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薄明光線  作者: 田中利明
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2.過去1章

 その頃の日本は、何年にも渡って、冷害や風水害に悩まされていた。人々は、田畑の痩せ細った作物を手に取ると落胆した。

来年こそはと奮起するが、繰り返される飢饉により疲労を募らせ、いつ終わるとも知れない苦難の日々に肩を落とした。

しかし諦めてはいなかった。

 ここ松江では、治水開拓により水害対策を講じ、新田を広げて少しでも収穫量を増やそうと躍起になった。

奥出雲に多く建てられた製鉄の施設は、その集落で暮らす職人や家族の生活を支えるのみでなく、藩の財政をも救った。

中国山地で多く採れる良質な砂鉄や木炭は、純度の高い鉄の量産を可能にし、その生産量は、日本全国で使用される鉄の約半数に及んだのである。

人々の表情に、少しずつ明るさが戻っていた。

時は天保10年の秋。数十年後に幕府政権の世が終わる、いわば幕末の時代である。


「うわぁ、いい天気!」

店先に出たりんは笑顔を見せた。数日続いた長雨から、その日は久しぶりに朝日が覗いた。

家々の庇から雨雫が垂れ、澄んだ音を立てる。

今年で14歳になるりんは、古着の販売や着物の仕立てを商う、小さな店の長女として育った。

6歳年下に弟がおり、名を亀七という。

彼自身はこの名前をあまり好んではいない。そして、七番目の子供というわけでもない。

この時代、子供の死亡率は低くなく、七歳までは何が起こるか分からないと考えられていた。

そのため、りんの両親は、「七」という数字と、長寿を意味する「亀」の文字に願を掛けたのである。

その願いが通じたのか、亀七は大病もなく健やかに育ち、今年で8歳になった。

りんの名前は、着物を取り扱う商家の娘という事から、凛と育って欲しいという願いが込められているらしい。

然し、どちらかと云えばおおらかな性格に育ったし、りん本人は、自分の名前は、好きな鈴の音色を意味しているのだと思っている。

りんの両親としては、この願いは叶わなかった事になるが、明るい性格の愛娘に満足していた。


「何してんだい?りん」店の奥から母のしづが声を掛けた。

「お母さん、ほら、空がすごく青いの。気持ちいいわよ。」りんが笑顔を母に向ける。

「変な子だねぇ。」しづもつられて笑顔になった。

「それよりも、この着物を梅屋さんに届けておくれ。」

梅屋は、大橋川を渡った先にある呉服屋である。松江城の近くに大店を構える商人で、りんの家も仕立ての仕事を請け負う事がある。

「ちゃんとお礼を言うんだよ。」

りんはしづから渡された風呂敷を大事そうに両手で抱えた。

2ヶ月程前に、藍色地に牡丹の花柄が描かれた反物が梅屋から届いていた。

綺麗な反物が、両親の手で着物に仕立てられていく様を見るのが、りんは好きだった。


店前に面した通りには数軒の商家が並び、天秤棒を担いだ振り売りが忙しく走り周っている。

四方からは客押せの声が聞こえ、宍道湖で捕れる魚介類を求めて人通りも多い。

うなぎ屋やだんご屋からは、醤油の焼ける芳ばしい香りが漂ってきて、りんの鼻を楽しませる。

この地は松江藩の東部、大橋川と天神川に挟まれた小さな町屋である。

西には宍道湖があり、淡水と海水の混じったこの汽水湖は、古くから多くの魚介類に恵まれている。

そのため、この界隈にはしじみの量り売りや乾物を扱う商家、魚や貝の煮売り屋が多い。

松江城のお膝元という事もあり、士分を持たない身分の役人の姿も見える。


「おや、おりんちゃん。お使いかい?」

歩き始めてしばらくすると、数軒隣の乾物屋から、店の主人が顔を出した。名を宇平という。

「おじさん、おはよう。梅屋さんに着物を届けるの。」

乾物屋にはりんより5つ歳上の子供がいた。りんを可愛がってくれた青年であったが、その彼も数年前に、製鉄技師を志して奥出雲へ旅立った。

りんは寂しさから、泣きながら青年にしがみついた事を覚えている。

「夕べの雨で川の水が増えてるから、橋を渡る時は気をつけるんだぜ。」

宇平はりんに声をかけると、店内に戻って行った。

「日を追うごとに綺麗になるじゃねぇか。俺があと数年若かったら、ほっとかねぇんだがなぁ。」

「息子より若い娘に何言ってんだい。数年じゃおっつかないだろ?それに何十年若くたって、あんたじゃ釣り合いやしないよ。」

乾物屋の店内からは宇平と女将のやりとりが聞こえるが、りんは知らない。

宇平の言うとおり、大橋川の流れは速く、川を跨ぐ木橋も湿っていた。

りんは足を滑らせないよう、慎重に梅屋までの歩みを進めた。


「こんにちは。」

梅屋の暖簾をくぐるとりんは声を掛けた。

店には数人の客の姿があり、色とりどりの反物が広げられていた。

その多くは正絹(しょうけん)という絹糸のみで作られた生地で、織り方も羽二重や縮緬など様々な種類が揃っている。

