あるユダヤ人の裏切り 【『恒河沙の兄妹』シリーズ短編】
1
「すみません。次のバスはいつ来ますか」
フランツ・ヴュンシュマンはその声に反応を示さなかった。バス亭のベンチに座っていた彼は、杖で足元をつつき、黄土色の田舎道にツバを吐き出した。
フランツにはその声の主が誰なのか、検討がついていた。格式ばったドイツ語。正確に聞き取れるようにと配慮した、ゆったりとした口調。
――間違いない。例の探偵だ――
フランツは、十五分ほど前にこの田舎道を駆け抜けていったパトカーの群れを思い返した。パトカーは丘の上にある古城に向かっていた。彼らが目指す先には、ひとつの死体と、複数の謎が待ち構えていた。
ローレンス教授の死体が発見されたのは昨夜十時のことだった。
教授の胸に突き立てられたナイフは、古城の主たるクリストフ・フォン・コーネリウス伯爵が、長男であるルドルフの十三歳の誕生日に贈った骨董品であった。
非難の視線がルドルフ少年に集められた。
根拠となったのは凶器だけではない。死体発見現場。現場の周囲についていた特徴的な足跡。犬小屋から消えた犬。割れたブランデーの瓶。パーティでの教授とルドルフの口喧嘩。三日前に教授のもとに送られてきた脅迫状。五日前から鬱屈気味だった十三歳の少年。その他大量の、現場に残されたあらゆる証拠が、構造地質学の権威たるローレンス教授を死に至らしめたのがルドルフ少年であると物語っていた。
伯爵は世間体を気にして、警察への通報を怠った。彼は溺愛する息子が(よりにもよって彼の十三歳の誕生日に)殺人という罪を犯すはずがないと、信じて疑わなかった。そして、無能な警察は、ろくすっぽ調べもせずに、愛息子に手錠をかけるだろうと、これもまた信じて疑わなかった。
昨夜はルドルフ少年の誕生パーティのため、様々な客が古城を訪れていた。この中に真犯人がいるに違いない。そう考えた伯爵は、昨日の朝、古城を去ったひとりの探偵に連絡を取った。
「さすがのわたしも明日の朝には警察に通報せざるを得ない。頼む。それまでに戻ってきて、この事件の真相を解いてくれ」
電話口でそう懇願された探偵は空港のロビーで踵を返した。
しかし、どんなに急いでも、探偵が古城に舞い戻るのは翌朝の八時半になる。警察が古城を訪れるのは九時といったところか。探偵に与えられた時間は三十分。果たして探偵は広大な古城に留まる二十八人(!)の容疑者の中から犯人を見つけることができるのか。
「無理に決まっている」
田舎町の町民たちは丘の上の古城を見ながらあざけ笑った。
彼らには早朝のうちに、古城でのいきさつが全て知れ渡っていた。町の牛乳屋に買い出しに来た古城のメイドが口を滑らせたのだ。
町民たちは自ら警察に通報をするようなバカな真似はしなかった。
コーネリウス伯爵はこの町の実質的な権力者だった。古城を中心とした周囲三百キロメートル以内で就ける仕事が無くなることを望まない限り、彼の機嫌を損ねるようなふるまいを敢行する愚か者は、この町にはひとりもいなかった。
フランツは皺だらけの上着の内ポケットから懐中時計を取り出した。九時十五分。探偵は現場から追い出されたに違いない。たかが三十分で、二十八人の中から真犯人を見つけるなど、無理に決まっている。
探偵はバス停の時刻表を見つめていた。
フランツは長身の探偵をジッと見つめ、やがて声をかけた。
「中国人か」
探偵は振り返ると、フランツに向かって首を横に振った。
「いいえ。わたしは日本人です」
「ほぅ」
フランツの探偵を見る目が険しくなった。
「探偵だか何だか知らんが、この短時間に謎を解くことはできなかったようだな」
「いえ。謎は解けましたよ」
探偵がそういうと同時に、古城の方角からパトカーのサイレンが鳴り響いてきた。
何台ものパトカーがバス停の前を通り過ぎていく。その中の一台に、表情を青く染めたエリザ女史の姿が見えた。
フランツは目をカッと開いた。
「バカな。エリザが犯人なわけが……」
「いいえ。彼女が犯人です。ありとあらゆる証拠がそう語りかけてくれました。もちろん、彼女も自分の罪を認めましたよ」
「しかし彼女は、きみもわかっているだろう。彼女は目が……」
「あと二十分。のんびり待たせてもらおうかな」
探偵はフランツの横に座ると、一度大きくあくびをしてから、両目をくしゅくしゅと滲ませた。
「探偵さん。あんた、名前は……」
「恒河沙です。恒河沙法律と申します」
「GO……なんだって」
「難しいですよね。いいですよなんでも。好きなように呼んでください」
法律はカーキ色のリュックサックから財布を取り出し、その中身を確認し始めた。
フランツは落ち着きなく首を左右に振り、左手の指が木製のベンチを小刻みに叩きだした。
「なぁ、探偵さん。少しだけ、おれの話を聞いてくれないか」
「えぇ。かまいませんよ」
丸眼鏡の奥にある柔和な瞳がフランツを見つめていた。
「いや、その、友人としてではない。探偵として、ということになるのかな。おれにはあなたに支払える金なんてない。それでも、もし興味を持ってくれたのなら……。あなたを優秀な探偵と見込んでお願いする。五十年以上前の話で、もちろん真相なんて今さら、あぁだけれど、つまり……」
「落ち着いてください」
法律の大きな手がフランツの肩に置かれた。
「ゆっくり、落ち着いて。わたしでお役に立てる事でしたら、喜んでご協力させていただきます」
フランツは白い手で自分の腹をさすった。過去の苦悶がグルグルと腹の中で暴れているようだった。
フランツの左手の甲には、熟んだ石榴のような色をした六センチほどの傷跡があった。その傷跡は周囲の肉を無理やりかき集めたかの如く盛り上がっていた。
「あの事件それ自体が起きたことを知る者は、もうこの世にはおれしかいない。みんな死んだよ。犯人も死んだ。おれがこの手で殺したんだ」
法律の表情が曇ることはなかった。五十年以上前の出来事。いま自分がいる場所はドイツ連邦共和国。そしてこの老人の年齢を推察するに……
「そう。戦争中の話だ。味方にしろ、敵にしろ、殺し殺されるなんて当たり前の日常だった。おれも殺した。その犯人だけじゃない。何人もの無実のひとを殺した。どうして。そうだな。その質問に答えるには、当時のおれの配属先を答えるだけで十分だろう」
法律は老人の顔を見た。
白い肌。青い瞳。金色の髪。
純粋なアーリア人の血を引く老人は、頭を抱え込みながら口を開いた。
「おれは、アウシュビッツにいたんだ」
2
あんた何歳だ。二十歳? そうか。アジア人の年齢ってのは見た目からじゃわからんというけれど、あんたはそうじゃぁないな。見た目相応の年齢をしているよ。
二十歳なら強制収容所については知っているだろう。ベルリン、ワイマール、アメルスフォルト、ワルシャワ、マイダネク、マウトハウゼン。強制収容所はいくつもあったが、とりわけ有名なのはベルゼン・ベルゲンとアウシュビッツだろうな。前者はひとりの少女の日記のおかげで、後者はおれたちドイツ人の残虐性が顕著に集約されたおかげで、世界中にその名が知れ渡ったわけだ。
『ARBEIT MACHT FREI』と掲げられた鉄の門。赤茶けたレンガ造りの建物。何重にも連なって立つ鉄条網。威圧的に見下ろす見張塔。影のように付きまとう探照灯。枯れ木のようにやせ細った収容者たち。灰色の建物から灰色の煙が灰色の空へと絶え間なく吸い込まれていく。
