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死の天使 ネクサンジェラス  作者: 暁明星
1/1

Episode.1 死の天使降臨

古来より月は、魔術的力を呼び起こすとして魔女や魔術師たちに崇められたきた。この知識を人間に授けたのは、月の運行を司っている大天使サリエルだった。サリエルのこの行為に神は激怒した。自ら責任を取るために、サリエルは無言で優美に天より離れたという。


 地上に近づくにつれて、サリエルの姿は醜い骸骨のそれに変貌していった。。地上に堕ちたサリエルは、その強力な邪眼の力で人間たちを邪悪なものから守ったという。人は彼をこう呼んだ。




 ー死の天使ーネクサンジェラス。

 晴れ渡った東京の夜空に、赤く不気味に光る球体が飛来していた。大きさは直径一メートルくらいだろう。流れ星でも隕石でもないその物体は、何かを探し回るように不規則に移動している。探しているものを見つけたのだろうか、空中で一旦静止すると、もの凄い勢いで地上に向かって降下していった。

 しばらくすると、今度は白く光る球体が飛来した。大きさは赤い球体と同じくらいで、こちらも何かを探し回るように不規則に移動している。そして赤い球体を追うように、こちらも地上に向かって降下していった。


 秋葉原の夜は早い。ほとんどの店が夜の八時から九時くらいで閉まってしまうし、メイド喫茶などのアキバ系文化の象徴として持てはやされた飲食店も、夜の十時には営業を終了してしまうところが多い。しかし遅い時間まで街をうろついている人間も少なからずいる。大抵は終夜営業のバーや居酒屋、カラオケボックスで夜を明かすもの、インターネット・カフェを簡易宿泊所として利用しているものたちだ。

 中央通りから数十メートル入った人気のない路地を、福田和也は家路についていた。年齢は二十代後半だろうか。背が高くがっちりした体格だが小太りで、やや腹が出ている。大きめの顔に長く突き出たあご、丸い眼鏡と手入れの行き届いていない髪が特徴だ。チェックのシャツにベージュ色のジャンパー、リーヴァイスのジーンズを履き、肩からは中身がパンパンの茶色いショルダーバッグを提げている。

 先ほどの赤く光る球体が上空から飛来し、和也の背中から体内に入り込んだ。彼に体がまるで炎に包まれたように赤い光を発する。数秒後に光が消えると、彼は邪悪な笑みを浮かべた。一瞬目が赤く光る。そして彼は、何事もなかったように再び歩き始めた。

 和也が数十メートルも歩いたところだろうか。秋葉原の街には不似合いな三人組が道を塞いだ。渋谷にかつて存在していた柄の悪いゴロツキといった出で立ちで、全員が二十代前半くらいだろう。和也の姿を見て、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべている。

「オタクのお兄さん」真ん中のリーダー格の男が声をかけた。「これからメイド喫茶に行きたいんだけどさ、お金貸してくんないかな?」

 和也が無視して歩き始めると、男たちは激怒し始めた。

「おい、無視するなよ!」

 和也は男たちの脇を素通りすると、歩き続ける。男たちはポケットに手を入れると、折りたたみ式のジャックナイフを取り出した。

「逃げるな、コラ!」

 男たちが粋がると、和也は足を止めてゆっくりと振り返った。その顔には邪悪な笑みを浮かべ、目が赤く光っている。和也の異常な変貌振りに、状況を飲み込めない男たちは思わずたじろいだ。

 和也は右手を上げると、手のひらを男たちに向けた。男たちが唖然としていると、和也の手のひらから炎の柱がほとばしった。炎はあっという間に男たちを包み込み、火だるまにした。男たちは悲鳴を上げる間もなく倒れこみ、絶命した。炎は三人の体を焼き続ける。和也は炎を吸い込むかのように、鼻で大きく息をした。

「久しぶりに味わう人間の苦しみ…うーん、素晴らしい」

 和也は何事もなかったように、その場を立ち去った。

 なおも三人の死体は炎を上げ続けた。上空から白く光る球体が飛来し、死体の上空十メートルほどの高さで静止していた。やがて通行人の女性が焼け続ける死体を発見して悲鳴を上げると、白く光る球体は飛び去った。


「悪魔騎士フルカスが人間界に潜入しました」悪魔アガレスは東の魔公爵の地位を持ち、今回の作戦では悪魔アスモダイの参謀を務めていた。威厳のある老いた紳士姿をしており、その拳には大鷹を留まらせ、ワニに騎乗していた。

「これで、我々の作戦の第一段階は終了した」悪魔アスモダイは東の大魔王アマイモンの配下で、東の魔王の地位を持っている。全てを支配する力持つといわれるソロモン王の指輪を探す作戦の最高責任者だ。

「指輪が隠されていると思われるのは、エルサレムのはるか東の果て、日本と呼ばれる地域だそうですね」悪魔セレエは東の魔王子の地位を持っていて、作戦の直接の指揮を任されている。その容姿は美しい人間の姿をしていて、とても悪魔とは思えなかった。

「日本というのはヘブライの神とも深いつながりを持つ地域だ。霊的にも大変興味深い場所だよ。ソロモンが指輪をこの地域に隠したというのは、納得できる話だ」アガレスが言った。

「アマイモン様がソロモンと因縁浅からぬ我々をこの作戦に任命してくださったのは、名誉回復のチャンスを与えてくれたということだ。何があっても指輪を手に入れるのだ」アスモダイが言った。

「かしこまいました」セレエはひざまづいた。


 次の日、秋葉原のライブ・ハウスdress TOKYOでは三人組のアイドルが歌っていた。アイドルといってもメジャーな事務所に所属してテレビや雑誌に出ている類のアイドルではない。普段はそれぞれにアルバイトや仕事を持ちながら、空いている時間に自分たちでマネージメントや営業をしながら活動しているフリーの地下アイドルだ。

 ステージ向かって右に立っている女性が江口真冬。年の頃は二十代半ばだろう。小柄ながらもがっちりとした筋肉質な体の持ち主で、大きくてパッチリしたその目からは、彼女が元来持っている気の強さがうかがえる。アイドルグループ801ーハチマルイチのリーダーで、一年前に彼女がコミケのコスプレエリアで知り合った二人を誘ったのが始まりだった。

 中央に立っている女性が川上千春。二十歳を過ぎたばかりだろうか。真冬よりは背が高いものの、華奢な体つきをしている。穏やかな表情からはおっとりした性格がうかがえ、ツインテールの黒髪が実際の年齢以上に幼く見せている。

