エルフ王の恋
ここはエルフの隠れ里
結界によって外界とは隔絶された、エルフたちの楽園。
王の名前はミーナ。
七百年もの長きに渡りこの里に君臨し、守り抜いた偉大な王。
里で最も強く、最も美しく、そして最も慈悲深い王。
それがエルフ王、ミーナだ。
彼女がこの世に生を受けて千年。
長寿であるエルフの中でも千年を超える者はごくごく稀。
彼女の千回目の誕生日は偉大な王の奇跡に里が大いに湧いた。
そのとき里の者たちに見せた姿が、彼女が元気だった最後の姿だ。
偉大な王も、時の流れには逆らえない。
偉大な王の偉大な時代も、ついに終わりの時を迎えようとしていた。
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「陛下、陛下…!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。
せっかくの可愛らしい顔が台無しだ。
皆の前ではあれほど凛として立派なのに、いまだに私の前では赤子のよう。
その差に、思わず笑いがこみ上げてきてしまう。
「ありがとう、ミレーヌ。このように心から泣いてくれる子がいて、私は幸せですよ」
もはやかすれかすれになってしまった声。
それでも何とか絞り出し、我が子に伝えた。
そう、我が子。
私が生んだ子ではない。
私は結局、子を産まなかった。
だがこの里の者みんなが私の子どもだ。
かわいいかわいい、私の子どもたち。
そんなかわいい我が子が、私のために泣いてくれるのだ。
もちろん悲しい。
だがそれほど想ってくれているのだと、嬉しくもなってしまう。
私は、なんとわがままなのだろう。
そんなことを思って、また笑ってしまった。
「陛下?」
笑みを浮かべる私を不思議そうに見つめてくる。
ああ、涙が止まった。
やはりこの子には涙は似合わない。
空に浮かび、全てを照らす太陽。
そんな太陽のような笑顔こそ、この子にはふさわしい。
かわいい我が子。
この臨終の間際になって、思い出すのはこの子たちのことばかり。
そう思っていた。
それなのに、走馬灯のように頭をよぎるのは遥か昔のこと。
私がまだ百年も生きていない、若かりし頃。
瞬きのようにあっという間に終わった時代。
その時代を共に生きた、人間の男のことだった。
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「バッツ!お前は任務より女の尻が大事なのか!?」
「いてえ!任務は成功したんだからいいじゃねえか、ミーナ!そんなことで炎の矢を打ち込むな!」
「馬鹿者!失敗する瀬戸際だったのだぞ!?これが怒らずにいられるか!」
エルフの里の堅苦しいしきたりの数々
それに嫌気がさして里を飛び出して世界を回ること数年。
たまたま寄った酒場でたまたま知り合ったこのバッツという男。
別に私は再会などしたくなかったのに、なぜか訪れる街々で再会し、いつの間にかこうしてパーティーを組むようになってしまった。
嫌ならさっさと別れればいいのだが、バッツは剣士としてなかなか腕がいい。
私の魔法と相性がよく、しかもなぜか私たちは息が合う。
私とバッツがコンビを組むと、本来我々では果たせないような依頼も軽くこなせてしまうのだ。
だからパーティーは解消しない。
解消しないどころか、一緒に旅をするようになってもう十年にもなる。
我々エルフの一生においてはまばたきする程度の期間だが、人間にとってはなかなかの長期間だ。
だというのに、いまだにこの男は…!
「お前はいつまで女の尻を追いかけているのだ!?」
「むしろ男が女の尻を追いかけなくなる方がおかしいだろう!?」
そんなわけのわからない反論をしてくる。
一生落ち着かないつもりか!
