パッシング・エンカウンター ③
全部で六本。上空からあらゆる軌道で馬車の背後、あるいは側面めがけて飛翔する炎の槍。その速度は火球の時よりも数段はやい。
「ほぅ、今度は規模をおとして数と速度で仕留めに来よったか。まあ打倒な手じゃの」
「……いやジジィ。暢気に言ってるが助けねぇのか? ジジィならこの状況でもなんとかできんだろーがよ」
「そうですよぅ、レオルドさん。助けてあげましょうよぅ」
そうした仲間たちの声に、レオルドはほっほっほっと愉快そうに笑って、
「若いのぅお主ら。まあそれはそれとして、此奴らはこう言っとるが必要そうかの? ジークや」
「……必要ない」
「じゃ、そうじゃ」
まるで根拠のない即答。それを疑問に思うどころか肯定的な態度のレオルドに、さすがに異論を唱えるだろうと思いきや──
「ジークさんがそう言われるなら……」
「……フンッ、お手並み拝見といこうじゃねぇか」
まるで茶番だとシュウは思った。
しかし、だからといって彼らの『決定』に口をはさむことはない。
シュウはトクベツ正義感の強い勇者気質というわけでもなければ、聖人君子のような立派な思想を持ち合わせてもいないからだ。
彼らに対して「不満がない」といえば嘘になる。
ただ、自分にできないことを他人に強要することの理不尽さを知っている。それだけである。
とはいえ、最低限出来ることはやっておくべきだろうと。
シュウは先ほど《インベントリ》から取り出したばかりの小振りのナイフを、感触をたしかめるように握りしめる。
これはあくまで保険的措置だ。
何事にも『絶対』はない。
もしもの事態に準備から始めていては手遅れになると思ってのことだった。
すこし前であれば距離による問題が重くのしかかっていた。
しかし、火球の発生から水魔法での抵抗、対消滅と。時間は十分に経過し、はるか上空にいた馬車は今なお高度を落としながら接近して来ている。
このまま進めば、あと数分でシュウの頭上あたりを通り過ぎていくことだろう。
(……ずっと空を飛び続けられるなら馬車用に道は必要ない。空に浮いてる石にしろ、中央の車道にしろ、こうして馬車のために用意されてるってことは、いつか地上に降りてくるってことだ。そう思って中央側に飛び出したのは正解だった。……ま、さっきの抵抗がなきゃ完全に無意味だったわけなんだが)
結果オーライ、ということでひとつ。
シュウはそうして湧き上がる苛立ちを誤魔化しつつ、いざという時に冷静な判断ができるよう気を引き締める。
そうしている間にも状況は動きつづけ、炎槍は半透明な壁のようなものに突き刺さって掻き消えたところだった。
シュウには魔法で防いだことはわかっても、具体的な方法まではわからない。が、これだけ自衛が出来るのなら本当に心配など不要だったかもしれないと思い始めていた。
「ほほぅ、あれは『聖謐の盾』の多重展開じゃな。クセがつよいせいで下級認定されとる魔法じゃが、重ねれば上級魔法にすら耐える強固な盾になるからの。まあ、それが出来るのは儂が知るかぎり三人だけじゃが。なんにせよ、中級中位の『迸る業炎の箭』程度、防ぎきるのも道理じゃろうて」
案の定、と言うべきか。まさに興が乗ったように勝手に解説してくれるレオルドと呼ばれた高齢の男性冒険者。
いや、出で立ちだけなら冒険者というより根っからの鍛冶職人といった感じだろうか。彼の大きな胴囲よりもなお巨大なヘッドをもつ鉄槌を背負っていることが、その印象に拍車をかけている。
「それにしても大した手際ね。初級魔法しか使っていないところからして、個々の基礎能力は大したことないはずなのだけれど。ズバ抜けた技量と機転でなんとか完封できている状態、といった感じかしら」
レオルドに次いで賛辞を述べたのは妙齢の女性だ。服装からしておそらく魔法使いの類いだろうと思われる。美しく整った知的そうな風貌もそのイメージを補強してくれていた。
しかし、身に纏うローブは神官服っぽくあるものの、黒基調であり、かつ『露出を控えつつ露出する』という極めて難しいコーディネート。それをキチンと着こなす女性はキレイな黒髪をおしゃれにまとめている──と、こうして特徴を並び立てるとわかるように、一見だけでは神職と真逆の印象がつよい。首元をかざるロザリオだけが、唯一"らしさ"を演出している状態である。
