9 忍の結界
王国軍の野営地、その篝火の明かりがわずかに届かぬ距離に彼らは居た。ルイスは身を低く屈め、鋭い眼光で王国兵の警備態勢をつぶさに観察する。王国兵の人数、人の出入りや流れの向き、かがり火の数と配置、哨戒の間隔……。闇を利用し彼らの拠点を遠巻きに一周すると、ディアーナの待つ場所に戻ってきた。
「兵の配置、馬房の位置、武具や道具置場はわかった。さて、夜明けまでに片付けてしまおう」
ルイスがそう言うと、二人は打ち合わせ通りそれぞれの配置についた。夜明けまで間はない。事実、彼らは太陽が出るまで休みなく作業に追われた。
ーー
陽が昇り、最初に異変に気がついたのは哨戒の兵ではなく、かのフットバルトの従卒だった。朝早く彼は、主人の馬の世話をするため、馬房にやってきた。
「どうどう、今日も機嫌よくやってくれよ!」
従卒はフットバルトの愛馬の首筋をポンポンと叩き、餌のカイバを桶に入れる。馬はブルルッと一啼きすると、美味そうにカイバを食べ始めた。他の馬も、馬房の様子も何も変わったところはない。それから馬に丁寧にブラシをかけると、主人の鞍を取りに馬具小屋になっている天幕に入った。中にある一際輝く鞍を持ち上げると、なぜか違和感を感じる。鞍を触りながら詳しく調べると、違和感の正体が分かった。
「……ベルトがない」
ベルトとは鞍を馬の背中に固定する為の革製の帯である。それが無くなっている。彼は(外れて落ちたか?)と思い、鞍を置いてあった辺りの地面を探すが何処にも見つからない。従卒は一気に血の気が引いた。
(不味い、本当に不味い。ただでさえ傲慢で理不尽なフットバルトだ、こんなあからさまな落ち度があればどうなるか?)
従卒の脳裏に、血塗れの鉄棍を手にして悪魔の笑みを浮かべる、フットバルトの映像がありありと浮かんだ。
「どうする!俺どうする!!」
滝のような冷や汗が吹き出しパニックに頭が働かない。
(逃げるか?いや、何処に?そうだ、見なかった事に、って済むか!!正直に言えば……、無理、殺される!)
その時、アイデアがひらめく。
(そ、そうだ!他の鞍のベルトを拝借すればっ!この際、他の奴のことなど知ったことか!他の騎士の従者なら、主人に殺されることもないだろ?)
キョロキョロと誰も近くにいない事を確認すると、急いで他の騎士の鞍のベルトを付け替えようとした時、あれ?っと従卒は気がついた。
「こ、これもない。これも!こっちも!……どうなっているんだ?」
混乱の極みにあった従卒が通常の思考に戻ってくる為に、たっぷり時間がかかった。
ーー
プォォオオオ!!
警報の角笛が響き渡り、王国軍が叩き起こされた。かの従卒の元に『何事か!』と急ぎ集まった警備兵は、最初、彼の話の内容に『だから?』といった感じだった。たかがベルトの紛失である。高価な武具や、名馬など価値のあるものでは無い。誰かが殺されたわけでも無い。
「どこかに落としたんだろう?」
「誰かがまとめて管理してるんじゃないか?」
半分あくびをしながら、口々に勝手な事を言い合う。最終的に総出で捜索するが、どこにも見つからない。1つ2つではない。すべての鞍の、それは荷馬や馬車用のも含め、すべての鞍のベルトがないのだ。さらにわかったことだが、鞍についているベルトを結ぶ金具も、あるいは切り取られ、あるいはひん曲げられ、あるいは割られ、すべて使い物にならなくされている。もはや敵の仕業に間違いない。
「なぜ、奴等はベルトだけ必用だったのか?」
再び集まった彼らは首を捻るばかりである。
「何があった……」
そう従卒達に声をかけた人物は、王国軍有数の名将として名声高き、ガラント卿その人であった。彼は従卒達から事情を聞いているうちに顔色が蒼くなり、さらに真っ赤になった。彼は鞍の修理を従軍中の鍛冶職人に急がせるよう従卒に命令すると、指揮官の天幕に走ってやって来て、騎士の礼もそこそこに、声を張り上げた。
「敵の襲撃です!敵に我々の足を潰されました!!!」
”鞍”とは騎乗する際に用いる道具の一つである。鞍という革製の道具を使ってやっと人間が安定して馬を操縦できるのだ。また乗馬したり、下馬したりする場合には、足場となる鎧という馬具を使うが、これも鞍に付属されている為、ただ乗るだけのこともできない。