 左に立っている長身でスレンダーな女性が滝沢彩夏。年の頃は二十代前半だが、メンバーの中では面倒見が良く、姐御的な存在だ。

 801が歌い終わると、ファンが熱狂していた会場が一瞬静まり返った。何人かのファンが、口々にメンバーの名前を叫ぶ。MCを担当している真冬が、ファンに語りかけた。

「次はとうとう、最後の曲です!」

 ファンの間からお約束の落胆の声が上がる。

「はい、私も終わりたくないです!」彩夏が良く通る声で叫んだ。「だけど、次の方が歌いますんで!」

「みんな〜!」千春がか細い声を振り絞って叫んだ。「まだ元気は残ってますか!?」

ファンが熱狂して叫んだ。

「それでは最後の曲『GO!GO!乙女ロード』!」真冬が叫ぶと、ノリのいい曲とともに三人が歌い始めた。

 観客スペースの右の方から、801を撮影している男性がいた。男の名前は秋野秋雄。三十代前半くらいの中肉中背の男で、その温和な笑顔からは人の良さがにじみ出ている。しかし首から提げたキャノンの一眼レフのカメラで撮影する彼は、真剣そのものだ。彼もいわゆるオタクと呼ばれる人種で、アイドルの握手会やライブにしょっちゅう顔を出しては写真を撮っている。以前真冬がアルバイトをしていたメイド喫茶で彼女と知り合い、友人としての付き合いが続いている。

 夢中になって撮影していた撮影していた秋雄は、誰かに肩を叩かれて振り向いた。それは和也だった。昨日と全く同じ服装をしている。

「和也、遅いぞ。もう最後の曲だよ」秋雄は言った。

「悪い、ちょっと用事があって」和也は表情を変えずに言った。

「早く応援しろよ」秋雄が急かした。

 和也は生気のない目でステージを見つめたまま、直立不動で手拍子を始めた。いつもならば元気にヲタ芸を打って応援するはずなのにと、秋雄は不審に思った。何か様子がおかしい。体調でも悪いのだろうか?

 和也を支配している何者かは、和也の記憶を頼りにこの会場まで足を運んだ。自分の使命とはまったく無関係で、自分自身には何の益にもならない宴であった。しかしその何者かは、ステージで歌い踊る一人の女に釘付けになった。彼女は霊力がとても高い。この女の体を手に入れれば、今まで以上に力を発揮できるはずだ。しかし今はまずい。ここでやれば騒ぎになる。騒ぎになれば、天界の連中にも知れることになるだろう。

 数十分後には全てのライブが終了し、参加アーティストたちによる物販が行われていた。801のブースでは、秋雄と真冬が話をしていた。

「いい写真撮れた?」真冬が笑顔で尋ねる。

「もちろんよ」秋雄が親指を立てた。

 秋雄の隣の和也は、ぼうっと真冬を見ている。

「どうしたの、和也さん?」和也の視線に気がついた真冬が、不思議そうに尋ねる。

「ちょっと体の調子が良くないんだ」和也が無表情に言った。

「そうなの?」真冬が心配そうに言う。

「この後は無理か?」秋雄が和也に言った。

「後って?」

「忘れたのか?」秋雄が小さい声で和也に言った。そしてあごで真冬を指して「…とご飯」

 和也の記憶を探る。確かに食事の約束をしていた。これはチャンスだった。思わず笑みがこぼれる和也。

「そうだったな、忘れてた。それくらいは問題ないよ」

「じゃあ、そろそろお暇するね」秋雄が真冬に言った。「写真はそのときに渡すからね」

「うん、ありがとう」真冬が笑顔で答える。

「行くぞ和也」秋雄はブースを立ち去った。その後を相変わらず無表情に和也がついて行く。

 真冬は和也の後姿を見つめながら、首を傾げた。変な和也さん。

 隣の彩夏が、肘で真冬をつついて言った。「秋雄さん、いつも明らかに真冬ばっかり撮ってるよね」にやりと笑う彩夏。

「真冬推しの人だから」さらに隣にいる千春が、真冬の方に身を乗り出して言った。

「いや、まぁ…」照れてうつむく真冬。

「本当に、単なる友達からの発展はないの?」彩夏が言った。

「ないわよ!」真冬が手を振りながら否定する。「秋雄さんは確かにいい人だけど、年が離れてるし、男性としては魅力不足かな。第一、今はこの活動が恋人みたいなものだし」

「だけどこのままの状態で続けていくと、勘違いしてストーカーとか…」彩夏がからかう。

「そんな人じゃないって!」真冬が否定した。


 どっぷりと日が暮れ始めて、秋葉原の街でも家路を急ぐものが歩を早める。土曜日の夜を満喫しようというものたちは、早めに飲食店へ足を運んでいる。

 メイド喫茶のミルキーウェイは、秋葉原の中心街から離れた路地でひっそりと営業していた。一時期のブームが去り、雨後の筍のように出店していたメイド喫茶がほとんど閉店してしまった中でも、この店は生き残っていた。そして今では、オタクの隠れ家的な要素を持つ店になっている。

 店内はゴシック調のインテリアで統一されていて、それなりに予算はかかっていた。入ってすぐのところにカウンター席が十席ほどあり、全てが客で埋まっていた。テーブルは全部で七つほどあり、半分ぐらいは埋まっている。一番奥のテーブル二つはブースになっていて、他の席からは見えないようになっている。店内には小さな音量で、ゴシック調のピアノ音楽が流れていた。

 ブースには三人の男が陣取っていた。テーブルの上には一台のノートパソコンが置かれていて、ニュースサイトが開かれている。そこに映っているのは、昨夜に秋葉原の路上で起きた三人の焼死事件だった。

「この事件のせいで、今日の秋葉原はお巡りだらけ」ストローでグラスのカルピスをすすりながら、山城(つよし ) が言った。

 剛は二十代前半の若者で、常に被っているジャイアンツのキャップと太い黒縁の眼鏡がトレードマークだ。髪は長くてボサボサで、後ろにゴムで束ねてある。薄いグレーのジャンパーの下に着ている黒いTシャツには、誰も知らないようなマイナーなロックバンドのロゴが入っている。また、ノートパソコンを常に持ち歩いている。ハッカーとしての腕前と、異様な情報収集能力の高さから、、秋葉原の仲間内では“情報屋”の通称で呼ばれていた。座っていても分かるくらいに背が低く、体格も貧弱だった。肌の色も、陽の光を浴びていないのではないかと思わせるほど白かった。

