットを放り投げた男が走って電車から出ようとしました。
車掌が持っていた画用紙に何かを書いた後、車内から逃げようとする男の腕を掴もうとしました。
車掌の手は何も掴めませんでした。と、同時に扉が男の腕を挟んで閉まりました。
電車の外で扉に手をはさんだ男が叫んでいます。
アナウンスが出発を告げています。
「嘘だろ……」
俺は、それだけで、そのアナウンスを聞くだけで。男がこれからどうなるか検討がつきました。
明晰夢の中で起きるのは簡単です。
起きたいと強く思えばいいのですから。なので、その時は簡単に目が覚めました。
身体中寝汗で気持ち悪い中、それでも生き残れたと思ったんです。
ですが、数日後にまた同じ夢を見ました。
夢の中で俺は寝ている。という設定でした。
目を覚ますと、俺はあの電車に揺られながら寝ていたんです。
「次は品川。品川」
驚く俺をよそに、無機質なアナウンスがそう告げていました。
乗客は他にもいます。が、前回より人は減ったと思います。それでも目についたのは、俺の正面に座っている女性二人でした。
二人は寄り添い、声を殺して泣いていました。
その光景を見、俺はこの電車の中で見た出来事――前回見た夢を思い出したのです。
俺は恐る恐る前回見た夢の続き……。扉に挟まった男がどうなったかを見ようと体を捻りました。
俺はドアの近くに座っていました。が、前回逃げていった男は、俺から離れたドアから逃げようとしたんだと思います。
赤。
ドアは血まみれでした。
ドアの真下に落ちた手首から、彼のその後を想像する必要もありませんでした。ドア付近の窓も血まみれだったからです。
品川に到着して、扉が開いても誰も動こうとはしませんでした。
車掌らしき男が再びやって来ました。女性二人は、恐怖のあまりお互いに抱き合い泣いていました。
俺から少し離れた席に座っていた男性が慌てて車掌らしき男から少しでも距離を取ろうと走り出しました。
《走行中は危険ですので、移動しないようご協力をお願い致します》
車掌らしき男は、一言も話さず持っていた画用紙に黒いペンでそう書きました。
そのメッセージを見るべき男は、もうすでに貫通扉を開け、隣の車両に行っていました。
《皆様は此方におりますよう、ご協力をお願い致します。我々は安全に貴方がたをお運びしたいと思います》
車掌らしき男は、再度そんな文を画用紙に書いて俺たちに見せました。俺たちは怖がって頷くことしか出来ません。
「あなたは、誰ですか?」
一人の女性が勇敢にも車掌らしき男に尋ねました。
車掌らしき男は再度ペンを走らせました。が、画用紙を見せるよりも先に遠くの方で――今さっき男が出て行った方向から悲鳴が上がったため返答を見ることは、出来ませんでした。
車掌らしき男は俺たちに頭を下げ、画用紙を捲りました。
《重ねて、皆様には、ご協力をお願い致します》
そして、早足で隣の車両に行きました。
「これ、私の夢よね」
先ほど車掌に尋ねた女性が俺に言いました。
「俺の夢だろ」
別の男性が言いました。
「そんな事どうでもいいよ。あの人、何なの? あの、おじさん、腕が……、体が……だって」
泣きじゃくっている女性が言い終わるよりも先に、悲鳴が聞こえました。
さっき聞こえた方向から聞こえたんです。声を上げたのは誰か、なんとなく想像が出来ました。
その悲鳴は次第に弱々しくなり、電車の走行音により聞こえなくなりました。
俺たちは何も言えず、ただただ前を見ていました。
俺の正面には泣いている女性が二人いました。
その二人の背後の窓。そこから、さっきの男性と思わしきグチャグチャになった肉塊が転がっていくのを見ました。
おそらく、車掌らしき男により電車の外に放り出されたのでしょう。
俺は目眩がしました。
「猿夢か? それとも、如月駅の亜種か?」
俺と一緒にそれを目撃したらしい男が言いました。
猿夢も如月駅も俺も知っています。有名な話ですから。
もしそうだとすると、俺たちは駅に止まる度、死を遂げるのだと思います。
俺は目覚めろと強く思いました。
強く目を瞑って、手を握って。目が覚めろ、目が覚めろと念じるのです。
可笑しな話です。
猿夢とはどうか違う夢であってくれと願いながら、とる行動は猿夢の主人公と全く同じなのですから。
遠くの方で次は巣鴨に到着するとアナウンスが流れています。
そこで俺は目を覚ましました。
二回目の夢を見た翌日、男性が電車内で暴れる事件がありました。
テレビでは報道されていませんでしたが、SNSではその情報が流れていました。
男が暴れている現場を撮った人がいたのでしょう。その写真に写っている男は、確かにあの夢で外に放り投げ出されていた人だったんです。しかも、場所は山手線でした。
もしかしたら、手首だけ残した最初の被害者も何か起きているかもしれません。その人はこれから調べる予定です。ですが、もし、あの有名な猿夢だとしたならば、俺たちはきっと死ぬのでしょうか。
恐ろしくて堪りません。
長くなってしまいましたが、これが俺の見た夢です。また、同じような夢を見、生きていたら連絡したいと思います。
■ ■ ■
「ね? なかなか興味深い話だろう?」
私が読み終えるタイミングを見計らい、M氏がおかしそうに言った。
「私も連続する夢を見る事があります。……たしかに怖いですね」
私はそう言いながら、車掌らしき男の顔を思い浮かべる。鼻も、唇も無いのだから、おそらく卵のようにその顔はツルリとしているだろう。
「山手線は色々面白い話があるじゃないか。調べたらすぐに都市伝説が出てきた。だから、ホラー小説を書く君の良いネタになると思ったんだ」
私は驚いてM氏を見た。
「言っただろう? 俺は物書きを止めたんだ。だから、書く機会はないと思う。君が良ければ書いてほしい」
「それは有り難いのですが、必ず書くという約束は出来ませんよ」
「分かってるよ。それにこの量では作品になれるとは思えない。 O君から連絡があるか、何か面白いことがあったりしたら伝える」
結局、M氏とはそれから他愛もない話をし、解散になった。
しかし、それから数日経っても彼から連絡がないあたり、進展は無かったようだった。
M氏の話を思い出したのはあれからかなり経ってのこと。