その”鞍”を馬に固定する為の道具=”ベルト”がなければ騎士にとって馬は無用の長物になる。騎士は基本的に馬上で戦う兵士であり、重い武装も馬の機動力を基に計算され作られている。
つまり、彼らは”ベルト”一つで馬一頭、騎士一人を無力化したに等しい。
その後の調査で、ご丁寧に荷馬用の馬の鞍も、馬車牽引用の馬の鞍も同様に”ベルト”が奪われている事が分かった。このままでは、全員が馬子のように馬の口取りをしながら徒で行軍する羽目になる。しかも馬に引かせる荷物を自分が背負ってだ。
報告を受けた指揮官は、ガラントに尋ねる。
「たかがベルトであろう?天幕の布や他のもので代用はできよう。それほど慌てる事か?」
「ベルトは全て、それは騎士の乗馬のみならず、荷馬や馬車のものも含め一本残らず無くなっております。しかも敵は卑怯にもベルトを固定する金具まで壊しておるようで、急いで修理をさせますが果たしてどれだけの数、修理が可能かわかりませぬ。おそらく全てを修理するのであれば、ベルトを取りに本国に戻った方が早いほどかと」
「ならば、そう……」
「時間がありませぬ。我々は目的の地まで早急に辿り着かねばならないはず。いたずらに時間を浪費すれば、風の国の本隊に包囲殲滅されるは必定」
ガラントの言に、指揮官は嫌な事を思い出させられ、怒りを込めて言い放つ。
「フットバルトめ!」
彼の目的、本国から与えられた命令は風の国への侵攻作戦では無く、この地の遺跡に眠る”ある秘宝”の奪取であった。その為、騎士を中心とした少数精鋭で風の国に入り込み、風の国に気づかれる前に遺跡探索を完了させ、目的の達成した後に速やかに帰還する事だったのだ。第1の誤算は風の国の警備兵に見つかった事、第2の誤算はその警備兵を二人逃してしまった事である。逃してしまった警備兵とはフットバルトが敵の奸計にまんまと嵌り、逃した二人の事であった。このままでは間も無く、やってくる敵の大部隊に包囲殲滅されかねない。
「……しかし、ガラント卿、ならば何とする?」
指揮官はガラント卿に尋ねる。
「本国の命令は絶対。なれば時間の許す限りで鞍を修理し作戦を続行いたします。目的の遺跡までは馬で半日ほどの距離。おそらく敵が本体を連れて戻ってくるには3日、早くても2日はかかるでしょう。その間に例の物を手に入れて参ります。鞍の修理の間に合わぬ騎士、荷馬はここから帰還させましょう」
ガラントの判断は早かった。すぐに鍛冶師に鞍の修理を頼む。しかし、鍛冶師の言では、ガラントのいう時間内に修理できる数は20ほど。鞍の数は100以上あり2割に見たぬ数だ。
「帰還者達の馬車を先に頼む。それからできるだけ騎士の鞍を修理してくれ」
そう鍛冶師に頼むと全軍に指示を出す。
「すぐに出立の用意をせよ!それからは不急不要の物資はここに捨て置く。急げ!」
ーー
王国軍は騒然としていた。それを遠くから眺める一組の男女。
「”立つ鳥あとを濁さず”とは行かぬようだな……ふむ、荷馬車に人員と多少の物資か、残りの物資はここに捨て置くようだが、兵を二つに分けたな?」
ルイスは思う。
(どうやら、風の国に攻め入ってくる感じではなさそうだ)
「馬も、ここに置いていってくれますかねぇ?」
ディアーナは地面に手をついて身を低くしていたので、立っているルイスを下から見上げるように尋ねる。
「ははは、それは無かろうなぁ。訓練された馬というのは高価な武具にも勝る武器だ。みすみす置いていったりはせぬよ。えっちら、おっちら、馬子のように馬の口取りをしながら本国に戻るだろぅ、しかし、はぁ、危ない危ないのう……んふっ」
ルイスはニヤニヤと王国軍の様子を眺めていた。
「さてさて、細工は流々、仕上げを御覧じろ……」
そう言うと、二人の姿は静かに森の奥に消えて入った。
ーー
「出立ーーーーーーーッ!!!」