いっそ邪教信徒と言われた方が納得できる、 とそんな現実逃避的な考察も、次のレオルドの言葉でキレイさっぱり吹き飛んだ。
「ふむ、ま、そんなところじゃろうな。現にほれ、おそらく次は防ぎ切れんぞ?」
これにはシュウも全力で同意を示した。
「いやいや防ぎ切れるとか切れないとかいう次元じゃないだろアレはッ!? あんなものが降ってきたら、犠牲者どころかここら一帯火の海になるぞ……!」
思わず全力で非難をさけぶシュウだが、無理もない。
それほどまでに、今なおもって彼が肌で感じている魔力量はこれまでと比にならない域にまで達していた。
そしてそれは、神秘の力として現出することでより危険度を克明にさせる。
術者を中心にして展開される魔法陣の数々。数えることすら馬鹿らしく思えるほどのそれは、属性を示すように燃えるような輝きを放っている。
そこから滲み出すように顕界した剣、剣、剣、剣。
その一本一本が業火に包まれ燃えさかる。
空から鼓膜を揺さぶる音は、高炉を前にしているようでまるで現実味がない。
警鐘が鳴る。警鐘が鳴る。
逃げろ、と本能は叫ぶが、今さらどうこうなるものじゃないのは見るに明らかだ。
「こんな都市のド真ん中で『炎壌生ずる千の緋剣』とはのぅ。悪戯にしちゃあちっとばかし度が過ぎるわぃ」
上空に展開された夥しい数の土炎の剣影を睨みつけ、叱りつけるように低い声を発するレオルド。
その手は背後の鉄槌へとのび、今にも抜き放たんばかりである。
しかし、それをよしとしない者がこの場にいた。
「……どういうつもりじゃ、ジークハルト?」
パーティのリーダー格らしき大柄の霊獣種──ジークハルトが、彼の行動に待ったをかけたのだ。
「……」
物言わぬは巨漢は、ただひたすらに燃え盛る剣影を見つめ──否、その視線はもっと手前。迫り来る馬車の内側に向けられているように感じられた。
「……彼女らにはまだ抗う術があると、そういうことかの?」
シュウと同じ結論に至ったのか、レオルドが確かめるように言葉を返す。
「……ああ」
「ふむ、確かあと二人ほどおったのじゃったか、あのパーティは。なら、久々の再会の前にもうすこしだけ成長を見守るとするかの」
この状況下でその自制心は大したものだ。
一度振り上げた拳を下ろすには強い精神力がいる。抱える想いが強ければ強いほど。達観できるだけの余裕あってこそ可能な芸当といえる。
それだけに、レオルドたちは数多の修羅場に身を投じて、豊富な経験を積んできたのだろうと、シュウは漠然とそんなことを分析し──
──だからこそ、言わずにはいられなかった。
「──────けるな」
「……ふむ?」
「ふざけるなって言ったんだ。耳が遠くて聞こえなかったか耄碌ジジィ」
「……はて。おぬしとは初対面のはずじゃが。どこかで会うたかの?」
シュウの突然な煽り文句にいやな顔ひとつせず、ただただ怪訝そうに記憶をさぐるレオルド。
それにねぇよと胸中でのみ返事をし、これ以上の煽りは時間の無駄とシュウは白髭の巨体から視線をきった。
そのまま流れるようにもう一人の巨体を見上げ、何かを思い出す仕草をとってから、
「あー、たしか……ジーク〇ストさん、だっけか?」
「……ジークハルトだ」
もちろんそんなことは知っている。
それでもあえて間違えたのは、彼の反応から確信を得るためだ。そう──、
(……心底興味がないって感じだな、これは)
まるで同じ人として見ていないかのような対応。シュウに目を向けたのは一瞬だけで、すぐに上空へと視線を戻してしまう。
その素っ気なさは性格的なものもあるのだろうが、それ以上に「楽しみの邪魔をするな」と言外に含められているように思えたのだ。
だが、そんなのは知ったこっちゃないと。
「突然だが、腰のナイフを貸してくれ──いや、壊させてくれ」
「……なんじゃと?」
そんな端的な要求に真っ先に反応をしたのはレオルドだった。