「お前はもう三十路。人間で三十路というのはいい歳なのだろう!?そろそろ落ち着きをもったらどうだ!」
出会った頃は同い年のように見られた私とバッツ。
実際に歳は近かったが、それも昔のこと。
エルフは老いることはない。
一定以上成長したら、あとは死ぬまで若さを保つ。
だが人間は違う。
人間の成長は止まることがない。
そしてある時を境に、人は成長を別の名で呼び始める。
”老い”
そう、呼び始めるのだ。
この十年の間に、バッツにもその境が訪れていた。
筋力は昔よりも明らかに落ちてきている。
体力も間違いなく衰えている。
宿屋で休んでも疲れが翌日まで持ち越すことなど、ほぼ毎日だ。
だから任務中に女の尻を追いかけている暇などはない。
任務に真剣に向かい合わなければ、どんな危険があるかわからない。
だから叱りつけた。
いつものように。
だがその日のバッツの反応は、いつもと違った。
「ああ。そうだな」
さっきまではいつもどおりだった。
なのに歳の話をした瞬間、まるで人が変わったかのように落ち着いてしまった。
意味がわからない。
「そうか。わかったならいいんだ」
違和感があったが、納得してくれたならいい。
そう考えた私はそこで話を切り上げた私たちは、ギルドで向かう。
目的は新しい任務を受けるため。
バッツが選んだものは私たちの実力には少し余るものだったが、バッツの強い要望で受けることになった。
その任務に対して、バッツは非常に真摯だった。
途中で若い女の冒険者達に出会ったが、何も反応しなかった。
その真剣さが功を奏したのか、少々危険な目にもあったが無事任務は達成した。
難しい任務なだけあって報奨金もずいぶん多い。
一財産、と言ってもいいぐらいの額だ。
私は大いに喜んだ。
バッツの喜びも格別だった。
そして私たちは任務終了後の恒例として、酒場で打ち上げをした。
「乾杯!」
「乾杯!」
ビールで満たされた杯をぶつけあう。
私の細腕とバッツの丸太のような太い腕の間にあるビール。
まるで太陽のように輝いてるじゃないか!
その輝きを、一気に喉に流し込む!
「ぷはー!」
仕事終わりのこの一杯ほどうまいものがこの世にあるだろうか!?
あるはずない!
「ガハハ!おい、エルフ様が髭なんて生やしてるじゃねえか!」
バッツが私を見て笑っている。
自分もビールの泡を盛大に口につけながら。
「それを言ったらお前もだ!」
そう言いながら泡を指ですくい取ってやる。
慌ててる姿が面白い。
「今回の任務はたいへんだったな、ミーナ」
「ああ!だがバッツ、見直したぞ!お前があんなに真面目にやってくれたおかげで、無事に達成することができた。私たちはもっともっと上に行けるぞ!」
私たちは冒険者のAランク。
最上位であるSランクには、あと一歩で届いていなかった。
だが今回の任務はS相当。
それを危なげなく達成した以上、Sランクはもう目の前。
ついに私たちは、ここにたどり着いたのだ!
任務達成後の高揚感に酒の力も加わり、私は大いに盛り上がった。
バッツも盛り上がっていた。
だがいつもよりも盛り上がりが薄いことに、私は次の言葉を聞くまで全く気づいていなかった。
「ミーナ、ちょっと話がある」
Sランクになりドラコン討伐に向かう話をぶちまけている私の耳に、バッツの声が届いてきた。
それはまるで、全く酔っていないかのような声だった。
「…どうした?」
私も一気に酔いが覚めた。
そうして聞き返すも、バッツは口を開かない。
時間も経ち、そろそろ急かそうと思った時だった。
「俺は、冒険者を引退しようと思う」
バッツが、そんなとんでもないことを口にしたのだ。
驚きより以上に怒りが湧いてきた。
私たちはこれからだ。
S級の任務を達成し、Sランク冒険者はもう手の届くところに来ている。
なのに何故冒険者をやめるのか!?
何故、今なのだ!?
そう問い詰める私に、バッツは冷静に返してくる。
「お前の言う通り、俺はもう若くない。お前と出会った頃より力も体力も落ちた。朝起きても昨日の疲れがとれてないなんてほぼ毎日だ。しかも、思い通りに体が動かないこともある。それは俺達の仕事にとって死に直結する事態だ。それはお前も、よくわかっているだろう?」
力と体力のことはよく知っている。
この前私自身が指摘したことだ。
体が思い通りに動かないことは初めて知った。
そんなことが起きるのかと、これが老いかと、戦慄した。
呆然とする私にバッツが畳み掛けてくる。
「冒険者をやめて田舎に帰る。そのために、このS級任務に挑戦したかった。もちろん報奨金がいいこともある。だがそれより何より、俺とお前は本気を出せばSランクだって、証明したかったんだ」
口惜しさに、血が出るほど拳を握り込む。
お前が本気を出せば、そんなことはわかりきっていた。
お前と私のパーティーは最強だ。
証明する必要なんて、いまさらなかったのに!