「ホコ天も、今日は静かなもんだよな」秋雄が言った。

「警察にも、この三人がどうやって燃え上がったか分からないらしい」情報屋が言った。「萌え()()上がったなんて、馬鹿なことを言ってる奴もいるし」

 それを聞いた秋雄は、目玉をくるりと上に向けて呆れた。和也は、無表情で黙ったままだ。

 そのとき、メイドの海野萌がドリンクを持ってやってきた。秋雄の前にホットコーヒーのブラックを置いて、和也の前にオレンジジュースを置いた。

「その事件、ここにもお巡りさんが聞き込みに来たよ。その事件直後に、現場付近でアキバ系の男が目撃されてるんだって。アキバ系の男って…ねえ…」萌は苦笑した。

  萌は二十歳になったばかりで、店では“もえ”の源氏名で通っている。リスのようなクリッとした大きな目が特徴的で、小顔で口も小さかった。身長は高くはないが、清楚なメイド服からも彼女の胸が大きいのが見て取れた。

「電車男を探せ…か」コーヒーを一口飲んで、秋雄が笑った。

「警察のオタク狩りが激しくなるな」パソコンのキーボードに指を走らせながら、情報屋が言った。

 萌が腕組みをして憮然と言った。「営業妨害もいいところだわ」そして和也の顔を覗き込む。「和也さん、大人しいけどどうしたの?」

 和也は、生気のない目で萌を見返すと言った。「少し調子が悪くてね」

 萌が驚きの表情を浮かべる。「和也さんでもそんなことあるんだー!私もちょっと風邪気味だけどね」そして思い出したように言う。「そうそう、真冬ちゃんのライブ、どうだった?」

「良かったよ。新曲もお披露目されたしね」秋雄は言った。

「真冬さんがここを辞めてから、一年になるのかぁ」萌は脇に抱えていたお盆を、胸の前で抱え込んで続けた。「いろいろ教えてもらって、お世話になったなー。時間があったら、私もライブ行きたいよ」

「女の子のファンも結構いるから、どんどん見においでよ」秋雄は言った。

萌は口元を手で覆うようにして、小声で言った。「この後、真冬さん来るんでしょう?」

 頷く秋雄。

 しばらくして、真冬と親友の河田弘美が秋雄たちの元へ現れた。真冬は他の客に分からないように伊達眼鏡をかけて白い帽子を目深にかぶり、黒い地味なシャツに薄手の白いパーカーとリーのジーンズと言う服装だった。アイドルがファンと個人的な付き合いをするのはご法度だ。真冬のようなフリーのアイドルは契約で禁止されてはいないとはいえ、他のファンに知れてしまえば今後の活動に支障が出るのは間違いないだろう。しかし真冬と秋雄は、真冬がアイドル活動を始める以前からの友達なので微妙なところではあった。しかし火の無い所に煙は立たないというので、用心に越したことはない。

 弘美は二十代後半の美しい女性で、黒くて長い髪に切れ長の目、唇の薄いすっきりとした口元、日本人にしては高めの鼻と、シャープなあごをしていた。スタイルも抜群で、真冬と並んでいるとアボットとコステロのように見える。

 夕食の席は弘美が持ってきた一冊の本を種に盛り上がっていた。彼女は“村雨乙女”のおペンネームで同人作家として活動しており、コミケなどの同人誌即売会の常連だった。今回は冬のコミケで配布予定の新作をいち早く真冬たちに見せるために持ってきたのだ。もっとも内容は、男性同士の恋愛を描いたBLと呼ばれるものだが。

 しかし和也だけは話の輪に加わらず、何か考え事をしているような顔をしている。

「和也さん本当に大丈夫?調子悪いんだったら、無理しないで帰った方がいいよ」弘美が心配して言った。

 和也はジロリと弘美の方を見ると、次に情報屋を見て言った。「考え事をしてたんだ。最後までいるよ」


 ミルキーウェイでの夕食を終えた五人は、夜の秋葉原を家路に着いた。人気のまばらな路地を、真冬と和也は秋葉原駅方面。ほかの三人は末広町駅方面へ向かって行った。本来ならば秋雄も秋葉原駅に向かうはずなのだが、この夜は知り合いが仕事をしているバーに顔を出すために末広町駅方面へ向かっていた。

 ひっそりと静まり返った路地を、足早に歩き続ける秋雄と情報屋、弘美の三人。

「あ!」秋雄が小さく叫んで立ち止まった。

「どうしたの?」弘美と情報屋が振り向く。

「真冬ちゃんに、今日撮った写真のコピーを渡すの忘れたよ」秋雄はまずいといった表情になった。「まだ間に合いそうだから、追いかけるね」

「分かったわ」弘美が言い終わらないうちに、秋雄は道を引き返して真冬たちのあとを追い始めた。

「あー、馬鹿だね。電話すればいいのに」情報屋が呆れた感じで言った。

「まあ、大丈夫でしょう」弘美が言った。

 その頃真冬は、和也と話をしながら人気のない路地を歩いていた。

「最近になって急に涼しくなったから、気をつけなくちゃ駄目よ」真冬は前を見たまま、和也に言った。

 一方和也は、周りに人気がないことを確認すると、隣の真冬の腕を力強くつかんだ。

「な、何?」びっくりした目で和也を見る真冬。

 和也は凄い力で真冬を引き寄せる。その顔は無表情なままだ。

「和也さん何するの?大きい声出すわよ!」和也を睨みつけ、体を引き離そうとする真冬。しかし和也は、抵抗をものともせずに真冬を抱き寄せた。

 早足で真冬たちを追っていた秋雄の耳に、女性の悲鳴が聞こえた。何事かと、一瞬立ち止まる秋雄。あれは真冬の声だ。何かあったんだ。秋雄は悲鳴の聞こえた方向へ走り出した。

 真冬は和也の体を引き離そうと、抵抗を続けていた。すると、和也の目が炎のように赤く光った。

「お前の体が欲しい」和也が別人のような声で言った。

 意を決した真冬は、合気道の技で和也を投げ捨てた。空中に舞い、アスファルトの地面に強く叩きつけられる和也。真冬は合気道の有段者だった。

「真冬ちゃーん!」

 二人が歩いてきた方角から、秋雄がものすごい勢いで走ってくる。

「何やってんだ、テメエ!」

 地面に仰向けになっている和也に、馬乗りになる秋雄。

「秋雄さん!」真冬が叫ぶ。

 和也がさっと右手を上げると、不気味な音とともに周囲に異変が生じた。夜の秋葉原の街並みは、ゴツゴツした岩場に変わったのだ。草木の一本も生えていない、死の荒野だった。岩場には所々に、まるで地獄の底へ続いているような深い窪みがあった。その窪みの中には何千何万という人間の骸骨たちが、まるで地獄の底から這い出ようとする亡者たちのようにひしめき合っていた。

 周囲の変化に一瞬戸惑った秋雄を、和也は凄まじい怪力で吹き飛ばした。軽く二メートルは飛ばされ、地面に叩きつけられる秋雄。真冬もまた周囲の変化に戸惑いながらも、倒れている秋雄の元に駆け寄った。