何でもいいから、『地獄』と聞いてひとつ景色を想像してくれ。したか? よし。その五万倍ほど残酷の色を濃くしたのが、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所ってところだ。
その日おれはアウシュビッツのプラットホームで、いつも通りの仕事をしていた。目の前を男女二列の縦隊がずらりと並んでいる。
おれの横にいたSSの将校がひとりひとりの外見を見ながら『お前はこっち。お前はこっち』と指を左右に振っている。世にも有名な存在と非存在の振り分けだ。
おれは小銃を構えながら目の前のユダヤ人たちを眺めていた。ユダヤ人たちは目の前の無骨な建物に怯え、この振り分けに何の意味があるのかと、列車内に置いてきた我々の荷物はどうなるのかと、ぼそぼそと繰り返しつぶやいていた。
おれはその全てを無視した。それはおれの仕事ではなかった。彼らをなだめるのは、いまだにその身体の中に良心を残し続けている新兵の仕事だった。列を乱したり、外套の下にこっそりと荷物を隠し持っているようなやつを銃床で殴りつけること。それがおれの仕事だった。
無表情でいること。それがこの仕事をする上でのキモだった。おれはサディストじゃない。楽しくて彼らを痛めつけたわけじゃない。いっておくがこれは言い訳じゃないぞ。『お前らナチスは楽しんでひとを殺していたんだ!』。それは誤解だ。多くのやつがこの異常性を理解していない。いいか。サディストの集団が暴力をふるうのはおかしいことではない。問題は、サディストではない集団でありながら、おれたちは暴力をふるったということだ。肉食獣が獲物の肉を喰らうのは当然だ。しかし、草食動物でありながら他の動物の肉を喰らうなんて、そんなことはあり得ない。そのあり得ないことが、あの鉄条網の中では自然と起きていたんだ。
その自然のなかで仕事を遂行するのに有用なのが、無表情でいることだったわけだ。感情を沈め、これが自分の仕事だと強くいい聞かせる。歯車に油をさすようなものさ。事実、あのころ、仕事をしながらおれは頭の中で延々とこんな言葉を呟き続けていた。『回転に滞りなく……回転に滞りなく……回転に滞りなく……』
だがおれの歯車は、列に並ぶひとりのユダヤ人の顔を見てギシリと不快な音を立てた。
おれは小走りでその男に近づいた。ユダヤ人たちが、殴られるのではないかとビクリと身体をこわばらせた。だがその男はおれが近づいても身体を動かさず、まるでこの現状のすべてを受け入れているかのような達観したたたずまいをしていた。
「先生」
おれは男に声をかけた。
男は黒い瞳でおれを見たが、なにもいわなかった。
だがおれはその顔を間近で見て確信した。その男は先生だった。子どものおれにたくさんのことを教えてくれたあの先生だった。
無精ひげの奥に土色の肌。白髪交じりの頭髪はボサボサに伸びており、ちょっとした風にも吹き飛ばされそうなほど身体はやせ細っていた。
彼の目じりの皺が時の流れを教えてくれた。おれが最後に先生と別れた時、彼は四十歳くらいで、『老齢』という言葉を感じさせる外的性質はなにひとつ備えていなかった。
時間をさかのぼって、おれと先生との話をしよう。
おれが生まれてすぐ、おれの両親はボンからドイツ西部にある小さな田舎町に引っ越した。おやじが勤めていた会社が繊維工場を開設してな、そこの所長におやじが任命されたわけだ。
いい町だったよ。農畜が主要産業の町でね、おやじの会社が新しい工場を作るといってもイヤな顔ひとつすることなかったそうだ。実際、おれはまわりの子どもたちから、生まれが違うからといって、からかわれるようなことは一度もなかった。おとなたちだって、おれを町のこどもとして愛してくれていた。
おれが十歳のときのことだ。
学校にひとりの新任教師がやってきた。
目のくぼんだその男は、教壇の前で自己紹介をした。中肉中背の、言葉数の少ない野郎だった。自分がどこの生まれなのか、この田舎町に来る前はなにをしていたのか、どんな熱意をもって教育者の仕事に従事していくのか、そういったことを語ることなく、ただ自分のフルネームを名乗り、よろしく頼むと子どもたちに向けていった。
名前か。悪いが、いいたくない。あんな男の名前、口に出すのも忌々しい。おれはあの男を先生と呼んでいた。だからあいつは先生だ。それでいいだろう。
先生は静かな男だった。笑顔なんて見せることはないし、ジョークなんてもってのほかだ。朝には誰よりも早く学校に来て、夜には誰よりも遅くまで学校に残る。何をしているかというと、授業の準備を熱心におこなっているわけだ。
家は町の外れにある一階建ての空き家だった。住人達もその存在を忘れていたようなぼろい空き家を買い取り、休日には大工を呼んで、その家を改築していたよ。
「ずいぶん手先の器用なひとだな」
大工のローゼンベルガーさんは先生のことをそう褒めていた。先生は改築作業を大工に一任したわけではなく、彼も実際に工具を駆使して仕事にとりかかっていたというのだ。
「大工ではないと思うけれど、以前は職人だったんじゃないかな」
ローゼンベルガーさんの予想は大きく外れた。
先生は誰もがその名を知る、フランスの名門大学で助教授のポストを勤めていたのだ。
「先生。大学の先生だったんですね」
少年のおれは無神経な態度で先生にいった。
「どうして辞めちゃったんですか」
「簡単にいえばだね」
先生は手元のプリントを見つめた。
「ぼくはただ、教育がしたかったんだよ」
おれは先生の言葉に『なるほど』とうなずいた。
教育がしたかった。その言葉は、先生の教師としての性格を裏打ちするには十分すぎるものをもっていた。
先生は授業中、ひとりの生徒が分からないことがあると、その場で立ち止まり、その生徒が完全に理解するまで時間をかけて教えた。
ある日の数学の時間のことだった。子ども相手にどうしてそこまでやるのか。学校で得た知識なんて、おとなになればほとんど忘れてしまうじゃないか。平方根の問題に頭を悩ませるおれは、そんな風に先生に反発した。
「忘れてもいいよ」
先生はけろりとそういってのけた。
ポカンと呆けた表情をしているおれに、先生は次の言葉を繰り出した。
「忘れてもかまわない。ぼくがきみたちに教えたいのは『考える』と『理解する』というふたつの経験だ。このふたつは君たちがおとなになり、どんな世界に羽ばたいていくにしても、必要となる。だから、このふたつを経験したら、ぜんぶ忘れてもいいよ」
SSにいるあいだ、おれは何人もの学者と会って話をする機会を与えられた。話してみて思ったね。なるほど。先生はこいつらとは違う。先生の考え方はあまりにも実践的すぎる。稼げる教授ってやつは、理論を振り回し、その輝く理論に、人を寄せ付けるやつのことをいうんだ。先生にはそれがなかった。あのひとには光輝く『理論』がなかった。あんなやつ、大学を追い出されて当然だ。もっとも、だからこそ、彼は教師に向いていたとおれは思うがね……
町には一軒の酒場があった。
仕事を終えた男たちはみな、その酒場に集まった。ほとんどの男が冷えたビールのことを頭に浮かべながら昼間の仕事をしていたわけだ。
しかし先生はこの町に来てから一度も酒場にはこなかった。
「酒場にはいかないの?」
少年のおれはまたしても無神経な態度で先生にいった。
「いかない」
「お酒が嫌いなの?」
「嫌いじゃない」
「じゃあどうして?」
先生は教科書のページの右上を丁寧に折りたたんだ。
「ぼくはこの町の人間じゃないから」
