7.現代4章
彩音と菜々美、美緒の3人は、恵と由紀子の手を借りながら浴衣に着替えていた。
美緒は、水色の生地に百合の花柄、菜々美は、白地にピンク色の菖蒲の花柄、彩音は、青色の生地に藤の花柄の浴衣だ。
着付けを終えると、恵と由紀子は少し離れて、満足そうに3人を眺めた。
「女の子が揃うと、華やかでいいわねぇ。」
「本当に、3人共可愛いわ。」
菜々美は、彩音の髪を束ねると、捻りながら頭の上の方で纏めて、最後に簪を差した。
蔵で見つけた簪だ。彩音の艶のある黒髪に、藍色の玉がよく似合っていた。雪の結晶のような模様が、黒髪に反射し、仄かに光っているように見える。
しばらく、彩音と菜々美、美緒はお互いに写真を取り合って楽しんだ。
「そろそろ、出掛けようか。」
美緒が、ランドクルーザの鍵を指先で弄びながら、時計を見る。午後2時になろうとしていた。
恵が、クッションを3つ持ってきた。
「車に乗る時、腰に当てて座ると帯が崩れないわよ。」
居間に戻ると拓海と悟、昭雄が手持ち無沙汰に待っていた。
「お待たせー。」
美緒は、拓海と悟に近寄ると、頭をガシガシとかき回した。
「今日は美女3人とデートだよ。嬉しいだろ。」
拓海と悟は首を竦めて、されるがままになっている。少し顔が赤いのは、照れているのかもしれない。
昭雄は、ぼおっと彩音達の浴衣姿を眺めていた。
「やぁ、似合ってるじゃないか。」
悠人が庭先から縁側に身を乗り出した。
「俺も浴衣着るかな。」
「いや、兄貴は浴衣なんて持ってないでしょ?」
「持ってるよ。去年イオンで買った奴。」
「あれは、甚平って言うの。」
彩音は、悠人と菜々美の兄妹のやり取りを聞いて笑った。
「よーっし、それじゃ宍道湖に向けて出発っ。」
美緒が言うと「お~っ」拓海達も腕を挙げて続いた。
ランドクルーザの運転席に美緒、助手席に菜々美、後部シートには彩音が乗り込んだ。
3人は、恵に渡されたクッションを、腰と背もたれに間に挟むと具合を確かめた。ちょうど帯の結び目程の隙間ができている。
美緒は、下駄を脱いで裸足になると、ランドクルーザのクラッチを踏み込んだ。
浴衣の袖を翻して、シフトレバーをバックに入れる。ランドクルーザの巨体が、ゆっくりと動き出した。
窓の外を見ると、悠人が、拓海と悟、昭雄を乗せたRAV4に乗り込むところだった。
美緒は運転席の窓を開けると、悠人に声を掛けた。
「それじゃ、先に行ってるよ。」
悠人も手を挙げて応える。
「おう。すぐに追いつく。」
昨日、彩音が自転車で走った道を、今日はランドクルーザで疾走している。彩音の自転車がパンクしたのは、まだまだ先だ。
窓から空を見上げると、今日も、アスファルトを焼かんばかりに太陽が照り付けている。日の光を遮る雲は無く、一面が青空だった。
忠治に救われなかったら、この距離を自転車を押して歩いていたと思うと、血の気が引いた。
ふと後ろを見ると、悠人のRAV4が追いついていた。
フロントガラス越しに、悠人が手を振っている。彩音は微笑むと、手を振り返した。
今日と明日は、宍道湖の周辺は交通規制が入るはずだ。そのため、少し離れた駐車場に車を停めて、歩く事にしてある。
城北通りから431号線に入ると、美緒は周囲の駐車場を窺いながら呟いた。
「ここからだと、宍道湖まで3kmくらいかなぁ。」
「そうだね。ここから歩くと、普段でも1時間くらいかかるよ。下駄だとキツイかなぁ。」
菜々美も辺りをきょろきょろと窺っている。やがて、城山東通りへと入る。
「この辺からだったら、1kmちょっとくらいなんだけど。あちゃぁ、この時間で、もう一杯かぁ。」
菜々美と美緒は、フロントガラスに頭が付く程に、身を乗り出して周囲を探している。
「やっぱり、プランBかな。」と美緒が呟く。もし駐車場が無かったら、山陰本線のどこかの駅の近くに車を停めて、電車で松江駅に
出ようと決めていた。
すると、菜々美は、近くに迫った駐車場を指差して言った。
「あっ、そこ、車2台分空いてる。」
「ナイスっ!!」
美緒は、すぐにウインカーを出すと、ランドクルーザーを駐車場に滑り込ませた。すぐ後から、RAV4も付いてくる。