「見ず知らずの他人に対して礼儀も弁えず『物を貸せ』と? あげく『壊させろ』とは。礼儀以前に非常識とは思わんのか? 百歩ゆずって貸与するにせよ、持物を壊されると知ってて差し出す馬鹿がおるわけなかろう。いや、余程の馬鹿か生粋のお人好しならわからんか。じゃが生憎とわしらはどちらも当てはまらん。特に此奴は腕っ節以外の一切に興味をしめさんような奴じゃからな」
乞うだけ無駄、諦めろ。とレオルドは言う。
しかし、それを聞いたシュウは「何もわかっちゃいねぇ」と鼻で笑った。
「ハッ、そんなだから『耄碌ジジィ』って言うんだよ」
「なに?」
「あのな、よく考えてもみろよ。初対面の俺がこの脳筋バカ相手に『常識的なお願い』なんてしてみろ。一切合切興味なんざ示さず最悪返事すらしなかった違うか?」
人は「興味がない」事柄に関して清々しいくらいに無関心だ。表面上はどんなに上手く取り繕ったとて「ある者」と「ない者」では結果が明確に分かたれる。なら、『取り繕う』ことすらしなかった場合など自明すぎて言葉にするまでもないだろう。
「……」
「否定できねぇよなぁ? なにせアンタ自身がさっき言ったことだぜ。コイツは──ジークハルトは『強者以外に興味を示さない』ってな」
じっくりゆっくり相手を見極めるだけの時間的余裕がない現状、早急に要求を承認させるには徹底的に無駄を省く必要がある。
その為にはやや強引で強気な交渉になるのも致し方ない。どんなに不本意な展開だとしても、必要なことだと“割り切る”しかないのだ。
そう自身を説得してから、シュウはあらためて頭上を振り返る。
現界した炎剣のいくつかはすでに射出され、撃墜するために水流やら光槍やらが馬車の後部から繰り出されていた。今のところはなんとか凌げてはいるものの、それもいつまで保つかという極めて綱渡りな状態だ。
千という圧倒的物量を前に、一本ずつを的確に撃ち落とす。
こう言えば非常に優れた技術に思えるが、『点』でなく『面』で制圧できる『範囲系』の魔法であればもっと効率よく対処できるはずなのだ。
だというのに、そういった手段をとる様子がまるでみられない。
その意味するところは深く考えずとも明らかだろう。
『……おそらく、《熟練度》の都合じゃろうて』
『……そう、なんでしょうね。きっと初級魔法しか使えないんだわ』
シュウの脳裏ですこし前のやり取りが想起される。
彼は知らない。
──初級に分類される魔法のなかに、『範囲系』が含まれるかどうかを。
彼は知らない。
──スキルの《熟練度》によって、どの程度のことが出来るのかを。
何度も言うが、シュウは正真正銘のMMO初心者だ。
それでもわかる。『あの状態はそう長くもたない』と。
とっくに『外部の助力』なしにどうこうなる状態ではなくなっているのだと。
しかし、そうとわかっていてもやはり冒険者たちは動かない。──いや、動けない。
ここに集う者たちは皆、自らの迂闊な行動により領外都市に害を及ぼすことの意味を熟知している。一部例外もいるが、彼らもまたその不文律を蔑ろにしているわけでないのだ。
当然それについても何も知らないシュウだが、この場に居合わせた者で言うと彼だけ若干事情が異なっている。
そう、ここは風都。
蝴蝶種たちの《種族領域》として設定されており、この都市で唯一“領域侵犯適用外たる存在”である。
にもかかわらず、誰一人シュウに対してそれを口にしないのは、彼の身なりが明らかに『見習いのそれ』であるのに加え、蝴蝶種という種族の“最大の欠点”を理解しているからに他ならない。
そうとは知らないシュウは今、こんな絶望的な状況の中からわずかに残された『希望』を見出しているところだった。
まずは一つ。
(抵抗している人たちは、まだ諦めちゃいない──)
そも、『炎壌生ずる千の緋剣』が発動される兆候をみせた時、ジークハルトたちの予想に反して馬車側が抵抗を諦めていたら。今の状況はもっと違ったもの……少なからず、多少の犠牲者は出ていたはずなのだ。
それをここまで抑え込めているのは馬車に搭乗している者たちの『献身』に他ならない。周囲の状況や後先を考えず『馬車への被害』のみを相殺する形なら、きっと〝相殺以外”の手段も取れたはずなのだから。