先生と町の住民たちとの間には距離があった。その距離という精神的空間には嫌悪なるものはこれっぽっちも浮き立ってはいなかった。そこにあるのは遠慮だけだった。時代が時代だ。町のおとなたちはまともな教育を受けずに育ってきた。学者先生とは育った環境が違う。そんなコンプレックスを、外には出さなかったが、町のおとなたちは内に秘めていたんだと思う。先生もそれをわかっていたんじゃないかな。
そんな先生と町のみんなの距離が一気に縮まるある事件が、ある年の春に起きた。
町の西にある山脈から吹きおりてくる強風が、家の窓ガラスをガタガタと激しく叩いていた。投げたボールも風に押されて明後日の方向に飛び去ってしまうほどだった。おれは家の中にこもり、窓から晴天を苦々しい表情で見つめていたよ。
そんな時だった。窓の外から、何か巨大なものが崩れる音がした。
断続的に続くその音におれはうろたえた。母親に声をかけようと振り向いた瞬間、かん高い悲鳴が外から聞こえ、おれは外に飛び出した。
おれがそこにたどり着いた頃には、すでに町のおとなたちが集まっていた。
ローゼンベルガーさんの家の前に、横に長い建築用の資材が散乱していたのだ。資材置き場に立てかけてあったものが、強風に吹かれて倒れたらしい。
幸いなことにけが人はいなかった。おっと。それじゃあ少年のおれが聞いた悲鳴はなんだったのかって? まぁよく聞けや。けが人はいなかった。そう。けがをした人はひとりもいなかったんだ。
「かわいそうに」
鍛冶屋のティッキネンさんがしわがれた声を絞り出した。
おれは人ごみをかき分けてそれを見た。ローゼンベルガーさんの隣に住んでいる町長の家の番犬が、地面の上にふさぎ込んでいた。
犬の名前か。リリだ。町長のエアハルトさんがどこかから拾ってきた雑種犬だよ。そうだ。おれが窓辺で聞いた叫び声はリリのものだった。庭にいたリリの両脚は倒れてきた資材に押しつぶされたんだ。
リリは生きていたが、両脚がグニャリと折れ曲がっており、彼女はクンクンと物悲しい声で鳴き続けていた。
「こうなっては治りようがない。殺してあげた方がこいつのためだ」
エアハルトさんがそういうと、彼は息子のティルに倉庫から斧を持ってくるようにいった。残酷だなんていってくれるなよ。子どものおれだって町長の判断には納得していた。片足じゃねえ。両脚がやられたんだ。走り回ることも、じぶんひとりで立ち上がることさえできない。だったら、生きることの苦しみから解放してやるのが本当の優しさってもんじゃないのか。
ティルが斧を持ってきた。
エアハルトさんはそれを受け取り、ためらうことなく振り上げた。
リリは逃げようとはしなかった。自身の運命を当然のこととして受け入れているかのように、おれは見えた。
「待ってください」
切実さがにじみ出る叫び声が降り注がれた。
町のひとたちは声のした方に振り向いた。
そこには強風に顔をゆがめる先生が立っていた。
ゼイゼイと身体を上下に震わせながら、先生はリリのもとへ近寄った。その手には黒カバンが握られていた。
「先生、あんた……」
「ちょっとだけ、待ってください」
先生は黒カバンを開いた。おれは興味からその中をのぞき込もうとしたが、先生は注射器を取り出すと、すぐにカバンを閉めちまった。
素早い手つきだった。『何をする』と口にする間もなく、先生はリリの両脚に注射を打ち込んだ。
ほどなくしてリリは瞳を閉じた。先生は麻酔を打ったんだ。
「町長さん。この子をわたしに売ってください」
「金なんていらないよ」
エアハルトさんは感情のない声でいった。
「先生にあげます。だけど、なんだい。先生も酷いことをする。歩けなくなった犬を生かすなんて、その方がよっぽど残酷だとわたしは思うけれどね」
先生は眠るリリを家へと連れていった。
「どうするつもりですか」
おれは先生の家までついていった。リリの身体を抱きかかえる先生は、扉の奥に消える前にこういった。
「明日の朝。ここに来なさい」
翌日。おれは先生にいわれた通り、彼の家を訪れた。
家の中には爪を立てる音と木片が床をこする音が響き渡っていた。おれを驚かせたのはその音だけじゃなかった。廊下の奥から何か不思議な物体が逆光を伴って近づいていくる。その物体は『ワゥッフ』と元気に叫びやがった。何ていうことだ。それはリリだった。昨日は死神とあいさつを交わしていた一匹の犬が、おれの両脚にその身体を押し付けているじゃないか。
「おはよう」
先生が廊下の奥から声をかけてきた。
「な、なんですかこれは」
あいさつも忘れておれは疑問符を口にした。
おれはもう一度リリをみた。正確にいえばリリの両脚――切断された両脚がすっぽりとはまっている、二つの車輪が両端についた木片をみた。
「犬用の車いすだよ。義足といったほうがいいのかな。まぁとにかく。補助歩行装置。まだ試験段階だけどね」
リリが身体を左右に揺らすと、包帯に包まれていた両脚が車いすから抜け落ちた。
リリはクンクンと鼻を鳴らしながら車いすに噛みついた。
「あぁ。やっぱりだめか。ほら、おいで」
先生はリリを抱きかかえると、おれにその車いすを持ってくるよう視線でうながした。
「昨日はあれから、家に戻って麻酔で眠るリリの両脚を見たんだ。粉砕骨折。完治は不可能だ。だから両脚は切断した。麻酔から覚めたリリは自分の両脚が無くなり、満足に歩けないことに気づいて鳴いていたよ。そしてぼくは……パンと水を彼女に当てがった」
「は?」
「彼女は……パンを食べ、水を飲んだ。彼女はまだ生きている。彼女には生きる意志があるんだ」
「生きる意志……」
「そうだ」
先生はジッとおれの目を見据えた。
「生きる意志がある。ならばぼくは協力しよう。できる限りの助力を惜しまない。生きる意志があるならば、生きていてほしい。ただ、それだけなんだ」
数日かけて先生はリリの車いすを完成させた。先生は町長からリリの犬小屋をもらい受け、それを家の前に置いた。首輪をつけたリリは杭にリードで繋がれ、この家の第二の住人となったのだ。
おっと。先走ってもらっちゃ困る。先生は何もこんな博愛主義を以てして町民に愛されるようになったわけじゃない。東京のぼっちゃんには分からないかもしれないがな、ドイツの田舎町ってのはとにかく実利的なんだ。何らかの利益をもたらさなければ愛されることはない。
ことが起きたのはそれから半年後のことだ。
夜。おれは不自然な音に目を覚ました。家の前の石畳を木片が叩く音が聞こえる。
眠気に頭の周りを支配されていたおれは、その音について深く考えることなく、再び枕に頭を沈めた。
それからほんの数分後のことだ。今まさに眠りに落ちようとしていたところに、耳をつんざかんばかりの悲鳴が聞こえてきた。
一度だけじゃない。二度! 三度! 四度! 五度! 絶え間なく繰り返される鳴き声が田舎町に轟いた。
意識を覚醒させたおれはその鳴き声が犬のものだと気づいた。数分前に家の前で鳴り響いた木片の音があたまをよぎった。その鳴き声がリリのものだと気づいた次の瞬間、おれはベッドから飛び出していた。
家の外に出ると、おれと同じく鳴き声に気づいた町の人たちが、外路をきょろきょろと見回していた。
繰り返される鳴き声。その音は先生の家とは反対の方角から聞こえていた。
おとなたちは鳴き声が聞こえる方向に駆けだしていった。おれもその後を追って走った。
走り続けているうちに、おれは自分がどこに向かっているのか、リリの鳴き声がどこから聞こえてくるのか気づいた。金色に輝く月が町の南にある丘の上を舞台のように照らしていた。ヘルツフェルトさんの牧羊場!
