3.現代2章
時刻は午前10時を過ぎていた。澄み渡った青空には雲一つ無く、降り注ぐ日差しが、37号線のアスファルトを焼いている。
道の両脇に広がる田には、稲が青々と育っており、さわさわと音を立てた。
彩音は、菜々美の通う高校への道のりに、自転車を走らせている。彩音の額には、じわりと汗が浮かんだ。
しばらくすると、ゆるい下り坂に差し掛かかり、自転車の速度がわずかに上がる。
彩音は、自転車のホイールが回転する音と、自分の長い髪が、風になびく感覚を楽しんだ。
「気持ちいい。」
自転車のカゴには、菜々美の弁当と、彩音のスマートフォンが入った手提げ袋がある。
30分程前、彩音は、ピンク色の巾着に入った弁当を、テーブルの上に見つけた。
菜々美の弁当だと、彩音は記憶している。そして今日、菜々美は部活で登校しているはずだった。
台所で、恵が洗い物をする音が聞こえている。
「叔母さん、菜々美ちゃんはもう、学校に行ったんですか?」
恵は、布巾で手を拭うと振り返った。
「もう10分くらい前に出たわよ。何か用だった?」
「いえ、お弁当がテーブルの上にあるので。」
「あら、嫌だ。あの子忘れて行ったんだわ。しょうがないわねぇ。」
恵はスマートフォンを操作して電話をかけた。しばらく待つが応答がないようだ。
「悠人もお父さんも出ないわね。」
悠人は本家の長男だ。高校を卒業し、本家の家業を継いでから数年になる。本家は専業農家で、今の時期は、トマトなどの夏野菜の収穫に忙しい。
今朝は、二人とも早くから仕事に出たはずだ。
「叔母さん、ちょっと待ってて。」
彩音は、菜々美の部屋に入ると、高いびきで寝ている美緒を起こそうとした。
「美緒さん、起きて。ちょっと車を出して欲しいの。美緒さん。」
昨夜は、叔父二人と悠人を相手に、遅くまで酒を呑んでいたはずだ。彩音と菜々美が床についてもまだ、階下から談笑が聞こえていた。
彩音は、どうしても起きない美緒を諦めて、部屋を後にした。
「叔母さん、ごめんなさい。美緒さんに車で届けて貰おうと思ったけど、起きないわ。」
恵は笑いながら、応えた。
「いいわ。菜々美もきっと何か買って食べるでしょう。彩音ちゃん、良かったらこのお弁当食べない?」
彩音は蔵に自転車があった事を思い出していた。
「叔母さん。蔵の自転車を借りていいですか?私届けますよ。」
「えっ、でも7kmくらいあるわよ?」
「平気です。菜々美ちゃんも、自転車で通っているんですもの。だいたいの道は分かるし。」
「でも、悪いわねぇ。」
「大丈夫です。行って来ますね。」
菜々美の通う高校に着くと、駐輪場に自転車を置いて、テニスコートへと向かった。
この学校の敷地は広い。背の高いフェンスに囲まれたグラウンドでは、野球部とサッカー部が活動を行っていた。
校舎を見上げると、いくつか窓の開いた教室があり、楽器を練習する音が聞こえてくる。
この音は、ユーフォニアムだ。彩音も吹奏楽部に所属している。パートはフルートだが、他パートの楽器にも明るい。
彩音も知っている楽曲が聞こえてくると、少し嬉しくなり、弾むような足取りとなった。
テニスコートは、オムニコートが3面あり、白いウェアに身を包んだ数人の女の子が球を打っていた。
その中に菜々美の姿を見つけると、彩音は声をかける。
「菜々美ちゃん。」
大きく手を振ると、彩音に気づいた菜々美が駆け寄ってきた。
「彩音ちゃん、どうしたの?」
「これ、忘れ物よ。」
菜々美は、彩音の手にある弁当を目にすると、拝むように両手を合わせた。
「ウソっ、私、忘れた?えっ、わざわざ届けてくれたの?ごめんね、彩音ちゃん。助かったよ。」
「大丈夫よ。それじゃ、練習がんばってね。」
二人は手を振って別れた。
「お昼に間に合ってよかったな。それに、知らない学校の雰囲気って、なんか楽しい。」