 りんの家も着物を扱ってはいるが、多くは木綿の古着を修繕して販売したり、近隣からの仕立ての依頼も、木綿の生地がほとんどであった。

木綿の着物は普段着である。丈夫で洗濯などの手入れもしやすい、優しい生地だとりんは思う。

それに対し、絹の着物は、正装が必要とされる余所行きの着物だ。木綿にはない艶やかな光沢と、肌触りのよさがある。

りんの住む町屋の住人には、そもそも正装の必要はない。

梅屋の周囲には、上士の身分の武家屋敷や、そういった家格を相手にする商人が多く住むため、取り扱う商品は異なってくる。

絹のもつ繊細な美しさは、りんにとっては憧れに近かった。


「おや、今日はおりんちゃんが届けてくれたのかい?」

番頭の佐吉が声を掛けた。

佐吉のみならず梅屋で働く人々は、りんのような下請けにも偉ぶる事はなかった。

大店を商っているという自負を持つ事、かつ謙虚さと誠実さを忘れない事。これが梅屋の主人の信条であり、使用人は丁稚の頃から何度も教えこまれていた。

りんが梅屋を訪れるのは、すでに十回は超えている。然し未だ、この梅屋の主人に会った事はなかった。

「番頭さん。こんにちは。」

りんは佐吉に笑顔で挨拶を返すと、ふいに真顔になった。

「先日は、お誂えのご用命を賜り、誠にありがとうございました。」りんは深々と頭を下げ、

「こちらが出来上がった品でございます。ご査収をお願いします。」恭しく框に風呂敷を広げ、中の着物を佐吉に差し出した。

うまく言えたかしら?りんはちらりと佐吉を伺い見る。

佐吉は、目を細めてそんなりんに微笑んだ。

「はい。確かに受け取りましたよ。」


佐吉は着物の検分をする。

「うん。針屋さんは、いつも丁寧なお仕事をしてくださってますね。」

やがて、検分した着物を丁寧に畳んで収めた。

「ご両親に、佐吉がお礼を言っていたと伝えてくださいね?」

佐吉はりんに目を移すと、にこやかに微笑んだ。

針屋は、りんの家の屋号である。以前は古着屋を名乗っていたが、梅屋との取引が始まった年から、古着屋では梅屋の体裁が悪かろうと憂慮し、針屋へと屋号を変えたのである。りんの物心がつく前の事であった。

りんは両手を振って、佐吉に恐縮した。

「こちらこそ、お誂えのお仕事なんてめったに来ないから、梅屋さんには本当に助かってるの・・・あっ」

流石に本音を言い過ぎたと気づき、りんは両手で顔を隠した。

佐吉のみならず、店内の客や接客中の手代からも笑みが零れた。りんは恥ずかしそうに頭を搔くのだった。


梅屋から戻ると、すでに時は午の刻を過ぎていた。りんが店に戻ると、しづが店の奥から出てきた。

「ああ、りん、亀七を見なかったかい?」

りんは小首を傾げた。

「今、梅屋さんから戻ったのだけれども、通りでも見なかったわよ。」

いないの?とりんはしづを見る。しづは腕組みをすると

「もうすぐ昼餉だというのに、どこを遊び歩いているのかねぇ。」と外を窺った。

りんはふと不安が過ぎった。梅屋への道中で渡った大橋川の水の多さと、湿り気で滑りやすくなった橋を思い出したのだ。

りんには、思い込んだら止まらなくなる傾向がある。この時も、不安を感じると、居ても立っても居られなくなった。


「私、ちょっと表を探してみるわ。」りんは駆け出した。

「これ、りん。走るんじゃないよ!」

しづが声をかけた時には、既にりんの姿は店になかった。

 大橋川は相変わらず水量が多く、うねるような水の流れであった。もし子供が事故に遭っていたら、周囲は騒ぎになるだろうとりんは思う。

しかし、辺りにそういった雰囲気は感じられなかった。

りんは橋の中程まで来ると、欄干から身を乗り出して川面に目を凝らした。もしかすると、誰にも気づかれずに亀七は川に落ちてしまったのかもしれない。

「危ない!」

ふいに肩を掴まれ、欄干から引き戻された。見ると宇平が顔を赤くしてりんの肩に手を置いている。

「危ないじゃないか、おりんちゃん。もし落ちたら、怪我だけじゃ済まないんだぞ。」

りんは宇平に、亀七が家に居ないため不安になって川を見に来た事を告げた。

「亀七なら、一刻程前に見かけたが。」宇平は顎を指でこすりながら思い出す。

「寺町の方に向かっていたんじゃないかな。」

りんは膝に手を当てて、ほうと息をついた。事故に遭ったのではなかったのだ。一気に緊張が解けた。

寺町は、りん達が暮らす町屋の東隣にある、多数の寺社で形成された集落だ。

りんの家が檀家となっているお寺も、寺町にある。


「どうもありがとう、おじさん。亀七ったら、きっと遊んでて時を忘れているんだわ。きっと叱ってやるんだから。」

りんは深く頭を下げると、寺町に向かって歩み始めた。歩を進めるごとに腹が立ってくる。

「散々人に心配をかけて!」

亀七にしてみれば、勝手に早合点して騒ぎまわっているのだから、少々迷惑に感じるだろう。

そんなりんの姿を、橋の袂に植えられた桜の古木の陰から見つめる男が居た。6尺近い、かなりの長身の持ち主だが、木の枝葉に遮られているためか、彼に気付く者はいなかった。