そして、その献身により生まれたわずかな猶予は、地上で指を咥えているしかなかったシュウに十分な心構えと“準備時間”を与えてくれた。
続いて二つ目。
(炎剣自体の『強度』は意外とたいしたことがない。現に初級程度の威力ですべて撃墜できているのがその証拠だ──)
一見『無謀』としか言いようのない行為も、見方を変えればこそ意味を見いだせる。
「情報は武器だ」とはよく言ったものだ。
何が有効で何が無効か。どういった特性を持ち合わせているのか。そういったことがわかるだけでも攻め方に大きな違いが生じるのだ。
今回の場合、炎剣の上級魔法は威力や強度よりも『物量』に重きを置いた魔法なのだと推測できる。対多数戦闘には絶大な威力を発揮するが、いざ個人を相手取るとなればその持ち味を十全に発揮しきれない。そういった部類のものだと。
そんな魔法をわざわざチョイスしたのは何らかの思惑あってか、はたまた刹那主義の享楽か。
現時点ではまったく判別できないが、今のシュウにしてみればどちらでも構わないことだ。
「上級に類される魔法でもそれなりの威力があれば対処可能であり、尚且つ相手は油断している」
この事実さえわかっていれば十分なのだから。
そして、最後に三つ目。
(それなら、俺にだってやれることはある……!)
これはエゴだ。
どうしようもない利己欲求を──願望を満たしたいがための我儘に過ぎない。ただの『自己満足』でしかないのだ。
人助け? 対外的にはそうなるのかもしれない。
だが違う。シュウにとっては違うのだ。
(“守りたい”と願って鍛え、手に入れた力がある──)
死に目にあうような日々の連続だった。
傷付き、痛みに震え、恐怖に泣き叫び。
死を直感し、されど乗り越え、鍛え、鍛え、鍛え、鍛えて。
ようやく届いた、“達人”への一歩。
しかし、
(それすらも『無力』と嘲笑う場所が、目の前にある──)
それも、「何とでも出来る」と言いたげな態度で“傍観”を決め込む、『理不尽の体現者』をも同伴して。
何度でも言おう──ふざけるな、と。
成長を見守る? 何様のつもりだTPOを弁えろ。知り合いだか何だか知らねぇが、人を──周囲を巻き込むんじゃねぇッ──!
そう今にも叫びたいのをグッと堪えて、シュウは冷静に状況を再確認する。
いよいよもって万策尽きたか、馬車側からの魔法による迎撃は止み、いつしか小柄な人影が空を舞っていた。
白のフードケープをなびかせ、風を蹴るようにして跳躍するその人物は、身の丈にせまる両刃の剣を振りかざし、飛来する炎剣のことごとくを粉砕していく。
時折剣身が光をはなつ光景は、どこか幻想的で場違いな煌びやかさを振りまいている。
しかし、やはりそれだけだ。
上空から降り注ぐ炎剣は、徐々にとはいえ確実にその数を増やしていっている。
魔法戦の段階では一度に十程度を射出するような感じだったが、実際には偽装で、嬲るように追い詰めることで彼女たち(らしい)の精神も肉体も疲弊させるのが狙いだったのだろう。
襲撃者と迎撃者。双方にどういった関係があるかなどシュウには知りようのない話だが、相手は相当恨みを持った人物か、愉快犯かのどちらかの線が濃厚そうである。
何であれ、シュウにしてみれば好都合。相手が『油断』してくれるというならそこにつけ込まない理由などありはしない。
場の趨勢はもはや圧倒的に襲撃者側に傾いている。
空を駆け回る大剣使いも最初の頃のキレを失い、表情がみれたならきっと苦渋の顔を浮かべていると容易に想像できるほどに疲弊している。
いや、それもこれまでの成果を顧みれば当然だろうか。彼女はこれまで地上に一切の被害を出さなかったどころか、総数にして四桁に迫るはずの燃え盛る飛剣を半数以下になるまで耐え凌いでみせたのだから。それも空中という足場の悪い環境で。仮にこれが地上での話だったなら、まさに『一騎当千』の働きをみせたに違いない。
しかし、その『善意の踏ん張り』も間もなく終わりを告げる。
今はまだ辛うじて脇を抜かれなどしていないが、それは仮面の襲撃者がわざとそう仕向けているからに過ぎない。