「秋雄さん大丈夫?何がどうなってるの?ここはどこ?」

 秋雄は体の痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がる。

「真冬ちゃん逃げて。あいつは和也じゃないよ」

 和也が背後から真冬に襲いかかった。怪力で両腕をつかまれているため、合気道の技を出すこともできない。

「その体もらうぞ」相変わらず無表情なまま、和也が言った。

 真冬が必死になって抵抗していると、秋雄が和也を背後から羽交い締めにした。和也は首を回して秋雄を一瞥すると、真冬から手を離した。すると和也の右手が恐ろしい悪魔のそれに変わった。まるで爬虫類のような質感の皮膚は炎のように赤く、恐竜のような大きく鋭い爪が生えている。和也は秋雄を振り解くと、一瞬にしてその手で秋雄の心臓を貫いた。

 和也の手は、秋雄の左胸から入って背中へ抜けていた。秋雄自身は、自分の身に何が起きたのかを理解していなかった。真冬は目の前の光景に、逃げることもなく立ち尽くすしかなかった。

 和也が手を引き抜くと、大量の返り血が彼の体を染めた。秋雄は捨てられたぬいぐるみのように、その場に倒れこんだ。次の瞬間、真冬が悲鳴を上げてヘナヘナと座り込んだ。和也はゆっくりと真冬に迫る。

 しかし和也は途中で、ピタリと足を止めた。

「亜空間に侵入者が…」

 空が歪んだ。誰かが空をかき混ぜているかのように、空間に歪みが生じている。そして歪んだ空間から、白く光る球体が姿を現した。

 それを見た和也は、脱兎のごとく逃げ出した。そして和也が作り出した亜空間は消え去り、元の秋葉原の街並みに戻っていた。

 真冬は絶命した秋雄を優しく抱き寄せた。止めどなく涙が溢れ出した。しかし不思議と声は出なかった。信じられない出来事に、彼女はまだ混乱していたのだ。

「秋雄さん…私にために…」

 その状況を見つめるように、すぐ近くで白く光る球体が静止していた。真冬は涙に濡れた顔をその球体に向けた。すると白く光る球体は、ユラユラと真冬の方へ寄ってきた。そして突然、秋雄の体に吸い込まれるように消えていった。秋雄の体がまばゆい光に包まれた。真冬は驚きに目を丸くして、光り輝く秋雄を見つめている。

 数秒ほどで光は消えた。不思議なことに秋雄の体の傷は消え去り、血の痕も残ってはいなかった。その顔には生気が戻り、秋雄は真冬の腕の中でゆっくりと目を開けた。

「秋雄さん!」真冬が驚きの声を上げた。

 すると今度は、二人の周囲が光に包まれた。どこまで行っても光だけの世界。とてつもない優しさと、暖かさに溢れている。まるで天国のようだった。

 秋雄は真冬に抱かれていることに気がついた。和也にやられたあのとき、違いなく死を実感していた秋雄は、今の状況に混乱していた。

「真冬ちゃん…俺は?」

「奇跡だわ!」真冬は喜びのあまり叫んだ。「奇跡が起こった!良かった!」

 真冬は小さな体で秋雄を支えるように、一緒に立ち上がった。真冬のその顔は、涙の跡を残しながらも喜びに溢れていた。秋雄はまだ、きょとんとしたままだ。

 すると二人の前に、人間のようなものが現れた。白い布と優雅なケープに身を包み、後光を発していた。肌は白く、男性とも女性ともつかない中性的な顔立ちをしていた。頭につけたサークルには、三日月のシンボルがついている。そして右手には大きな鍵を握り、左手には真鍮の壺を持っていた。それはまさに中世の絵画などで見る天使の姿そのものだった。しかし背中に生えた翼だけは、何故か黒い色をしていた。

「何…これ…?」真冬がつぶやいた。

「天使…?」今度は秋雄がつぶやいた。

「私の名前は大天使サリエル」天使から声が聞こえた。天使は口を開いているわけではなく、二人の心に直接話しかけているのだ。

「本物の天使?」二人が声を揃えて言った。

「あなたたちを襲った友達は、悪魔に憑依されているのです。悪魔の名前はフルカス。かつてソロモン王が封印した七十二柱の魔神の一人なのです」

「悪魔って…これは夢か?」秋雄はゆっくりと首を振った。

「夢でも何でもありません。あなたたちが体験したことは全て真実です」サリエルは続けた。「その七十二柱の魔神がこの地域に現れた理由はただ一つ。ソロモン王の指輪を探すためです」

「それはどんな指輪なの?」真冬が言った。

「その指輪はかつて髪がソロモン王に与えたもので、所有者に全てを支配する力を与えるのです」

「『ロード・オブ・ザ・リング』みたいなもの?」真冬が首を傾げた。

「そうですね。あなたたち人間には、そう説明した方が分かりやすいでしょう」

「つまり、この日本にソロモンの指輪があるってこと?何でユダヤ王国の王の指輪が日本に?」真冬が言った。

「それは、失われたユダヤの十二支族に関係があるのです」

「それは聞いたことがあるぞ。離れ離れになったユダヤの支族が日本にたどり着いたという話だ」秋雄が頷いた。「その支族の中に、ソロモンの指輪を持っているものがいたっていうことだな?」

「その通り。ソロモン王の末裔たちは、巧妙に指輪を隠したのです。神や我々にも、簡単には見つけることができないように」

「どうして今になって?」真冬が言った。

「この地域にソロモンの指輪があるというのは、今までは推測に域を出なかったのです。しかし最近になって、悪魔たちは確信を持てるだけの情報を得たようです。そこで私は悪魔たちの陰謀を阻止し、奴らを再びソロモン王の真鍮の壺に封印するために舞い降りたのです」

「だけどどうして、悪魔は真冬ちゃんを狙ったんだい?」秋雄が言った。

「天使も悪魔も、通常は人間界では物質化できないのです。そのため思うように動くためには、人間に憑依する必要があるのです。また憑依した人間の霊力が高いほど、自分の力を発揮することができるのです。真冬さんは、とても高い霊力を備えています。だからフルカスは、和也さんから真冬さんに乗り換えようとしたのです」

「私が高い霊力…」真冬はつぶやいた。

「秋雄さん」サリエルは秋雄に語りかけた。「あなたは一度、フルカスによって命を落としました。しかし私が一体になることにより、新たな命を得ることになったのです」

「新たな命…」秋雄は自分の両手をまじまじと見つめてつぶやいた。

「あなたと私は一心同体です。私は常にあなたの中にいます。そしてあなたは、私の力を得ることができたのです。これからあなたは、ネクサンジェラスとして七十二柱の魔人たちを再び封印し、その陰謀を阻止するのです」