なんで本気を出さなかった!?
なんで今さら本気を出した!?
しかもどうして、本気を出した直後に引退をしようとする!?
全然意味がわからなかった。
それからのバッツの言葉は全然理解できなかった。
人間よりもはるかに感覚の鋭いエルフの耳。
言葉は全て聞き取れているのに、全く頭に入ってこなかった。
「今回の報奨金で田畑を買って、故郷で農業をやる」
「田舎だけど温暖で、いいところなんだ」
「よかったらお前も、来てくれないか?」
聞こえているのに頭が理解を拒否し、私は酒場を飛び出した。
「ミーナ!」
バッツのすがるような声が、呪いのように耳にまとわりつきながら。
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その後数年間、私は一人で旅をした。
剣の使い方はバッツの真似をして、一人で剣も魔法も使えるようになった。
Sランク冒険者、孤高のエルフ・ミーナ
いつの間にか、そんなふうに呼ばれるようになっていた。
だがもう私はSランクなんてものはどうでもよくなっていた。
かつてはあれほどこだわっていたのに、不思議なほど興味を失っていたのだ。
私は世界中をまわった。
まるで何かを探すように旅をしてまわった。
そしてさらに年月が経ち、南の村に立ち寄った。
そこは街からは離れていたが温暖で住みやすそうな村だった。
田畑が青々と広がっており、子どもたちの笑顔に溢れていた。
子どもたちがちゃんばら遊びをしている。
微笑ましく見ていると、違和感があった。
子どもたちの太刀筋がずいぶん立派なものだということに。
とても素人とは思えない。
いや違う。違和感の正体はそれじゃない。
私はこの太刀筋を、知っている。
私は無我夢中で子供を問い詰めてしまった。
当然子供は怯える。
普段私はフードを被っていたので、それも怖さを助長しているのだろう。
フードをとって姿を見せる。
「エルフだ!」と子どもたちは無邪気に喜んでくれた。
生まれて初めて自分の容姿に感謝をした。
子どもたちは、剣の使い方を村外れの男に教わったそうだ。
この村の子供は全員そこで剣を学び、冒険者として旅立つものも多くいるという。
そしてその多くが冒険者として名を馳せ、村に貢献しているのだと。
その男の家の場所を聞くと同時に、私は全力でそこへと走り出した。
生涯最大の力を足に込め、大地を蹴った。
子供の声が一瞬で遠くになるほどに。
「でもじいちゃん、もうベッドから起きられないよ?もうすぐ自分は死ぬって、言ってたよ?」
そのもうすぐまでに絶対たどり着くと、心臓が爆発してもいいと、走り抜いた。
「バッツ!!」
村外れの家。
ノックもせずに一気に中に入る。
家の奥には一台のベッドがあった。
そしてそこに横たわっているのは、髪も髭も真っ白な、一人の老人。
「ミーナじゃねえか。お前は、全然変わらねえな」
懐かしい声。
少しだけ老いたが、聞き間違いようもないこの声。
私は零れ落ちそうになる涙を抑えながら、その声に答えた。
「バッツ。お前、白い髭なんて生やしてるじゃないか」
「おう。いつでも新鮮なビールを飲んでるみたいで、いい感じだろ?」
そう笑う笑顔は昔のまま。
だが自慢気に白い髭を触るその腕は、枯れ木のように細くなっていた。
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「あれから村に帰って、農業を始めたんだ。村の周りの田畑を見たか?あれの半分は俺が開墾したんだぞ?」
バッツは嬉しそうに語りだす。
「なんで俺がいるってわかった?」
「村の子どもたちが剣を振っていた。私がお前の太刀筋を見間違えると思ったか?」
「もう別れて数十年経つんだぞ?エルフの記憶力は恐ろしいもんだな」
「大したものだろう。人間はもっとエルフを尊敬するべきだ」
「ちげえねえ」
昔だったらここでガハハという大笑いが飛び出ていた頃だろう。
だが今はそんな笑い声が響くことはなく、ささやかな含み笑いだけが起きていた。