相手の気が変わるか、もしくは彼女たちが堪えきれなくなった瞬間、いよいよもって地上は火の大海原と化すだろう。状況はもうかなりギリギリのところまで来ている。
──なればこそ、今が介入の好機。
むしろこの機を逃せば後がない。
そういった瀬戸際な場面──相手の油断を引き出しやすい場面だからこそ、“アレ”は最大威力を発揮する。
シュウは時期とみて、変わらず無愛想な面をさらすジークハルトへと向き直り──告げる。
「──だからあえて言おう、ジークハルト。てめぇが欲するモノをくれてやる」
ジークハルトが求めるのは『腕っ節』。つまり『能力ある者』だ。
こういった物事に関する定義付けは人それぞれだが、“常識の一歩外側”へ至るあの技ならば十分その『価値』がある。
そう、これはシュウから持ちかける『取引』だ。
シュウが提供できるのは、己が苦労して身につけた『技術の片鱗』。
その対価として、自身が欲するものを要求する。
「だから、そのナイフを壊させてくれ──頼む」
向けられるジークハルトの強く鋭い眼力。
それに負けじと真っ向から相対する。かえす瞳に己の意志を乗せて。
空白。
重苦しい沈黙が数秒にわたって続く。
この間、ジークハルトが何を感じ、何を考えているのかシュウには一切わからなかった。
ただひたすら自分の意志を、想いを瞳に込める。
それが相手に伝わるかは一つの賭けだ。
だが、これでいい。
むしろこれは必要な過程だと、シュウはジークハルトの目を見た瞬間に直感した。
そしてそれは正しかった。
「……いいだろう」
言葉とともに差し出された一振りのナイフを、シュウは右手でしかと受け取った。
柄の冷たい感触がじんわり掌にひろがる。
それと同時に溢れだす高揚感を気取られないよう、シュウはすぐさまジークハルトに背を向けた。
「…………悪い、感謝する。それと、あとは頼んだ」
「……」
振り返りざまに呟いた言葉は、果たして彼に届いただろうか。
届かなかったとて、それはそれで構わない。
あとはやれることをやるだけなのだから。
左の手にはすでに、初期装備として取り出してあった小振りのナイフが握られている。
右と左。それぞれの感触を確かめるように一度振り、そのまま手の中で回転させて刃を挟むように構える。その手並みは熟練した曲芸師も真っ青な鮮やかさだ。
大きく息を吸い、強張る肉体をときほぐすように息を吐き出す。
一発本番。失敗は出来ない。
元より失敗する気などサラサラないが、正直な話、シュウはこの技の完全習得に未だ至っていない。失敗する可能性は十分に残されている。
しかし、それはもはや現実世界の話である。
何せここ──『仮想世界』は現実とあらゆるものが根本から異なる。
肉体にしろ、環境にしろ。
『現実を生きる藤堂愁人の身辺状況』が、《シュウ》は一切当てはまらない。
現実ではなく仮初めの世界で、本当の肉体ではなく仮初めの肉体を操っている今ならば。
何もかもが『未知の経験』である今ならば。
現実では保身のために躊躇してしまうことも、思い切ってやれてしまう今ならば。
ならばこそ、そこに“希望”はある。
シュウにしてみればまさに『最高のシチュエーション』と言える状況が整っていた。
とはいえ本当に失敗してしまっては元も子もない。
少しでも成功率を引き上げるために一度、これまでの経験、想い、感情。その他一切の思考を意識の外へと追いやる。
今必要なのは、五感によって察知できるいくつかの情報のみだ。
瞼を下ろし、ナイフを握る手に、そして指に。全神経を集中させる。
聴覚から音が消え、体感的な時間が引き延ばされるような錯覚を覚える。
極限の集中のなか、今、その両手から二振りの鈍い輝きが解き放たれた。
ナイフの緩やかな円軌道を五感を総動員して把握する。
その状態から自然と腰を落とし、構え、体内で“気”を生じさせた。
もはや熟れた一連の流れ。だが、確実にどこか普段と異なる不思議な感覚。──“調子が良い”。
気が体内を循環し、集まり、精錬されて再度前進へと駆け巡る様子がいつも以上に明敏に感じとれる。
体内で生じた“気”が、溢れるように体外へと放出を開始した。