彩音は、ひとりごちながら駐輪場までゆっくりと歩いた。
学校を出て2km程走った辺りで、彩音は自転車に違和感を感じた。
「ん?なんだ?」
やがて、自転車から、ガタガタとした振動を感じるようになった。
「あちゃぁ~、パンクだぁ。」
見ると、前輪のタイヤがつぶれている。彩音は、自転車から降りて歩道に上がると、美緒に電話をかけた。
「起きててくれると、助かるんだけどなぁ。」
しばらく呼び出し音が続いた後、ボイスメッセージが流れた。
「駄目かぁ。」
本家の番号も呼び出したが、恵も出かけたのか、誰も出る気配がなかった。
「しかたない、まだけっこうあるけど、1時間もあれば着くかなぁ。」
彩音は自転車を押して歩き始めた。道は僅かに登り坂になっている。自転車を押して歩くとなると、けっこうな体力が必要だった。
10分程歩いた頃には、気温の高さも手伝って、彩音はすっかり汗をかいていた。
「喉が渇いたな。」
ふと、後ろから自転車を漕ぐ音が聞こえてきた。後ろを振り向くと、マウンテンバイクを漕ぐ青年と目が合った。
彩音は軽くお辞儀をすると、再び前を向いて歩き続ける。やがて、マウンテンバイクの青年は彩音の隣を通り過ぎ、歩道に寄って止まった。
どこかで会った事があったかな?と思いながら彩音は、青年に話しかけた。
「こんにちは。」
「こんにちは。あ、パンクしたんだね?」
青年も彩音に挨拶を返すと、彩音の自転車の前輪に目を留めた。
「どこまで行くの?」
「上佐陀町です。」
「えっ、それは、かなり距離があるよ。」
青年は少し考えると、彩音に言った。
「うちの店、この先しばらく行ったところなんだ。店まで行けば、パンクを直してあげられるから、後ろに乗って。」
青年のマウンテンバイクには、荷台が付いていた。
「えっ、でも。」
「歩くとなると、けっこう時間がかかるんだ。さぁ、早く。」
青年は左手で、彩音の自転車のハンドルを握ると、彩音を促した。
彩音は躊躇いがちに、マウンテンバイクの荷台に腰を下ろす。青年は、彩音が座った事を見届けると、力強くペダルを漕ぎ出した。
「それじゃ、行くよ。落ちないようにしっかり掴まっていてね。」
彩音は、上り坂を二人乗りで、しかも片手で走る事に不安を感じていたが、青年は安定した走りを見せた。
「うわぁ、すごい。」
彩音は、感嘆した。風を切るように、マウンテンバイクは二人を乗せて走る。心地よい風が、彩音の頬を撫でていき、目線を上に向けると
街路樹の葉から毀れる日差しが、次々に後ろへと流れて行った。
「仕事とかでこの自転車をよく使っているからね。自転車に乗るのは慣れているんだ。」
青年はにこやかに応えた。
「お店って、自転車屋さんなんですか?」
「あははは、違うよ。」
やがて二人は、コンビニエンス・ストアの敷地に入った。
「あれ?このお店って。」
彩音は、荷台から降りると、自転車のスタンドを起こす青年を改めて見た。ゆるくウェーブした黒髪と細い輪郭に見覚えがあった。
「あっ、昨日の店員さんだ。」
青年は店の裏口から店内に入っていくと、水の入った洗面器と、工具箱を持って出てきた。
慣れた手つきで、彩音の自転車のタイヤを外すと、チューブを引っ張り出して、洗面器の水に付けていく。
やがて、チューブから出る小さな気泡を見つけた。
「ああ、釘が刺さっていたんだね。」
青年は、2cmほどの小さな釘を引き抜くと彩音に見せた。
「これくらいの傷だったら、直るよ。」
破損箇所にマジックで印を付けると、工具箱から糊を取り出して塗る。
「慣れているんですね。」
「ご近所に荷物を配達したり、学校への通学もこの自転車を使っているから、俺もよくパンクさせるんだよ。」
糊が少し乾くのを待って、ゴム製のパッチで破損箇所を塞いだ。数回、パッチを叩いて密着させる。
「あとは空気を入れるだけだよ。」
