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 「悪霊」の主人公スタヴローギンは、あらゆる悪を試してみる。彼は根本的には悪人ではない。作品を注意深く読めば分かるが、スタヴローギンが根っからの悪党であるというような描写はない。実はこの時点で「悪霊」は通俗的な作品ではないものとなっているが、こういう点は多く見逃されているだろうと思う。


 スタヴローギンはあらゆる悪を試すが、それは、ラスコーリニコフと同じで、理性に対する試練としてある。(米川正夫の研究を読んで理解できた) スタヴローギンにとって悪とは、悪の行為をしている時でも己を失う事がない、自意識は冷静に動いている、そういう人生上の実験であった。「地下室の手記」の主人公は、理性の実験を単に地下室で行なったに過ぎないが、ラスコーリニコフは地下室から抜け出てきた。同様に、スタヴローギンも地下室から抜け出て、人生・現実という大きな場で、己の力を試したのである。彼は試みに悪を成してみたが、何も変わらなかった。自分は相変わらず自分であり、理性は正常に働いていた。


 スタヴローギンにおいて理性と行為はこのように完全に乖離している。この乖離は彼を自殺に導いたが、理性と行為が一致している普通の人にとって彼は虚無的な悪魔とも見え、同時に途方もなく魅力的な人物とも見えたのだろう。


 スタヴローギンはあらゆる行為に理性が、自己意識が耐えられる事を確認した。彼は悪に手を染めながらも、少しも「悪人になりきれぬ己」を感じた。だが、彼の無意識は果たしてそうであったか。彼が理性を大きな試練にかけて、それに耐え得たと信じた時に忽然と彼の目の前に悪霊が現れた。これは彼の無意識の発露であり、マクベスが見た魔女と同系のものだろうが、彼はこれすらねじ伏せようとする。彼の理性の、自己の絶対性への希求はあまりにも強烈であり、常人を遥かに越えているが故に、彼は彼を越え、そうしてそれに耐えきれずに死ぬのである。


 ドストエフスキーは、厄介な人物だったらしいが、悪人というほどでもなかった。彼が悪をテーマに取ったのにはもちろん個人的な資質があっただろう。ただ、今は、スタヴローギンが理性の試練を自ら行ったのと同じ事を、運命によって経験してしまったのだと僕は考えたい。


 死刑判決がくだされ、銃が向けられ、後一分で死ぬという所まで、ドストエフスキーは経験した。その時に、皇帝からの恩赦が出て減刑されるのだが、そこでドストエフスキーが経験したのは、死刑という最も極限的な経験ですらも彼の理性を眠らせるに足らなかった、そういう事ではなかったと思う。


 実際、ドストエフスキーと一緒に「死刑の茶番」につきあわされた人物の中には発狂した者もいたらしい。それはそうだろう、それだけの経験をすれば、発狂も止むを得ないだろうーーと「我々」は思う。我々は死刑になるとは自分について考えない。考えないから、「やむを得ない」と考える事ができる。では、その我々が実際に死刑になったらどうなるか?


 ドストエフスキーは死刑にかかった時、極度に青ざめた顔をしていたと言う。彼の心の中に何が起こったか。彼は、死刑という最も極限的な経験の中でも理性は目覚め、最後の一秒間に至るまでこれは眠らないという事を知った。そんなのは当たり前と思われるかもしれないが、それが当たり前と知るまでにどれほどの道のりがあるか。ドストエフスキーは、極限の経験を越えても理性が働き続けると確認した。これはスタヴローギンがあらゆる悪を成しても、自分の理性は働き続けていると知ったのと同様の経験だと僕は考える。


 ドストエフスキーがそこで、行為というのは極限を越えても理性を眠らせる事はできないと悟った。行為と理性との間に断絶があるとも知った。これに関しては、解答のしようがない。しかし、この断絶を個人の意識はなんとか統合しようとする。解消しようとする。苦しいから、解消しようとする。そこで、この人間はいわば、発狂するか、死ぬか、悟りを開くかという風にならねばならない。スタヴローギンは自殺し、ラスコーリニコフは更生した。どちらがより真実だったかはわからないが、更生した後のラスコーリニコフの物語はおそらく語るに足りないものとなるだろう。どちらも、行為と理性との統合を果たしたのだろうか? 結論は出しようがないが、強引に出す事ができると仮定しなければそもそも物語ー小説には結末が作れないのではないのではないか。