「孤高のエルフ、だっけ?お前の噂は聞いてるよ」
「ほう。こんな田舎に住んでるのに、ずいぶん耳ざといな」
バッツはニヤリと笑う。
ああ、この笑顔だけは本当に昔のままだ。
「チビどもの中には冒険者になるやつも大勢いてな。そいつらが教えてくれたんだよ、孤高のエルフ様のことをな。中には命を助けられたやつもいる。俺のチビどもを、ありがとな」
「別にお前の弟子だからと助けたわけではないよ。だがまあ、感謝は受け取るよ」
「おうおう。ずいぶん素直になったもんだなあ?」
「うるさい。落ち着いた、と言え」
Sランク冒険者になってからは頼られることも増えた。
好んで誰かを助けることはなかったが、困っている人間には手を差し伸ばした。
目の前で危険な目にあってる者がいれば、絶対に助けた。
その中にたまたまバッツの弟子がいたのだろう。
だが、その弟子がちゃんと私のことを師匠に伝えていた。
そしてバッツは私のことを知っていてくれた。
今のこの感情が何なのかはよくわからない。
だが涙が溢れ出しそうになるのを、私は必死でこらえていた。
「ああ、そういえば一つ訂正させてくれ」
バッツが真面目な声でそんなことを言った。
その声は別れの日を思い出させ、私の体はびくっと震えてしまう。
「チビどもは、弟子じゃねえ。俺はあいつらの師匠じゃねえんだ」
だがもちろん内容はぜんぜん違う。
ちょっとした訂正だ。
「そうか。じゃあいったいどんな関係なんだ?親子だとでも?」
そんな茶化すような私の言葉に、バッツはまたも真面目に答えてきた。
「ああ、そうだなあ。あいつらは俺の子どもで、俺の孫だ。俺の全てを受け継いだ、俺の生きた証だよ」
その瞳は、遥か遠くを見つめていた。
バッツはすでに老人だ。
誰が見ても見た目だけなら私よりもバッツの方が歳上だろう。
だが実際の私たちの年齢はそれほど変わらない。
むしろ私のほうが歳上なぐらいにだ。
だが今のバッツは、私よりも遥かに経験を積んだような、長い人生を歩んできたように感じられた。
そんな不思議な迫力が、今のバッツからは発せられていた。
「しかしまさか、今になってお前が来てくれるとはなあ」
だが次の瞬間にはそんな迫力は消え去り、いつものバッツに戻っていた。
ふにゃっとしたような笑い方。
この笑顔でどれだけの女達を騙したことか。
「ここに来たのは本当にたまたまだよ。たまたま南の方に来て、たまたま街外れに来たらお前がいたんだ」
本当のことだ。
バッツの故郷の話は聞いたことがなかった。
温暖で住みやすいという最後のあの言葉以外、何も知らなかったのだから。
「そうかい。そりゃ神様のお導きかな。毎朝お祈りしたかいがあったってもんだ」
「ほう?お前が神に祈るようになったとはな」
昔は神なんて全然信じていなかったというのに。
「神に祈りたくなったんだよ。突然な。がっ…ごほっ!ごほっ!」
笑おうとしてくれたのだろうか。
だが笑いは起きず、むしろバッツは苦しそうに咳き込み始めてしまった。
「大丈夫か!?」
私は慌ててバッツの背中を擦る。
あれほどたくましかった体が、今はこんなに細くなってしまった。
筋肉で覆われていた体はもうなく、背中には骨が飛び出ている。
今度こそ涙がこぼれ落ちる。
バッツから死角になっている場所で私は少しだけ涙をこぼし、すぐに拭き取った。
「俺はもう、長くねえ」
「馬鹿。そんなこと言うな」
バッツの言葉は本当だ。
医療とは門外漢の私でもわかるほど、バッツは弱りきっている。
だが決して寂しくはないのだろう。
シーツは綺麗で、ベッドの周りには生けたばかりの花が飾られている。
子どもたちか村の者か、色んな者達が世話してくれているのが伝わってくる。
だがそれでも、バッツの命の灯は消えかかっている。
今日明日という話ではない。
今この瞬間にも、消えかかっているのだ。
「一人で死ぬもんだとばかり思ってたが、まさかミーナ、お前が来てくれるとはなあ」
そう言いながら、最後の力を振り絞るように手を差し出してきた。