チューブをタイヤに押し戻すと、タイヤから出ているバルブに空気入れを繋いで、空気を送り込む。
少しずつ、タイヤに厚みが戻っていった。
「さぁ、これで大丈夫。」
彩音の自転車はすっかり元に戻っていた。
「どうもありがとうございました。本当に助かりました。」
彩音は青年に深々と頭を下げた。すると、彩音の腹から空腹を知らせる音が鳴った。
「あっ」
彩音は少し赤面しながら、慌てて腹を押さえた。青年は、布巾で汚れた手を拭うと、笑いながら言った。
「もう12時を過ぎたね。よかったらお昼を食べていかない?」
「ごめんなさい。私、お財布を持たずに出てきてしまったの。」
申し訳なさそうに彩音は俯く。
「大丈夫だよ。ちょうど、俺も昼を食べなきゃいけないんだ。こっちにおいで。」
彩音を裏口の方へと案内した。彩音はおずおずと後に付いて行く。
裏口を入ると、小さなテーブルが一つ置いてあった。
「そこに座って待っていてね。」
青年は店内に入って行くと、やがてパスタのパックとお茶のペットボトルを2つずつ持って来た。
「お昼と言っても、コンビニ弁当なんだけどね。これでもいいかい?」
青年は彩音の向かいの椅子に座ると、パスタとお茶を差し出した。
「すみません。いただきます。」
お茶はよく冷えていた。彩音は早速、ペットボトルに口を付ける。爽やかなお茶の味が、心地よく彩音の喉を潤した。
「美味しい。私、すごく喉が渇いていたんです。」
彩音は、満面の笑みを浮かべて言った。
「そうだよね。これだけ暑い中、自転車を押して歩いていたんだもの。喉が渇いていたね。早く気づいてあげればよかった。」
青年は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「さぁ、パスタも冷める前にどうぞ。コンビニ弁当とはいえ、そこそこ旨いよ。」
「はい。いただきます。」
青年の言うとおり、パスタも十分に美味しかった。
「デザートには、これをどうぞ。」
パスタを食べ終わると、青年は菓子パンを彩音に差し出した。
「バラパンだ。」
彩音は喜んで、青年からパンを受け取った。
「もしかすると、昨日、いっぱい買ってくれた子かな?」
彩音は口にパンを含みながら、こくこくと頷いた。
「はい。昨日もこちらのお店に来ました。覚えてらっしゃるんですか?」
青年は微笑みながら、応えた。
「あまり、この辺で見ない人達だなって思っていたんだ。あと、美味しそうにパンを食べてたから印象に残っていてね。」
「えっ、見てたんですか?恥ずかしいな。」
彩音は、埼玉から親戚の家に来ている事を話した。
「俺は、この店の近くに住んでいて、この店の店長とは昔からの顔見知りなんだ。普段は松江の大学に通っているんだけど、
時間がある時は、ここのバイトに入っているんだよ。」
青年も楽しそうに、話を続ける。
「ここの店長の趣味が、トレイルライドでね。山道を自転車で走るスポーツなんだけど、あの自転車も、店長から貰ったんだ。
仕事で使えるようにだいぶ改造してあるけどね。」
「忠治。」店から年配の男性が顔を出して青年に呼びかけた。
「おっと、お客さんがいたのか。邪魔をしたかな。休憩が終わったら、ドリンクの補充を頼むよ。」
「はい。店長。」
青年は椅子から立ち上がると、店に戻る男に応えた。
「それじゃ、俺、そろそろ仕事に戻らないといけないから。」
彩音は少し考えると、青年に言った。
「もし良かったら、少しお手伝いしますよ。」
「いや、とんでもない。そういうわけには行かないよ。気持ちだけ、有難くいただいておくよ。」
青年は慌てて言った。
「大丈夫です。こう見えて、コンビニのバイト経験だってあるんですよ。」
彩音はバックヤードに向かうと、ダンボールを開けて飲み物の補充を始めた。
青年はそんな彩音を暫く眺めていたが、そっと微笑んで店内へと向かった。