「阻止するですって…アンタね、勝手に決めないでよ!」怒った真冬は秋雄を見た。

「ネクサンジェラス…変身…」秋雄は、相変わらず自分の両手を見つめながらつぶやいていた。「変身すればいいのか…」

「秋雄さん」驚きの表情を浮かべる真冬。

「そうです。ただし変身するには条件があります。ネクサンジェラスは月の光をエネルギーとしています。そのため夜でないと変身できないのです」

「夜だね、分かった」秋雄はサリエルをしっかりと見据えて言った。

「また月がその姿を完全に現す満月の夜にこそ、ネクサンジェラスはもっとも力を発揮することができるのです」

 サリエルは、手に持った大きな鍵と真鍮の壺を秋雄に差し出した。秋雄はその両方を受け取った。鍵は全長八センチほどの大きさで、一見すると銀のような輝きを放っていた。しかし重量が異常に軽いので、別の金属でできているのだろう。真鍮の壺は高さ二十センチほどで、西洋の骨壷のような外観をしていた。表面には魔除けと思われる印形や、呪文のような文字が彫られている。

 やがて真鍮の壺が光を放って消えた。

「壺は、必要な時に現れるでしょう」サリエルは言った。

 秋雄はぎゅっと鍵を握り締めてサリエルを見た。

「あなたにもらった命です。やりますよ」

「秋雄さん、本気なの?」真冬は戸惑った。

「本気だよ」秋雄は真冬を見て言った。その表情は真剣だった。「守りたいものがあるんだ」

 真冬は一瞬、悲しそうな表情を見せて目を伏せた。

 次の瞬間、二人は光り輝く世界から現実の世界に引き戻された。先ほどと同様、夜の秋葉原の街がそこにはあった。


 この時間帯は、いつもならば通勤ラッシュの真っ只中だった。満員電車というのは真冬にとっては戦場なのだ。小柄な彼女は人ごみにに潰されかねない。それに比べれば日曜日の朝の混み具合は天国みたいなものだ。

 吊り革に揺られながら、真冬はまだ昨夜の出来事が信じられなかった。天使とか悪魔とか陰謀とかって、これじゃアニメか特撮の世界じゃない?しかも変身するって…真冬はあの一夜で、一気に十歳は年をとった気分だった。

 この日の真冬は、薄手の赤いシャツに同じく薄手のピンクと黒のストライプのセーター。リーのホワイトジーンズという動きやすい服装だった。

 池袋で電車を降りた真冬は、改札へと向かった。そこで秋雄と待ち合わせの予定だった。秋雄は休日の予定を返上して、一日中ボディガードをしてくれることになったのだ。

 真冬が改札口まで来ると、秋雄の姿をすぐに発見することが出来た。

 秋雄はコンのウォームアップジャケットにボストン・ブレーブスの復刻版キャップ、リーヴァイスのジーンズにナイキのスポーツシューズという出で立ちだった。

「秋雄さん、おはよう!」改札口を抜けた真冬は、昨夜の出来事で二人の間に気まずい空気が流れることを恐れて、わざと元気に振る舞った。

「おはよう、真冬ちゃん!」秋雄は昨夜のことを微塵も感じさせない雰囲気だった。

 二人は一緒に、東口に向かって人ごみの中を歩き始めた。

「昨夜はよく眠れた?」秋雄は真冬の顔を覗き込んだ。

「ほとんど寝てない。今でも、あれが夢だったんじゃないかと思う」真冬は首を振った。

「俺も寝てない。何度も何度も、あの出来事を思い出してみたよ。だけどあれは間違いなく、本当に起こったことだ」

「和也さんと連絡は取れた?」

「駄目。電話も出ないし、LINEも返事がない。アパートにも戻ってないみたい」

「やっぱりまだ悪魔に?」

「そうだと思う。そしてあいつは、真冬ちゃんを狙ってまた現れる」

 真冬は不安な表情を浮かべた。

「今日一日、お願いね」

 秋雄は頷いた。

 普段の真冬は、池袋の東口にある西武デパートの地下の食品売り場でアルバイトをしていた。品出しや値札貼りといった裏方を中心に、時々はレジも打っている。ミルキーウェイを辞めてからの勤めになるので、もう一年だ。アルバイトとしてはベテランの部類に入るだろう。実際に今では、新人アルバイトの教育を任せられることもある。同じ部署の人たちは、真冬がアイドルとして活動していることも知っていた。

 秋雄はこの日一日を、食品売り場に併設されているカフェで過ごした。可能な限り真冬の姿を自分の視界に入れて、周囲に不審な動きがないか目を光らせた。

 秋雄は複雑な気持ちだった。真冬とは友達ではあるが、オタクとしてのグループの中での付き合いでしかなかった。だから二人だけで待ち合わせをしたことも、真冬のアルバイト先に着いてくるようなこともなかったことだ。もう少し真冬との距離を縮めたい。その願いが、真冬が悪魔に狙われて、天使やら変身やらという常識を完全に外れた事態になって叶ったのだ。

 夕方になってアルバイトが終了すると、秋雄はデパートの通用口で真冬と合流した。そして二人は、駅の改札へ向かって歩き出した。

「秋雄さん、一日中ありがとう。おかげで安心してバイトできたわ」

「夜の方が危険だから、油断しちゃ駄目だよ」

「今日はいいけど、明日からは秋雄さんも仕事でしょう?自分の身は自分で守らないと」

「仕事が終わったら、すぐこっちに来るから。ごめんね…君のプライバシーに立ち入る結果になってしまって」秋雄は謝った。

「いいのよ、守ってもらってるんだから!」真冬は笑顔で応じた。「頼りにしてるわよ、変身ヒーローさん」

「変身ヒーローって…」秋雄は照れた。「まだ自分でも信じられないのに…悪魔を封印するとか…イナズマンみたいには行かないよ」

「イナズマン?」真冬が不思議そうな表情を浮かべる。「仮面ライダーじゃなくて?」

「ジェネレーションギャップ…」秋雄はガックリした。

 二人が改札口に到着すると、そこには弘美が来ていた。

「真冬〜!」二人の姿を見つけた弘美は、手を振りながら早歩きで近づいて来る。「あ、秋雄さんも一緒なの?」

「こんにちは」秋雄は挨拶した。

「ちょっと事情があってね」真冬は小声で言った。


 池袋の通称乙女ロードにある執事喫茶バトラーラヴァーズは、真冬と弘美の行きつけの店だった。働いているバトラーたちは全員が女性で、いわゆる男装なのだ。バトラーの採用基準として、身長百六十センチ以上であることという項目がある。