リリの鳴き声がぴたりと途切れた。
おれは丘の上に通じる坂道を全力で駆けあがった。
坂道を上ると、いつか見たような景色がそこにあった。牧羊場の柵の周りにおとなたちが集まり、彼らの視線が足元の一点に集められていた。
そこにはぐったりと横たわるリリがいた。
リリの身体中に泥のあとがついていた。口から大量の血を吐き出しており、その出血量はおびただしく、彼女が既に死神との再会を果たしたことは明らかだった。
「ダメです。逃げられました。トラックにはさすがに追いつけません」
牧羊場の横を走る道路から数人の青年が戻ってきた。
「そうか。ありがとう。しかしまさか、こんな田舎町に羊泥棒が現れるだなんてね」
ヘルツフェルトさんはその場にしゃがみこむと、リリの身体をそっと撫でた。
「この子のおかげだ。この子がわたしたちを起こしてくれなかったら、今頃、わたしの大切な財産は泥棒の手に渡っていたに違いない」
おれはリリの首輪に繋がったリードを見た。リードの先端は毛羽立っており、リリが自分で噛み千切ったことを示していた。
「なにがあったんですか」
寝間着姿の先生が息を切らせて現れた。
言葉はいらなかった。先生はリリの姿を見ると『あぁ……』とつぶやき。目を閉じた。
「もしわたしがあの時リリを殺していたら――」
エアハルトさんが左腕をさすりながらいった。
「今頃、ヘルツフェルトさんの羊はあの不届きもの達にそっくりそのまま盗まれていたことでしょう」
「先生。ありがとう。本当にありがとう」
ヘルツフェルトさんは先生の両手を強く握りしめた。
先生は首を横に振って手を引くと、血にまみれたリリの身体を抱き上げた。
「礼ならこの子にお願いします」
「あぁ。もちろんだ。本当に、本当にありがとう。きみは勇敢だったぞ」
リリの遺体はヘルツフェルトさんの手で先生の家まで運ばれた。
ヘルツフェルトさんと先生はふたりで庭に穴を掘り、リリを埋葬した。
朝になると、町は昨晩の羊泥棒の話で持ちきりだった。そして午後になると、その話にひとつのエピソードが追加されることになった。すなわち、町一番の富豪であるヘルツフェルト氏が、身を呈して泥棒から羊を守ったリリの飼い主に、感謝の印として、0・8カラットのダイヤモンドが付いた指輪を贈ったというのだ。
「いただけません」
学校を訪れたヘルツフェルト氏に、先生が指輪を突き返すところをおれは窓の外から見ていた。
「わたしが何かをしたわけではありません」
「いや。受け取ってもらわないと困る。きみの犬の勇敢な行為にはこのダイヤモンド以上の価値がある。彼女はわたしの大切な財産を守ってくれた。そしてその財産は、長い目で見ればこのダイヤモンド以上の金を生み出すことになるだろう。本音をいえば、こんな石ころでは割に合わないくらいなのだよ」
「しかし……」
「それともなんだね。きみは、あの犬の行いが、このダイヤモンドほどの価値もないというつもりかね」
先生は渋々と指輪を受け取った。
わかるだろう。町の有力者であるヘルツフェルト氏が先生のことを認めたんだ。この一件があってから、先生と町民との間の距離が縮まった。先生は仕事帰りに酒場で一杯のビールを飲むことが毎日の習慣になったわけだ。
話が長くなっちまったな。本音をいえば、こんな田舎町のくだらないエピソードなんてどうだっていいんだ。
大切なのはこれだけだ。先生は指輪を手に入れた。ダイヤモンドが付いた指輪をあの野郎は手に入れたんだ。
そしてある意味じゃ、この指輪のせいでおれは今でも苦しんでいることになるわけだ。
3
十四歳の夏におれは田舎町を離れることになった。
栄転といっていいのかな。ベルリンに住むおやじの友人の家に養子として引き取られることになったんだ。
その家は軍人一族の家系だった。おれも成長してからは国防軍に入ってお国のために働くのかと期待に胸をふくらませたよ。第二次成長期を迎え、根拠のない自信を抱いていたのかもしれない。おれはこんな田舎町で終わるような人間じゃない……てね。
町を去る時におれは先生にあいさつに伺った。先生はおれが軍人になることを強く反対していた。
「軍人になるなんて、死にに行くようなものじゃないか」
おれは死ぬことはなかった。その逆だ。おれは死をもたらすものになった。
ベルリンでの新しい生活が始まった。新しい家族も、新しい家も、何もかもが事前に聞いていた通りのものだった。唯一違ったのが、軍人一族のこの家が、つい一年前に、国防軍から勢力を増加させていたナチス党に鞍替えしていたってことだ。
政治に疎いおれは国防軍とナチス党の違いについてそれほど深くは理解していなかった。国防軍は古参でナチスは新参。どちらも国のために戦っているには違いないと、その程度にしか思っていなかった。
厳しい審査をパスして、おれはナチス親衛隊に入隊した。あのころのおれは自分が無敵と信じて疑わなかったよ。歯車は滞りなく回転を続けていたわけだ。
やがて時勢は第二次世界大戦に突入していった。おれはいくつかの戦場を経験したあと、ポーランドのアウシュビッツ収容所へ配属されることになった。ヒムラーのユダヤ人抹殺命令が下ってから約二年が経っていた。おれたち親衛隊は『ユダヤ人の生物学的基礎を破壊する』ことに真摯に取り組んでいた。当時はそれが正しいと信じて疑わなかった。
おれは収容所の受け入れ部隊の仕事をこなしていた。あぁ。やっと話が最初のところに戻ってきたな。さぁ、前に進もう。
おれは男女二列に並ぶユダヤ人たちを、ぼぅっと呆けた視線で見つめていた。
今日は何人の収容者に『クソくらえ!』と唾を吐くのか、何人の収容者の頭を銃床でぶん殴ることになるのか。お得意の無表情のままぼんやりとそんなことを考えていると、先生の姿をその列の中に見つけたんだ。
「先生」
さきにいった通りだ。いくらか老けた先生は、ぼんやりとおれを見つめるだけで、何も言葉を返さなかった。
その時になって始めて、おれは先生がユダヤ人であることに気が付いた。この時点でおれは何人ものユダヤ人を殺していたが、彼らが少年の頃の自分に様々な知識を与えてくれた恩師と同類の人間であるとは、一度として気づくことがなかった。目の前の憎しみと、荘厳なる過去を一致させることができなかった。もしかしたらおれが今まで手にかけてきたユダヤ人の中には、かつておれが友と呼んだ男がいたのではないか、淡い恋心を抱いた女がいたのではないか。そんな不安にズキズキとおれの心は軋みをあげた。
「先生、どうして……」
「フランツ」
うしろからおれを呼ぶ声がした。親衛隊将校がおれを怪訝な表情で見つめていた。
その声がおれの心を過去から現在により戻した。
「すみません。なんでもありません」
おれは振り返り、将校のもとに戻ろうとした。
そのとき、軽く握りしめたおれの右手に、何か小さな塊が押し込まれる感触があった。
小走りに駆けながら、おれは右手の中に目をやった。
そこには、ダイヤモンドが付いた指輪があった。
『振り向くな!』 おれは自分にそういい聞かせ、平静を装って将校のもとへ戻った。
遠くから先生を見つめたが、彼は何事もなかったかのようにぼんやりと正面を見つめているだけだった。
おれは先生の意図を読み取ろうと必死だった。先生は知っていたのだ。このあと、収容者たちは身に付けているものを全て没収される。衣服から靴、更にはその髪の毛まで。宝石のような高級品が例外なはずがない。だからだ。だからおれに預けたんだ。知己のおれに預かっていてくれと、いつか返してくれると信じて、おれに預けたんだと。
当時のおれは、先生が自分を信頼していると、信じて疑わなかった。そんなはずがないだろう。相手はユダヤ人で、おれはナチスだ。先生はおれを憎んでいた。かつての教え子を憎んでいた。指輪をおれの手の中にねじ込んだのは、あいつの作戦だった。あいつはおれを利用した。ナチスの制服を着ながら、好意の視線を送るおれを利用したんだ。鉄条網の内側で返してくれると期待して、おれに指輪を預けたんだ。
将校が指を振りながら存在と非存在の振り分けを続けている。先生はこの試験をパスするだろうか。まだ先生のことを信頼していたおれは、将校の指をジッと見つめていた。
右、右、右、左、右、右、右、右、右、右、右、左、右、右、右、右、右、右……
列に並んでいた先生がゆっくりと近づいてきた。おれは先生を見ながら不自然に背中を伸ばした。胸を張れ。健康そうに見せるんだ。そうすれば『左』に行ける……
