〈プロローグ〉
死にたい。
もう何もしたくない。
ネタも考えたくないし、舞台にも立ちたくない。とにかく漫才から離れたい。
2日前からメシも一切食っていない。ただリポビタンDをときどき飲んでいるだけだ。
無駄な20年を過ごしてきたものだなとあらためて思う。
いい時もあれば、悪い時もある。だけどいつも笑っていられるのが芸人だろ?売れる気配のない先輩たちは口癖のようにそう嘘ぶき、楽しそうにしているけれど、正直おれには自分が笑ってた記憶なんてない。
彼女が出て行ったこともこたえた。こんな安アパート、誰だっていつまでも住んでいたくはないものな。いや、もちろん、出て行った一番の原因はおれが情けないやつだからだってことも分かってる。
もう心が折れてしまった。だけどそれだけならまだなんとか、乗り越えられたかもしれない。
おれを呼び出した相棒が、ファミレスのすみっこの席にスーツ姿で座っているのを見たとき、初めてどうしようもない現実を突き付けられた気がした。
「就職、決まったわ」
何も言えなかった。
一番アツかった思い出はMー1ラストイヤーに準々決勝進出したことか、と相棒がつぶやく。
「くだらねえよ。何年前の話してんだ」
やっとそれだけ言い返した。相棒が、
「なんでだよ。準々決勝進出なんて、めちゃくちゃスゴイことじゃないかよ」
と反論してくる。
「やめるやつが何言ってんだ。職場でそんなこと自慢したら笑われるぞ」
「しねーよ」
チクショウ。なんだよ。なんで結婚式場なんかに就職すんだ。なに司会とかで芸人の経験ちょっと活かそうとしてやがんだ。
漫才を20年一緒にやってきた相方。いや、今となっては「元相方」とのやり取りをいくら反芻したところで現実は変わらない。
どこで間違えた?どこから間違えた?
あー、昔の映画みたいに、知り合いの博士が作ったタイムマシンで過去に戻るなんてことができたらな。そしたら、いつの時代からやり直すかな。そもそも、芸人なんてならないのにな。
適当に勉強して、適当な大学行って、適当な会社入って・・・。
だけど、それもつまらなそうだな。
いや、もし過去に行けたら。
その時点ではまだ誰もやっていない、未来の漫才をやるってのはどうかな。
ミルクボーイとか、ぺこぱのネタを20年前の観客がいきなり見たら驚くだろうなあ。それだけじゃない。アンタッチャブルさんでもチュートリアルさんでもブラックマヨネーズさんでも、どのコンビのネタだってやりたい放題じゃないか。M-1チャンピオンたちの漫才を自分のものだって顔しながら舞台でできる。そしたら、とんでもない天才が現れたってことになってめちゃくちゃ売れるぞ。
われながら最低なことを考えてしまった。
そんな夢みたいなこと起きるわけもないのに、くだらなすぎる。
だからおれはダメなんだ。
やっぱり死のう。
そういや昔、ダウンタウンと幼なじみだっていう有名な構成作家が「死にたくなったら、試しに息を止めてみたらいい」なんてこと言ってたな。
息を止める苦しさよりも、生きてることで受ける苦しさのほうが上回ってるなら、そのまま死ねるはずだから、とかなんとか。
ちょっとやってみるか。
でもそろそろバイト行く準備しなきゃいけないしな。
口をとじて、鼻をつまんでみる。
「ぶはあっっ!!」
30秒数えてすぐ、大きく息を吸い込んだ。
ダメだ。めちゃくちゃ苦しい。生きてる苦しさに耐えるより、息を止めるほうが余裕で大変だ。
バイト行くか。
アタマがくらくらする。
腹も減りすぎた。
そう思ったとき、目の前がぐりゃりとゆがんだ。
おいおい。なんだこれは。
ド素人が編集したユーチューブ動画の場面転換のように、視界がぐるぐる渦巻きだす。まじでなんだ。これって、ひょっとして、今からタイムリープとかできちゃうパターンなんじゃないか。またしても、そんなくだらないことを考えたところで意識を失った。失ったのだと思う。何しろ、そこで記憶が飛んでるんだからほんとのところは分からない。
どれぐらい時間がたったのか。ガヤガヤとした騒々しさが突然耳をつんざいた。
なんだろう。この態勢は。あれ?おれ、机に突っ伏してる?
と思った瞬間、「パーンっ!!」という音とともに後頭部をはじかれた。
「ってえ!」顔を上げる。
「いつまで寝てんだよ、長瀬、昼の放送はじまんぞ」
「いつもいつも、パカパカ人の頭たたくんじゃねえ。なんで学校にスリッパ持ってきてんだよ!」
そこまで反射的にしゃべったところで、おれは息を飲んだ。
たぶん、高校時代に何十回となく口にしたセリフがとっさに飛び出て、自分でも驚いたのだ。
目の前の山下が、、、、そう山下だ。今はすっかり髪も薄くなって酒屋の主人をしているはずの山下。面白くもないくせに、オッサンになった今でもお笑いが大好きな山下。
「・・・・・・・・・・・・」
なんでこいつ、学ランなんか着てるんだ。髪もふさふさじゃないか。肌もつやつやしてやがる。
気を失う直前にしていたくだらない想像が、おれに変な夢を見させている。
そう言い聞かせようとしても、あまりにもリアルな質感が体の周りを取り囲んでいた。
見知った顔のあのころの同級生たちが作り出しているこの喧噪は、まぎれもなく現実のものだ。
「3年E組」の標札と、自分の着ている学生服とを2回ずつ交互に眺め、おれは悟り、指を折って計算した。間違いない。
ここは1997年だ。