「せっかくだ。最期ぐらい手を握っててくれないか?」
「ああ、かまわんぞ」
バッツの手を握るなんて、最初にパーティーを組んだときの握手以来だ。
あの日手のひらに感じた男らしく無骨な手。
「バッツ」
「なんだ」
「私との冒険は、楽しかったか?」
バッツは一瞬だけ驚いた顔をした。
だが次の瞬間には、笑顔になった。
「ばっか。あったりめえだろ?」
かつて毎日のように見せてくれた、太陽のような笑顔。
手のひらに伝わる感触も、姿形も、何もかも変わってしまったのに
この笑顔だけは、最期のその瞬間まで変わらなかった。
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バッツは本当に村の者たちから愛されていた。
葬儀には村中の人々が参列し、遠くの街からも多くが訪れていた。
火葬され、煙になって空に帰っていくバッツ。
その姿を見送った後、私は生まれ故郷のエルフの里へと帰ったのだった。
村を飛び出したくせに、冒険者をやめて出戻って来た小娘。
そんな私を、エルフの里は暖かく迎えてくれた。
それは不思議な感覚だった。
バッツも同じような感じだったのかもしれない。
私は村の者への恩返しにと、一心不乱に村のために働いた。
外の世界でSランク冒険者であった私は、村ではトップクラスの実力者だった。
エルフを狙ってくる人間たちから村を守り、村の若者達に訓練を施した。
若いエルフに経験を積ませるためと、村の外に興味を持つ若者を送り出す制度も造り上げた。
当時の王には反対されたが、自分という実例がいるとして何とかねじ込んだ。
その後も優秀な若者が経験を積んで帰ってきたことで私の正しさは証明され、村はさらに発展していった。
バッツにはあんなにきつく当たってしまったのに、村のみんなには不思議なほど優しく対応することができした。
良く言えば心穏やかに。
悪く言えば無感情に。
そして気づいたら私はみんなの推挙で王になっていた。
先代の王から次代の王への中継ぎかと思っていたが、存外長く地位についていた。
全く王位にこだわりがなかったことが逆に良かったのかもしれない。
いつ王をやめてもいいと、いつも自然体でいられた。
そして子供がおらず権力を継承する先がなかったことも、私が退位できなかった理由の一つだ。
誰かと結婚する気にはならなかった。
ましてや子供をつくる気にもならなかった。
色んな縁談が、それこそ人間の王も含めて舞い込んだが、いつものらりくらりとかわしていった。
村のみんなが、私の子どもたちなのだから。
これ以上は子どもいらない、そんなふうに思えていた。
当時の側近にそのことを伝えると
「ですが陛下。伴侶を持たれてもよろしいのではないでしょうか?」
そんな問が返ってきた。
だが伴侶を選ぶということが何故か私には理解できず、そのまま独身を貫いた。
そして気づけば私は長命のエルフの中でも最も長命の存在となり
誰も私に結婚をすすめることなど、なくなっていたのだ。
そして今、私はベッドに横たわっている。
人生の終りを迎えようとしている。
全てがうまくいき、全てに満足していたはずなのに
気づけば、涙がとめどなく溢れていた。
私は何と愚かだったのだろう。
千年生きてきて、ようやく今さら気づくことができた。
死の間際の走馬灯が、今さら私に気づかせてくれた。
私がバッツに抱いていた想い
バッツが私に抱いていた想い
これらは同じものだった。
これが、恋というものだったのだ。
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「陛下!?」
ミレーヌが涙を流す私に驚き、私の手を握りしめてくれている。
バッツより小さな手のひらで、バッツの今際の際よりも力強く。
愛するミレーヌ
愛する我が子
この子がこんなに悲しそうな顔をしているのに、私の頭の中は別のことでいっぱいだ。
ああ、バッツ
バッツ!
バッツ!!