 この問題に関してはひとまず置くとして、キリストの問題が残っている。ドストエフスキーは牢獄で聖書を読み込み、キリストを最も尊い人物とした。キリストを自分の中心に置いたと言っても良いが、それは何故なのかという問題がある。


 元々、ドストエフスキーにとって師にあたるベリンスキーが、キリストの罵倒をしてみせたら、ドストエフスキーは泣きそうな顔になったという逸話がある。これは信念更生の前の話だから、その頃からキリストに対する共感はあったと見ていいだろう。問題は牢獄でキリストをどのように見たかという点だ。


 これもまた現代では極めてわかりにくい問題で、最初に名前を出した川上弘美にしろ村上春樹にしろ、漠然と社会の楽天的要素と溶け合う、生活賛歌、凡庸賛歌が彼らの始点にして終点なのだから、本来、牢獄で真理を掴んだ男や磔になった男などは水と油のはずである。だが、話を進めよう。


 ドストエフスキーは書簡で、魂と肉との、美と幸福との関係について語っていた。それを読んで思ったのだが、やはりドストエフスキーという人は、西欧の偉大な伝統に則ったタイプの人物である。つまり、肉と霊、肉体と魂、神と人間というような極限的な二分論において、魂を取るが故に肉体における苦痛を甘受するというような、西欧にある自己犠牲的な、毒杯を仰ぐソクラテスのような、偉大な西欧伝統を引き継ぐ人物であると思う。


 ドストエフスキーが死刑判決を喰らったのは、社会主義的会合に出ていたからなのだが、彼は死刑になって銃を突きつけられる時まで、自分のした事に反省はしなかったらしい。つまり、空想的社会主義に取り憑かれ、死刑になったという事情に反省したわけではなくて、むしろ自分は思想の為に死ぬ偉大な受難者…つまりは、そこでキリストを想起したというのは想像に難くない。


 まあ今から見えば、別にテロの決起集会のようなものでもなく、ただ西欧思想にかぶれただけのグループであったらしいので、とてもそんな過酷な刑を喰らうというのが想像もできないのだが、その時はそうなったわけである。そうして彼は死刑、そこからの蘇生、牢獄、兵役という風に進んでいった。そこで、おそらくドストエフスキーは自分を受難者と密かに感じたであろうし、そういう意味で先人としてのイエス・キリストが見えたのだろう。あるいはそれが言い過ぎだとしたら、キリストが肉体を殺して、神(霊)を取るというそういう極限的なものの頂点と見えた。


 ドストエフスキーという人は、常に極限を指向する人間だった。人間が偉大さを示すには、いわば代償としての「肉」が必要となる。犠牲があって、始めて、精神の高さが現れる。「地下室の手記」の主人公は地下室で呻いているだけだが、「罪と罰」では行為する主人公に代わる。彼は偉大な受難者であるか? 彼、ラスコーリニコフは間違った思想を持って殺人を行った。だが、彼が間違った思想を持ったのは何故なのか。若き日のドストエフスキーに時間を戻せば、彼が西欧思想にはまり込んだのは彼が理想を持とうとしたからだった。彼はより優れた、偉大なものを憧れたが故に、後のドストエフスキーが間違いと感じたような思想を掴んだのだ。


 ラスコーリニコフはただの殺人者ではない。だが、彼は厳然として、「ただの殺人者」とならざるを得ない。彼は愚か者ではない。彼は普通よりも賢く、優れた人物だ。だが、優れているからこそ彼はあのような事を行った。これはパラドックスだろうか?

 

 ドストエフスキーにとって最も重要だったのはキリストその人であって、キリストは偉大な受難者だった。悪魔は石ころをパンに変えてみろと要求したが、キリストは拒否した。ドストエフスキーの目には、社会主義は、石ころがパンに変われば全ての問題は解決すると思っているそんな思想に見えたのだろう。これは牢獄で転換した考えだろうが、こういう思想は現代においては過去よりも遥かに支配的だ。テクノロジーが未来を明るく彩るという考えは、石ころをパンに変えられるようになるのが「良き未来」であると考えると同様の思想であろう。


 ドストエフスキーはそんな風には考えなかった。キリストも考えなかった。彼らを同一視するなら、彼らは肉体的幸福に浸る事によって、魂が汚染され、腐り果てるのを拒否した。これは、伊藤計劃のディストピア小説、即ち、システムによって人間の苦悩がゼロになる事への疑念とも関わりがあるだろう。「センセイの鞄」はそれこそ、システムによってスポイルされ、魂が消失した人間のぼんやりした幸福に見える。