 店内はゴシック調のインテリアで統一されていて、それなりに予算はかかっていた。入ってすぐのところにカウンターが十席ほどあり、全てが客で埋まっていた。テーブルは全部で七つほどあり、半分くらいは埋まっている。一番奥のテーブル二つはブースになっていて、他の席からは見えないようになっている。店内には小さな音量で、ゴシック調のピアノ音楽が流れていた。ご想像通り、客のほとんどは女性である。

 店内の構造がミルキーウェイと全く同じであるが、これはオーナーが同じ人物だからだ。バトラーの中にはミルキーウェイのメイドから転身したものもいる。逆も然りだ。

「二人で私をおちょくってるの?」弘美は呆れた顔で、真冬と秋雄を交互に見比べた。

 三人はバトラーラヴァーズのブース席にいた。

「はぁ〜。信じてくれという方が無理よね」真冬は頬杖をついた。

 弘美は二人に向かって指を立てた。

「秋雄さんが変身して見せるとか、何か凄い力を見せてくれたら信じるわよ。そんな話だけじゃねえ…」

 秋雄はジャケットのポケットから銀色の鍵を取り出し、弘美に差し出した。受け取った弘美は、それをまじまじと見つめた。

「コスプレの小道具にしか見えないわね」鍵を爪で弾く。「アルミでも鉄でもない気がするけど?」

「オリハルコンらしい」秋雄が言った。

「え!?あの天界の金属の?何よりも軽くて、硬いっていう?」

「サリエルが言ってたよ」

「それも信じられないわ」鍵を秋雄に返すと続けた。「だけど何で鍵なの?普通はベルトとか、カプセルとか、ブレスレットでしょう?」

「それはサリエルに聞いてみないと」鍵をポケットに戻しながら、秋雄が言った。

 店の出入り口付近が騒がしくなった。三人は何が起来たのかと思って、ブースの仕切りからそちらを覗き込んだ。

 店長に案内されて、二人の警察官が店内に入って来た。彼らは真っ直ぐ、秋雄たちのテーブルにやって来た。

「秋野秋雄さんですね?」四十代くらいの年配の警察官が尋ねた。

「は、はい?」訳がわからなかったが、秋雄は答えた。

「秋葉原の焼死事件の件で事情を伺いたいのですが、署までご同行願えますか?」年配の警察官が続ける。

「同行って…私が?」戸惑う秋雄。

「任意でご同行願えない場合は、身柄を拘束させていただきます」隣にいる二十代くらいの若い警察官が口を開いた。

 秋雄は心配そうな目で、隣にいる真冬を見た。

「私は大丈夫よ。直ぐに帰る事にするから」

「終わったら連絡するよ」立ち上がりながら秋雄が言った。

 警察官に両脇を挟まれ、秋雄は店を出て行った。

「秋雄さん、あの事件とどういう関係が?」弘美が目を丸くして言った。

「分からない…」真冬は首を振った。「昨夜から、訳が分からないことばっかり…悪いけど、ご飯を食べたら直ぐに帰るね」


 真冬と弘美は、すっかり暗くなった乙女ロードを駅に向かって歩いていた。来週末の原宿のバーゲンの話題で盛り上がっている。しかし真冬は、警察に連れて行かれた秋雄の事が心配だった。自白を強要されて、生贄の山羊にならなければいいけど。そして自分の身の安全も不安だった。だけど自分の身は、自分で守らないと。

 その時、真冬のスマートフォンが鳴った。

「あ、秋雄さん」真冬は立ち止まって電話に出た。

「真冬ちゃん?」電話から秋雄の声が聞こえる。「今警察なんだけど、頼みがあるんだ」

「まだ警察なの?どうしたの?」

「周囲に人がいると不味いので…」

「分かった、ちょっと待ってね」真冬はスマートフォンからを耳から離すと、弘美に言った。「弘美、ちょっとごめんね」

 真冬は弘美から離れると、人気のない路地に入った。「ここなら誰もいないけど」真冬は電話の秋雄に言った。

「君が欲しいのだ」

 スマートフォンからではなく、直ぐ背後から秋雄の声が聞こえた。ハッとして振り返る真冬。そこには和也が、不敵な笑みを浮かべて立っていた。

「あいつは今頃、二度目の死を味わっているはずだ」


 夜の帳の中を、秋雄を乗せたパトカーは走り続けていた。東京の中心から外れ、一般の住宅や空き地が多くなってきた。秋雄は両脇を先ほどの警察官に挟まれたまま乗せられていて、運転席と助手席にも若い警察官がいる。

「かなり時間がかかっているけど、どこの警察署?」秋雄はこの警察官たちに疑いを持ち始めていた。

「あそこだよ」

 年配の警察官が指差す方向を見ると、使われていない小さな工場があった。その時、秋雄は自分が罠に落ちた事に気が付いた。

「お前ら!」

 秋雄は抵抗しようとするが、両脇の警察官に押さえられてしまった。

「無駄な抵抗はやめろ」年配の警察官が嘲笑った。

 パトカーはそのまま、工場内に入った。かつては何を作っていたのだろうか?今ではすっかり廃れてしまい、秘密の隠れ家にするにはもってこいの物件だった。

 秋雄はパトカーから引き摺り下ろされた。。四人の警察官を相手に必死に抵抗するが、運転席と助手席にいた警察官が、両脇から秋雄を押さえつけた。

「離せお前ら!この隙に真冬ちゃんを!」

「あの女はフルカス様の新しい肉体となるのだ」年配の警察官が言った。

「お前にはここで死んでもらう」若い警察官が言った。

 四人の警察官の目が赤く光った。再び抵抗する秋雄だが、両脇の警察官に放り投げられた。空中に舞い、二メートルほど先のドラム缶に激突して倒れこむ。

「ぐあ!」激痛のあまり、声も出ない秋雄。

 警察官たちが、秋雄を殺そうと迫ってくる。痛みをこらえて立ち上がった秋雄は、なおも戦おうと身構えた。

 その時、秋雄の懐が強烈な光を発した。警察官たちは両手で顔を覆うようにして怯んだ。

「日、光が…」秋雄はポケットから鍵を取り出した。光を発しているのは、サリエルから授かった鍵だったのだ。秋雄は鍵を天に掲げた。

「変身!」

 すると夜空に光る満月から光の帯が発せられた。光の帯は工場の破損した屋根の穴から秋雄に注がれた。秋雄の体が眩い光に包まれ、その中に一瞬だけ天使の姿が浮かび上がった。

 光が消え去ると、そこには異様な姿があった。漆黒の鎧に身を包み、頭には銀の髑髏を模った兜を被っている。その手には、自分の身の丈ほどあろうかという巨大な鎌が握られていた。