運転席を見ると、悠人が親指を立てて何か叫んでいた。
車から降りると、悠人達と合流した。
「本当、運が良かったよな。」
「兄貴、駐車場に入って来る時、何か叫んでた?」
「アンマ・ミーアって言った。」
「それ、多分、マンマ・ミーアね。使い時も違うんじゃない?」
「アンマ・見ンナ!」
子供達は、早く出店を見て周りたいのだろう。車を降りるとすぐに宍道湖の方に目を奪われている。
菜々美はスマートフォンを取り出すと、水郷祭のサイトを検索する。
「ここからなら、特設ステージも近いね。」
「石見神楽は明日だっけ?」美緒も菜々美のスマートフォンを覗き込んだ。
「そうそう。今日はライブとかがあるみたいだね。もうすぐ3時だから、あっ、オープニングはもう始まっているんだ。」
「ビアガーデンとかあるね。」
「ちょっと、美緒姉ぇ、車の運転するんだから、呑まないでよ?」
花火の時間までは、まだ5時間程ある。
「とりあえず、俺、子供達連れてステージの方行ってるな。後で合流しよう。」
悠人は、拓海と悟、昭雄を連れて歩き出した。どうやら、彩音達の、履きなれない下駄を気にかけてくれたようだ。
昭雄はスキップをしながら、悠人の後について行っている。確かに下駄で子供達のフットワークに付き合うのは、しんどそうだ。
彩音と菜々美、美緒は、せっかく浴衣を着たのだからと、散歩を楽しむ事にした。
塩見縄手から松江城を時計回りに迂回して、宍道湖へと向かう予定だ。
塩見縄手は、松江城の堀に沿った500m程の通りの名称である。かつての武家屋敷が、そのままの姿で多く立ち並んでおり、通りには、瓦で飾られた白漆喰の塀と、豪奢な武家屋敷の門構えが連なっている。
彩音達は、武家屋敷や松江城を背景に写真を撮りあった。
この日は人通りも多く、賑わっている。浴衣姿の観光客も多い。
ふと、彩音に懐かしむような感情が湧き上がってきた。
松江城には、以前にも数回来た事がある。しかし、その時には感じなかった感覚だった。
「デジャビュかしら?」
突然、彩音の眼前の景色が変わった。先程まで多くいた人の姿が無くなり、明るかった景色が、夕方のような茜色に染まっている。
「あれっ?菜々美ちゃん、美緒さん、どこ?」
彩音は慌てて周囲を窺う、しかし、菜々美と美緒の姿のみならず、周囲には誰もいない。
「私、一体どうしちゃったんだろう?」
彩音は目を擦ると、改めて辺りを見回した。堀を挟んで、松江城の天守閣が見える。しかし、天守閣の周りの雰囲気も大きく変わっていた。
先程までは無かった城壁や建造物が増えている。
気づくと、立っている道の様相までが変わっていた。先程まで、アスファルトであった地面が、土に変わっている。
彩音は途方に暮れて立ち尽くした。一体、自分に何が起きたのだろう。
手にした巾着袋から、スマートフォンを取り出し、菜々美と美緒に連絡を取ろうと操作する。しかし、しばらくするとその指の動きも止まった。
スマートフォンの画面は、電源が切れたように黒いままだった。
近くの武家屋敷の門に走り寄ると、声をかけた。然しながら、屋敷の中にも人の気配はなく静寂であった。
「どうしよう・・・。」
彩音は、崩れ落ちそうになる体を、門に手を突いて支えた。
しばらくすると背後から、かすかに人の足音が聞こえてきた。草履で土を踏む、乾いた足音だ。
背後を振り返ると、夕日の逆光を浴びて、1人の人影が近づいてくるのが見える。
「誰?」
彩音は、日の光に目を細めて、人影を見定めようとした。人影の輪郭から察するに、着物を着た男のようだ。かなり背が高い。
「私の知らない人。だけど・・・」
懐かしいような、それでいて、どこか悲しいような想いが胸に溢れてくる。近づくにつれ、男の顔が見えてきた。
「あなたは・・・」
男の口元が動くのを見た。"りん"と。
彩音は、肩を揺すられて我に返った。気づくと目の前に、菜々美と美緒の顔がある。2人は心配そうに、彩音を見ていた。
「彩音、大丈夫か?」
「彩音ちゃん、どうしたの?」
「えっ?あれ?菜々美ちゃん、美緒さん?」
彩音は、きょろきょろと辺りを見回した。元の景色に戻っていた。