寺町に着くと、なじみの僧侶が庭で掃き掃除をしている姿が見えた。

「ご院家さま。」りんは声をかける。

僧侶はりんを見ると相好を崩して微笑んだ。

「やぁ。りんじゃないか。今日はどうしたんだね?」

りんは僧侶に亀七を探している旨を伝えた。

「亀七なら、使いで来とったよ。」僧侶は掃く手を止めると

「古い僧衣の修繕を頼んでいたんだ。それが終わったっていうんで、届けてくれたんだ。」

しかし、と僧侶は続ける。

「せっかく来てくれたんで、一緒に茶菓子を食べたんだが、それでも四半刻前には出たんだがなぁ。」

僧侶は訝しんだ。

「よもや、鷹場には行っとらんだろうな。」

鷹場は、寺町よりも更に東にある湿地帯である。藩主である松平斉貴が鷹狩りに使う地で、町民の立ち入りは禁じられている。

そもそも湿地が広がっているだけなのだから、立ち入ろうとする者もいない。

「ちょっと見てきます。」

りんは僧侶に深く頭を下げた。

「間違っても、立ち入るんじゃないよ。」僧侶はりんに釘を刺した。

「今日は、鷹場の方から人の声が聞こえる。もしかすると鷹狩りがあるかもしらん。」

りんは、はいと応え湿地の方へ走っていく。


湿地は背の高い草で覆われていた。とてもりんの身長では、遠くまで伺う事はできない。

「困ったなぁ。」

りんはぴょんぴょんと飛び跳ねながら、少しでも湿地の奥を見ようとするが叶わない。

りんは亀七の名を呼ぶ事にした。鷹場となっているこの地で大声を出す事はご法度だ。獲物が逃げてしまうからである。

その事はりんも承知していたから、幾分、抑えた声量で亀七の名を呼んでみた。

「亀七ぃ。いたら返事して。」

すると奥の方の藪がわずかに揺れた。

「亀七なの?返事して。」

しばらくすると、藪の方角から亀七の声が聞こえる。

「姉ちゃん・・・」

不安そうな声だ。りんは声をかけ続ける。

「亀七なのね?どうしたの?早くこっちにいらっしゃい。ここには入ってはいけないのよ。」

亀七の声が応える

「姉ちゃん、おいら困っているんだ。」

もうしょうがないわね。りんは藪の方まで分け入る事にした。何分、りんの身長よりも高い草に覆われているため、進むのは難儀だった。

3丈も進んだだろうか、ふいに一畳ほどの開けた場所に出た。その中央に亀七がしゃがみ込んでいる。

「亀七、どうしたの?」

声を掛けると亀七はりんを見て

「姉ちゃん・・・」

と力なく返事を返した。泣いたのだろう。目には涙の痕が残っている。しかし見たところ怪我はなさそうだ。

「どうしたの?」

りんは亀七の側にしゃがむと、懐から手ぬぐいを出し、汚れた顔を拭ってやった。すると、亀七の腕の中から子犬の声が聞こえた。

亀七は子犬を抱えたままうずくまっていたのである。鼻先が黒く、茶色の毛並みに、頭から背中にかけて虎のような薄い縞の入った犬だ。

亀七の懐から顔を出して、真っ黒な目でりんを見つめている。

聞くと亀七は、使いからの帰り道で鷹場へ向かう子犬を見かけたのだそうだ。

鷹場に入れば、小さい子犬など殺されてしまうかもしれない。そこで亀七は後を追う事にした。

案の定、湿地に入っていく子犬の姿を見つけた。

子犬を連れ戻すべく、亀七も湿地に分け入りなんとか子犬を捕まえたが、出口の方角が分からなくなり途方に暮れていたのだ。

りんは、そっと微笑むと亀七を立たせた。

「さぁ、こっちよ。」

りんは自分が来た方向に向かった。

その時、上空から鷹の鳴き声が聞こえた。鋭く響くその声は、りんを戦慄させる。

「大変、亀七、走るわよ!!」

りんは亀七の手を取ると走り出した。

しかしものの数歩も進まぬ内に、りんは背後から強い風を感じた。振り返ると、翼長が3尺にも及ぶ大きな鷹が、鋭く長い鉤爪を亀七に向け、今にも突き刺そうとしているのだった。

「亀七っ」

りんは亀七をかばい覆いかぶさった。りんの右腕に焼けるような痛みが走り、頭上を鷹の影が通り過ぎる。

見るとりんの右腕が大きく抉れ、血が噴き出していた。

一旦は通り過ぎた鷹だが、再び上空で旋回すると再びりんを目掛けて降下してきた。

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