指揮官の号令に従い、急遽補修された騎士の鞍の数は20と7。騎士までも修理作業に参加し、皆で手分けした結果、予想よりも多く出来上がった。仕上がった鞍は騎士団の中でも、より腕が立つ者の馬に順に付けられていった。当然指揮官、ガラント卿、そしてフットバルトの馬にも取り付けられる。そして、それぞれの騎士の従者は必要最低限の水、食料を持ち、厳しい行軍に走ってついていく。都合、指揮官、騎士を含むを60人ほどの部隊がこの野営地から見送られた。
残った者達もまた、最低限の水や食料、資材その他必要な物資を馬車に積み込み、従者は主人の馬の口をとって王国への帰路に着く。まさか彼らは歩いて帰る羽目になるとは思わなかっただろう。
森の道は細い、馬車の通れる道とはいえ、横に並ぶのは3−4人が限度、馬なら2頭だ。隊列は斥候を先頭に、資材や馬具、重い騎士の武器防具などを積んだ馬車が続く。その後ろには騎士、馬を連れた従卒が続き、最後方もまた斥候が警戒する。
長い隊列は前後で声をかけ合わなくては統制が取れない。前後の斥候が声を掛け合い、警戒しながら進む。とはいえ、あとは帰るだけ、日はまだ高く、道は一本道で迷いようも無い。敵が来るには距離があり、逃げた二人が反撃してきたとしても、こちらの数は100人以上、簡単に撃退できる。そう考えると緊張感が緩むのも無理からぬ事だ。
森の中の一本道を1時間も歩いてきた一行はふと、不思議な感覚に襲われ、とうとう先頭の斥候同士が口論を始めた。
「おい、こんな道通ったか?」
「太陽の向きが違う。こっちじゃ無いだろう?」
「いや、道は一本道じゃ無いか!迷うはずがない」
そんな言い合いをしていた彼らの耳に後方から大きな声が聞こえてきた。
「敵だぁーーーー!敵の大部隊だぁーー!」
ーー
その少し前、最後方の斥候は、のんびりと歩いていた。
「なぁ、結局今回の遠征はなんだったんだ?」
「さぁな。俺は極秘任務としか聞いてなかったからなぁ」
「噂じゃ、この辺の遺跡に関係あるらしいが……」
「まぁ、戦闘もなく無事帰れるんだ俺はありがたいぜ、なっ」
そう言い、同僚の肩をポンっと叩いた一人の斥候は、突然同僚の頭から矢が生えたのを見た。同僚は目をグリンと白目に裏返すとその場に崩れ落ちた。
驚きの声をあげる間も無く、別の同僚の額から真っ赤に染まった鏃が突き抜けていた。
「なっ」
後ろを振り返ると、もうもうと砂煙が上がっているのが見え、たくさんの馬の蹄の音や、敵の鬨の声も聞こえた。そして、おそるべき正確さで仲間に次々と矢が刺さった。
我に返った斥候は、やっと大声で叫んだ。
「敵だぁーーーー!敵の大部隊だぁーー!」
その言葉を待っていたように無慈悲な一撃が男の喉に刺さった。男は死ぬ間際、木の上にクロスボウを持った人影を見たが、彼は二度と声を出すことができなかった。
そんな斥候のすぐ前の位置、馬を連れていた従卒達は混乱する。
突然背後から襲われたらしい。抜剣をして身構えようとするが、今度は矢が自分の連れている馬につき刺さった。暴れまわる馬を押さえつけるのが精一杯で確認どころではない。わかっているのは斥候の「大部隊」という言葉と実際に襲われているという事実のみ。
混乱は恐慌を生み、最後方から波打つように広がる恐慌はやがて部隊全体に広がる。もはや軍団としての箍が外れていた。
逃げるには前に行くしかない。先頭の馬車群は、徒の兵を置いてけぼりにする勢いで走って逃げようとする。それなのに、馬が前足を大きく振り上げ、甲高く嘶いて止まった。
「道が、ない」
道が途中で途切れている。目の前には道の痕跡すらない藪であった。もはや明白である。一行は迷わされ、この場所まで誘導されてきたのだ。その真意は一つ。
馬は方方に散り逃げ、従卒達は前に逃げようとし、騎士達は迎え撃とうと、後ろに行こうとする。
「敵だぁ!」「敵はどこにいる!」「馬車から俺の武器を出せ!」「逃げろぉ!」「おい!俺の馬はどこだ!」「助けてくれぇ!」
一人の従卒が道を外れ森の中に逃げようとしばらく走った後、突然従卒が空に吊り下げられた。獣用の罠である。また、別の従卒が今度は地面に仕掛けられた罠の木の杭に足を貫かれ身動きが取れない。
「うわぁああ!!」「グァ!い、痛い!!!」「う、動けない!助けてくれ!」
あちこちから悲鳴、絶叫、が上がり、結局その後30分とかからずに100人以上の軍団は不案内な森の中でバラバラにされてしまった。