「彩音ちゃん、なんで泣いてるの?」
「えっ、私、泣いてる?」
彩音は、指先で目元を拭ってみた。指が濡れるのを感じる。頬も濡れているようだ。
「あれ?何でだ?」
菜々美はハンカチを出して、彩音の目元と頬の涙を拭いた。
「日に当たり過ぎたか?ちょっと、そこの店で休憩しよう。」
美緒は、彩音の手を取ると、近くのカフェへと連れて行った。
彩音は、アイスティーを一口だけ飲んだ。仄かな酸味と甘さが口に広がり、気持ちが静まるのを感じた。
菜々美と美緒は、彩音がうつろな表情で立ち尽くしていて、話しかけても反応がない状況だったと言った。
しばらくすると、彩音の目から涙が零れてきたので、慌てて肩を揺すったのだそうだ。
「心配かけて、ごめんね。ちょっと、ぼーっとしちゃったみたい。」
彩音は、小さく笑いながら詫びを言った。
「本当に大丈夫か?」
美緒は、彩音の目を見ながら確認をした。
「はい。もう大丈夫です。ところで、私がそんな状態だったのって、どのくらいの時間でしたか?」
「確か、1分も経ってはいなかったよ。20から30秒くらいじゃないかしら。」
菜々美は少し考えて、答えた。
「30秒・・・。」
短すぎる、と彩音は思った。彩音が "あの世界" で過ごした時間は、少なくとも30分は経っているはずだった。
彩音は、カフェの窓から松江城を見た。あの世界で見た松江城は、確かに、今はない建物が見えていた。
本来であれば、松江城の天守閣の周りには本丸、二の丸、三の丸という区画がある。そして、明治の頃に、二の丸と三の丸にあった建物は取り壊されていた。
今はない建物というと、二の丸や三の丸にあった建物という事になる。そして、それが見えたという事は、彩音が見た松江城は、明治よりも前の時代の姿という事だ。
「あれは、江戸時代の景色・・・。」
彩音は、指を口元に当てると、考え込んだ。では、一体自分に何が起こったのか。
まず、江戸時代に行っていたわけではない。ずっと彩音は菜々美と美緒の側に居たのだと、2人が言っている。
そしてあの世界で、彩音は、巾着袋からスマートフォンを取り出して操作していた。しかし、実際には、スマートフォンは彩音の巾着袋の中に入ったままだ。
彩音が体験した行動と、事実にはギャップがある。つまりは、彩音の意識が切り離されていたと考えていいだろう。
この状況で考えられる事象としては・・・。
「白昼夢・・・。」
だが、今回のような事は今まで一度も無かった。一体何が原因で、今回の事象に至ったのだろうか。
しばらく考えると、一つの可能性を思いつく。
「あっ、・・・寝不足?」
自分の思いつきではあったが、彩音は、首を傾げた。寝不足くらいなら、今までいくらでも経験していると思った。
ふと気づくと、菜々美と美緒が怒った表情を浮かべている。
「彩音ぇ、今、寝不足って言った?」
「彩音ちゃん、泣いてるのかと思ったら、もしかして欠伸して涙が出ただけなの?」
彩音は慌てて両手を振って否定した。
「あっ、違うの。ちょっと寝不足だったのかなって思っただけで。」
「よっし、ここの支払いは、彩音持ちだからね。」
「私、パフェ頼んじゃお。すみませ~ん。」
彩音は、力なく笑いながら「あっ、支払い・・・、喜んで。」と応えた。
原因が不確定のままだったので、不安はあったが、幸いにも、店を出た後はもう同じ事象は起きなかった。
彩音は、安心すると、菜々美や美緒と過ごす水郷祭を楽しむ事にした。
「原因の究明は、また後でね。」と、自分に向けて小さく呟いた。
実際に、彩音は、菜々美や美緒と過ごす時間を楽しんだ。
松江城の堀を一周する遊覧船には、初めて乗った。下から見上げる天守閣の景色や、橋の下を潜る時の緊張感が楽しかった。
途中で、菜々美の友人達とも出会い、行動を共にする事にした。
菜々美に紹介してもらう際、「あっ、昨日、菜々美のお弁当を届けてくれた、親切ないとこさん。」と言われた。
どうやら、あの時のテニスコートに居たようだ。
「彩音です。よろしくお願いします。」
彩音は、菜々美の友人達に、頭を下げて挨拶を交わした。