 人間は合理的に幸福を目指すとは経済学が教える、というか学問の方で勝手に規定した話だが、牢獄でドストエフスキーが見たのはそれとは逆のものだった。人間は自分の恥辱をぬぐう為に、自分の意志を果たす為に、低劣な人間も高貴な人間も合理性を蹴破るのである。ドストエフスキーの小説では、例えば、大金を貰う機会があっても自分の誇りの為に拒否するというような人物が出てくる。大金を暖炉にくべる、本当はその金が欲しくてたまらないのだが、己の精神性の顕示の為に身動きせずに耐えるという場面があったと思う。そういう場面で何が描かれているかと言えば、人間とは、自らの幸福以上のものがあって、それを示すために、高貴さも卑劣さも共に走りだすというような人間の姿であろう。


 ドストエフスキーが牢獄で見たのは、人間の反合理性であったと言って良いだろう。ドストエフスキー哲学の一つである、黙示録から引いた言葉「ぬるきものよりも熱きものか冷たきもの」という思想はドストエフスキーの小説にも書簡にも徹底的に染み込んでいる。中庸と小市民的安住を基礎とするような人間というのはドストエフスキーには興味のないものだった。彼の賭博熱、狂気的な恋愛、牢獄、死刑判決。全ては彼が呼び起こしたものと言っても良いが、彼は人生においてそれら全てに「耐えられるか」、灼熱の棒を握りしめて、そのままいられるのか、その実験を自分の人生において果たしてしまったと言っても良いだろう。彼は見事に耐え、それを小説という形で、様々に盛る事ができるようになった。


 長くなってしまってので締めたいが、ドストエフスキーの小説に現れる人間はみな、自らの限界を破る事を運命づけられている。そしてそこでしか、例えば、自分が一億円持っていたら一億賭ける、10円持っていたら10円賭ける、何もなかったら着ている服を賭ける、そんな風にして、そこでは物はただ精神を顕示するために存在するに過ぎない。そこで一億円と10円の違いは存在しない。


 「罪と罰」のキャラクターはみな、自分自身を犠牲にするか、他人を犠牲にして事を成すかという思想に取り憑かれている。そこにおいて、つまり、科学実験において日常ではないような高エネルギーを発生させるように、そうした特殊な場においてしか人間の偉大さも俗悪さも露わにならない。当時のロシア社会はまさに、そのような場が現れる混乱した社会であったとも言える。

 

 最初の話に戻ると、そもそも中庸と、社会制度、人々の無意識的欲望と一致している作家には、どのような個性も描き出す事ができない。個性とは何かと言えば、己を個性たらしめる為に全てを捨ててもそれを取るとでもいうようなもので、モーツァルトは通俗的に楽譜を書き直すのを拒否した事でモーツァルトその人になったのだった。人々と足並みを揃えながらも個性的であり、己であるというのは多分ありえない。そんな風に見えても、本物の個性は常に己の中に孤独を飼っている。そうして彼は全てを奪い取られても、それだけは奪い取られたくはない。そういうものがなければ、彼は彼でなくなると本能的に知っている。


 マリィという批評家のドストエフスキー論にいたく感銘を受けたのだが、彼が言うには(彼はイギリス人だった)、イギリス社会は成熟しているので、ドストエフスキーのようにはならない。つまり、悪とは何かという抽象問題と、実際の犯罪という現実問題はイギリスでは別々に処理されている。とにかく犯罪は法で裁かれる、しかしその後に、その犯罪について吟味する事はできるという、つまりは大人の社会である。ドストエフスキーのいたロシア社会では、倫理問題はすぐに現実問題と結びつく。全ては混沌としていて、極端から極端へ流れる精神が充満していた。文学というものも、「文学」というジャンルがあって、それが社会の中で受け入れられたのではない。むしろ、ロシア社会には何もなかったのであろう。何もないからこそ、文学はあらゆる哲学・政治・倫理といった事柄を全て引き受けざるを得なかった。「カラマーゾフの兄弟」が巨大な作品なのは、混沌とした社会の矛盾を、ドストエフスキーという個性が引き受けた為だったが、それを引き受けるのにいかなる代価が支払われたか、今の我々に想像するのは難しい。