「うおっ、彩音ぇ。お前、こんなところで何やってんだ?」
入店のチャイムが鳴って、美緒が店に入ってきた。
「あっ、美緒さん。」
彩音は、いつのまにかコンビニの制服を着こんで、レジに立っていた。
「叔母さん、心配してたぞ。」
「あっ、いけない。店長さん、ちょっと電話してきますね。」
彩音は、裏に向かって走っていった。どうやら、すっかり馴染んでいるようだ。
店長と呼ばれた男は、頭を搔きながら、美緒に向かって言った。
「彩音ちゃんのご親戚の方ですか?申し訳ない。手伝ってくれるっていう、彩音ちゃんに甘えて、ついこの時間になってしまった。」
外を見ると、すっかり日が傾いている。
立ち尽くす美緒の後ろから、声がかかった。
「いらっしゃいませ。」
見ると、昨日の青年が、商品棚を整理しながら歩いてくる。
「あっ、お前っ。」
美緒は、青年を指差すと、唖然とした表情を浮かべたが、納得したようにうなずいた。
「なるほど、そういう事か。彩音の奴、ずいぶんと積極的になりやがって。」
ふむふむと頷きながら、カゴを手に取り、ビールの売り場に向かった。
青年は不思議そうな顔で、美緒を見送った。
「それじゃ、忠治さん、店長さん、お世話になりました。」
彩音は、ランドクルーザの助手席から二人に声をかけた。彩音の自転車は、ランドクルーザの後部座席に積まれている。
忠治と呼ばれた青年は、いくぶん恐縮して応えた。
「長いこと引き止めてしまって、申し訳なかったね。」
「とんでもない。最初に助けていただいたのは、私の方です。」
店長は微笑みながら、言った。
「彩音ちゃん、しばらくこっちに居るなら、また遊びに来てな。」
「はい。店長さん。また来ますね。」
走り出すランドクルーザを、二人はしばらく見送った。
「お前が、女の子とあんなに親しげに話をするなんて、珍しいな。」
店長が話しかけると、忠治は、店へと踵を返した。
「俺だって、話くらいはしますよ。」
指摘されて、忠治は戸惑いを感じたように見えた。
二人は店内へと戻っていく。
ランドクルーザの車内では、美緒が満面の笑みを浮かべている。
「美緒さん、どうしたんですか?」
彩音は、訝しげに美緒を見つめる。
「いやぁ。今夜の酒は楽しくなりそうだと思ってね。それに、ほれ。」
親指を立てて、後部座席にあるビニール袋に向けた。袋には、瓶ビールが数本入っており、車の振動でカタカタと音を立てている。
「彩音が、バイト代を受け取らないから、代わりに持って行ってくれってさ。ビールいっぱい貰っちゃったよ。」
「ちょっと、美緒さん。あれ、お金払ってないんですか?」
美緒の高らかな笑い声が、夕日に染まる町に響いた。
「しかし、すごいな、彩音ちゃん。うちの学校の女子なんて、名前を聞き出す事も出来なかったのに。」
菜々美は、煮魚の身を解しながら言った。
「だからね。菜々美ちゃん、自転車がパンクして、困っていたところを助けてもらっただけなのよ。」
彩音は、既に、何回目かの同じ説明を口にした。
総勢13人の食卓には、溢れんばかりのおかずが並んでいた。
信二が持って来た赤むつは、恵の手で煮付けと刺身となった。刺身は、しっとりとした身の食感と、脂の甘さが口いぱいに広がった。
煮魚にすると、身は程よく引き締まり、噛む度に、醤油の香ばしさと魚の出しが染み出した。
畑で取れたトウモロコシは、掻き揚げになった。カリとした衣の触感の後からトウモロコシの甘さが鼻に抜ける。
掻き揚げは、子供達の好物となった。
トマトや葉野菜はサラダに、根菜は煮物や天ぷらに、シジミは茶碗蒸しに、貝は佃煮となった。
彩音、菜々美、美緒も恵を手伝って台所に立ったが、恵の流れるような調理の手際の良さに、舌を巻いた。
「あいつの店の近くで、パンクさせるなんて、彩音もやるよね。」
ビールですっかりほろ酔いになった美緒が続ける。