たったの十年間
私の人生の十分の一どころか、そのまた十分の一。
わずか1%程度の、ほんの短い間
あれこそが私の人生の全てだった。
あの十年間があるから、私は今まで生きてこられた。
バッツとの思い出を糧に、私はそれから九百年以上を生き抜いてきたのだ。
あの別れの日、バッツが私に言ってくれた言葉の意味がようやくわかった。
バッツは、私に言ってくれたのだ。
一緒に田舎に行こうと。
あれは不器用なバッツの、精一杯のプロポーズだったのだ。
短命の人間と長命のエルフ。
一緒に暮らせる時間は短い。
だがその短い時間を二人で一緒に過ごそうと、バッツはなけなしの勇気を振り絞ってくれたのだ。
なのに、なのに私は走り去ってしまった。
バッツの想いに気づきもせず、とんでもない勘違いをしてその手を振り払ってしまった。
後悔だ。
後悔しかない。
今でも思い出す、あのバッツとの最後の日。
老いたバッツの手を握りしめ、バッツを見送ったのあのほんの一瞬の時間。
あれだけでも、それからの九百年以上の価値があった。
私の心は満たされていた。
もしもあの生活が別れの日からずっと続いていたら、私はいったいどうなっていただろう?
もしバッツとの赤ん坊を抱くことができていたら、私はどんな感情を抱いていただろう?
どれほどの幸せで、私は満たされていたのだろう?
自らが振り払ったものがいかに大事だったか
自分の手からこぼれ落ちたものがいかに自分にとって大きかったか
今さらそれに気づいても、どうしようもないのに。
今さらそれに、気づいてしまった。
この人生の最期になって。
取り返しのつかない己の愚かさに、私は心の底から嘆き悲しんだのだった。
---
涙が枯れるほど泣いてしまった。
これほど泣いたのは生まれてはじめてだ。
ようやく涙が止まると、不思議に体が軽くなっていた。
憑き物でも落ちたのだろうか?と思うほどに。
あまりに軽いので、体を起こしてみる。
するとずっとベッドから起き上がれなくなっていたことが嘘のように、すっと立ち上がることができた。
歩を進める。
何故かベッドは草原の中にあった。
土の感触を足裏に感じながら、草原の中を進んでいく。
すると、一軒の小屋があった。
見たことあるような小屋だと、何とはなしに中へと入っていく。
それはまるで小屋が誘っているかのようだった。
「おう!ようやく来たか!」
それは、懐かしい声だった。
その声を聞いた瞬間、目が涙で潤んでしまった。
涙が枯れるほど泣いたはずなのに、また涙が溢れてくる。
「おいおい!俺の顔を見て泣くなんてひどくねえか?こちとら、ずいぶん待たされたんだぞ?」
日焼けしたたくましい手が私の肩に載せられる。
枯れ木なんてとんでもない。
まるで丸太のように太い、頼りになる腕だ。
「待ってて、くれたのか?」
涙でぐずぐずになった顔
一生懸命涙をこらえながら、ぐちゃぐちゃな笑顔で笑いかけた。
「あったりめえだろ?鈍感なエルフ様がいつか気づいてくれるって信じて待ち続けたよ。まさか、千年も待たされるとは思わなかったけどな!」
太陽のような笑顔が眩しい。
ずっと変わらなかった笑顔。
最期の瞬間まで、私を照らしてくれたその笑顔。
それを見て、私はまた憎まれ口を叩いてしまう。
「ちゃんと気づいたんだから許せ。それに、千年じゃない。九百年だ」
「人間にとっちゃ九百も千も同じようなもんだよ!だがまあ、来てくれて本当によかった!」
そう言ってバッツは私の手を取る。
昔のままの、男らしい無骨な手。
私はこの手が大好きだ。
「一緒に暮らすために田畑をつくったんだ!前は結局間に合わなかったけど、これからはずっと一緒だぞ!」
そう言って、私を引っ張っていく。
私は涙で前が見えない。
だが、何も心配はない。
だってこの手が、私を連れて行ってくれるのだから。
この世でもっとも頼りになる、この手が。
そういえば、ちゃんと答えていなかった。
今回こそは、ちゃんと答えないと。
私は千年分の想いを込めて、口に出す。
「ああ!ずっとずっと、一緒だぞ!!」
本作品を面白いと思っていただけましたら、↓を
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