おれの思念が通じたのかどうか、先生は『左』に、つまりは『存在』の道へと進むことができた。『右』のひとたちは数時間後にはガスの餌食になり、火葬場の煙突から灰色の空へと飛び立っていった。
先生は生き続けた。劣悪な環境で……『地獄』の残酷さを五万倍ほど濃くした環境で生き続けていた。
おれは何とかして先生に指輪を渡したかった。だができなかった。怖かったんだ。もう一度先生と会うことが、先生に『そんな制服を着て何をしているんだ』と叱られるのが怖かったんだ。
少年のおれは『先生に指輪を返せ』と強く主張し、青年のおれは『ユダヤ人に慈悲?』と鼻で笑っていた。どちらも正しかった。どちらも正しくおれだった。ときどき、意図せず先生の姿が視界に入ると、おれの心の中で安堵と嫌悪が入り交ざり、聖とも邪とも名付け難い感情が腹のなかで暴れまわった。
さてと。ここでアウシュビッツ収容所で起きたとある殺人事件の被害者を紹介しよう。
名前は、いわなくてもいいだろう。正直、口にしたくもない。調べればわかる。保護拘禁所長……そうだな。所長殿とでも呼ぼうか。あぁ。誤解してもらっては困る。所長といっても、彼は収容所の最高責任者というわけではない。最高責任者は強制収容所所長の名目で別にいるよ。説明はめんどくさいな。ま、幹部のひとりだとでも思ってくれればいいさ。
さきほどおれは自分たちを『サディスト』じゃない。といったが、少しばかり訂正させてくれ。自分たちのほとんどはサディストじゃない。中には根っからのサディストもおり、むしろ彼らが率先して収容者たちを痛めつけることで、おれたち一般人もまた同じふるまいに抵抗を抱かなくなったわけだ。
所長殿は典型的なサディストだった。他人の苦痛を自分の快楽に、ただの快楽じゃない。純粋な快楽に転換できる異常者だった。
そんな彼には、アウシュビッツにおいて時折行う『悪趣味』があった。
アウシュビッツのガス室で毒殺された収容者の遺体は、髪を切り取られ、金歯を抜かれると、昇降機に乗せられ、上の階で熱してあるかまどで焼かれることになる。
『悪趣味』をしようと決めた所長殿は、そのかまどへ行き。複数あるかまどのひとつを見てこういうんだ。
「このかまどは壊れているんじゃないか」
それが合図だった。その日……所長殿が命を落とすことになるその日も、彼は意気揚々とその合図をくちにした。
かまどにいたおれたちの動きは素早かった。ひとりはすぐにかまどの火を落とし、ひとりはすぐにトラックの手配をし、ひとりはすぐに、ギロリと周囲を見渡し、その場に所長殿の『悪趣味』を上告するような裏切り者はいないだろうな、とにらみを利かせた。
かまどの火を落とすと、作業効率が落ち、時間内に焼ききれない死体がでることになる。収容所の死体は即時焼却処理をするのが、ヒムラーからの絶対的な指令だった。それに背いているなんてことがバレたら……まったく。考えるだけでもぞっとするね。
おれは手配されたトラックを取りにいく仕事を志願した。不穏な空気が漂うかまどから逃げ出したかったんだ。
扉を開き、ツンと澄んだ外の空気が鼻の頭をかすめた瞬間、後ろから所長殿がSS隊員のカールにこう指示するのが聞こえた。
「学者をふたりだ」
いやな予感がした。
トラックに乗ってかまどまで戻ると、おれはカールに声をかけた。
「学者ってなんだ」
カールはニヤリと笑った。所長殿はもうそこにはいなかった。
「朝いちばんの会議で、大学教授あがりの野郎にここの運営状況を大いに馬鹿にされたらしいよ」
なんとも幼稚な話じゃないか。だがおれには彼の様に、この事実について笑っている余裕はなかった。
「それで。ふたりの学者ってのは決まったのか」
「あぁ」
カールは手元のメモ用紙をチラリと振ってみせた。
おれはそれを見てギョッとした。そこにはふたつの囚人番号が書かれていた。間違いない。ひとつは先生のものだった。
「ふたりとも学者なのか」
おれは自分の口調が不自然なものにならないよう気をつけた。
「こっちは現役の。こっちのやつは、フランスの大学で教鞭をとっていたことがあるらしい。こいつらを護送する役目まで請け負っちまった。まったく。難儀なことだよ」
「代わろうか」
おれの言葉にカールはぐるりと目を丸くした。
「その仕事。代わろうか」
「いいのか?」
おれは目の前の男の瞳をのぞいた。疑念の色はないか。怪訝の色はないか。そしておれの瞳は……目の前のこいつに、おれの瞳はどんな色で映っているのか。
「前に夜勤を代わってもらったことがあっただろう。借りは早く返しておきたい」
そんな借りはなかった。だがカールはおれが何か勘違いしていると思い込んだのか、『頼むぜ』といってメモをおれに差し出した。
午後になると、おれは仕事を抜け出して先生のもとへ急いだ。先生は収容所郊外で排水溝造りをしている一団の中にいた。
SS隊員やカポーに監視されながら、固まった土を掘り起こす集団のなかに先生はいた。
荒い呼吸を落ち着かせようと胸に手をあてた。五回ほど深呼吸をしてから、おれは他のSS隊員がそうしているように、ときおり小銃の銃床をコツコツと指で叩きながらあたりを周回した。
収容者たちは交代で休憩をとっていた。そのタイミングが先生と接触するチャンスだった。先生が収容者用の小さなストーブにふらふらと近づいてきたとき、おれは彼の身体を乱暴に引っ張った。
「こっちにこい!」
ゾクリとしたね。彼の手首を掴んだおれの親指と人差し指が簡単に重なり合っちまったんだ。それほどまで彼はやせ細り、灰色の身体はほんの少しこづいただけで、砕け散ってしまうのではないかと思うほど弱々しかった。
ユダヤ人の腕を引くおれの姿を見ても、同僚たちは何もいわなかった。収容者たちは憐みと『自分でなくてよかった』という安堵の視線を向けるだけだった。彼らにとってこれは珍しい事ではなかった。理不尽にふるまわれる暴力は日常でしかなかった。
おれは先生を小さな掘立小屋に放り込んだ。
「すいません、先生。大事な話があるんです」
おれは小屋の中にある木片や鉄材を足元に乱雑に投げつけた。破壊の音が室内にこだまする。時折『クソくらえ!』と叫ぶのも忘れなかった。
「先生。聞いてください」
室内にある『先生』以外の全てに暴力をふるいながらおれは語った。所長殿の『悪趣味』についてすべてを語った。
「先生はぼくが助けます。どうか、ぼくを信じてください」
先生は表情を変えることなくおれを見つめていた。瞳に色はなかった。希望も絶望も歓喜も焦燥もなにもなかった。ただ彼は無色の瞳でおれを見つめていた。
先生はひとこと、つぶやいた。
「指輪を」
おれはポケットに手を突っ込んで、手のひらに収まる大きさの革袋を取り出した。
その中には先生から預かっていたあの指輪が入っていた。おれはこの革袋を肌身離さず持ち歩いていた。いつでも先生に渡せるように。そしてそれは、先生が常にそばにいるという、お守りとしての効用も果たしていた。
先生は革袋から指輪を取り出すと、それをぼろ布のようなシャツのポケットにそっと入れた。
「先生……」
先生は何もいわず小屋の扉へ歩き出した。
おれは先回りして扉を開けると、外からの視線を浴びながら、乱暴に先生の腕を引っ張った。
「いったいどこに連れていくつもりなんだ」
先生と違って、もうひとりの学者はよくしゃべる男だった。といってもこれは特別珍しいことではない。その男は分かっていたのだ。この異常性を、これから自分の身にふりかかる恐怖を予期していたのだ。その動物的直観を以ってして……
「疲れているんだ。おれにお前を殴らせるような真似はやめてくれ」
おれの横にもうひとりSS隊員がいた。名前はヘルベルト。おれと同じで特徴のないつまらない男だよ。外見? 案山子でも想像しておけ。
ヘルベルトは小銃の先で学者の背中を突いた。学者の男……たしか名前はレナードとかいったかな。バイエルンだかどこかの大学で、哲学を教えていたらしい。ドアノブみたいに出っ張った鉤鼻を鳴らしながら、ひぃひぃとうめき声をあげていたよ。
レナードと違って、彼の前を歩く先生は大人しかった。
雲ひとつない夜空の下、月光に照らされながら、おれたち四人は収容所の西端に向かって歩いていた。
「あれだ」
ヘルベルトは小銃の先でその建物を差した。
そこには車庫があった。