 ドストエフスキーが見たのは人間の恐るべき不合理性であったのであって、キャラクターはみな、自分が一つのやり方で定義されるのに猛烈に反発する。かつてドストエフスキーは民衆を、ベリンスキー流に定義していたのではなかったか。だが、牢獄において彼は人間を発見した。同じ人間であると発見した。同じ人間であるというのは、そこに人権だの権利だの秩序だのがあるという意味ではない。全てを失っても尚人間で、相手も人間でこちらも人間ならば、人として相対的に、対話的に関わり合う事しかできない。彼らの存在を一義的に決める事はできない。また、彼らは自分の定義を打ち破り、己を示す為ならばあらゆる事をする。時に生命を破る事すらもする。ドストエフスキーの中での「人間」とは恐らくそのようなものなのだろう。これは中庸と秩序の中で、エネルギーが少なく、運動も乏しい人間とは真逆である。ここで、人間はドストエフスキーによって違った風に捉えられた。その為には牢獄での経験は必須だった。


 ドストエフスキーにとってのキリストは、肉体を犠牲にしても霊性を取るというその象徴だった。人間により高いものがあると示す為には、肉を差し出す必要がある。もちろん、これが悪となれば最悪の全体主義や他者殺害の論理となるが、それと同じ論理が人間の崇高なものを示すものともなる。これはどちらも極限的だ。ドストエフスキーにとって、ヴェルシーロフ、スタヴローギン、ラスコーリニコフ、イワンといった人物は否定的に捉えられたのか、それとも肯定的に捉えられたのか、それは何とも言えないだろう。


 はっきり言えるのはドストエフスキーは、それらの人物に、善の、崇高な人間の中に見たものを投入せざるを得なかったし、逆に、チホンやゾシマ長老のような人物にも、悪に至る人間の中にあるものが投入されている。そこで、善悪は表面的な現れとして、実は微細な差異であるように見える。無神論と有神論とは互いに対立しあいながらも、近しいものとしてある。遠いのは、冷笑的に極限性を見つめる中庸的な、凡庸な人物である。凡庸な人物は世界の縁に沈んでいる。ドストエフスキーが望む人物は例え卑劣であろうと、己の全てをさらけ出せる人物だ。己をさらけ出すのを怖れて、他人行儀に生きる人物は用がない。ドストエフスキーの描くキャラクターは単に「面白いキャラクター」というようなものではない。人間の本質を我々は常識で薄めているが、それを剥ぎ取ればどうなるかという壮大な実験だったと言って良いだろう。


 さて長々と書いてきたがもう終わりにしたい。今のこの社会は、かつての価値観が崩壊してきており、異常な犯罪が頻発するようになっている。これはモラルの低減ではなく、信ずべき価値観が消えたためであろうと思っている。これから劣悪な事も崇高な事柄も起こるだろう。そういう社会において、村上春樹なんかは相変わらず自分の倫理を変えるつもりはないようであるし、書店にある自己啓発本も、現代の知識人も別に、人間存在について深く考えるつもりはないように自分には見える。


 というのは、彼らは僕などよりも遥かに穏健であり、常識人であり、仮に狂犬のような姿勢を見せるとしてもそれは単に反動的にであって、つまりは彼らは全て存在するものを認めた上で物を言う、作るという方式を取っているので、それは安定した土台がある上では極めて有効な戦略として働いたわけだ。だが、今はその土台そのものが破壊されているわけだから、そもそも人間存在について本格的に考える必要があると自分は思っている。


 哲学をする人間は哲学に詳しく、賢く、同じく文学をする人間は文学について詳しかったり、賢かったりする。それらは、社会の上で認証された「文学」とか「哲学」という形式を考えるという運動であって、そういう運動が不可能であるような今の時代において、もう一度様々なものを見直す時が来たと思っている。そういう中ではドストエフスキーという混沌と矛盾に対してもっとも果敢に戦った闘士は、我々が学ぶ所が大であると思う。


 これから本当に新しいものがあらわれるとしたら、それはまるきり新しいものに見えないだろう。むしろそれは不可解に見えるであろう。だが、そんな益なくして労ばかりの仕事を誰がやるのか。それは理想に憑かれた現代の少数の、隠れた人間が行っていくだろう。そこから、我々はそもそも自分が何者か、どういう倫理で生きるべきなのか、そういうものを発見する事になるだろう。というかせざるを得ないだろう。


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