美緒を紹介する時には、「あっ、あのご親戚の方。」と菜々美の友人達が僅かに口ごもった。
「えっ?あのって、どういう意味?」
美緒は笑顔になると聞いた。
「えっと、すごい酒豪のご親戚だとか。男勝りだとか。」
「菜々美ぃ、お前、私をどんな風に友達に話しているんだよ。」
美緒が追いかけると、菜々美は笑いながら悲鳴を上げて逃げだした。
そんな美緒と菜々美を見て、皆が笑った。
彩音はその光景も写真に収めた。彩音のスマートフォンには、今日だけでかなりの写真が増えていた。
気づけば、時計は午後7時になろうとしている。
「そろそろ、悠人達とも合流しようか。」
美緒は時計を見て言った。
宍道湖の周りには、明らかに昼間よりも人通りが増えている。どうやら、菜々美の友人達も悠人とは顔見知りらしく、一緒に背伸びをして、悠人の姿を探してくれている。
「あっ、いた。おーい、悠人ぉ。」
美緒が、大きく手を振って合図を送っている。しばらくすると、悠人と子供達が集まってきた。
「あれっ、昼間よりも人数が増えてるなぁ。」
「お兄さん、今晩はー。」
菜々美の友人達が揃って、悠人の側に集まっている。人気があるようだ。
「兄貴、今回はどの辺で見ようか?」
「あー、今年は、白潟公園の方に行ってみようと思ってんだ。」
「えっ、一番混むんじゃない?」
「そう思うだろ?この前、穴場を見つけたんだよ。ちょっと高台になっててさ。知らない人、多いだろうなって場所。
でも、そこまでの道は人が多いから、皆、迷子にならないように付いて来てな。
特に拓海達は携帯が無いんだから、もし迷子になったら、アナウンスで呼び出すからな。」
白潟公園は、大橋川を渡った先にある宍道湖に面した公園だ。松江駅からも近く、花火を見るには適した場所となっている。
悠人達は、拓海、悟、昭雄を真ん中に、連れ添って歩き出した。彩音は、最後尾を歩いている。
大橋川に差し掛かった時、その場所を懐かしく感じている事に気づいた。いけないと、彩音は、自分に言い聞かせる。
塩見縄手でも、懐かしいという感情から白昼夢に入っていった。目をきつく閉じて、自分の感情に抗う。
「いけない、感情に飲み込まれてはいけない。」しかし、次第に彩音が見ている景色が変わろうとしている。
これは、雪景色だ。大橋川に架かる橋の姿も、木橋に変わっている。
「いけない、いけない。」彩音は、自分に言い聞かせる。
自分の周囲には、止まる事なく細かい雪が降っている。さらさらという、雪が積もる音も聞こえている。吐く息までも白くなっている。
「いけない。白昼夢に入ろうとしている。いけない。」
さくさくと、雪を踏む足音が聞こえ始める。目の前に、和傘を差した人影が見える。その人影が自分に近づいてきている。
「駄目。この人に近づいては感情に飲み込まれる。」しかし、言葉に反して、愛おしむ感情が強くなっていく。
人影から遠ざかろうとしたが、体は硬直したように動くことができない。人影がはっきりと見え始める。背の高い侍のようだ。
「私はこの人を知らない。でも、この感情は何なの。」彩音は歯を食いしばって、感情に抗った。
やがて、人影は息がかかる程まで近づいた。彩音に和傘を差し掛ける。侍の顔がはっきりと見えた。
「この人は。」
その時、彩音の足元からぶつりと音がして、左足に痛みが走った。その痛みにより、意識は現実に戻される。
周囲は、先程と変わらぬ人通りであった。
「痛っ。」見ると、左足の下駄から鼻緒が外れて、擦れた左足から血が滲んでいた。
彩音は、下駄を持ち上げると、人通りの邪魔にならないように隅に寄った。
菜々美達の姿を探したが、先に行ってしまったようだ。見当たらない。
「下駄が壊れちゃった。でも、お陰で戻ってこれた。」彩音は、下駄を見ながら呟いた。
「どうしたの?」
声のする方を見ると、忠治が立っている。
「あっ、忠治さん。今晩は。」
「今晩は。あー、下駄の鼻緒が取れてしまったんだね?」
彩音は、えへへと笑うと「忠治さんは、お一人なんですか?」と聞いた。
「うん。買い物をするついでに、散歩に来たんだ。」
忠治は、右手に下げたコンビニのビニール袋を持ち上げて見せた。
「どれ、下駄を見せて。」