横幅が六メートルで奥行が十メートルといったところだな。当時この車庫は『悪趣味』以外に使用されることはなく、その中には何ひとつものが置かれていなかった。収容所のなかにはこの車庫の存在自体を知らないやつもいたんじゃないかな。
車庫の正面は両開きの大きな木扉になっている。この扉は外側から巨大なかんぬきで閉められていた。
車庫の後ろ側からのそりと所長殿が現れた。その表情は卑下な笑いに拡がっていた。
車庫の裏側には一枚の鉄扉があり、おれたち五人はそこからなかに入った。
「前に進め!」
所長殿は声を荒げた。
照明のない室内をふたりのユダヤ人が歩いていく。
ふたりが倉庫の中央に達したあたりで『点けろ』と所長殿が口にした。
ヘルベルトが車庫の外側にあるスイッチを押すと、高い天井に備え付けられた照明が、室内を照らした。
「え……わ、うわぁ!!」
レナードは土砂利の床に尻もちをついた。
先生は立ったままそれを見つめていた。彼はレナードのように動揺するそぶりは見せなかったが、両の目がカッと開くのをおれは見逃さなかった。
「感想をお聞きしたいね」
所長殿は一歩、二歩と足を進めた。
「これがお前たちの明日の姿だ」
使い捨てられた車庫の壁側。かつては雑多な工具類が大量に置かれていたであろう、二段の棚。
その棚に、今日の午前に焼かれなかったユダヤ人たちの死体が乱雑に押し込まれていた。
眼窩を開く死体がこちらを見つめている。苦悶の形をした五本の指が空を掴んでいる。あるものは頭から、あるものは足から、棚の上下段に、もののように詰め込まれた死体たち。そこには人としての尊厳など、これっぽっちもなかった。
「感想を聞かせろといっているんだ」
所長殿は乗馬用のムチを取り出した。
「悲鳴は聞き飽きた。感想だ。先生方。学識高い感想をお聞かせいただけませんか」
所長殿はレナードと先生をムチで痛めつけた。
レナードは積まれた死体とは反対側に逃げようとした。所長殿は彼の腕を掴んで、死体の山に放り投げた。かさついた肉の感触にレナードは悲鳴をあげた。所長殿は笑いながら先生の腹を蹴り上げた。先生がごほごほとえづき、口もとが赤い血に染まった。
「まだ死ぬなよ。お前らを殺すのは明日の朝だ。おれ自身の手で、この場所で、お前らの頭を吹き飛ばしてやる」
おれとヘルベルトは小銃を構えてそれを見ていた。手を出すことは許されなかった。これは所長殿の『悪趣味』だ。おれたちの『仕事』じゃない。
『悪趣味』はこれで終わりじゃなかった。
『悪趣味』とはただの暴力じゃないんだ。ふたりのユダヤ人は車庫に取り残された。密閉された室内を太陽の様に照らす照明。照明が備え付けられた天井は高く、手を伸ばして壊すことなどとてもできない。
そう。彼らは一晩をここで過ごすんだ。昼間の様に明るい密室で、無数の同族の死体と共に一晩を過ごし、そして翌朝には処刑される。
『悪趣味』の真骨頂は身体的苦痛じゃない。同族の死体と一夜を共にする。絶対的な死を待ちながら、自分の未来を見つめながら一晩をこの場所で過ごす。『悪趣味』とは精神的苦痛による拷問に他ならなかったわけだ。
「イヤだ!」
車庫を出ようとするおれたちに、レナードが這いつくばりながらすり寄ってきた。
所長殿は彼のアゴをブーツで蹴飛ばした。
レナードは顔を地面に埋めながらもだえ苦しんだ。先生は車庫の奥で、薄い胸を上下させながら仰臥していた。
「またあとでな」
所長殿はそういって鉄扉の鍵を閉めた。
月光に照らされながらおれは一度深く息を吐いた。ヒルベルトは何もいわず、つま先で足元をいじくり回していた。
「ご苦労。おれは書類仕事を片付けていく。お前らはもう帰れ」
解散の指示とともに、おれとヒルベルトは帰路に着いた。
「忘れ物をした」
車庫からずいぶん離れたところでおれはそういった。
「先に帰っていてくれ。それじゃあまた明日」
朝から働き詰めのヘルベルトは『おぅ。また明日』とだけいって帰っていった。この仕事の相方がヘルベルトだったことを当時のおれは幸運に思っていた。これが忘れ物をいっしょに取りに行ってくれるようなお節介な野郎だったら、おれの計画はこの時点で失敗していただろうから。
忘れ物ってのは嘘だ。おれは車庫の前まで戻ると、車庫のそばにあるドラム缶の裏に隠れた。
まだだ。まだ駄目だ。
所長殿はいま執務室で書類と格闘している。何でも『悪趣味』の日はよく筆が進むらしい。そして彼は、帰宅前にもう一度この倉庫を訪れる。収容者たちの『絶望』に歪んだ顔を見ると、これまたよく眠れるらしい。
所長殿はここに来る。待つんだ。所長殿が帰宅してからが……その時こそおれは……
どれくらいの時間が経ったのだろう。
暗闇に響く足音におれはハッと意識を取り戻した。
建物の間を縫って所長殿が車庫に向かって歩いている。荷物はなし。カバンは執務室の横にある車に置いてきたのだろうか。
所長殿は車庫の裏にまわり、鉄扉を開けた。それでいい。おれは待った。所長殿が出てくるのを、彼が満足そうな表情で車庫から出てきて、帰宅するのを……
しかし。所長殿は車庫から出てこなかった。
おかしい。おれは時計を見た。所長殿が車庫に入ってから既に三十分が経過している。いくらなんでも長すぎる。
おれは待った。いらいらとドラム缶を人差し指で叩いた。何かがおかしい。何かがおかしい。何かがおかしい。
おれは時計を見た。何度も時計を見た。秒針がカチカチと時を刻む。淡々と時間は進んで行く。四十分が経った。がまんの限界だった。おれは立ち上がり、車庫の裏手に回った。
鳥の鳴き声のような乾いた音が聞こえた。『かぁかぁかぁ』と絶え間なく繰り返されるその音。おれの背中に悪寒が走った。
その音は車庫の中から聞こえていた。おれは小銃を構え、それを強く握りしめながら鉄扉を蹴飛ばした。
照明に照らされる室内を見ておれは唖然とした。
扉の目の前に、うつぶせの姿勢で所長殿が倒れていた。目と口を大きく開き、口から飛び出た青い舌が土砂利を舐めていた。
彼が死んでいたのは明らかだった。
先生とレナードは車庫の奥で背を向けて座っていた。
レナードは身体を前後に揺らしながら『かぁかぁかぁ』と不気味な笑い声を漏らしていた。先生は銅像のようにピクリともせず、ジッとその場で固まっていた。
「動くな!」
おれは小銃をふたりに向けた。ふたりはおれの言葉など意に介さず、笑い続け、黙し続けた。
おれは所長殿の死体を見た。首周りに索状痕が見られる。顔にふつふつと小さな紫色の溢血点が浮いている。間違いない。彼は絞め殺されたんだ。
「レナード。ゆっくり立て!」
おれはレナードに銃口を向けた。『かぁかぁかぁ』と笑いながら、彼は立ち上がった。
レナードの顔を見ておれは目を見開いた。彼は口を大きく開き、だらだらとよだれを垂らしていた。彼は狂っていた。狂人と化し、壊れたレコードのように、繰り返し繰り返し同じ笑い声を漏らし続けていた。
ふらふらと身体を揺らすと、レナードはその場に崩れ落ちた。その身体は正面をおれに向けていた。やつに敵意はなかった。充血した目は空虚を見つめて右往左往していた。
「先生」
おれは背を向ける先生にゆっくりと近づいた。銃口は彼の背中に向けていた。怖かったんだ。そこに座っているのは本当の先生ではなくて、正面に回り込むとそこには鼻も口もない幽霊のような真っ白の顔があるんじゃないかって、本気でそう思って……そう思って……おれは……
ほんの数十センチの距離までおれは先生に近づいた。先生は微動だにしなかった。
おれは先生の肩に震える左手を伸ばした。レナードは『かぁかぁかぁ』と狂った笑い声を続けていた。
そして次の瞬間。おれの目の前で鮮血が宙を舞った。
「あぁ!」
焼けこげるような痛みが左手の甲に走った。
おれはそれを見た。左手の甲から噴き出る赤い血を見た。そして、振り向きざま、おれの手の甲をナイフで切り刻んだ先生の姿をおれは見た!
「先生!」
叫びながらおれは一歩後ろに飛び下がった。
倒れはしなかった。深手ではない。しかし、精神はそうはいかなかった。おれは混乱していた。目の前で先生が……あの田舎町でおれに平方根の解き方を教えてくれたあの男が、ナイフを構えておれと対峙していた。
狂ったか。
小銃を構える手の力がギュッと強くなった。
やるせなかった。歯がゆかった。助けようとしたのに。この男をこの収容所から逃げ出させてやろうと、そう思ってここに来たのに――
そうだ。おれは先生を収容所の外に逃がすつもりだった。それなのに、それなのに、それなのに!