「何者だ!」年配の警察官が叫んだ。

「邪悪なるものを葬るため、天より堕ちて来た」漆黒の男は、鎌を振り回すと身構えた。「死の天使ネクサンジェラス降臨!」

「死の天使だとぉ!」年配の警察官が叫んだ。

 ネクサンジェラスは右手を警察官たちに向けた。

「正体を現せ、邪悪な者どもよ」

 ネクサンジェラスの右の前腕にある鍵の模様から、警察官たちに光が照射された。警察官たちは見る見る、その醜い正体を現した。

「バレたかぁ〜!」年配の警察官だった化け物が叫んだ。

「俺たちはフルカス様に従う二十の悪霊軍団(レギオン)だ」

 正体を現した悪霊四匹は、ネクサンジェラスに襲いかかった。一方のネクサンジェラスも、鎌を構えて迎え撃つ体制だった。

 二匹が挟み込むように、鋭い爪と牙で攻撃してきた。悪霊が間合いに入り込む前に、ネクサンジェラスは鎌の一振りで一匹を一刀両断した。もう一匹の攻撃は、超人的な跳躍力で背面宙返りをしてかわした。しかしネクサンジェラスが着地すると同時に、別の一匹が頭部についた触手を鞭のように振るってきた。ネクサンジェラスはすかさず鎌を振るい、触手を切断する。次の瞬間には触手の悪霊の間合いに入り込み、首を跳ねていた。

 生き残った獣のような一匹と、リーダー格の年配の警察官に憑依している悪霊は、鎌が届かない距離でネクサンジェラスを挟み撃ちして、周囲をぐるぐると回りながら間合いを詰めていった。

 次の瞬間、二匹が同時に飛び上がって襲いかかってきた。ネクサンジェラスは鎌を獣のような一匹に投げつけた。鎌は回転しながら飛んでいき、この悪霊の頭を真っ二つにした。そしてネクサンジェラスは、リーダー格を迎え撃つために飛び上がった。

「馬鹿め!」リーダー格が叫ぶと、背中に生えている大量の棘がネクサンジェラスに向かってミサイルのように飛んで行った。

 ネクサンジェラスは両腕を顔の前で交差させて防御の構えを取った。棘がネクサンジェラスの腕と体に突き刺さった。しかし何事もなかったように、ネクサンジェラスは悪霊の懐に飛び込んだ。ネクサンジェラスの右の拳から銀色に輝くナイフのような大きな爪が現れた。その爪はすれ違いざまに悪霊の喉を切り裂いた。

 工場の地面に転がった四匹の悪霊の死骸は、元の警察官の姿に戻った。警察官たちは無傷のままで気を失っている。そのうち目が覚めるだろう。しかし悪霊に憑依されていた間の出来事は、何も覚えていないはずだ。

 ネクサンジェラスは工場の外に出た。少し離れた街灯と、月の明かりだけが周囲を照らしている。先ほどの工場内の騒ぎに、誰かが気がついた様子はない。

 ネクサンジェラスは月を見上げた。真冬が危ない。早く助けに行かなくては。

 ネクサンジェラスの背中から翼が生えた。天使に白いそれではなく、彼を包む鎧と同じく、カラスのような漆黒の翼だった。そして彼は、満月の夜空へ舞い上がった。


 真冬は踵を返すと、元来た方向へ逃げようとした。そちらへ行けば、弘美が待っている場所へ出られるはずだ。そして二人で逃げよう。

 すると、真冬の行く手を種々雑多な姿をした十匹以上の怪物たちが塞いだ。

「キャーッ!」真冬は思わず悲鳴を上げた。しかし大都会の真ん中においても、誰かに悲鳴が聞こえた様子はなかった。

「真冬!」

 真冬が来た路地から弘美が現れた。目の前にいる怪物たちの姿に、体が固まって声も出ない弘美。どうしても胸騒ぎがする彼女は、真冬の様子を見るために後を追って来たのだ。

「弘美!来ちゃ駄目!」

 和也が手を天に掲げると、またしても亜空間が出現した。昨夜、帰り道で襲われた時と同じ風景だった。

 弘美は真冬の元へ駆けつけ、二人は抱き合った。

「弘美!」

「これ何なの!?悪魔って…嘘!嘘!」弘美は目の前の出来事が信じられずに、パニックを起こした。

「そうよ、これが和也さんに取り憑いた悪魔よ。どうやら今回は、お仲間付きらしいけどね」真冬は冷静さを取り戻していた。

「余計なのがついて来たな。もう一人はお前らにやるぞ。好きなようにしろ」和也が言った。

 鬼のような姿をした悪霊が、二人に歩み寄って来た。真冬はその腕をぱっと掴むと、合気道の技で地面に投げつけた。その隙に、他の悪霊たちが弘美に手を出してきた。真冬は素早く間に割って入ると、この悪霊たちをキックとパンチで吹き飛ばした。

「あんたらみたいな化け物たちに、みすみす体を乗っ取られたりしないわ」真冬は身構えながら言った。

 しかし数匹の悪霊が、周りから真冬を押さえつけた。手も足も出ない。

「離せ!」抵抗する真冬。

「真冬!」

 弘美も悪霊たちに捕まってしまった。

「ますます気に入ったぞ。お前の体が絶対に欲しい」和也は勝ち誇るように言った。

 和也は真冬の元へ歩み寄ると、彼女の両腕を掴んだ。真冬は必死で抵抗した。

 和也の口から赤いスライム状の物質が出てくる。エクトプラズムと呼ばれる、霊的エネルギーが物質化したものだ。エクトプラズムは真冬に向かって伸びてゆき、彼女の鼻の穴から体内に入り込もうとした。真冬は諦めずに抵抗を続けている。

 しかし、凄いうなり声が響いたかと思うと、エクトプラズムは和也の口に向かって逆流し始めた。途端に何かに衝突されたように、和也の体が吹き飛ばされた。

「な、何だこの女は!?」和也は激しく動揺した。そして何かに気づいた様に天を見上げた。

「また俺の亜空間に侵入者か!」

 亜空間の空に歪みが生じた。そして歪みの中から翼を持った黒い影が姿を現した。悪霊たちの背後に降り立った黒い影は、手にした大きな鎌で真冬と弘美を押さえつけていた悪霊たちを瞬く間に切り捨てた。

「何者だ!」和也が叫んだ。

「邪悪なるものを葬るため、天より堕ちてきた」漆黒の男は鎌を振り回すと身構えた。「死の天使ネクサンジェラス降臨!」

「秋雄さん!」真冬は、恐れおののく弘美をしっかりと抱きしめながら言った。

 ネクサンジェラスは真冬に向かって頷く。

「天界の手先かぁ!悪霊どもよ、羽根一本残らず始末してしまえ!」

 悪霊たちが一斉に襲いかかってきた。ネクサンジェラスは次々と攻撃をかわし、受け、反撃して、悪霊たちを鎌で切り刻んでゆく。その姿はまさしく、天に舞う天使の様であった。