「パンクさせたんじゃなくって、パンクしたんです。それに、美緒さんがお昼まで寝てなかったら、楽に帰ってこれたんですよ。」
彩音は、負けずに言い返す。
「菜々美。」
ビールのグラスをそっとテーブルの上に置くと、洋平が低い声を出した。
3兄弟の長男である洋平には、独特の重厚さがある。彩音達、甥姪には優しい笑顔を見せる反面、自分の兄弟や息子には、厳しく接する
事が多かった。彩音は、本家を相続し守っていく重責を、洋平の姿勢から感じていた。
「その、コンビニ店員をやっている男というのは、確かな男なのか?」
菜々美は首を傾げながら、
「私はよく知らないよ。でも、女の人からはよく声をかけられるみたいだよ。」
うむと、洋平の喉から低い唸り声が聞こえる。腕組みをして何か考え込んでいるようだ。
信二が、洋平のグラスにビールを注ぎながら言った。
「兄貴は固すぎるんだよ。恋愛の一つや二つ、いい経験じゃないか。」
「俺は、宏から彩音を預かっているんだ。彩音が、もし悪い男に泣かされるような事にでもなったら、俺は、悔やんでも悔やみきれん。
彩音、今度、その男を連れてきなさい。」
「叔父さん、忠治さんには、本当に自転車がパンクして困っていたところを、助けてもらっただけなんです。あと、お礼にお店を手伝っただけなんですよ。」
彩音は、再び繰り返す。
「そうか。」
洋平は静かにビールを喉に流し込んだ。
彩音は、菜々美の部屋の窓を開けて、夕涼みをしていた。湯上りで火照った身体に、夜風が心地よかった。
窓からは、山々が黒い影となって聳え立っているのが見える。夜空には、数多くの星が一面に輝いていた。
星座の勉強をしていたら、もっと楽しかったのかなと、彩音は思う。
きっと、昔からこの景色は変わってないだろう。彩音は、自分の先祖の事を考えていた。
「おりんさんって人も、同じ景色を見てたのかな。」
家から持って来たボストンバッグの中には、彩音の浴衣が入っている。その浴衣の上には、昨日見つけた木箱がそっと置かれている。
彩音は、木箱を開けて簪を出すと、窓から見える星空に翳してみた。簪の頭に付いた藍色の玉の模様が、夜空に浮かぶ星雲のようにも見える。
昨日の由紀子の話を思い出していた。
彩音、菜々美、美緒の3人は、由紀子の話を聞き終わると、ほうっと息をついた。
「ね?おかしな話でしょ?」
由紀子は微笑みながら、3人を見た。
「でも、いいお話でした。」
彩音は浮かんだ涙を拭いながら、言った。
「美緒姉ぇ、民俗学を専攻してるんでしょ?この文字、読めない?」
菜々美は、ティッシュで涙を拭くと、同じ紙で鼻をかんだ。
美緒は、木箱の蓋の裏をじっと見つめながら、指を顎に当てて考え込んでいる。
「民俗学ったって、こんなに薄くなった文字は読めないよ。う~ん、りんと読めなくもない・・・かな。」
由紀子は手を叩くと、3人に言った。
「さて、私の話はおしまい。どちらにしても、ご先祖様の物には違いないわ。貴方たちの誰かが貰って、使ってくれると
ご先祖様も喜ぶと思うのよ。」
「じゃ、やっぱり彩音ちゃんが使うべきよ。彩音ちゃんの頭に降ってきたんだし。」
彩音は、少し考え込んだ。簪を手にとると、心の中で、簪に話しかけてみた。「本当に私でいいの?」と。
簪は、そんな彩音の心の声を聞いたかのように、青く光った。
実際には、部屋の明かりが、簪に付いた玉に反射しただけかもしれない。しかし、彩音には簪が応えたように感じた。
彩音は、菜々美、美緒の顔を見て頷いた。
「それじゃ、大切に、大事に使わせてもらうわね。おばぁちゃん、いいお話をありがとう。」
彩音は簪を胸に抱いた。
「私も髪が伸びて、必要になったら借りるかもしれないしね。」
菜々美は、ティッシュを2枚引き抜くと、また鼻をかんだ。
「本当に不思議な話だったな。」
彩音は、もう一度、窓から夜空を見上げるのだった。