おれの中で先生に対する信頼が急速に消え失せた。おれの瞳は敵意に染まった。目の前のふたりは敵だ。その生物学的基礎を徹底的に破壊するべき敵だ。そして心の中でおれはいつもの言葉を口にした。『回転に滞りなく……回転に滞りなく……回転に滞りなく……』
「お前らが殺した。そうだな」
おれは血のしたたる左手で一度所長殿の死体を指差した。
先生とレナードは、ゆっくりと立ち上がり、首をたてに振った。
「そのナイフは、おれが渡したダイヤモンドの指輪で手に入れた。そうだな」
先生はもう一度首を縦に振った。
収容所のなかでは様々な物々交換が裏で行われていた。おれたちは収容者の私物の没収に努めたが、そのすべてがうまくいっていたわけではなかった。ユダヤ人たちは隠し持っていた財産によって、煙草や酒を手に入れた。女看守を買収して女子収容所に忍び込む不届きものさえもいた。0・8カラットのダイヤモンドとナイフの交換など造作もないことだ。
「だがその刃こぼれしたナイフでは人を殺すのは難しい。だからお前らは、ロープを使って首を絞めたわけだ」
事実、赤い血が滴る先生のナイフは、茶色の錆にまみれていた。手の甲を切りつける程度はできても、致命傷をつくることは難しいだろう。
おれはもう一度所長殿の死体を見た。首筋に伸びた一本の細い索状痕。指や腕で絞め殺したんじゃない。しかし、この室内にはロープなんてものはない。
「さて。どうやってわたしは彼を殺したのかな」
先生は挑発的な口調でそういった。
動揺などするはずがない。おれは小さくつぶやいた。『回転に滞りなく……回転に滞りなく……回転に滞りなく……』
「服だ」
おれの言葉に先生はぴくりとほほを動かした。
「あんたらが着ているボロきれのようなそのシャツ。それを細長く丸めて絞め殺した。そうだろう」
おれは自分の推理に自信があった。それこそがもっとも合理的な答えだった。
しかし、おれがそう答えると、レナードはひときわ大きな声で笑いだした。
「服じゃねぇ!」
レナードは叫んだ。
「服じゃねぇ! おれたちはそいつを殺した! だけど服で殺したんじゃねぇ!」
「……何だと」
おれは銃口をレナードに向けた。彼はケラケラと腹を抱えながら笑い、その場でくるくると回り始めた。
「服じゃねえ! 服じゃねぇんだ! なぁおい分かるか。どうやって殺したか、お前さんにわか――」
おれはやつの頭に向けて小銃の引き金を引いた。
レナードの頭はパッと血を吹き、身体は後方に倒れた。彼の身体はこの室内で一番の無残な死体と化した。
後悔はなかった。あたりまえだろう。おれはユダヤ野郎をぶち殺した。おれを馬鹿にしたあの野郎をぶち殺した。アウシュビッツでは毎日何人ものユダヤ人が死んでいた。そう、毎日だ。目の前の死体なんて、歴史という大書に載せるまでもない小さな事象だ。
おれは銃口を先生に向けた。冷静だった。先生もまた落ち着いた視線でおれを見つめていた。
「……服じゃないだと」
おれは先生を睨みながらいった。
「それは本当か。おい、本当かときいているんだ」
先生は何もいわなかった。ただナイフを構え、死神と化したおれを見つめていた。
「それじゃあ答えろ。何で絞め殺したんだ。この倉庫にはロープなんてものはない。そのよれたシャツじゃないっていうなら、いったい、何で所長を絞め殺したんだ。答えろ!」
「さて。何だろう。きみに解けるかな」
先生はナイフを振り上げた。それは投擲のポーズだった。
先生の身体に鉛玉を撃ち込んだ。弾倉に残っているすべての鉛玉を撃ち込んだ。心臓と顔面に、ありったけの鉛玉を撃ち込んだんだ。
死体だらけの室内でおれはふさぎ込んだ。
憐憫はなかった。恩師を殺したという感覚なんてもちろんない。おれは戦争をしていたんだ。この男と殺し合いをしていた。だから殺した。正当だ。正気だ。おれは間違っていない。歯車は滞りなく動いていた。
だが、声が聞こえていた。
レナードはおれにいった。
『服じゃねぇ!』
先生はおれにいった。
『きみに解けるかな』
おれは泣き出した。頭のなかをふたりの声が支配していた。音波は歯車の動きを阻害しなかった。歯車は滞りなく動きながら、その呪詛の言葉に苦しめられていた。
4
「それからおれは数えきれないほどのユダヤ人を殺した」
フランツは大空を仰ぎながら口を開いた。
「男も、女も、子どもも、老人も、みんな殺した。憎いんじゃない。怖かったんだ。おれはユダヤ人が、頭のなかで反響を続けるあの声が怖かったんだ。だから殺した。ユダヤ人が怖かったから殺したんだ」
フランツの身体は小刻みに震えていた。彼は左手の甲の傷跡をそっと撫でた。
「どう思うよ探偵さん。所長殿はシャツで絞め殺されたんじゃないのか。あいつらの言葉はただの戯言だろう。そういってくれよ。そうだといってくれよ。死の瀬戸際に、おれを困らせるために口にした戯言だと、そういってくれないか」
法律は両膝に手を置き、静かにフランツの話を聞いていた。
「あの……」
「ユダヤ人の死体の山。そういいたいんだろう」
法律の言葉を先回りするようにフランツはいった。
「所長殿は首を絞められて死んだ。死因が絞殺なのは明らかだ。見る限り車庫の中にはロープなんてものはなかった。じゃあロープは隠してあったんじゃないか。車庫の棚に置かれた死体の山の下に隠してあったんじゃないか。あんたはそういいたいんだろう」
法律は口をはさまず、くいと眼鏡のつるを押した。
「残念だが、違う。おれは死体の山を片づける作業を監視した。だがな、全部の死体をどかしても、ロープなんてものはなかった。所長殿の首を絞めるものなんて、あの車庫の中にはなかったんだ。服だ。あいつらはシャツで所長殿を殺したんだ。だけど頭の中にあいつらの言葉がこびりついている。先生はいまだにおれに正解をくれない。なぁ、あんた探偵なんだろう。教えてくれよ。真実を教えてくれ。おれを、おれを苦しめるこの声から助けてくれよ」
法律は瞳を閉じて息を吐いた。彼は悩んだ。自分の考えを――あまりにも残酷なこの思考を世に放つべきか悩んだ。
「……フランツさん」
法律は眼鏡越しに老人の瞳を見つめた。
青年の世界を吸い込むような澄んだ瞳に、フランツの心臓がドクンと一度跳ね上がった。
「アウシュビッツ収容所で起きたひとつの事件。それは過去のものです。証拠も、証言も、ほとんどのものが既にこの世から消え去っている。そのため、わたしは真実を伝えることはできません。その真実は、調べようがないからです」
すみません、と法律は付け加えた。
「あぁ、あぁ。その通りだ。お前さんのいうとおりだよ」
フランツはくつくつと笑い声をあげた。
「わたしが馬鹿だった。過去のこんなくだらない話、あんたには関係ないってのにな。ごめんよ、忘れ――」
「真実はわかりません。ですが、可能性を語ることはできます」
法律はフランツの言葉を遮った。
「あなたの話を拝聴して、わたしの中にひとつの仮説が生まれました。そして、その仮説は、絞殺に用いた道具は彼らの衣服ではないというふたりのユダヤ人の主張と一致します」
「……な、なんだって」
フランツはぐっと身を乗り出した。
「か、仮説……教えてくれ。探偵さん。その仮説を、頼むよ。やつらはなにを使って所長殿を殺したんだ。服じゃないっていうならいったい何で……どこに、どこに凶器はあるんだ」
「凶器の場所ですか」
法律は自分の首筋をそっと撫でた。
「凶器は、このバス停の中にあります」
5
「いえ、誤解しないでください。五十年以上前のその日、所長さんの首を絞めた凶器そのものが、この場にあるという意味ではありません。種類として同じ凶器がここにあるという意味です」
法律のその説明を聞いても、フランツはポカンと開けた口を閉じることができなかった。
「あんた、何を……そのかばんか。あんたのそのかばんの中に、何かロープのようなものが入っているのか」
「いえいえ。このかばんの中に入っているわけではありません。そしてフランツさん。見たところあなたは手ぶらですね。ジャケットの中にも首を絞めることができそうなものはない。そうですね」
フランツは沈黙と数回のまばたきで肯定を示した。
「このベンチの下にあるわけでもありません。壁にかかっているわけでもありません。それでも凶器はいま、わたしたちの目の前にたしかにあるんですよ」
「意味がわからない。あんた、何をいっているんだ?」
フランツは顔をしかめた。腹がグルグルとなり、傷跡がついた左手で腹をさすった。
「そう、そこですよ。凶器はそこにあるんですよ」
