〈第2話〉千鳥のM-1キャッチフレーズは「岡山の暴れ馬」
風呂に張った湯にアタマまでつかり、あぶくにして息を吐き出す。
タイムリープ(タイムリープ?)したばかりの昼間と比べ、おれはだいぶ落ち着きを取り戻していた。
とりあえず、高校時代に1人暮らしをしていたアパートがそのまま残っていたのにはホッとした。
ここが本当に1997年の世界なのだとしたら、残っていたという表現は変なのだろうが、ともかくカバンのポケットに入っていた部屋の鍵でドアも開いた。よく覚えてないがタンスの中身や台所の調理器具なんかも元のままっぽい。確かゴミ置き場にセットで捨てられてたのを拾ってきたCDダブルラジカセとディスクマンもちゃんとある。
それから唯一、間違いなく元通りのおれのものだと言い切れるものがあった。
机だ。
どうして言い切れるかっていうと、これは今もおれが東京のアパートで使っているものだからだ。
高1のときに彫刻刀で刻んだブルーハーツのヒロトの名言「何をやるかは問題じゃない。大切なのはどんな風にやるかだ」の文字がフレッシュな状態なのを見て、思わず「おお」と声を上げてしまった。
もうここんとこずっと、輪郭のボヤけた刻み文字を見慣れていたものだから、めちゃくちゃ新鮮に思える。
これを彫り始めたとき、結構文字数が多かったことに気づきめんどくさくなり、もっと短い名言にしておけばよかったと後悔したんだったっけな。
上京するとき、なぜかこの机だけは捨てられなかったんだよなあ。
風呂から上がり、買い置きしてあったとみられる「うまかっちゃん」を作りながらおれは、信じるか信じないかに関係なく、当面は自分が過去に戻ってきたという前提で行動することに決めた。
だけど、もう死んでいるはずの小滝先生が生きていたわけだし、何から何まで、おれが高3のときのままとは考えないほうがいいかもしれない。現に今日、殴るはずだった吉川を殴ってないし。明日あらためて殴っておくか。
布団を敷く前に小さなテレビデオをつけて、今日が1997年4月21日の月曜日だということは確認した。ほかにもいろいろ調べたくてポケットからスマホを取りだそうとしたが、そんなものがこの時代にあるわけもないことを思い出した。家にはWi-Fiはおろか、パソコンもない。確か当時ピッチを持っていたはずなんだが見当たらない。「ケータイの番号教えて」「070の・・・」「いや、ピッチかよ」というやり取りを猫も杓子もやったもんだ。
うーん、ツイッターがあったら今日のトレンドを見てみたいが、もちろんそんなものもない。
布団に入って目を閉じ、どうやったら未来に帰れるか、明日ゆっくり考えようと思った。
いや、未来に戻る必要なんてあるのか。
別にやりたいこともないし、残してきた人もいない。だいたいおれ、死にたいとか思ってたんじゃなかったっけ。
だったら普通にこっちの時代で暮らしていってもいいのかもしれないな。人生やり直しってやつだ。
今回の人生では大学行ってもいいし。今から勉強すりゃ、どっか簡単なところなら受かるかな。キャンパスライフを楽しむっていうのもアリかもしれん。テニスサークルなんて憧れるもんな。
そっから卒業して、就職して、仕事して、お金稼いで、それから・・・
なんだかつまんなそうだな。あれ?おれ、タイムリープする直前にもこんなこと考えてたんじゃなかったっけ。過去に戻ったら、なんかしたいと思ってたような。
そうだ。
漫才だ。
おれ、過去に戻ったらまた漫才やりたいって思ってたんだ。確か。
あー、でも、20年間かけて大学ノートに書きためたネタ帳の54冊は、未来にあるわけだし。ていうか、54冊もあって、その中でまともに舞台にかけて生き残ったネタなんてたったの3本だからなあ。どんだけ才能ねえんだよ、おれ。手元にあったってしょうがないけど、東京のアパートの押し入れで埃かぶったままにしてあるのも、なんだかしのびねえな。
あっちのほうの3冊も机の引き出しに入れたままだしなあ。いや、そもそも、あっちの3冊は舞台ではできないやつだから。
何しろ歴代M-1決勝進出者さまたちの漫才台本だ。初代の中川家さんから最新のマヂカルラブリーまで、歴代チャンピオンのネタももちろん書き記してある。
うん?待てよ。それもタイムリープ前に考えたんじゃなかったか。
そうだよ、あのノートのネタ、この1997年の世界だったらできるんじゃないかよ。当のチャンピオンたちも、現時点ではまだ考えついてないだろう漫才なんだから、誰にもパクりだなんて言われない。霜降り明星なんて生まれてもないんじゃないか?
うー、最低なことを考えてしまった。
これも今日の昼というか、20年後の未来で思ったことのような気がする。未来でも過去でも現在でも、進歩がないやつだ。ところでこの場合、現在ってのはいつのことを指すんだ?
まあとにかく、人が一生懸命、血のにじむような努力をして作り上げた(作り上げる?)ネタを、自分のものとしてやるなんてあり得ない。そんなの地獄に落ちる所業だ。
だいたい、あのノートは東京のアパートに置いてある机の引き出しに入れたままじゃないかよ。
「・・・・・・・・」
あれ?
東京のアパートの机?ちょっと待て。その机って、この机じゃないか。
おれは布団をはね飛ばし、机にかじりつかんばかりの勢いで起き、引き出しを開けようとした。
ひょっとして。
いや、でも、それはないか。
引き出しは鍵がかかっていた。
ノートが見つかったら・・・いや、そんな都合のいい展開があるかよと思いながらも、鍵はどこだ!?と考え、おれの心臓は早鐘のように鳴りだしていた。
そうだ。椅子の下の小物入れだ。慌てて箱から鍵を取り出し、あたふたしながら引き出しの鍵穴に突っ込んだ。
「カタン」
乾いた音を立てて引き出しは開いた。
果たして。
そこには、表紙に黒マジックで「エムワン決勝ネタ」と書かれた3冊のノートが入っていた。
中身を確認しようと、はやる手でページをめくる。
おれの汚い筆跡で、鉛筆の文字が連なっている。
これだこれだ。最近じゃほとんど見返すこともなくなっていた1冊目。途中でページをめくる手が止まった。
これは、2003年の千鳥さんのネタだ。()の中に「岡山出身の暴れ馬」と書かれてる。今やテレビで観ない日はない天下の千鳥さんが、M-1初出場したときのキャッチフレーズってこんなのだったのか。
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大悟:あのやあ、お前小さいころ何して遊んどった?いうて、ワシ小さいころこんなことして遊んどったわ、いうて、じゃあ、それをちょっとやってみようか、っていう漫才あるやんか?
ノブ:うんうん
大悟:それをちょっとやってみようか
ノブ:下手くそか!
大悟:上手じゃ!
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やっぱり今見ても面白い。いや、今は2020年じゃなくて、1997年だから、「今見ても」ってのはちょっと変か。なんかややこしいな。
ともかく、この漫才のつかみのオリジナリティに衝撃を受けて、当時爆笑したのを覚えてる。
興奮してきたオレは、眠るのも忘れて、3冊のノートを読み返し始めた。