 ネクサンジェラスが最後の一匹を倒すと同時に、和也が指笛を吹いた。すると何処からともなく青白い馬が現れた。明らかに、この世のものではない。和也が馬にまたがると、その手にはフォーク状の長い槍が出現した。そして和也の全身が、炎の様に赤い鎧兜に覆われた。途端に和也の周囲には瘴気が充満した。

「正体を現したな、悪魔騎士フルカス!」

 フルカスは物凄いスピードでネクサンジェラスに突進して来た。鎌と槍では、断然槍の方が長い。間合いに入り込めないネクサンジェラスは、背面宙返りでフルカスの一撃をかわした。

 再びフルカスが突進してくる。今度は側転で攻撃をかわす。するとフルカスの左手から炎の柱がほとばしった。炎は凄まじい勢いでネクサンジェラスの身を焼き尽くそうと燃え上がった。

「燃え尽きろ、天界の手先よ!」その声は和也ではなく、明らかに老人の声だった。

 その時、左側面から攻撃の気配を感じたフルカスは、炎を放つのをやめて上体をかわした。大きな鎌がブーメランのように回転しながら飛んでくると、フルカスが乗っている馬の首をはねた。鎌はそのまま、無傷のネクサンジェラスの手の中に戻っていった。

「寸前に鎌を投げていたとは…迂闊だった」

 フルカスは馬の死骸を蹴り飛ばすと、槍を構えて襲いかかった。

 二人は互角の戦いを続けていた。しかし、既に何匹もの悪霊たちと戦っているネクサンジェラスが消耗しているのは明らかだった。

 フルカスの槍が、ネクサンジェラスの左脇下をこするように突き刺した。鎧が破損し、鮮血が溢れ出る。

「秋雄さん!」見守っていた真冬が叫んだ。

 しかしネクサンジェラスは、自ら突進して間合いを詰めた。さらに鮮血が吹き出す。フルカスの目の前に来ると、右の拳から現れた銀色の爪で左の胸を突き刺した。

 フルカスは凄まじい悲鳴をあげると、大きく後退した。右手で左胸の傷を押さえるが、噴き出すドス黒い血を止めることは出来ない。

「オリハルコンの爪か!」

 フルカスは真冬と弘美の背後に回ると、二人を羽交い締めにした。揃って抵抗するが、どうにもならなかった。

「この二人がどうなってもいいのか!?」フルカスは鋭い爪を二人に突きつけ、ネクサンジェラスを脅迫した。

「くそ!汚いぞ化け物!」真冬はフルカスの手に噛み付いている。

 ネクサンジェラスは脇の下から血を流しながら立ち尽くしていた。

「何も出来ぬか!それがお前たちの弱さよ!」フルカスは嘲笑った。

 フルカスは右手をネクサンジェラスに向けた。今度は炎の柱が、竜巻のように渦巻きながらネクサンジェラスに迫っていった。

「今度こそ、地獄の業火で焼かれるがいい!」

 しかし炎の竜巻は、ネクサンジェラスの目の前で止まった。そしてそのまま、映像を逆戻ししたようにフルカスの手に戻っていった。フルカスの右腕が炎に包まれ、爆音とともに砕け散った。

 フルカスが再び悲鳴を上げ、もう片方の手で腕を失った右肩の傷を押さえる。その隙に、真冬は弘美を連れて逃げ出した。

 ネクサンジェラスの額が光を放っていた。この光が炎を逆流させたのだ。そしてこの光は、光線となってフルカスに注がれた。

 フルカスは光に包まれた。そしてその体から、赤く光る球体が抜け出した。フルカスの本体は逃亡しようとしているのだ。

 ネクサンジェラスの手には、真鍮の壺が握られていた。その壺を天にかざすと、赤く光る球体はその中に吸い込まれていった。

「あと、七十一匹…」

 ネクサンジェラスの額には、第三の目である邪眼が開かれていた。彼にとって最大の武器であり、自分でも制御しきれない危険な能力だった。フルカスを封じた光線は、そこから発せられたのだ。

 その様子を見ていた大鷹が一羽飛び去ったのを、ネクサンジェラスは気がつかなかった。

 亜空間が消滅し、元の池袋の路地裏に戻った。周りには、和也と十人以上の若者が気を失って倒れていた。フルカスと悪霊軍団(レギオン)に憑依されていた人々だ。役目を終えたネクサンジェラスも変身が解け、秋雄の姿に戻った。

「秋雄さん!大丈夫!?」

 真冬と弘美が秋雄の元に駆け寄って来た。

「それよりも和也を」

 三人で和也に駆け寄り、介抱を始めた。すると和也が意識を取り戻した。

「ここは何処?俺は何をやってるんだ?」

「気が付いて良かった」秋雄はほっと、安堵のため息をついた。


 一羽の大鷹が、アガレスの拳の上に舞い戻った。

「そうか、フルカスがやられたか…」大鷹を見て、アガレスはつぶやいた。

「ネクサンジェラス…あいつは邪魔だ。早急に始末しろ」苛立ったアスモダイの声が響き渡る。

「フルカスが奴の気をそらしている間に、セレエが人間界に潜入することに成功しております。彼に任せれば、確実に任務を遂行するでしょう」


 ミルキーウェイの一番奥にあるブースには、秋雄、真冬、弘美、和也、情報屋の五人が陣取っていた。飲み物運んで来た萌が、話の輪に加わっている。

「それじゃあ和也さん、ここ数日の記憶が全くないの?」驚きで、萌は目を丸くした。

「そうなんだ。全然覚えてないんだよ」和也が言った。

「昨夜突然倒れた時は、発作かと思ってびっくりしたよ」これが秋雄たちが取り繕った話だった。

「和也さん、ずっと調子が悪かったみたいだから、あれで正気に戻ったようなものよ」真冬が打ち合わせ通りに話を合わせる。

「じゃあ今夜は、和也さんの正気祝いと行きますか?」情報屋が嬉しそうに言った。

「それいいわね。快気祝いじゃなくて正気祝い」弘美が笑いながら言った。

「是非当店をご利用ください」萌が営業スマイルを見せた。

「だけど萌ちゃんの作る料理は、食えたもんじゃないからな…」秋雄がお手上げというように手を振る。

「ヒドーイ!」萌がふくれる。

すると隣にいる真冬が、秋雄の手をねじ上げた。

「ひとの後輩に…笑止千万!」

「イテテテテテテ!!」

 ブースの中に爆笑の渦が巻き起こった。

この作品は、2008年に発表された『死の天使 ネクサンジェラス Episode.1 死の天使降臨』に加筆訂正したものです。

この作品はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。

作品に登場する人物の言動は、実際のオタクと必ずしも一致するものではありません。

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