法律はフランツがさする腹を指差した。
一拍の間を置いて、フランツは理解した。
「まさか……」
「そう。その凶器はわれわれ人類全員が持って生まれたものです。所長さんは、人間の腸で首を絞められたんですよ」
「バカな!」
老人は土を踏み鳴らして立ち上がった。
「腸だと。人間の腸で絞め殺しただと。それなら、腸は……どこか……」
「どこから手に入れたのか。車庫の中にはいくらでもありましたよね。かまどから運び込まれたユダヤ人の死体が。先生はナイフを持っていました。彼は死体の腹を切り開き、腸を取り出した。午前中に亡くなったばかりの死体の腸です。栄養失調状態の腸の耐久性がどの程度のものかは分かりませんが、人間の小腸の長さは七メートル。重ねればそれなりに耐久性のあるロープになるでしょうね」
「なんて酷いことを。死者への冒涜だ」
そう口にしてフランツは自分を恥じた。死者への冒涜? 何様のつもりだ。何人もの罪のない人間を殺してきて、生命への冒涜を繰り返してきた死神に、あのユダヤ人の行いを非難する資格があるとでもいうのか。
「いや、いや。待て。それはおかしい」
フランツはひとつの反論を思いついた。
「わたしはレナードのいう『服じゃない』ものを探して車庫の中を調べた。だが、人間の腸なんてものは落ちてなかったぞ」
「落ちてなかったでしょうね。先生は、腸をそれが本来あるべき場所、死体の腹の中に戻したんですから」
「それだってありえん!」
フランツは爆ぜるようにいった。
「あそこにあった死体は毒ガスで殺されたんだ。腸を取り出すほどの傷が開いていれば、車庫から死体を片付ける時に気づいたはずだ。わたしたちがそれに気づかないだなんて不自然だ!」
「でしょうね。だから先生は、傷口を縫いあわせたのです」
「……ばかげている!」
「これはぼくの予想ですが。先生はフランスの大学で医学部に勤めていたのではないでしょうか。あなたが子どものころの話を聞いてそう推測しました。犬の両脚に躊躇なく麻酔を打つことや、その両脚を切断するといったことは、医者でなければ簡単にはできないでしょう。それに、彼は黒カバンを持って犬のもとに飛んできたといいましたね。ひと昔前の欧州においては、黒カバンとは医者の象徴に他なりません」
フランツは法律の考えに『そうか』と首を振った。
「元医者だから腹を切り開いて腸を取り出すことも簡単ってわけか。だがな。縫合用の糸はどこに……」
彼の頭は力なく下に向いていった。その視線は、彼が着ている無地のシャツに注がれていた。
「ふたりのユダヤ人はぼろ布のようなシャツを着ていた。そうですよね。先生はシャツから作った糸で傷の縫合をしたんです。シャツの繊維はもろい。さきほどの腸の話と同じように、重ねて耐久性のある糸を作ったのでしょう。ナイフの先端を死体の腹に突き刺して、糸の通り穴を作る。死体だから麻酔なんていりません。犬の車いすを一晩で完成させるほど手先の器用な彼には、それほど難しい仕事ではなかったでしょう。複数の傷穴に糸を通して縫い合わせる。そして、足元の土砂利を拾い上げ、お腹のあたりにこすりつければ傷跡はカモフラージュすることができます。もともと、収容者たちの環境は衛生的に最悪で、彼らの死体もまた垢や泥に汚れていたと聞いています。汚れた腹はアウシュビッツの死体としては自然そのものなわけです。レナードさんはこういったんですよね。『おれたちはそいつを殺した』。『おれたち』とは、レナードさんと先生だけを差すのではありません。腸を提供したひとりの死体。汚れた死体を『自然』なものにした複数の死体。つまり、その室内にいたユダヤ人全員の犯行だったのです。彼がいう『おれたち』とは、そういう意味だったのではないでしょうか」
どうでしょう。法律はたずねた。
「先生は最初の拷問が終わると、死体から腸を取り出してロープを作った。その後、帰宅前に車庫に立ち寄った所長さんを絞殺し、すぐに腸のロープを死体のお腹に戻してあなたが来るのを待った。もしかしたらレナードさんは拷問の苦しみで狂ったのではなく、先生の残酷な所業をみて狂ってしまったのかもしれませんね。これがわたしの仮説です。アウシュビッツで起きた殺人事件へのひとつの仮説です」
フランツは目を見開き、唇を噛みしめていた。
法律の主張には証拠がない。証拠がないから根拠もない。根拠がないから真実とはいえない。
しかし、その主張には説得力があった。それを正しいとひとに思わせる説得力があった。
いまやフランツは法律の言葉を信じていた。この名探偵が、その名に恥じぬ推理を発揮させたと心から称賛を贈っていた。
そして同時に、フランツの心の傷跡は深まるばかりであった。
「先生は、おれが憎かったんだ」
頭を伏せながらフランツはいった。
「……フランツさん?」
「動機だよ」
強い風がバス停を揺らした。
「おれは先生を助けるといったんだ。それなのにあの人は、ダイヤモンドをナイフに代えて、所長を殺して、最後にはおれに襲いかかってきた。先生はどうしてあんなことをしたのか。その動機は、動機は……」
フランツは嗚咽を漏らした。老人は身体を小さく丸めて、子どもの様に泣き出した。
「先生はおれが憎かったんだ。おれたちアーリア人が憎かった。ユダヤ人を虐げるおれたちに一矢報いようと、所長を殺し、そして助けに来たおれさえも殺そうとした。先生はおれが来ることが分かっていた。ナイフでは殺せないかもしれない。だから保険として、おれを苦しめる保険として、あんな謎を残した。死してなお、おれを苦しめることが、この馬鹿げた殺人事件のひとつの目的だったんだ」
「それは違う」
法律は毅然とした態度でいった。
「フランツさん。わたしの考えは違います。先生がこの殺人事件を起こした動機は、あなたへの憎しみではない。むしろ先生は、あなたを愛するがために、この殺人事件を計画したのではないですか」
「何だと」
フランツはくしゃくしゃに歪んだ顔を法律にみせた。
「先生は悪の枢軸ナチス・ドイツのために働くおれを哀れんだということか。本気でおれを殺そうとして、死によってその悪業から解放してやろうと犯行に及んだっていうのか」
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
法律は首を激しく横に振った。
「あなたはナチスの一員でありながら、ひとりのユダヤ人を助けようとした。しかし、それは現実的な話といえますか。本当にあなたは先生を救えると思ったのですか。たかだかひとりのSS隊員に過ぎないあなたが、ナチスを裏切り、安寧の地まで先生を連れていけると思ったのですか」
「それは……」
フランツは過去の自分の思考を想起した。逃亡に具体的な計画なんてなかった。『悪趣味』を聞かされたのは当日の昼だ。確実に逃げ切られる計画など、考えている暇はなかった。
「とにかく先生を連れてアウシュビッツを出れば何とかなると……」
「先生はそれを見抜いていた」
法律はもう一度めがねのつるを押した。
「あなたとの未来は破滅だ。裏切り者のあなたはユダヤ人共々処刑される運命にあった。だから先生はあなたにナイフを向けたのです。あなたに強烈な敵意を向けることで、あなたに自身を失望させ、不可解な謎を提示し、ユダヤ人という種族を徹底的に嫌うように仕向けた。先生はあなたに生きていて欲しかった。自身の同族たるユダヤ人を憎み、殺し続けてでも生きていて欲しかった。あなたの先生は、同胞たるユダヤ人を裏切ったのです。未来永劫ユダヤ人を殺し続ける死神になろうとも、それでも、愛する生徒であるあなたに生き続けて欲しかったんです」
『生きていてほしい』
フランツの記憶が語りかけた。
『生きる意志があるならば、生きていてほしい。ただ、それだけなんだ』
あの日、先生は両脚を失った犬にパンと水を与えながらそういった。
彼は生きる意志を尊重した。フランツも同じだった。若さ故の楽観主義。彼は先生と共にナチスから逃げ出せると――いや、逃げ出せないという考えがそもそも頭の中にはなかった。
フランツには生きる意志があった。しかし、自分を救わせれば、彼は死ぬことになる。
だから先生は――だから先生は――だから先生は――
クラクションの鳴る音で、フランツはハッと顔を上げた。
見ると、一台のバスが、バス停を出発したところだった。
フランツは隣を見た。日本から来た探偵はもうそこにはいなかった。
老人は立ち上がり、土埃をあげながら田舎道を走るバスの背中を見つめた。
そしてかれは、届かないと知りながらも、感謝の言葉を静かにくちにした。