忠治は、彩音から下駄を受け取ると「よろけないように、俺の肩に掴まるといいよ。」と言った。
彩音は言われた通り、忠治の肩に掴まる。
「たしかこの辺に、」忠治は、二つ折りの財布を取り出すと、カード入れから小さなソーイングセットを取り出した。
「あった。あまり使わないんだけど、持ってて良かったよ。」
忠治は、彩音に笑顔を向けた。ポケットからハンカチを取り出すと、ソーイングセットの小さな鋏で細長く切っていく。
「あっ、ハンカチが・・・。」
「大丈夫。大丈夫。ハンカチなんて、こういう時に使うために持っているんだから。」
鼻緒に切った生地を引っ掛けると、下駄の前穴に通していく。適当な長さを残して、大きな結び目を作った。
余った生地は、邪魔にならないように鋏で切り揃える。
「はい。応急処置だけど、これで履けると思うよ。」
忠治は、彩音に下駄を返す。
「あとは、傷の手当だね。」彩音は、忠治から下駄を受け取ると、巾着袋から絆創膏を取り出した。
「私、絆創膏は持っているんです。普段、履きなれないから摺れるかなって思って。」
「やぁ、それは準備が良かったね。でも、その前に、傷口に砂利が入ってしまっているから、洗った方がいいね。」
きょろきょろと周囲を探す。
「最近は、コンビニでも消毒液くらい売ってるんだけど、コンビニも水道も無さそうだな。」
ビニール袋から、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
「まだ、口つけてないから、安心してね。」
少しペットボトルを見つめていたが、やがてキャップを外した。
「ちょっと沁みるよ。」
言うと、ペットボトルの水で彩音の傷口を洗った。傷口からは細かい泡が立ち、シュワシュワと音がする。
忠治が持っているペットボトルは、炭酸を含まない、ただのミネラルウォーターだ。
なぜ泡立つのだろうと不思議に思った。しかし、彩音はこの感触を知っている。
幼少の頃、転んで擦り傷を作ると、学校の保健室で傷口を消毒してもらった。
これは、あの時に感じた、オキシドールで消毒する感触と同じだ。
忠治は、濡れた足をハンカチで拭うと、彩音から受け取った絆創膏を傷に当てた。
「うん。これで大丈夫。」
彩音は、男性に足を近くで見られて、恥ずかしく思い赤面していたが、はっと我に返った。
「あっ、あの、ありがとうございます。」
前屈みになって、下駄を足元に置くと履いてみた。少し歩いてみる。違和感はないようだ。
「すっかり直ったみたいです。どうもありがとうございます。」
彩音は、忠治に向き直ると改めて礼を言った。しかし、忠治は、そんな彩音の言葉が聞こえなかったように、彩音の頭を見ている。
「忠治さん?」
「その、簪。ちょっと見せてくれる?」
「簪ですか?はい、どうぞ。」
彩音は、簪を頭から外して、忠治に渡した。束ねた髪が落ちないように、右手は頭に添えている。
忠治は、受け取った簪を見つめていたが、やがて呟いた。
「やっぱり、間違いない。あの時の簪だ。でも、なぜここに。」
彩音に向き直ると聞いた。
「この簪だけど、なぜ君が持っているの?」
「一昨日の事なんですけど、本家の蔵から出てきたんです。おばぁちゃんに聞いたら、ご先祖様の物だろうって。でも、それまではずっと蔵にあって、誰も外に出していないはずだから、忠治さんがご存知の簪とは違うと思いますよ。」
彩音は、 不思議そうな表情をしている。
「ご先祖様?」
「はい。だいぶ古い木の箱に入ってました。」
忠治の表情に戸惑いの色が浮かんでいる。そして簪に目を移すと呟いた。「りん」と。
「え?今、"りん"って言いました?なんで、おりんさんの名前を知っているんですか・・・。」
彩音は、先程の白昼夢で出てきた侍の顔を思い出していた。目の前にいる青年の顔と被さって見える。
「あれっ?忠治って、確か・・・。」
一昨日に、由紀子から聞いた話を思い出す。髪を抑えていた右手が緩み、彩音の後ろ髪が落ちた。
彩音と忠治はお互いを見詰め合う。
「あなたは、誰?」
彩音の問いと同時に、宍道湖から花火が打ちあがり、夜空に大輪の花を咲かせた。