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少年の森

作者: 儂 追氣



褐色肌の少年が青々とした、夏の山の中で一本の古ぼけた、栄養剤の刺された木を見ていた。


荒い麦わら帽子をブカブカとかぶり、木漏れ日が当たりチラチラと光る汗をタンクトップをまくりあげて拭う。



少年は未だに茶色く苔のはえた木を見ていた。雄大なその木からは朗らかな陽気が溢れ出していた。


次第に高かった日は、夕日に変身し、少年の帰宅の時を知らせる。


それでもなお、少年は根本に空っぽの栄養剤の容器が刺されたままのその木を見ていた。


夕日にゆられ、逆光で黒く染まった父がゆらゆら現れ言う。

「おーい!とし!帰るぞ!」


少年は無言でその影の元へかけていった。




夜、今となっては珍しい、瓦を使った日本家屋の中で、静かに家族が食事の準備をしていた。


畳に膝をつけ、これまた今となっては珍しい和服の女性が、(くだん)の褐色の少年に尋ねる。

「とし。今日の報酬はあったの?」

柔和な笑みを浮かべた母に、としは応えた。


「…なんにも」


「そう」


相変わらず母は優しげに笑みをこぼしながら、ちゃぶ台の上にご飯をよそった茶碗を置いていく。

 

すでに読み終わっているはずの新聞に未だ目を話さずに父が言う。


「とし。明日も行くのか?」


としは無言で頷いた。



ややあって、満足に飯を食ったとしはそのまま畳に寝転び寝てしまった。

あの木に出会ってから文字通り朝から晩まであそこにいるのだ。それは疲れてしまうだろうと母は微笑する。


「……子供というのはよく飽きませんねえ」


ご飯を食べた体勢のままの父に母は声をかけた。


「半分意地みたいなものだろう」


「そうかしらねぇ……」


きっとそうに違いないと父は改めてうなずき、母はそれをまたニコニコと眺めていた。




次の日、また少年は無言で木を見つめていた。


やはり代わり映えのしないその古ぼけた大樹には何があるのか。


「あ!」


褐色肌の少年が目を大樹たちの木漏れ日で光らす。

その先には、ちいさいが、確かに虹色に輝く彼女がいた。


「やっと来たぞ……!やった!」


少年は全身から踊りだし、喜びを弾けさせる。

これまでの無言の表情とはどこへやら。


しかし彼女はなかなか人間の思い通りに行くものではない。そのまま待てど暮せど、下には、つまり少年が手に取れるほどの十分低い位置には夕方までついぞ降りてくることはなかった。





夜、「坊や?今日の収穫は何かあった?」と母がまたいう。


「…うん。明日はうまくいくかもしれない」


またしても昼のうちに既に呼んでいたはずの新聞を読んでいる父、それを見守りつつご飯をよそう母に囲まれ、褐色の少年はやや笑った。


「ふふ。それは良かったわね」


昨日のように少年はまたもやご飯を食べ終えると、畳に横になりクークーと寝息を立てた。


「そろそろかもな」


「何がですか?……ああ!お仕事の?」


父はそのまま新聞を流れるようにたたみ、いつものことのように風呂に入る。すぐに出たと思うとさっさと寝てしまった。


母は自分の他にはリリリとなく外の虫、それら以外動かない中でポツリと呟く。

「……親子ですねえ。明日は赤飯にでもしましょうかしら」




少年は、今度はかごを待って、例の木の前に立っていた。


「今日こそ…」


やがてそうしていると、体を青みがかったネタリックな緑色を光らせ、赤色の警戒色をその縁にまといながら羽を爽々と鳴らしつつ、王の気品をまとった彼女が昨日と全く同じ場所に居座った。


少年は感動した。

己の心の約束を守ってくれたのだと、幼少のアニミズムの残り香が心を揺らさせたのだ。


「降りてきてくれ」


少年は声に出した。

ここに来てから、初めての誰かに対する頼みごとであった。


風に揺られ木がざわめく。

かと言って何かが起こるわけでもないが、それはやはり少年にとっては特別なことであった。

「お願いだから」



そこで少年は気付いた。これがだめだったのかと。

「これは外すから」


少年は虫かごを外した。


しかし当然ながら虫は来ない。

それどころか、更に上へ登っている気さえした。


少年は痛くなった首を極力素早く回し、苦痛を和らげようとする。ボキリ、少年の首が音を発した。


自身の首がなるのは初めてのことにも関わらず少年は気にもかけず、彼女を見続けた。



また、少年は気付いた。

「そうか、これだよね…」


少年は足元に結んでいたミサンガを無理やり引きちぎった。いつぞやで聞いた京都の二年坂の逸話についで思い出したのだろうか。


いや、「自分で取るんだ…」彼はそう決意を固めていたのだ。


すると彼は小さな体で木に飛びつき、必死に登っていく。


虫に50センチ、48センチと近づいていく。


驚くほど彼女は動かなかった。そして驚くほど早く、彼は宝物に近づいていった。


何度も眺めたはずのいつもの場所に、彼はいた。


相変わらず、彼女は動かなかった。


やがて求めていた彼女は動き始めた。彼は急いで手を伸ばそうとした。しかし、彼はまたしても気付いてしまった。


――僕がこの木を掴んでいる以上、取るのに必要な手がない。


結局少年は降りるしかなかった。


少年はこれ以上は無駄だと、木の表皮のついたタンクトップを着たまま、帰路につこうとした。だが少年は止まった。



最後に一度だけ決心したのだ。

「よし!」


彼はかごを持ったまま全力で木に向かって走り出し、駆けるようにして垂直に近い木の表皮に足を突き刺すようにしながら、50センチほど頭上までなんとか手を伸ばした。


「取った!」


そのまま彼は仰向けにころんだ。


「…なんだ。簡単じゃないか」


決心したあとの彼の手には宝石のように光る昆虫。足元には木の表皮が散っていた。



彼は、その日、初めて自分だけで家に帰った。

家に帰ると、父が怒鳴っていた。


「何を言っているんだ!」


父の出版社の人だった。

新聞を片手に、いつも黙っている父が、怒鳴っていた。


「いえ、ですから……」

まゆをさげながらそう言う。


「だからといって急に打ち切りだと?!」


「いえ、ですから…もう少し頻度を上げていただかないと、というお話でして……」


「そんなものは俺が決める!だいたい適当なもので御社はご満足しないだろう!?」


「そうは言われましても……我々も道楽ではないので……」


「っち!帰れ!」


「ではまた後ほど……」


「二度とくるな!」


ビシャン!


言葉を締めくくった父は、そのまま日に焼けた少年に気づかないまま扉を叩き閉めてしまった。


「……はあ」


出版社の男はため息を吐きながら、少年に会釈して帰っていた。くたびれ、使い古されていたその表情はやけに少年には不気味に思えた。


少年はいつもより弱々しく感じる扉を開けた。


「ただいま」


「おかえり坊や」


家ではいつも通りの日常だった。


「今日の収穫はあったの?」


ハッと気づいて少年はかごを覗き込んだ。

しかし宝石のようなその昆虫は足を一本だけ残して消えていた。

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